久保卓哉
書簡の存在
全集を編むのは難しい。のちに遺漏が見つかるからだ。ここに紹介する佐藤春夫の書簡も既刊の全集類に未収録のものである。
この書簡は郡芳井町(岡山県井原市)で薬種商・内山薬店を営んだ、内山完造の長弟・内山和平の親族によって保管されていたもので、孫にあたる内山裕氏を訪問した際その存在を知らされた。内山裕氏の母・内山芳枝は内山和平の娘で、昭和一三(一九三八)年から二年間長崎で完造の妻・みきの仕事を手伝い、昭和一五(一九四〇)年から昭和一九(一九四四)年六月までの四年間は上海で内山書店の手伝いをした。内山裕氏の父・内山正雄は昭和八(一九三三)年四月より昭和二一(一九四六)年三月まで上海の内山書店で働き、魯迅の日記には旧姓の村井正雄で登場する。昭和一五年一一月一九日に上海で内山和平の娘・芳枝と結婚し、帰国後は岡山県井原市で内山書店を開いた。
このような背景があって佐藤春夫の書簡は、内山完造のふるさとに住む内山家に保管されてきた。
実は、村井正雄と同じ年の昭和八年六月から昭和二一年三月まで上海の内山書店で働いた児島亨も、魯迅の日記に旧姓の中村亨で登場し、昭和一五年二月八日に長崎の内山書店で児島静子と結婚している。児島静子の母・は、内山完造の妹・内山於治で、児島祐市と結婚して静子を生んだ。その静子と結婚した中村亨は児島姓に入って児島亨となり、上海から帰国後は広島県福山市で児島書店を開いた。児島亨の生地・後月郡高屋村は、内山完造の生地・後月郡芳井村の隣村である上に、完造の叔母・内山松ゑ(完造の父・内山賢太郎の妹)が高屋村丹生の旧家・中村文太郎と結婚したことから、内山家と中村家とは姻戚関係にあり、少年時代の完造はよく高屋村の中村の家へ遊びに行っていた。児島(中村)亨の伯父が中村文太郎であり、完造の叔母が文太郎の妻・松ゑであるゆえ、完造と亨とは甥同士の続柄にあった。このような背景があって、丹生の中村家には上海の内山完造から届いたはがきや写真、雑誌のほかに、完造の長弟・内山和平、三弟・内山嘉吉からの書簡・はがきに加え、完造の叔父・内山庫太(医師)と内山喜多治(弁護士)からの書簡、及び完造の母・内山からのはがき等が存在する。
このように内山完造のふるさとには、上海の内山書店を明らかにするためのヒントと、まだ世に出ていない資料が少なからずある。
なお、この佐藤春夫の書簡は『井原市芳井町史 史料編』(平一九・二)に収められている。
書簡の全容
佐藤春夫が内山完造にあてたこの書簡は、とりわけ注目される。魯迅の作品の出版や支那小説大系などの大がかりな出版を企画することに言及し、末尾には増田渉へよろしくと内山完造にことづてを頼むことが書かれているからである。
その全文をあげる。旧字体は常用漢字体に改め、変体仮名と読み慣れない漢字にはルビを付けた。
拝復 拝誦り 諸子毎々御世話様相成感謝 文字不可尽 御申越の中華文芸家諸君子の近況及それに対る貴下の深甚なる御同情 人ことなら喜はしく存し候 勿論小生としても微力なら出来得る限りの努力を致く 魯迅先生の訳著の如きは必ず出版し得可しとの自信有之候間 喜んで何れかへ紹介致く 且つもつと何か纏つた仕事を出版家に企てさせて 例へば(中国)支那小説大系とか何とか全集とか称るやうなものをやらせる事を説きすめて なるへく多数の諸君に半永続的の仕事を頒ち得るやう工夫致しと存し居り候間 何かそちらの諸君子及び貴下に於て御名案も有之候ゝ承ハり 無論こちらでも諸出版者と面会して途を開き置き候 次便まて暫く御待ち下され願上候 尚の節増田へよろしく願上候 四月五日 佐藤春夫 内山様(巻紙、墨書)
封筒表「中華民国上海北四川路 内山書店様御主人 貴酬」(墨書)
封筒裏「東京小石川区関口町二〇七 佐藤春夫 四月五日」(墨書、鳩居堂製封筒)
書簡の作成年
これが書かれた四月五日は何年のことなのかについては、消印スタンプが不鮮明であるため確定することができないが、「増田子へよろしく御致聲願上候」という結語から推定することができる。
増田子とは増田渉のことで、佐藤春夫は増田渉のために内山完造宛の紹介状を書いて持たせていた。増田が記した岩波文庫『魯迅選集』の「あとがき」(昭一〇・六)に「余は上海に着くや、佐藤先生からの添書を内山書店主に通じたところ、内山氏はかねて魯迅先生と親交があり、……」とあるのがそれで、佐藤春夫も「友人の増田渉が東京帝大の漢文科を出て上海に遊ぶと紹介状などを求めた時の話の序に……」(「蘇曼殊とはいかなる人ぞ」、昭九・一一)としるし、また、内山完造も「増田先生が、佐藤春夫先生の紹介状を持つて上海へ来られた時に……」(増田渉『魯迅の印象』「跋」、昭三一・七)と書いている。増田が上海に遊学したのは昭和六(一九三一)年三月であるから、この書簡はそれから間もない同年四月五日に書かれたものと考えてよい。
なお紹介状は、増田が昭和五年の年末に紀州の下里町で静養する佐藤春夫を訪ねて行ったときに懸泉堂で書かれた(増田渉「佐藤春夫と魯迅」『図書』昭三九・七)。
内山完造への返書
この書簡の頭語に「拝復」とあり、続けて「朶雲拝誦仕り候」とあることから、これは内山完造から届いた手紙に対する返書であることが分かる。「朶雲」とは相手の書簡を敬っていう語であり、封筒表の宛名の横に記した「貴酬」も、先方への返事を敬っていう語で「御返事」と同義である。内山完造は、あなたの紹介状を持った増田渉がたしかに書店に来ましたよ、と佐藤春夫にしらせるかたわら、魯迅を始めとする中国の文芸家諸子の近況を伝える手紙を出していたのだと思われる。
この時内山完造と佐藤春夫とは旧知の間柄であった。春夫が一九二七年七月に三番目の妻多美と、姉の保子の娘で姪にあたる佐藤智恵子とを連れて上海、杭州を旅した時は、内山完造の歓待を受けているからである。それは、前年の一九二六年一月に上海を訪れて内山完造と会っていた谷崎潤一郎の紹介であったと、内山完造は『花甲録』(岩波書店、昭三五・九)に書いている。
従って、東京帝国大学支那文学専攻の学生として春夫の門を敲いていた増田渉が、春夫の紹介状を持って上海に行ったのは自然の流れであった。
ちなみに、増田渉の前年昭和五(一九三〇)年九月に上海に行った林芙美子は、新居格の紹介状を持って内山完造に会っている(久保卓哉「資料紹介 内山完造宛林芙美子書簡見つかる 昭和5年満洲上海への旅」『野草』平二五・二)。
魯迅作品の翻訳
春夫の書簡文から推量すると、内山完造は日本に魯迅の作品を翻訳した出版物が少ないことを嘆いたと思われる。昭和六(一九三一)年当時は、わずかに魯迅の短編「故郷」の邦訳が春秋社発行の月刊誌『大調和』十月号(昭二・一〇)に出ただけで、魯迅は「世界が、世界的に関心を持つ作家である」(「「個人的」問題」『新潮』昭七・四)と佐藤春夫は確信していたにもかかわらず、日本での訳著出版は未だ進んでいなかった。だからこそ、内山完造への返書に春夫は、魯迅先生の訳著は必ず出版すべきで、出版できるように方々に取り持ちたいと応じたのであろう。
しかしその実、胸中ではその翻訳の任務は自分が果たすという意欲と覚悟があったと思われる。なぜなら、この書簡を書いた昭和六(一九三一)年四月から半年余りの後には、魯迅の「故郷」を『中央公論』昭和七(一九三二)年一月号に発表しているからである。翻訳に付した「原作者に関する小記」には「その名が未だ一般読者界の耳に熟していないのは予の甚だ遺憾とするところ……邦文の魯迅文献が向後益々豊富ならんこととその読者の増加とを確信し切望」すると宣言している。この「小記」末尾には「一九三一年十二月十日訳者追記」とあるから、年内には原稿を書き上げていたことになる。続いて同誌七月号(昭七)には「孤独者」を発表している。春夫の意欲的な実践力を見ることができる。これがさらに佐藤春夫、増田渉訳『魯迅選集』(岩波文庫、昭一〇・六)の刊行と『大魯迅全集』全七巻(改造社、昭一一)の刊行へとつながるのである。
そもそも、佐藤春夫は翻訳については、文学上の翻訳は語学さえ出来れば誰にでも出来るというような仕事ではなく、創作に劣らない意義のあるもので、時務を知る俊傑だけがやっと完全にその任務を果たす事の出来る性質のものである(「『鷗外全集』第十一巻解説」昭二五・四)と考えていた。春夫の自負と気概は天を衝かんばかりである。
支那小説大系の翻訳
さらに書簡で春夫は、魯迅の作品のみならず支那小説大系とか、中国小説全集とか称する大がかりな出版をおこない、半永続的に中国の小説を出版してはどうか、その道筋をこちらでもつけておくつもりだと構想を語っている。
そもそも、春夫の家は十代前から医者と儒者とを兼ね、懸泉堂と命名された家で少年時代から漢文の素読を受けていた(「作家に聴く8佐藤春夫」『文学』昭二七・八)。また、毎年の夏には虫干しをかねて支那の詩文の書を開いて見る習慣があるほど(「好色支那文学談叢」『文芸春秋』昭一一・一〇)、日常的に中国の古典籍に親しんでいた。
二六歳で文壇に認められることになった「李太白」の執筆はここにつながる(『中央公論』大七・七)。李白を主人公にしたこの神仙譚は、『淵鑑類函』(清・康煕帝勅撰)を参照したと、父・豊太郎への手紙の中で書いているが(「佐藤豊太郎宛書簡」大六・五・二)、六朝の『世説新語』や『荀氏霊鬼志』に由来する話も盛り込んであり、仙人、河、酒、星の名をちりばめた壮大で夢多き物語にしている。
その春夫が内山宛の書簡でいう「支那(中国)小説」とは、唐の伝奇小説と明・清の白話小説を指すのであろう。春夫はこの時すでに『今古奇観』に拠った「孟沂の話」(『解放』大八・七)、「花と風」(『女性改造』大一一・一〇)、「百花村物語」(『改造』大一一・一〇)や、『聊斎志異』に拠った「緑衣の少女」「恋するものの道」(『現代』大一一・七)、他や、唐代伝奇の「馮燕伝」に拠った「何故に女を殺したか」(『サンデー毎日』大一二・一)を翻訳、翻案しており、これらを収めた本『玉簪花』(新潮社、大一二・八)を出版していた。また『今古奇観』に拠る「百花村物語」と「上々吉」二篇を「花つくりの翁」と「願事叶ふ」と改題して収録した『支那文学大観』第十一巻(支那文学大観刊行会)が、大正一五(一九二六)年七月にすでに出版されていた。春夫はこのような背景を念頭において、小説大系構想を内山完造に語ったのであろう。
むすび
このようにして見ると、この書簡は、日本における魯迅作品の翻訳とその読者とを増やす原動力となったことが分かる。そしてまた中国古典小説の面白さを伝えんとする春夫の気概が表れたものであることが分かる。まさしく、日本と中国との「その時代を貫き通す」書簡であるといえる。
(2014.6.26記)
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