2015年7月25日土曜日

南方熊楠が毛利柴庵に宛てた書簡 昭和元年11月26日 和中金助氏の逸話 『南方熊楠全集』未収録 『紀伊毎日新聞』


 和歌山の勢家・和中金助は、祇園南海の詩稿をもとにして『南海先生後集』を出版したことで知られる。
 南方熊楠が和中金助に出した書翰は『南方熊楠全集』(平凡社)に収められているが、和中金助に言及している毛利柴庵宛ての書翰は、未収録である。
 2015年7月、南方熊楠が多屋謙吉に出した葉書が、多屋謙吉直系の家から見つかった。その葉書には、出版したばかりの『南海先生後集』を和中金助が南方熊楠邸に持って来たことが書かれている。(所蔵者の談による)
 南方熊楠と和中金助との関係は周知のことだが、新たに見つかった葉書はもとより、ここに掲げる毛利柴庵宛ての書翰も、いまだ知られていない資料と言える。
 
 『紀伊毎日新聞』は和歌山県立図書館にマイクロの形体であるが、残念なことに三回のうちの一回分しか残っていない。この一回分の入手は、紀南図書館にお世話になった。
 熊楠流の饒舌で詳細な描写を見ることができる。 以下にその釈文を掲げておく。

南方熊楠先生より本社の毛利に寄せられたる書翰
標本台覧の顚末(三) 附けたり和歌浦 和中金助氏の逸話

其の拙状をまことに亡父の人となりをよく書いたものとして表装して保存する由、金吉氏から言い越された。御存じの通り末廣一雄とまだ面識なき内、彼の歐洲大戦起り、英国より吾政府へ頼み越多数の我が軍艦を派して印度マレー半島の警備をつとめた。其時一雄氏大隈首相に建議してこの際英国政府に一札を我政府へ入れしめおく必要があると主張したのだ。然るところ、その時の外相加藤高明子は非常な英国に心酔した人でそんな契約を要求するのは日英間に波瀾を起すとか云つて末廣氏の口に耳を藉さなんだ其時、原敬氏は未面識の末廣氏を一夜紅葉館とかに招き其の説をきき実に尤もな説とあつて自ら一書を筆し大隈首相に採択をすすめたが一切聞き入れざるのみか郵船会社から末廣氏を追出さしめ、末廣氏は忽ち生活に困り出版業をなせしも大失敗し仕方が尽きて前?かけで蠣殻町の「相場の走り」と成下る処を、妻君お次が押し止め自分の衣裳迄売って産婆看護婦科を速成し、色々工面して青山産婆看護婦所を立て三四十人使ふて安楽に夫君を養ふ内、郵船会社前社長近藤男の伝記編纂事務長を末廣氏に任ぜられ、それより勇気を挽回して今は立派に暮らして居る。初め末廣氏其筋の旨に違ひ窮迫其の極に達した時予之をきき気の毒に思ひ一書を贈り
「切角国のためよい事を云つても用ひられざるは是非なし。立花宗茂はその娘を人に嫁する時嫁入り先で夫の仕方次第いつどんな目に合って死なねばならぬかも知れず、其時は我れは幸ひに武士の家に生れたお蔭で武士らしく死ぬ、是幸ひな事と有難く思ふて死すべしと言はれた。用ひる用ひぬに当局者の勝手として云ふべきことを云つただけが人間に生れた仕合せと思はれよ」と述べた。
之を一雄氏は時に取って誠にうれしく思ひ立派に予の書面を表装させ床の間にかけて眺めてばかりゐたそうだ。七年を経て大正十一年予が上京した旅館で始めて対面し又なにか望まれたので寄附金の集まるをまつ退屈最中居室の前の屋根へ毎日おほきな猫が来て遊ぶを観察し置き、或夜氏の面前で一気呵成に猫がカブトムシを捕へにかかる処を書いて、
  才かちて猫にとらるなカブト蟲
これは東京でカブト虫は主としてサイカチの木に棲むのでサイカチ虫といふからだ。此画は其の翌夜平澤哲雄が連れてきた北澤楽天氏も痛くほめられ、或人は五百円予にくれて一覧された。今も末廣は虎の子の如く秘蔵してゐる。
これと反対なは和歌山市の未面識の某氏で予を敬慕の余り何でもよいから額とかにするものをかいて呉れとの事で、三銭郵便一枚封して来た。役場へ車の番号を問合せうすらこれでも返事が来ないだらう、ツマリ人を敬慕するからと言ったらロハで暇をつぶして書なり絵なりかいてくれると思ふは雨宿りした記念に宿札をはいで行くやうな料簡、こんな者が和歌山に多いらしい。兎に角末廣一雄と和中金吉氏の様な履歴と事情で拙い予の書翰迄も表装して珍蔵さるるは予にとつても誠に面目に存するから其の表装された書翰の景品とし今回の献上品の写真表敬文別刊等を和中氏に贈った訳である。こんな物は相撲の横綱と一緒でダンダン多くなると安っぽくなるから此一つで打留めとする。(大正十五年十一月十八日午前十時半)

南方熊楠が語る「白良浜の経営」 大正7年9月19日、小竹岩楠、毛利柴庵、『牟婁新報』


「この辺の人は海亀を見れば殺す」
「卵を産みに来ればその卵までも取り尽くす」
熊楠の「見えるやつや」「伸びるやつ」という、物を「やつ」と話す紀南語が、おもしろい。

□白良浜の経営に就て
◆近頃の植林家は造林と云えばすぐに杉とか檜(ひのき)とかいうが杉檜はドコへ植えても成功するものでない。反(かえ)つて瀬戸あたりは鈍栗(どんぐり)などがよい。鈍栗の実も皮も樹も工業用になって利益の多いものじゃ。俺(わし)の子供時代に和歌山の今の赤十字病院裏手に
夕かり樹 を栽えてあったが、大抵はどこでも生長する木だ。殊に此木は生長が至極早いから近年追々石炭が尽きるという場合に薪材(しんざい)として大に有益だ。前年英国の陸軍大佐某氏は亜弗利加(アフリカ)へ盛んに此ユウカリ樹を植え石炭に対抗する策を立てたが之れなど笑う人もあるが決して笑うべきでない。此木は衛生上必要なオゾンを放散するから都市の衛生樹にもなる。瀬戸あたりの並木として栽え込んで先づ禿山に日蔭をこしらえるにもよいし、第一工業用には有益な木だ。種類が千種もあるという事である。爰に絵を画いてある。
東嗇(とうしょく) という植物は西比利亜に沢山あるが米の代用になる草じゃ。米高で困って居るが此様な植物も試作して見るがよい。それから
黒クルミの木 兵生(ひょうぜい)あたりでは之を伐って薪木(たきぎ)にして居たが勿体ない事で、此黒クルミは家庭装飾用になる木で価いも高い。此実は西洋人の好む物で、日本でも地方によってはクルミの実を食えば髪が黒くなると言い伝えて女などは好んで食べる。俺(わし)が兵生の人に薪木(たきぎ)にするは勿体ないというてやったら大阪に送って八十円とかに売れたとか言って、礼をいうて居た。田辺の小学校で無鉄砲に之を栽えて見たが思いの外によく生長し大きな実を結び葉が常のよりは大層大きい。佐藤成裕という人は其著中陵漫録に会津辺にはクルミの種類六十種もあると書いたが、白井博士は之は嘘だと駁して居る。併しクルミは変化し易い木だから佐藤の説も丸空(うそ)で無く田辺学校の物如き、特態も生じたのだ。又暖地のクルミは学者界では珍態に相違ないから此辺で繁殖すれば学者達の鼻が折れる訳(わ)けだが、それよりも大に工業界を益するのである。
貝類 も色々あるが「太刀貝」「烏帽子貝」なども珍だ。此貝の化石も生品と相比接して出るが、其起源を尋ぬれば随分古い年代を経たものであろう。之も会社あたりで保管権を持ち、時を以て採り時を以て保護し、繁殖を計るようにしたいものだ。
真珠貝 も大に有望だが真珠貝を成功させるには「アイサ鳥」を保護する必要がある。之等(これら)の鳥が真珠養殖に大功ある事を知らず、海の底ばかり見て真珠が出来ると思うと大間違いである。全体何事でも、物の出来るというには複雑な関係があって、無茶に木を伐ったり米汁を流し込んだり田を拓(ひら)いたりしても其地特殊の産物が消滅して了う事があるから、一小事件と雖も忽諸(ゆるがせ)に見てはならぬ。又学理々々というても、まだまだ今日の学問の程度では、当(あて)にならぬことが多い。例(あか)せば牡丹に瑠璃色の花は咲かぬとしたものだが立派に瑠璃色の花を咲かせた事もあるのだ。
湯崎温泉の 改良發達をやるつもりならば、先づ第一にあの辺の禿山に地味相当の栗流(くりりゅう)の木を栽え、道路なども夫々生長し易い前陳(ぜんちん)如き木を栽え日蔭をこしらえてから第二期の事業に着手すべきである。ケエリーなども小笠原で出来る位だから良いかも知れぬ。何事も一度や二度の失敗で失望してはあかン。布哇(ハワイ)、米国、伯拉爾(ブラジル)たりへ往て来た、経験のある人にやらせて見るがよい。和歌山の小浦に
三浦男爵の別荘 があったが満潮の時は庭園内に汐が差込んで来る。時刻をはかって出口の樋を閉じ中で魚を釣ったり小舟を浮かべたりして遊んだものだが綱不知辺でも「海亀」や「あざらし」如きを飼養し、之に藝を仕込み旅館の庭園内に入江を設けるなども面白かろう。
海亀 之はタートルというが赤色のは左ほどでもないが青いのは公式の祝宴に必要な品で、貴重品である。此辺の人は亀を見れば殺す。卵を産みに来れば其卵迄も採り尽す。之れでは其種族が滅亡するより外は無い。経済上から見ても甚だ不利益だ。志賀重昴氏は「日本人は到る処ろ生物を殺すばかりで殖(ふや)す事をしない」と嘆息して居るが、予も至極同感だ。
それから「豌豆蟹(えんどうかに)のフライの話」曲亭馬琴が瑣吉と称した話」「やどかり」の話などあり、話上手の先生の話、滾滾(こんこん)としていつ果つべしとも思われざりしが長居をしては研究の御妨げならんと存じ、辞して帰る時、あの有名な「松葉蘭」の培養ぶりを見せて貰って門を出た。(此項終り) 柴庵記

南方熊楠が語る「白良浜の経営」 大正7年9月17日、小竹岩楠、毛利柴庵、『牟婁新報』

白浜を温泉地として開発しようとした時、その実行者・小竹(しのう)岩楠は、やみくもに土地を開発したり、美しい海岸を埋立てたりしたのではなかった。
 自然破壊という深刻な問題が発生することを見透していた小竹岩楠は、南方熊楠を訪ねて、白浜の自然にはどういう特徴があるか、自然を守るためには何が必要か、開発に伴う道路建設の街路樹はどういう種類の樹木が適しているか、を聞いた。
 その仲立ちをしたのは、田辺・『牟婁新報』の社主毛利柴庵(さいあん)であった。時に、大正7年9月15日のこと。
 南方熊楠が語る「白良浜の経営」(白浜をいかに工夫して開発するか、という意味)を聞いた小竹岩楠は、この後間もなく、実際に白浜の用地を買収し、温泉の泉源を掘り出し、道路をつけて行く。
 現在の白浜温泉の始まりには、南方熊楠の助言がかかわっていることが分かる。
 小竹岩楠は、南方熊楠という大学者の助言を得たとのお墨付きが、事業の推進に必要だったのだと思われる。
 干潟や湿地が残り、美しい海岸が手つかずのままの白浜は、この日を最後に姿を少しずつ変えていくことになるのだが、その自然美を認識していた小竹岩楠の内的葛藤も見て取ることができる。
 
 田辺市立図書館にある『牟婁新報』の合冊版をもとにして、毛利柴庵が執筆した記事を、以下に翻字しておく。


 白良浜の経営について 南方先生百話 牟婁新報 大正7年9月17、19日

十五日の午後二時日高水電の小竹専務と同道して南方氏を訪問す。小竹氏白良浜土地会社の計画を語り「風致史蹟及其他の珍動植物損傷せずして目的を達したきに就き先生の教えを乞う」というに対し、先生語る所諄諄懇切を極む。左記は其大要にして文責は予に在り。敢て本欄に収む(柴庵)

◆白良浜方面にも語るべき事はあるが綱不知には珍品が多い。海が浅くて底迄見え透いて居るので濫獲の恐れがある。年々大阪の医学校の生徒が多数に来て取捲るから之も程無く絶滅するであろう。第一の珍物は
◆△蟹だ うまくは無いが体が大きいから珍しい。近年は段々少くなるようだが獲るにしても繁殖を保護するようにしたいものだ。其他にも『海の二十日鼠』それ此図に見えるやつや其他いろいろあるが一々話すと片っ端から獲尽すから浮々話は出来ぬ。(此時小竹氏白良浜の図面を広げる)
白良浜にも湯 の出る所は幾箇所もあろうが之も永久的に出るのか暫時的か明白でない。尤も海中を調べたら大に出る所があるかも知れぬ。旧物保存などいうでも時勢の変遷で別府温泉の如く大改革で旧態を留めぬもある。又横浜の如きもそうで浦島の塚などドコへ往つたか分らぬ程の大改革で以前の小漁村が大都市に変った。白良浜付近も今後は大に変わるであろう。先づ綱不知からズッと馬車道でも附ける計画なら道の両側に、生長し易い樹木を栽えるもよかろ。大阪城では紅葉に似たスズカケの木を栽えるそうだが之も生長し易い。橡(とち)などもよい。田辺あたりは梧桐(あおぎり)を栽えるのもよかろ。此時呉其濬(ごきえい)の『植物名実図考』を示し、この「無漏子」とあるのが
デートだが 之は棕梠(しゅろ)見たようで、実は食える。マホメットの生れた亜拉比亜(アラビア)辺では盛んに此デートを食うのだ。此通り行儀のよい樹だから境界樹などには至極よい。来月あたり来訪さるる筈の米国のスイングル氏は此の植物研究の為めにアルゼリアへ三度も往つた人だから、会って話を聞くがよい。能く伸びるやつで高さ四五間にもなる、日蔭を作るにはよい植物だ。先づ日蔭を作りそれから地味気候に適したものを栽えて行くがよかろ。先達て東京の商業会議所から、この
金草(うこんそう) の事を尋ねに来たが、之は染料になる植物で観賞用にもなるとて『本草図賦第七』を示めさる。始めはカシュミルにしかなかったものだが、享保年中に漢種が日本に渡ったとある。秋になると此図のような花が咲くのだ。之れなど栽えて染料を採るもよかろ。始めて植えて失敗しても落胆するには及ばぬ。度々やるので遂には成功するのだ。木犀(もくせい)なども実は成らぬものとしたのだが田辺では地味に適すると見え、連年生(な)るのを脇村夫人於高(おたか)の方(かた)喜多幅亡夫人於新(おしん)の方より戴き、前年スイングル氏に贈った。其木犀と同科に属するオリフなども七年もせねば実はならぬと云うたものだが田辺では年々成る。此樹などもドシドシ栽えて見るがよい。「綱不知辺」の禿山(はげやま)あたりに植えるにはこんなのもよかろ。日本人は此油を好かぬようだが西洋人向きには至極よいのだ。先年日露戦争当時尾張の知多郡の人がオリフ油で鰯(いわし)の缶詰をこしらえたがそれが十二疋入りで九十錢にも売れた。西洋には鰯は段々少くなるが田辺には多いのだから西洋人向きのオリフで好物の鰯の缶詰をこしらえるも妙である。之に鬱金草の香料を加味するなども面白い。香水を採るにはここに
素馨(そけい) というのがある。之も奇態な花が咲く。一本や二本でなく沢山栽える。一反二反も作ると遠方からでも其香気が鼻を撲(う)つ。広東に在る素馨という美人の墓に此花が咲き出(い)でたので花の名にしたのだという。まあ之等(これら)は追々のだが此辺の禿山を茂らせるのには杉や松よりも
鈍栗 がよかろ。此木は工業材料になる樹だ。焼石だらけの山にでも此木なら生長する。此木の利用法を知れば、使い道は沢山あるのじゃ(つづく)