和歌山の勢家・和中金助は、祇園南海の詩稿をもとにして『南海先生後集』を出版したことで知られる。
南方熊楠が和中金助に出した書翰は『南方熊楠全集』(平凡社)に収められているが、和中金助に言及している毛利柴庵宛ての書翰は、未収録である。
2015年7月、南方熊楠が多屋謙吉に出した葉書が、多屋謙吉直系の家から見つかった。その葉書には、出版したばかりの『南海先生後集』を和中金助が南方熊楠邸に持って来たことが書かれている。(所蔵者の談による)
南方熊楠と和中金助との関係は周知のことだが、新たに見つかった葉書はもとより、ここに掲げる毛利柴庵宛ての書翰も、いまだ知られていない資料と言える。
『紀伊毎日新聞』は和歌山県立図書館にマイクロの形体であるが、残念なことに三回のうちの一回分しか残っていない。この一回分の入手は、紀南図書館にお世話になった。
熊楠流の饒舌で詳細な描写を見ることができる。 以下にその釈文を掲げておく。
南方熊楠先生より本社の毛利に寄せられたる書翰
標本台覧の顚末(三) 附けたり和歌浦 和中金助氏の逸話
其の拙状をまことに亡父の人となりをよく書いたものとして表装して保存する由、金吉氏から言い越された。御存じの通り末廣一雄とまだ面識なき内、彼の歐洲大戦起り、英国より吾政府へ頼み越多数の我が軍艦を派して印度マレー半島の警備をつとめた。其時一雄氏大隈首相に建議してこの際英国政府に一札を我政府へ入れしめおく必要があると主張したのだ。然るところ、その時の外相加藤高明子は非常な英国に心酔した人でそんな契約を要求するのは日英間に波瀾を起すとか云つて末廣氏の口に耳を藉さなんだ其時、原敬氏は未面識の末廣氏を一夜紅葉館とかに招き其の説をきき実に尤もな説とあつて自ら一書を筆し大隈首相に採択をすすめたが一切聞き入れざるのみか郵船会社から末廣氏を追出さしめ、末廣氏は忽ち生活に困り出版業をなせしも大失敗し仕方が尽きて前?かけで蠣殻町の「相場の走り」と成下る処を、妻君お次が押し止め自分の衣裳迄売って産婆看護婦科を速成し、色々工面して青山産婆看護婦所を立て三四十人使ふて安楽に夫君を養ふ内、郵船会社前社長近藤男の伝記編纂事務長を末廣氏に任ぜられ、それより勇気を挽回して今は立派に暮らして居る。初め末廣氏其筋の旨に違ひ窮迫其の極に達した時予之をきき気の毒に思ひ一書を贈り
「切角国のためよい事を云つても用ひられざるは是非なし。立花宗茂はその娘を人に嫁する時嫁入り先で夫の仕方次第いつどんな目に合って死なねばならぬかも知れず、其時は我れは幸ひに武士の家に生れたお蔭で武士らしく死ぬ、是幸ひな事と有難く思ふて死すべしと言はれた。用ひる用ひぬに当局者の勝手として云ふべきことを云つただけが人間に生れた仕合せと思はれよ」と述べた。
之を一雄氏は時に取って誠にうれしく思ひ立派に予の書面を表装させ床の間にかけて眺めてばかりゐたそうだ。七年を経て大正十一年予が上京した旅館で始めて対面し又なにか望まれたので寄附金の集まるをまつ退屈最中居室の前の屋根へ毎日おほきな猫が来て遊ぶを観察し置き、或夜氏の面前で一気呵成に猫がカブトムシを捕へにかかる処を書いて、
才かちて猫にとらるなカブト蟲
これは東京でカブト虫は主としてサイカチの木に棲むのでサイカチ虫といふからだ。此画は其の翌夜平澤哲雄が連れてきた北澤楽天氏も痛くほめられ、或人は五百円予にくれて一覧された。今も末廣は虎の子の如く秘蔵してゐる。
これと反対なは和歌山市の未面識の某氏で予を敬慕の余り何でもよいから額とかにするものをかいて呉れとの事で、三銭郵便一枚封して来た。役場へ車の番号を問合せうすらこれでも返事が来ないだらう、ツマリ人を敬慕するからと言ったらロハで暇をつぶして書なり絵なりかいてくれると思ふは雨宿りした記念に宿札をはいで行くやうな料簡、こんな者が和歌山に多いらしい。兎に角末廣一雄と和中金吉氏の様な履歴と事情で拙い予の書翰迄も表装して珍蔵さるるは予にとつても誠に面目に存するから其の表装された書翰の景品とし今回の献上品の写真表敬文別刊等を和中氏に贈った訳である。こんな物は相撲の横綱と一緒でダンダン多くなると安っぽくなるから此一つで打留めとする。(大正十五年十一月十八日午前十時半)