半生日月老天涯 半生日月 天涯に老ゆ
坡仙去後無相識 坡仙(はせん)去りて後 相識(そうしき)無く
海内知音定是誰 海内の知音 定めて是れ誰かあらん
梅仙墨史左書 梅仙墨史 左書
【関防印】
「无言而言」(無言而言)(時計回り、反時計回りに読んでも「無言而言」となる)
【落款印】
「明治墨狂」 「槑仙之印」(梅仙之印))
【口語訳】
わたしは墨狂いの「墨痴」だとわが身を笑う
生涯の大部分をそのように生き、今故郷を遠く離れた異郷で老いようとしている
蘇東坡亡きあと、わたしには知人がなく
天下に心の底を打ち明けて話すことができる友が果たしているだろうか
【語注】
墨痴 墨造りに夢中になっている人。「痴」は、ある事に極度に夢中になっている人。
半生 一生涯の大部分。大人になってからの生涯の大部分。
日月 つきひ。としつき。歳月。
天涯 空のはて。きわめて遠いところ。故郷を遠く離れた土地。異郷。
相識 互いに知り合っていること。知人。
坡仙 蘇東坡。坡老。坡公。
坡仙去後 蘇東坡と出合ってからのちは。 蘇東坡との出合い以来。
海内 天下。世界。国内。
知音 心の底をうちあけて話すことのできる友。心の通じ合った親友。無二の友。知人。
定 さだめて。結局。つまりは。はたして。
左書 左手で文字を書く。
【鈴木梅仙と蘇東坡】
宋を代表する文人蘇軾(蘇東坡)は、詩文のみならず書画にも多くの作品を残す。その中には、墨の製法、墨の素材、墨の品質について論じているものがある。
鈴木梅仙は、日本の墨よりも中国の古墨がもてはやされた当時、中国の墨を調べ上げた上でみずからの梅仙墨を、中国に勝るものにした。その際、蘇東坡の筆、墨、硯、紙に言及する詩文と書画作品を研究したと思われる。
梅仙は、日本の文人墨客は、支那趣味の先生が言う「書画は唐墨に限る」との説を迷信していると批判し(鈴木梅仙「用墨問答」)、日本は美術の国であるのに、墨は海外に仰ぎ自国の墨を用いないのは国家の恥辱であると残念がり、更に、今の唐墨は「価を安くして粘りを除き、需用者の好みに投じたる一種の新墨法に」過ぎない、と不満を述べ、それだからこそ私は「余が一身を投げうち、一家を顧みず、畢生の力をここに用いた」(同「用墨瑣言」)、と墨造りに賭けた人生を語っている。
梅仙は、学を好み漢学詩文を善(よ)くしたことが知られるが(貴志康親『紀州郷土藝術家小傳續篇』)、梅仙にとって漢籍を読み漢詩文を作ることは、尋常茶飯のことであった。
『墨苑清賞』
造墨研究の対象を中国に求めて、その子細を漢文で書いた梅仙の著『墨苑清賞』がある。その著には、墨を論ずる漢籍文献を、ひろく調べた結果が記されている。例えば、宋・葉夢得(しょうぼうとく)の『避暑録話』を挙げて、「世の中には、墨に留意しない人が多い。留意しても墨は黒いと言うだけである。しかし本当は墨の黒は得難いもので、単にまだ細かく区別したことがないだけである」と、墨を論じていることを紹介し、
明・屠隆(とりゅう)の『考槃餘事(こうはんよじ)』には、 「古人が墨を使う時は、必ず精品を選ぶが、それは美を今に行きわたらせるだけでなく、美を更に後まで伝えるためである。晋唐の書や宋元の画は、みな数百年たっても、墨の色は漆のように光沢があり、神気が充溢している」 と論じていることを紹介している。梅仙は、この実例として蘇東坡を挙げ、 「東坡の真蹟は、漆の光沢が紙の上に立っているが如し」 という。
梅仙の蘇東坡への言及はもう二つある。一つは、東坡の言葉を伝えて、 「東坡が言うには、余は数百挺(ちょう)の墨を蓄え、暇な日に取り出しては試しているが、墨が黒いといえる物はほとんど無く、せいぜい一つか二つだけである、と」 二つめは、墨の光沢について述べた「試墨法」の章で、明・王道貫の「墨書」には、「紫光が上で、黒光がその次、青光がその次、白光がその下、黯淡(あんたん)として光らない墨が下の下」 とあるが、私の考えでは、と自説を論じる。 「愚侒(あん)ずるに、青光の下と、白光の上に、赤光の二字を加えるべきである。紫光は赤色ではない。紫光は薄暗くて浮き出ず、艶やかでないが、しかし濁りがない。つまり東坡翁が言う「湛湛たること小児の目晴の如し(深く澄んでいること小児の瞳のよう)」ということである」 と。これら二つの蘇東坡の言葉については、梅仙はその典拠を示していないが、わたくしが調べたところ蘇東坡の『東坡題跋』にある「書墨」(墨を書す)と「書懐民所遺墨」(懐民の遺る所の墨を書す)から引用している。梅仙がいかに蘇東坡を研究していたかが分かる。
また、『墨苑清賞』には墨を磨(す)る際の力について、中国の法を紹介した上でそれを批判している。 中国の「磨墨法」を論じたものに、「墨を磨るときは少女を使う。又、病人のうち重い者を使う」 と、磨墨がいかに精微なものであるかと言っているが、絶佳の墨であれば、たとえ勇壮な男が磨っても、色つやは光彩を放つものだ。昔の人は佳(よ)い墨を手に入れることが難しかったから、磨り方に用心したまでで、ここまで来るとまことに嘆かわしい。
また、墨の寿命についても、「およそ墨の適度は、五年十年から五十年までが最も佳く、百年を過ぎるとその度を越える」 と明確に論じている。
書物として全十七葉に著述された『墨苑清賞』の全文をここに紹介することができないが、鈴木梅仙の造墨に対する研究心と熱意と学識の深さがよく分かる。
【 鈴木梅仙と勝海舟】
鈴木梅仙が勝海舟を訪問した時、玄関払いを喰って追い返されたことが郷土資料にあり、勝海舟の言葉が記録されている(貴志康親『紀州郷土藝術家小傳續篇』)。勝海舟が梅仙に向かって言った言葉は、まことに辛辣である。
「由来名墨は本元の支那ですら最も難しい。蘇東坡の如き学者でさえ墨を造って成功しなかった。それなのに、紀州田辺の片田舎で墨を造るなんぞは、鵜の真似をする烏と同じく(身の程を知らずに人のまねをして失敗する者)、墨らしい物すら出来るわけがない」
梅仙は、支那を持ち出し蘇東坡を持ち出し、紀州の片田舎を持ち出してまで、自分を見下げた海舟に、猛烈に反発したであろう。
だから「幸い持合せる自作品を」、つまり梅仙が懷に入れていたこの七絶「自笑此身爲墨癡」詩を取り出して、玄関に置いて去ったという行為は、まさに士大夫の風がある。
だが、この七絶詩は、「幸い持合わせ」ていたのではなく、玄関払いの憂き目に遭って帰った後に、仕返しをすべく、墨・紙をおろしてこの七絶詩を作ったと考える方が、因果的に必然のことであろう。
その眼目となる語は、海舟の「蘇東坡」と梅仙の「坡仙」である。
梅仙の旧作に「坡仙」を詠みこんであって、海舟が偶然にも「蘇東坡」に言及したのではなく、その逆で、海舟が「蘇東坡」を持ち出して難じたのを受けて、わが身の「坡仙」への知見の深さを表現し、更に返す刀で、結句(第四句)で「海舟さんあなたもか。私を理解してくれる知音はどこにもいない」と慨嘆したのであろう。
詩を梅仙墨で書き上げた梅仙は、再び海舟を訪れて詩を示し、併せて墨の黒さと光沢を見せつけたに違いない。詩と墨を見て打たれた海舟は、改めて梅仙を招いて墨談義をし、同志の高橋泥舟、山岡鉄舟にもこんな男がいると伝えたのであろう。