2014年11月1日土曜日

南極観測隊(第56次夏季)にいく ゆうき2 2014.11.01

日本南極観測隊のシール
ほぼプロのドラマーだからライブがあるたび
仕事を終えたばかりでも練習に行く。
先日は土曜日も休みとはならず深夜に帰ってきた。
日曜日は休みか と聞くと 
休みだけど夜8時半に仕事に行く という。
おぉ じゃぁ 夜までゆっくり休みや というと
明日は練習がある という。

つまり日曜日は練習を済ませたあと 夜から仕事に出るというわけだ。
その日曜日の夕暮れどきだった。
「車をぶつけた」と 息を荒くして玄関から入って来た。
その表情は血の気がうせていた。
どこでだ と聞くと
家の近く という。
車を捨てて家まで知らせに駆け込んだようだった。
ほかの車とぶつかったのか それとも自転車か
まさか 人をはねたのでは・・・・ と頭の中が回った。

行ってみるとガードレールに突っ込んでいた。
ウインドウが割れ 助手席のガラスが車内に飛びちり
エアーバッグが垂れていた。
左の前輪タイヤは シャーシーにくいこんでいた。
登りの右カーブであるのに まっすぐに突っ込んだようだった。
居眠りしていたのか と聞くと
寝ていない ぼーっとしていた という。

体力の限界が来ていたのだ。
ハンドルを切ることすらできなかったのだ。


2014年10月31日金曜日

南極観測隊(第56次夏季)にいく ゆうき1 2014.10.31

男の子であれば 宇宙飛行士になって 宇宙に行きたい
南極探検隊に入って 南極に行きたい と誰もが思う。
その南極に ゆうきが行こうとしている。

普段はアンテナ工事や高速道路のETCのメンテナンスを仕事としているのだが
その労働の過酷さは 驚きの連続である。
過酷さは睡眠時間に表れている。
2時間しか眠らずに 6時に起き出して仕事に出かけることは日常茶飯事。
しかも その日の帰宅が深夜0時のことがある。
しかもさらに 夕食を食べずに帰るから みなが寝静まった家で
食卓に置かれた冷たい御飯とおかずを チンしてかきこむ。
なんと 次の朝も 6時に起きて仕事に行き
またもや 帰るのは深夜という日がつづく。

現場にいて深夜まで仕事をするわけはないから
会社には何時に戻るのか と聞けば
夕方6時には戻るという。
では 夜遅くまで会社にいたのかと 聞けば
そうだという。
何をしていたのかと聞けば
パソコンで書類を作っていたという。
その日の仕事の報告書や経理の報告かと 聞けば
まあ そうだという。

小さな会社だからしかたがない と 
なかば諦めながらも 余りの重労働を
目の当たりにして 同居者としては心配でならなかった。

そんなある日 事故はおこった。



2014年7月5日土曜日

中国新聞 でるた 「李清君」 1985年

中国新聞夕刊 でるた 1985年
李清君

 昨年のクリスマスのころ突然中国から手紙が舞い込んだ。四カ月前に私が出した手紙への返事であった。

 二十歳の李清(リーチン)君は桂林の漓江河畔で観光客を相手に似顔の「剪紙(せんし)」をしていた。記念にと思い前に立った私の横顔をわずか十秒ほどで剪り抜いた出来映えは見事というほかなかった。

 私は一行の他の三人にも剪ってもらうことを勧めた。一人一元の料金だった。彼は瞬時のうちに四元もうけたわけだ。私はその時彼がどのくらい稼ぐのか興味を抱いた。そこで、彼に写真を送る際に(四川省成都)そのことを聞いておいたのだった。

 彼は桂林での三カ月に五千四百元稼いだと書いて来た。ひと月に千八百元の計算だ。私の知っている三十五歳の事務幹部が五十五元の給料であったことを考えるとその三十倍の収入になる。

 日本の同年齢の人の給料を約二十万円と見積もってその三十倍は約六百万円になる。日本で毎月六百万円を稼ぐ二十歳の青年がいるとは思えない。しかし今の中国にはこのような若者が増えているのだ。

 先日も新聞に「急増する中国個人経営」の記事が出ていた。二十三歳の美容店主が月収九百元、三十六歳のレストラン店主が月収三千元という。だが彼らは資本を投資した上に税金を納めている。

 しかし李清君の場合は紙とハサミ一丁あれば足りるのに税金は納めてはいまい。中国の開放政策がもたらした申し子みたいなものだ。

 「勤為無価之宝」(勤勉は貴重な宝)の教えが生きる中国で、政府は国家建設のために尽くす労働者を必要とし、また六十元の給料でも十分に生活できるだけの社会主義国家を築いて来た。

 しかし政府が李清君に六十元の給料で働けと言ってももはや素直には従うまい。彼はかつて存在しなかった経済的価値観を持ってしまったのだから。こうした若者を抱えた中国の指導者はこれからが大変だといえる。

2014年7月4日金曜日

『学生通信』第10号(昭和39年1月15日 三省堂) 随筆欄「日記と真実」 高津高等学校2年

  昭和39年1月15日発行の『学生通信』1 新年号に掲載された、随筆「日記と真実」がこのほど、三省堂出版局の好意と尽力で40年ぶりに見つかりました(2004年10月7日)
 一投稿者のきまぐれな懐旧から依頼を受けた三省堂出版局が誠意をもって対応し、めざす文章を見つけ出してくれたものです

随筆
日記と真実-書くことで思索の跡をたどる-
大阪・高津高(2年) 久保卓哉

 
 ぼくが日記をつけ始めたのは中学二年から。それまでにも小学三年生のとき宿題で書かされて、海に沈む夏の太陽のことを書き、二重マルをもらったことを覚えています。その時は二重マルに味をしめてその翌日もまたわざわざ浜辺へ沈む太陽を見に行って、前の日と同じことを書いて、また二重マルをもらったことも記憶にあります。

  中学二年の時の日記も最初は学校から強制的に書かされたものですが、その後高校二年の現在まで、一月に一度、二月に一度というようにとにかく書いてきました。でも〃日記〃というもの、"日記をつける"ということを、客観的に考えてみたことはありませんでした。ところが先日の英語の時間にWilliam R.Ingeという人の書いた「日記」という文章が英文解釈の問題に出ていました。
ぼくはこれを読んで、〃日記〃というものについて改めて考えることを教えられました。その中には大体こんなことが書いてありました。

  もしある人がだれにも読まれないと確信して日記をつけるなら、はじめてその人は全くの真実を語っていることになるだろう。--- ぼくにはその意味が実によくわかります。ぼくは中学の時一度母に読まれて、その中にあまりにも恥ずかしいことが書いてあったので母を泣かせてしまったことがありました。それ以来、母は一度もぼくの日記を読みませんが、ぼくはいつも読まれはしないかと思って机の引出しのいちばん下のほうに隠しています。

  それから二日後、十二月十三日の朝日新聞の朝刊に福原麟太郎さんが「日記というもの」というテーマで書いていたのを読みました。ところどころひろってみますと、ざっとこんなことです。
  ---日記はなんのために書くか。その時々の自分の感想をつづるといったところで大したことはない。あとで読んでもその感想が再現するというためには、かなり文学的な表現上のくふうがなければ、ただ良かった、感動したというだけでは無効な文章になってしまう…。
  日記を書くという業(ごう)につかまったとでも言わなければとてもわからない。……
  日記はその筆者とともに埋めてしまうべきであろう。……

  ぼくほ、これも非常に興味深く読みました。ここに書き抜いた最初のところをぼくなりに考えてみると、日記はその時々の自分の感想を書くもので、そのほかにはなんの目的もないということのようです。実際そのとおりではありませんか。ぼくたち自身、なんのために日記をつけるのだと自問してみても、思ったことを書くためだという答えしか出てきません。 次に「文学的な表現上のくふうがなければ……」ということですが、このことはぼくは福原麟太郎さんに賛成できません。賛成できないというより、どんな目的からこういうことを書かれたのかわからないのです。未熟ではあるけれどぼく自身の場合を考えてみてもたとえば、ぼくはよく昔の日記帳を読み返して、思わずクスッと吹き出したり、改めてじっと考え込んだりすることがよくあります。これはその当時の感想が再現しているということではないでしょうか。それとも、こういうぼくはまだまだ"浅い"のでしょうか。

  次に「日記とは業につかまって書くもの……」ということは、ぼくにはこんなことを言っているのかなあと思うだけで、その意味を具体的に述べることはできません。ちょうど俳諧の道の「句のさび、位、細み、しをりの事は、言語筆頭におほしがたし。……他は推(お)してしらるべし。」と同じように思われます。

  福原麟太郎さんは、この業(ごう)のことを書く前にこういう例をあげています。英国人のサミュエル・ビープスは、奥さんに読まれたくないので自作の符号で日記を書いたという。役所の帰りに花屋へ寄って花を買ったついでに花のかげで花売娘に接ぷんしたなどと、いうことを書いておきたかったからなのだが---と。そしてどうしてそんなに符号を使ってまで苦労してそのようなことを書きつけなければいられなかったのか。……日記を書くという業(ごう)につかまっていたとでもいうほかはないと言っています。これでぼくにもいくぶんわかったような気がします。しかし、もう一つわからないところがある。

  そこで、ぼくは業(ごう)ということばを調べてみました。百科事典「因果」という項に「輪回(りんね)を続けさせる原動力を業というが、業とは身体、ことば、心による行為が習慣化した時生ずる潜在的な力である」と出ています。業の正体とは、間接的な、潜在的な、縁の下の力持ちのような、リモートコントロールで飛行機を飛ばす時の手もとの機械、または電波のようなものということで表わしていいでしょうか。そうすれば「日記というものは業につかまって書くもの」ということはおまえはどうしても書かざるをえないのだ。どうしても書け! と命令する魔物というか、そういうものの俘虜(とりこ)になってしまうことなのでしょうか。いわゆる憑(つ)かれた状態なのでしょうか。

  最後に「筆者とともに埋めてしまうべきであろう」ということ。
これは、ギリシャ神話の中に、ミダス王の耳はロバのように長いという秘密をどうしてもしゃべりたくて、砂地の穴の中へ耳を突っ込んでそう叫んだら、そこにはえた芦が葉ずれの音でそれを伝えたという話がある。日記もそのようなものかもしれない。とすれば、日記はその筆者とともに埋めてしまうべきでしょう。必要なことは芦の葉の風が伝えてくれる---。

  たしかに、日記とはその筆者が死んだら、彼とともに埋めてしまってもよい。なぜなら、もしその日記に、これがどうしても世に出ずにいられようかというほど必要なことが書いてあるなら、それはどんなことをしても世に出て伝わっていくものだ、ということだと思います。
  ぼく自身、自分のことを考えてまったくそのとおりだと思います。日記はその筆者自身にとってだけ価値のあるものなのですから。


  
けれども、とだれかはいうかもしれません。
「そんなものは日記に書かなくったって、われわれ自身、自分で体験しているのだから、わざわざ書く必要なんかないじゃないか」
  しかし、ぼくたちの思索や知覚は、ぼくたちが想像する以上にあいまいであやふやなものです。それをもう一度文章に書き、確かめてみるとき、はじめてそれはぼくたちの生活のかてとなり、あすの前進への原動力となるのです。 日記をつけていると、うっかり見過ごしたほんのささいなことの中にも、思いがけない発見がひそんでいるものです。
三省堂発行『学生通信』第10号 昭和39年1月15日 随筆「日記と真実」





『学生通信』第10号第一面


三省堂出版局への礼状 1

 学生通信、第10号のコピーをお送りくださりありがとうございました


  あやふやな記憶のままでしたが、思い切ってお願いしてよかった。40年前の新聞ではなく最近の新聞のような新しさで届いて、感慨もひとしおでした。手にして、出版社の精神というものを感じました


  陸上部に所属していた当時、練習後の部室で「恥ずかしいことが書いてあった」のはどんなことかと、先輩後輩から聞かれておおいに困ったことが思い出されました。他にも読んだ生徒がいたのですから、学校でこの新聞を定期購読していたのだと思います


  文章はほぼすべて忘れていました。読んで、多くのことを考えた文にびっくりしました。学力ではクラスの底辺だった生徒がこのような文章を書けるとは、なんと当時の高校の教育のレベルはすばらしかったのかと思いました


  おそらくは書庫の奥にしまわれたこの新聞を、踏み台に乗って、あるいはしゃがみ込んで探してくださったのだと思います。ありがとうございます


三省堂出版局への礼状 2

 40年ぶりに見た『学生通信』は地震のごとくにわたしを襲って振るわせました

 ありがとうございます。8号には池田満寿夫の絵があり、菅原和子の名があり、掲載された詩や文章のすばらしさがあり、すべてに驚きました。特に10号の詩や文章は高校生の作品とは思えないすばらしさで、わたくしの稚拙な文などは一気に色あせてしまいました。  多くの時間と神経を費やして探していただき、本当にありがとうございます。感謝申しあげます

  『学生通信』の編集はどなたの手によるものなのでしょうか。その手腕と高校生への言葉の質とレベルの高さに驚きました。現在はインターネット上で多くの情報を得ることができるようですが、『学生通信』の高校生の作品が本として出版されていること、また編集者であったと推知される方の文章が上がっていたりして、『学生通信』は現在でも生きているのだと知りました


 菅原和子さんへ

 突然のお便りでさぞかし驚かれたことと思います
 高校二年生の時、三省堂発行の『学生通信』紙「交歓ノート」欄で貴女のお名前と栗駒郡栗駒町の住所を見つけ、「きっと山と畑と草原に牛が鳴き清らかな川が流れているところだと思います」と書いて文通を申し込んだところ、「たくさんの手紙が届きましたが、書かれた風景がその通りで、貴男にお返事を書いています」と、わたくしを選んでくださいました

 その後、何度か文通が続きましたが、私の話題が豊富でなかったこともあり、自然に途絶えてしまいました

 私は大阪の高津高校の2年生で、文通が始まったことが嬉しく、その直後に『学生通信』に、文章を投稿してそれが掲載され、貴女からお褒めの手紙を頂いて、更に大喜びをしたことを覚えています

 今と違って、互いに会うこともなく、写真を交換することもなく、手紙だけのやりとりでしたが、何度目かの文通で、貴女から写真の交換を提案され、それが恥ずかしかった私は「そのような世間によくあるようなことはしたくない」と返事を書いて、結局お互いの姿を知らないままでした

 最近、自分の過去の文章を整理していて、高校時代に書いた文章はないかと探した所、かつて「日記」について書いたことがあることを思い出しました。それを「三省堂」「高校生向け新聞」「日記」だけの言葉を手がかりに、問い合わせた所、ひと月後にすべてが判明したというしだいです


2014年5月21日水曜日

中国新聞夕刊 でるた 「江戸時代の白浜温泉」 2014.5.21

中国新聞の編集部氏から寄稿を求められて 
何を書けばいいかと 一週間余り考えたすえに
ようやく書き終えたのが 5月7日。
700字の文章は むつかしい。
編集部からの指摘で
  穴が空く は 新聞では 穴が開く と 「開」の字を使う
  文中に「、」があれば 「、」の後ろは違う内容となる のが 新聞の考え
と 教わり いい勉強になった

中国新聞夕刊 2014年5月21日
    立っていられなくなるほど驚くことは、そうあるものではない。しかし紀州の文人画家・桑山
   玉洲(1746~1789年)が白浜(和歌山県白浜町)を描いた絵を見た時は、足もとが震えた。
   絵には「三つの洞」が開いた塔島の図が描かれていたからだ。

    現在、白浜の塔島には穴はなく、海上に岩山が突き出ているだけである。穴があることで
   有名なのは円月島で、その奇観は有名だが、穴は中央に一つだけで、三つもない。

    実は私は、江戸時代の塔島には三つの穴が開いていたと主張してきた。それは、
   紀州の儒官・祇園南海(1677~1751年)の「鉛山紀行」(原漢文)に、「唐嶼」(塔島)は
   「三洞玲瓏として宛も牕牖の如し」とあるからだ。連子窓のように三つの洞穴が連なって
   いるという意味である。同じ時の享保18(1733)年の漢詩にも「唐嶼の三窓 凝として
   流れず」とある。これを根拠として私が文章を発表したのは7年前であったが、既刊の
   郷土誌にも取り上げられていないためか、信用する人はいなかった。

    ところが、昨年4月、塔島に三洞がある図を描いた絵がみつかったのである。玉洲の
   「鉛山勝概図巻」がそれで、美術商が所蔵していたのを和歌山県立博物館が見つけ
   出し、特別展で公開した。全長525㌢に及ぶ図巻には、三段壁、千畳敷、白良浜
   円月島の景観が描かれ、塔島には、三連の窓がぽっかりと開いていた。

    図の款記には寛政5(1793)年とあるから、祇園南海の詩文より60年後の絵である。
   まさに疑う余地のない証拠が出てきたわけだ。絵は宿年のもやもやを一気に払って
   くれた。