「林芙美子・魯迅・内山完造」の題名と林芙美子の写真は印象的だったようだ。問い合わせの電話がかかり、手紙が届き、小包までも届いた。いずれも、話を聞きたいが行けないのでどういう内容なのか知りたいというものだった。はてな、と不思議に思った。電話は東京からだったという。フォーラムのことが新聞に出たわけではない。なぜ東京に知れたのだろう。
数日して届いた手紙から謎がとけた。電話をした人からだった。尾道を訪れ芙美子の女学校をたずねたところ、尾道東高校でポスターを見たのだという。二十四日は行けないので発表文とポスター一枚を送ってほしい。NHKラジオの録音テープと、なんと寸志として紙幣が一枚入っていた。テープは今年の元旦に放送された「新春朗読への招待 林芙美子の世界」の録音で、姪の林福江氏が出演していた。
それを聞いていた時だった。こんどは男性の声で電話がかかった。林芙美子の講演があると聞いたが行けないから書いたものを手に入れたい。尾道に行った人が東京にもどってそう言っていたと別の人から聞いたのだという。どうやら新宿区では人づてに広まっているらしい。
八十を過ぎているというこの男性は、芙美子が教師になっていたらあのように若死はせず、教えながら小説を書くことができただろうに、なぜ小学校の恩師がそうさせなかったのか、その恩師も自身が苦労して教師になったのだから芙美子にもその道を歩ませた方がよかった。芙美子は戦争を書いているが、どこまで見てどこまで書いたのか、検閲の下でどのように筆を曲げたのか。考えを聞いてみたいと思い電話をかけたという。
放浪記から北岸部隊までかくも詳しく読んでいる人がいる。芙美子と聞けばすぐに行動を起こす人がいる。芙美子の魔力はすごいものだと思った。男性には後日出来上がる文章をお送りすることになった。
小包はこうだ。会場に荷物が届いたという連絡が入り、行ってみると段ボール紙で厳重に梱包された手作りの荷物があった。中には林芙美子記念館の紅葉と四季の花のパネル写真があり、新宿区発行の冊子「落合の追憶~落合に生きた文化人」や、芙美子一筆箋などがあった。送り手は冊子の作成者に名を連ねる女性で、来場する芙美子ファンにいろどりを添える品々を提供してくれたものだった。きれいな字で書かれた手紙には、尾道を訪ねた友人からフォーラムの事を聞いて送るとあり、いつぞやは記念館でお会いしましたねと書かれていた。そうだあの時の、とすぐに思い出した。落合の記念館を訪ねた私に林福江氏がまもなく来られますよと教えてくれ、邸内の小路でぶつかりそうになった女性を、この方が福江さんですよと引き合わせてくれた人だった。
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