望月百合子の周作人へのインタビュー
魯迅と周作人の故居がある八道湾十一号は、必ず訪れておきたい所だ。
現在の北京で、地下鉄新街口から地上に出ると、「八道湾胡同」と書かれた標識が目に入る。「胡同」はよく知られたように北京名物の路地のことで、八道湾の「湾」は「弯」に通じて曲がり角の意味だから、到る処に曲がり角がある街はここですよ、と案内している。
路地に入るとすぐに角があり、行きつ戻りつ何度も曲がると八道湾十一号の住居表示が見つかる。故居はさらにそこからくねくねと入った所にある。まるで迷路のような道を、かつては武者小路実篤も久米正雄も小林秀雄も通ったと思えば、幅の狭い路地を歩くことが楽しくなる。だがこの胡同は、あの文化大革命の時、八十一歳の周作人が紅衛兵によって引きずり回された胡同でもある。押えつけられて何回も殴打されたのはここです、私は見ました、とその場所を指さす男性は今もその横に裏口がある家に住む。
周作人は戦争中日本に協力した漢奸(売国奴)として逮捕され、日本敗北後約三年にわたって獄中生活を送った。この漢奸という暗い評価は周作人につきまとっていたが、今では評価は好転し、中国本土での周作人の著作は出版が相次いでいる。
その理由は、「周作人は人道主義、寛容主義の人で、すべての虐げられたもの、すなわち婦人・子供・動物に対して、とりわけ中華民族に対しての慈愛にあつい文人」(方紀生と松枝茂夫の表現を借用)だと認識されてきたからである。
さて、好評価に到る過程で見過ごされてきた資料として、望月百合子が周作人の自邸を訪問して談話を取った記録がある(「黎明期の中華文化を語る」『大陸に生きる』大和書店一九四一年五月五日発行収)。時は一九四一年一月三日で、望月百合子(四一歳)が華北教育總署特辨という文化行政の長に就任した周作人(五六歳)を取材したものである。岡田孝子氏の「望月百合子略年譜」によると、この時望月百合子は満洲新聞の記者で、ジャーナリストとして周作人に会ったと思われる。
「満洲新聞」に掲載されたであろうこの望月百合子の記事には、周作人の「教育、文化、文学、学芸」に対する見解と将来への展望を語った内容が記されている。例えば、 「小學校の教育はどうですか」周氏「貧しい家では小さな子供でも何か家の役に立つことをして働きます。(略)その働きを一切やめなければ學校へはゆけないわけで、それをやめて學校へゆけば生活が出来なくなるといふことになるので、まづ生活を安定させてやらねば義務教育制も布けないわけです」。 「満洲では文學運動でも政府が援助するやうな機運になつてゐますが…」周氏「文學などはいくら援助されても文化的地味の貧しいところからは生れるものではない。だから若し立派な文學とか藝術とかの成果を欲するならまづ學問を盛に興すことが大切です。さうして個人の意見が尊重されて、自由の空氣がなければよい文學も立派な文化も生れるものではない。さうして各人がいろいろの意見をたて、盛んに議論が行はれるやうにならなければ駄目です。(略)ともかく自由な雰囲氣のあつた時代がいつも成功しているのであつて、統制が強く行はれて成功したためしはありません」と語る。
日本の傀儡政権である満州国と華北政務委員会を念頭において、統制を批判し、自由を主張する周作人の姿勢が露わである。漢奸どころかそれとは正反対の中国及び中国人を酷愛する思想が表れている。周作人を評価する上で、望月百合子のこの記事は注意すべき資料であるといえよう。
望月百合子は記事の始めに「其自邸は飽迄も文學者らしいつつましやかさと静けさが漂ふ。訪問客もうけず一茶や啄木等の愛讀書に囲まれて悠々自適の氏の眉はまことに明るくおだやかである」と記しているが、この印象は周作人を訪ねる者すべてに共通しているようで、翻訳家・文潔若女士も「八道湾の周作人の家を訪ねる際には、いつも事前に手紙を書いて、約束の時間どおりに出向くことにしていた。いつ行っても彼の書斎はきちんと片づいていて、机には筆硯、原稿用紙と原書以外のものは紙片れ一枚載っているのも見たことがない」(「晩年の周作人」。木山英雄『周作人対日協力の顛末
補注北京苦住庵記ならびに後日編』岩波書店より)と書いている。
望月百合子は周作人の談話を「全く得難いものだ」と重要視したようだ。随筆集である『大陸に生きる』の中に、随筆とはいえない談話記事を特に加えた理由は「先生のお話の中には中國人の特徴が最もよく言ひ表はされてゐて、大陸に關心を持つものの知らねばならぬことがある」からだったと、その「後記」にしるしている。
(中国文学研究者)
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