2015年10月26日月曜日

華岡青洲の瘍科瑣言 「解説」 2015.10.25


解説

華岡青洲

 私はかつて八代随賢・華岡青洲氏に会うために北海道札幌市の華岡邸を訪ねたことがある。頼山陽が春林軒を訪問し華岡青洲と夜通し酒を酌み交わした時に「華岡醫伯」に奉った七言絶句の詩軸を見るためだった。地袋戸棚から軸箱を出してみずから詩軸を掛けてくれたのは華岡青洲氏だった。頼山陽の詩軸とともに「醫惟在活物」の五字が書かれた華岡青洲の書をも見ることができた。いただいた名刺には「元華岡小児科 医学博士 華岡青洲」とあり、目の前の華岡青洲氏の風貌と容顔はよく知られた三代随賢・華岡青洲72歳(天保二年)の肖像画の風貌と容顔に生き写しであった。このお方が全身麻酔による乳癌摘出手術を成功させたお方か、と思ったほどであった。その時に許しを得て撮影した華岡青洲氏の写真は今も手もとにあるが、ここにお見せできないのが残念でならない。
 『瘍科瑣言』(ようかさげん)の瘍科とは腫れ物などを治療する部門のことで、瑣言とはちょっとした言葉、とるに足りない言葉という意味である。瑣言はへりくだっていう謙語であるから、『瘍科瑣言』とは華岡青洲がみずからの瘍科の治療法を門人たちに口述した言葉ということになる。春林軒での青洲の教育は実習と口述とが基本であったため、門人たちは青洲の言葉を書きとめそれを写したのである。
 呉秀三の『華岡青洲先生及其外科』に附された「華岡青洲先生春林軒門人録」の人名を数えると万延元年(一八六〇)までで一八六一人になる。また元治以後では三〇五人とあるから合計二一六六人になる。これは青洲の弟華岡鹿城が大阪で開いた春林軒の分塾・合水堂の門人を合わせた数だが、門人たちは学んだ華岡医学を書きとめて各自が学習帳を作ったわけだから、門人の数と等しい二一六六冊の『瘍科瑣言』があっても不思議はない。その証しに、現存する『瘍科瑣言』には書名に『花岡瘍科瑣言』『花岡先生瘍科瑣言』『春林軒瘍科瑣言』『華岡瑞軒先醒瘍科瑣言』があり、南紀(和歌山)、浪花(大阪)はもちろんのこと若狭(福井)、武蔵(埼玉)、播州(兵庫)、土陽(高知)の各地に写本がある。(松村巧「華岡青洲關連資料・高橋コレクション 資料目録」『和歌山大学教育学部紀要.人文科学』63、2012年)ここに紹介する写本『瘍科瑣言』はこのようなうちの一冊である。

『瘍科瑣言』

 『瘍科瑣言』は呉秀三の『華岡青洲先生及其外科』「華岡氏遺書目録」の中で「書名ノ上ニ圏印ヲ附セルハ余ガ主要ナルモノト認メタルナリ」と記すように呉秀三自身が主要なものと認めた書物で、臓毒(脱肛)、疔(悪性のできもの)、下疳(性病)、痔、破傷風、歯痛、頭痛、咬傷、打撲など114の病名をあげてそれぞれの症状や治療薬、調薬、診断を詳述している。
 本書の『瘍科瑣言』には特徴がある。他の写本と比べてみると、筆写の文字が楷書でしかも整然と書かれていて読みやすく、目次には病名が記載された葉数とその表、裏が書かれているために目的の頁にたどりやすい。例えば目次に「脳疽 四ウ」「腸癰 十一ヲ」とあるが、これは脳疽は第四葉のウラの頁、腸癰は第十一葉のオモテの頁を見よということで読み手への配慮がなされている。
 では実際の記述内容はどうかといえば、他の写本に比べて本書は書き写しに間違いが少ない。
 そもそも写本は門人が筆記したり又は伝写したものであるから、書き間違いが生じやすい。それを案じた門人佐藤持敬(越後の人)は、華岡青洲の「遺書目録」を作った時の序文に次のように記している。「唯だ恨むらくは、坊間に伝うる所の書は、多く口授筆記に出づ。故に同名なれども異書のもの有り、異名なれども同書のもの有り。或は重復錯乱す。これに加えて伝写することの久しければ、謬誤百出す。得て解すべからざるもの有るに至りては、実に歎くべきかな。余深くこれを憂う」(佐藤持敬「華岡氏遺書目録序」、原漢文)。世間に出回っている華岡医学の書の多くは口授筆記であるから、書名が異なるものがある上に、伝写の誤りが多い。中には意味が分からなくなっているものすらある、と既に歎いている。
 本書ではその重復錯乱、謬誤百出が見られるのであろうか。ここに本書と他の写本とを比べておこう。「下疳」(性病)の章の冒頭を例にしてみる。他の写本とは早稲田大学が古典籍総合データベースとして公開している『瘍科瑣言』の天保十二年(一八四一)本と書写年不明本との二本。
 (早稲田大学は二本のうち一本を[書写年不明]とするが、「丙戌仲秋望月」の記載があるゆえ、文政九年八月十五日(一八二六)に書写されたものであることが分かる。しかもこの一本には「浪花中洲華岡文獻」の記載があり「中洲」(白文長方印)「華岡文獻堂子徴」(白文方印)の二顆が印されていることから、さらにまた華岡青洲の弟華岡鹿城の別号は、中洲、文獻であることから、この一本は大阪の合水堂で書写されたものと考えられる)(以下[書写年不明]本を文政本と仮称する)
 本書で「下疳ハ陰茎ノ瘡ニテ是ハ多ク房事ニテ濁気ニ染テ生スル也」と始まる「下疳」の章の冒頭文の「房事」を文政本は「方事」と書写。つづく「痒キ者ハ浅ク痛強キハ毒深シ必痒キヨリシテ痛ニ至ル也」の「浅ク」は「毒浅ク」が正しく本書では「毒」が脱落。文政本、天保本はともに「毒浅ク」。つづいて治療薬の軟膏を調剤する記述「煎湯ハ大鮮毒ニメ端的ヲ兼用スヘシ」の「ニメ」は「ニテ」が正しいが、この「煎湯」を文政本は「煎-」と書写し、「大鮮毒ニテ端的ヲ」を文政本は「大鮮端的ヲ」と書写して「毒ヲ」が脱けていて意味が通じない。佐藤持敬が歎いたのはこのようなことであろう。(紙幅の都合上全頁を比べることはできないが、文政本の書写には謬誤が多いという印象を持つ)
 本書がいつどこで誰が書写したものかを知る手がかりとして、目次の裏葉の無地に墨書した「明治五年壬申正月求之 平鹿郡沼館村居住士族 小柳氏蔵書」の書き込みと、裏表紙の内側に墨書された「平鹿郡沼館住 小柳氏蔵書」の書き込み、及び目次頁の上部無地に押された「小柳氏薬局印」(朱文方印)の印影とがある。平鹿郡沼館村は今の秋田県横手市雄物川町沼館で、そこに居住する士族の小柳氏が明治五年に本書を買い求めたことが分かる。印章に薬局印とあることから、小柳氏は医薬学を学んだ人物で、だからこの『瘍科瑣言』を所蔵していたのだと容易に推測することができる。明治五年は江戸時代の風が色濃く残っていた時で丁髷を結った人を多く見ることができた。(渡辺京二『逝きし世の面影』)しかも明治五年はまだ春林軒が存在し、門下生を輩出していた時代である。
 では誰が書写したのか。それを特定できる痕跡は見つからないが、平鹿郡を手がかりに「門人録」を見てみると、秋田平鹿郡横手町から文久元年(一八六一)に入門した中村東朔がいる。中村東朔はみずから書きとめた『瘍科瑣言』を秋田に持ち帰ったはずで、本書がそれであるとは断定できないが、文字と行の間隔が整然としていて目次に工夫があることからすると、中村東朔の『瘍科瑣言』をもとにして秋田のおそらくは医師が書き写したものであろうと推定できる。従って本書を中村東朔版もしくは秋田版と称することができよう。
 
華岡医塾門下生

 学を修めてそれぞれの郷に帰った門下生は、各地で外科、内科、産科、皮膚科、泌尿器科、肛門科等の華岡医学を実践した。地域の人々からの感謝と尊敬の念を一身に集めたことはいうまでもない。それは地域にのこる地元医薬師の墓碑、墓標に刻まれた格調高い漢詩文によって知ることができる。私は安芸(広島)のいくつかの地に出かけて墓碑、墓標を読み或いは拓本をとったことがある。「広島・史学を学ぶ会」(門前弘美会長、歯科医)に誘われてのことだった。(門前氏は特に華岡青洲の門下生の事績に注目し、四国、九州に至るまで調査をすすめている)
 「門人録」には文政八年(一八二五)に入門した安藝郡蒲刈島田戸浦の鎌田文臺の名がある。瀬戸内海に浮かぶ蒲刈島には鎌田文臺の子孫・鎌田一診氏が医系を継ぎ歯科医として人望を集めている。その鎌田一診氏が文臺の第三子で医師の鎌田政信(号蒲州、通称良平、幼名良達。天保九年~明治四十年(一八三八~一九〇七))の墓碑に案内してくれた。その墓碑文には第三子・鎌田政信の事績とその家族のことのみが記され、その父鎌田文臺と華岡青洲への言及はなかったが、なりよりも驚いたのは現在でもなお残る建物群であった。
 平地が少ない島にもかかわらず、診察棟、入院棟、看護婦棟と患者家族の宿泊室まであったのである。江戸時代からの古建築家屋ではなく、歴代の鎌田医院によって増改築された建物であったが、これは華岡青洲の春林軒を手本にした鎌田文臺、鎌田政信の蒲刈島モデルだといえる。華岡青洲の春林軒には治療室、講義室、調剤室、入院用宿室、看護婦室等が備わっていたからである。単に外科、内科の華岡医学を持ち帰ったのではなく、医学の実践に必要な建物の構想までも学んで持ち帰ったということが分かる。

           久保卓哉(平成二十七年十月二十四日)

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