何を書けばいいかと 一週間余り考えたすえに
ようやく書き終えたのが 5月7日。
700字の文章は むつかしい。
編集部からの指摘で
穴が空く は 新聞では 穴が開く と 「開」の字を使う
文中に「、」があれば 「、」の後ろは違う内容となる のが 新聞の考え
と 教わり いい勉強になった
中国新聞夕刊 2014年5月21日 |
立っていられなくなるほど驚くことは、そうあるものではない。しかし紀州の文人画家・桑山
玉洲(1746~1789年)が白浜(和歌山県白浜町)を描いた絵を見た時は、足もとが震えた。
絵には「三つの洞」が開いた塔島の図が描かれていたからだ。
現在、白浜の塔島には穴はなく、海上に岩山が突き出ているだけである。穴があることで
有名なのは円月島で、その奇観は有名だが、穴は中央に一つだけで、三つもない。
実は私は、江戸時代の塔島には三つの穴が開いていたと主張してきた。それは、
紀州の儒官・祇園南海(1677~1751年)の「鉛山紀行」(原漢文)に、「唐嶼」(塔島)は
「三洞玲瓏として宛も牕牖の如し」とあるからだ。連子窓のように三つの洞穴が連なって
いるという意味である。同じ時の享保18(1733)年の漢詩にも「唐嶼の三窓 凝として
流れず」とある。これを根拠として私が文章を発表したのは7年前であったが、既刊の
郷土誌にも取り上げられていないためか、信用する人はいなかった。
ところが、昨年4月、塔島に三洞がある図を描いた絵がみつかったのである。玉洲の
「鉛山勝概図巻」がそれで、美術商が所蔵していたのを和歌山県立博物館が見つけ
出し、特別展で公開した。全長525㌢に及ぶ図巻には、三段壁、千畳敷、白良浜
円月島の景観が描かれ、塔島には、三連の窓がぽっかりと開いていた。
図の款記には寛政5(1793)年とあるから、祇園南海の詩文より60年後の絵である。
まさに疑う余地のない証拠が出てきたわけだ。絵は宿年のもやもやを一気に払って
くれた。