だが別の理由があったようだ。太宰治が佐藤春夫に宛てた書簡が出てきた。それを載せようとして編集に遅れが生じたのだろう。
2015年11月5日木曜日
『佐藤春夫読本』勉誠出版20151031刊
2014年4月に出版が企画され、2014年6月30日に原稿が締め切られた勉誠出版の『佐藤春夫読本』が、一年以上かかって漸くできた。寄稿者のうちの誰かが締切に間に合わず、編集作業ができないために遅れているのだろうと思っていた。
だが別の理由があったようだ。太宰治が佐藤春夫に宛てた書簡が出てきた。それを載せようとして編集に遅れが生じたのだろう。
だが別の理由があったようだ。太宰治が佐藤春夫に宛てた書簡が出てきた。それを載せようとして編集に遅れが生じたのだろう。
2015年10月26日月曜日
華岡青洲の瘍科瑣言 「解説」 2015.10.25
解説
華岡青洲
私はかつて八代随賢・華岡青洲氏に会うために北海道札幌市の華岡邸を訪ねたことがある。頼山陽が春林軒を訪問し華岡青洲と夜通し酒を酌み交わした時に「華岡醫伯」に奉った七言絶句の詩軸を見るためだった。地袋戸棚から軸箱を出してみずから詩軸を掛けてくれたのは華岡青洲氏だった。頼山陽の詩軸とともに「醫惟在活物」の五字が書かれた華岡青洲の書をも見ることができた。いただいた名刺には「元華岡小児科 医学博士 華岡青洲」とあり、目の前の華岡青洲氏の風貌と容顔はよく知られた三代随賢・華岡青洲72歳(天保二年)の肖像画の風貌と容顔に生き写しであった。このお方が全身麻酔による乳癌摘出手術を成功させたお方か、と思ったほどであった。その時に許しを得て撮影した華岡青洲氏の写真は今も手もとにあるが、ここにお見せできないのが残念でならない。
『瘍科瑣言』(ようかさげん)の瘍科とは腫れ物などを治療する部門のことで、瑣言とはちょっとした言葉、とるに足りない言葉という意味である。瑣言はへりくだっていう謙語であるから、『瘍科瑣言』とは華岡青洲がみずからの瘍科の治療法を門人たちに口述した言葉ということになる。春林軒での青洲の教育は実習と口述とが基本であったため、門人たちは青洲の言葉を書きとめそれを写したのである。
呉秀三の『華岡青洲先生及其外科』に附された「華岡青洲先生春林軒門人録」の人名を数えると万延元年(一八六〇)までで一八六一人になる。また元治以後では三〇五人とあるから合計二一六六人になる。これは青洲の弟華岡鹿城が大阪で開いた春林軒の分塾・合水堂の門人を合わせた数だが、門人たちは学んだ華岡医学を書きとめて各自が学習帳を作ったわけだから、門人の数と等しい二一六六冊の『瘍科瑣言』があっても不思議はない。その証しに、現存する『瘍科瑣言』には書名に『花岡瘍科瑣言』『花岡先生瘍科瑣言』『春林軒瘍科瑣言』『華岡瑞軒先醒瘍科瑣言』があり、南紀(和歌山)、浪花(大阪)はもちろんのこと若狭(福井)、武蔵(埼玉)、播州(兵庫)、土陽(高知)の各地に写本がある。(松村巧「華岡青洲關連資料・高橋コレクション 資料目録」『和歌山大学教育学部紀要.人文科学』63、2012年)ここに紹介する写本『瘍科瑣言』はこのようなうちの一冊である。
『瘍科瑣言』
『瘍科瑣言』は呉秀三の『華岡青洲先生及其外科』「華岡氏遺書目録」の中で「書名ノ上ニ圏印ヲ附セルハ余ガ主要ナルモノト認メタルナリ」と記すように呉秀三自身が主要なものと認めた書物で、臓毒(脱肛)、疔(悪性のできもの)、下疳(性病)、痔、破傷風、歯痛、頭痛、咬傷、打撲など114の病名をあげてそれぞれの症状や治療薬、調薬、診断を詳述している。
本書の『瘍科瑣言』には特徴がある。他の写本と比べてみると、筆写の文字が楷書でしかも整然と書かれていて読みやすく、目次には病名が記載された葉数とその表、裏が書かれているために目的の頁にたどりやすい。例えば目次に「脳疽 四ウ」「腸癰 十一ヲ」とあるが、これは脳疽は第四葉のウラの頁、腸癰は第十一葉のオモテの頁を見よということで読み手への配慮がなされている。
では実際の記述内容はどうかといえば、他の写本に比べて本書は書き写しに間違いが少ない。
そもそも写本は門人が筆記したり又は伝写したものであるから、書き間違いが生じやすい。それを案じた門人佐藤持敬(越後の人)は、華岡青洲の「遺書目録」を作った時の序文に次のように記している。「唯だ恨むらくは、坊間に伝うる所の書は、多く口授筆記に出づ。故に同名なれども異書のもの有り、異名なれども同書のもの有り。或は重復錯乱す。これに加えて伝写することの久しければ、謬誤百出す。得て解すべからざるもの有るに至りては、実に歎くべきかな。余深くこれを憂う」(佐藤持敬「華岡氏遺書目録序」、原漢文)。世間に出回っている華岡医学の書の多くは口授筆記であるから、書名が異なるものがある上に、伝写の誤りが多い。中には意味が分からなくなっているものすらある、と既に歎いている。
本書ではその重復錯乱、謬誤百出が見られるのであろうか。ここに本書と他の写本とを比べておこう。「下疳」(性病)の章の冒頭を例にしてみる。他の写本とは早稲田大学が古典籍総合データベースとして公開している『瘍科瑣言』の天保十二年(一八四一)本と書写年不明本との二本。
(早稲田大学は二本のうち一本を[書写年不明]とするが、「丙戌仲秋望月」の記載があるゆえ、文政九年八月十五日(一八二六)に書写されたものであることが分かる。しかもこの一本には「浪花中洲華岡文獻」の記載があり「中洲」(白文長方印)「華岡文獻堂子徴」(白文方印)の二顆が印されていることから、さらにまた華岡青洲の弟華岡鹿城の別号は、中洲、文獻であることから、この一本は大阪の合水堂で書写されたものと考えられる)(以下[書写年不明]本を文政本と仮称する)
本書で「下疳ハ陰茎ノ瘡ニテ是ハ多ク房事ニテ濁気ニ染テ生スル也」と始まる「下疳」の章の冒頭文の「房事」を文政本は「方事」と書写。つづく「痒キ者ハ浅ク痛強キハ毒深シ必痒キヨリシテ痛ニ至ル也」の「浅ク」は「毒浅ク」が正しく本書では「毒」が脱落。文政本、天保本はともに「毒浅ク」。つづいて治療薬の軟膏を調剤する記述「煎湯ハ大鮮毒ニメ端的ヲ兼用スヘシ」の「ニメ」は「ニテ」が正しいが、この「煎湯」を文政本は「煎-」と書写し、「大鮮毒ニテ端的ヲ」を文政本は「大鮮端的ヲ」と書写して「毒ヲ」が脱けていて意味が通じない。佐藤持敬が歎いたのはこのようなことであろう。(紙幅の都合上全頁を比べることはできないが、文政本の書写には謬誤が多いという印象を持つ)
本書がいつどこで誰が書写したものかを知る手がかりとして、目次の裏葉の無地に墨書した「明治五年壬申正月求之 平鹿郡沼館村居住士族 小柳氏蔵書」の書き込みと、裏表紙の内側に墨書された「平鹿郡沼館住 小柳氏蔵書」の書き込み、及び目次頁の上部無地に押された「小柳氏薬局印」(朱文方印)の印影とがある。平鹿郡沼館村は今の秋田県横手市雄物川町沼館で、そこに居住する士族の小柳氏が明治五年に本書を買い求めたことが分かる。印章に薬局印とあることから、小柳氏は医薬学を学んだ人物で、だからこの『瘍科瑣言』を所蔵していたのだと容易に推測することができる。明治五年は江戸時代の風が色濃く残っていた時で丁髷を結った人を多く見ることができた。(渡辺京二『逝きし世の面影』)しかも明治五年はまだ春林軒が存在し、門下生を輩出していた時代である。
では誰が書写したのか。それを特定できる痕跡は見つからないが、平鹿郡を手がかりに「門人録」を見てみると、秋田平鹿郡横手町から文久元年(一八六一)に入門した中村東朔がいる。中村東朔はみずから書きとめた『瘍科瑣言』を秋田に持ち帰ったはずで、本書がそれであるとは断定できないが、文字と行の間隔が整然としていて目次に工夫があることからすると、中村東朔の『瘍科瑣言』をもとにして秋田のおそらくは医師が書き写したものであろうと推定できる。従って本書を中村東朔版もしくは秋田版と称することができよう。
華岡医塾門下生
学を修めてそれぞれの郷に帰った門下生は、各地で外科、内科、産科、皮膚科、泌尿器科、肛門科等の華岡医学を実践した。地域の人々からの感謝と尊敬の念を一身に集めたことはいうまでもない。それは地域にのこる地元医薬師の墓碑、墓標に刻まれた格調高い漢詩文によって知ることができる。私は安芸(広島)のいくつかの地に出かけて墓碑、墓標を読み或いは拓本をとったことがある。「広島・史学を学ぶ会」(門前弘美会長、歯科医)に誘われてのことだった。(門前氏は特に華岡青洲の門下生の事績に注目し、四国、九州に至るまで調査をすすめている)
「門人録」には文政八年(一八二五)に入門した安藝郡蒲刈島田戸浦の鎌田文臺の名がある。瀬戸内海に浮かぶ蒲刈島には鎌田文臺の子孫・鎌田一診氏が医系を継ぎ歯科医として人望を集めている。その鎌田一診氏が文臺の第三子で医師の鎌田政信(号蒲州、通称良平、幼名良達。天保九年~明治四十年(一八三八~一九〇七))の墓碑に案内してくれた。その墓碑文には第三子・鎌田政信の事績とその家族のことのみが記され、その父鎌田文臺と華岡青洲への言及はなかったが、なりよりも驚いたのは現在でもなお残る建物群であった。
平地が少ない島にもかかわらず、診察棟、入院棟、看護婦棟と患者家族の宿泊室まであったのである。江戸時代からの古建築家屋ではなく、歴代の鎌田医院によって増改築された建物であったが、これは華岡青洲の春林軒を手本にした鎌田文臺、鎌田政信の蒲刈島モデルだといえる。華岡青洲の春林軒には治療室、講義室、調剤室、入院用宿室、看護婦室等が備わっていたからである。単に外科、内科の華岡医学を持ち帰ったのではなく、医学の実践に必要な建物の構想までも学んで持ち帰ったということが分かる。
久保卓哉(平成二十七年十月二十四日)
2015年10月14日水曜日
多屋謙吉の草稿「東睦和尚の事」あおい書店から翻刻出版 「あとがき」
あとがき
あおい書店に行けばナニカアル。何かがあって何かが見つかる。釣り、ファッションからゲームまで月刊雑誌はなんでも揃っているし、田辺の地史に関する物はなんでも揃っている。もしも見つからなくても落胆する必要はない。聞けばいいのだ。店主の多屋朋三氏の頭の中にはすべてが収まっている。
南方熊楠が多屋謙吉に出したハガキが見つかったと店主から見せられたのは今年(2015)の7月であった。中屋敷に住む熊楠が上屋敷に住む謙吉に投函したもので消印は昭和3年6月22日。わざわざ投函するまでもない距離だという。そして『南方熊楠全集』にも『南方熊楠書簡集』にも収録されていないという。内容は、和歌浦の「和中金助氏拙宅ヘ来リテ」同氏秘蔵の『南海先生後集』を「出板シタルニ付キ五百部ノ内三部吾ニクレタリ」。その一部を「貴下ニ進呈ス」というもので、これは大変・・・。祇園南海研究には新しいことが書かれているではないか。つまり、和中金助が鈴木虎雄の題辞を得て『南海先生後集』を出版したのは昭和3年4月なのだが、和中金助は刷り上がったばかりの書籍三部を抱えて南方熊楠邸まで届けたことがわかる。この書籍は和中金助が自ら所蔵する祇園南海の詩稿をもとにして編んだ貴重なもので、当然のことながら従来の『南海先生文集』には收められていない詩文ばかりである。その発行部数はこれまで不明であったが、初めて500部であったことが分かった。とりわけ南方熊楠と和中金助及び多屋謙吉との交流がよほど親密であったと分かることが大きい。
その親密さを伺わせる末尾の一文はいかにも熊楠らしい。「甚タ愛ラシキ犬ノ子」が6疋産まれたので欲しい人に差し上げたいが、但し「虐待ナトスル人ニハ上ゲル事ナラヌナリ」と釘を刺している。子犬が産まれたのは「前月十七日ノ夜」というから、熊楠はひと月余りの間6疋を育てていたことになる。たった一枚のハガキだがそこから読み取れる内容はまことに多い。
実は、ハガキと共に見せられたのが多屋謙吉自筆の原稿「東睦和尚の事」(23枚)であった。無造作に束ねられた四百字詰原稿用紙は、見るからに未発表のまま筐底にあったと思われた。ここにこれを翻字して世に公表する所以である。
多屋謙吉は上屋敷町で質商を営んだ経済人で、上屋敷信用組合の初代組合長を務め(大正9~15年)、明治の日露戦争では功績で叙勲を受けた軍人でもあり、田辺町議会の議員を八年務めた公人でもあり(大正6~14年)、また、木人と号し、玉生堂と称した俳人でもあった。著作としては田辺藩の学問教授方で漢詩人の池永源蔵、字は寿散を論じて『牟婁新報』に連載した「詩集から見た池永寿散」がある(大正12年11月)。(『田辺町誌』)
「東睦和尚の事」を翻字しながら思ったことがある。その一つは著者が東睦に関する文献を博渉していることで、長い年月をかけて『築山染指録』や『日本印人伝』、「睦庵書簡」を収集したと思われる。文献には漢文で書かれたものがあるが、著者が原文を読み下した訓読は基本をふまえたもので、僭越ながら言わせていただければ、漢文の素養が高く、しかも禅語を駆使する素養があるということである。その二つめは著者によって初めて知ることができた『築山染指録』についてだが、現在見ることができる1975年刊行の帙入り複製本も、筑波大学図書館蔵の和本(稀覯本)も、それぞれが別種の版に拠っていて両本の間には異同があり、著者が引く『築山染指録』とは異なることが判明した。著者が見た『築山染指録』は東睦和尚自筆の稿本で、田辺の佐山徐林所蔵のものだと著者みずからが記しているが、この本こそ真の『築山染指録』だと言える。上記の両本はこれを書き写したものの、書き手の誤写が生じたきらいがあり脱落部分がある。東睦和尚は田辺の海蔵寺第十五世の主僧であるから、その自筆の稿本が同じ田辺の佐山徐林の手に渡って不思議はない。この稿本の行方は現在不明なのだが、あおい書店の店主によっていずれ見つけ出されることと思う。その三つめは天保五年(1834)に田辺、白浜を旅した阿波の国香軒蘭秀の紀行文「温泉の日記」(自筆稿本、和文)の存在である。この稿本は現在和歌山県立図書館に蔵されている一冊のみの、まさしく天下の孤本で、そこには海蔵寺を訪れた時に見た東睦和尚建立の天授院のことがしるされている。天授院竣工は文化十三年(1816)であるから、建立後18年の天授院を国香軒蘭秀は見たのである。天授院はその20年後の安政元年(1854)に焼失したから、この見聞記は貴重である。また、「温泉の日記」には絵地図が描かれ、白浜臨海浦に現存する塔島を、二つの洞穴を持つ島として描いていることが注目される。現在塔島に洞穴はないが、もとはあり、しかもその数は、三から二へ、二から一へ、一から零へと変化したからである。「温泉の日記」はその二洞穴の景観を描いている。
なお、翻字にあたっては杉中浩一郎先生からの的確なご指摘を受けることができた。ここに記して謝意を表したい。
久保卓哉(平成27年9月11日)
あおい書店に行けばナニカアル。何かがあって何かが見つかる。釣り、ファッションからゲームまで月刊雑誌はなんでも揃っているし、田辺の地史に関する物はなんでも揃っている。もしも見つからなくても落胆する必要はない。聞けばいいのだ。店主の多屋朋三氏の頭の中にはすべてが収まっている。
南方熊楠が多屋謙吉に出したハガキが見つかったと店主から見せられたのは今年(2015)の7月であった。中屋敷に住む熊楠が上屋敷に住む謙吉に投函したもので消印は昭和3年6月22日。わざわざ投函するまでもない距離だという。そして『南方熊楠全集』にも『南方熊楠書簡集』にも収録されていないという。内容は、和歌浦の「和中金助氏拙宅ヘ来リテ」同氏秘蔵の『南海先生後集』を「出板シタルニ付キ五百部ノ内三部吾ニクレタリ」。その一部を「貴下ニ進呈ス」というもので、これは大変・・・。祇園南海研究には新しいことが書かれているではないか。つまり、和中金助が鈴木虎雄の題辞を得て『南海先生後集』を出版したのは昭和3年4月なのだが、和中金助は刷り上がったばかりの書籍三部を抱えて南方熊楠邸まで届けたことがわかる。この書籍は和中金助が自ら所蔵する祇園南海の詩稿をもとにして編んだ貴重なもので、当然のことながら従来の『南海先生文集』には收められていない詩文ばかりである。その発行部数はこれまで不明であったが、初めて500部であったことが分かった。とりわけ南方熊楠と和中金助及び多屋謙吉との交流がよほど親密であったと分かることが大きい。
その親密さを伺わせる末尾の一文はいかにも熊楠らしい。「甚タ愛ラシキ犬ノ子」が6疋産まれたので欲しい人に差し上げたいが、但し「虐待ナトスル人ニハ上ゲル事ナラヌナリ」と釘を刺している。子犬が産まれたのは「前月十七日ノ夜」というから、熊楠はひと月余りの間6疋を育てていたことになる。たった一枚のハガキだがそこから読み取れる内容はまことに多い。
実は、ハガキと共に見せられたのが多屋謙吉自筆の原稿「東睦和尚の事」(23枚)であった。無造作に束ねられた四百字詰原稿用紙は、見るからに未発表のまま筐底にあったと思われた。ここにこれを翻字して世に公表する所以である。
多屋謙吉は上屋敷町で質商を営んだ経済人で、上屋敷信用組合の初代組合長を務め(大正9~15年)、明治の日露戦争では功績で叙勲を受けた軍人でもあり、田辺町議会の議員を八年務めた公人でもあり(大正6~14年)、また、木人と号し、玉生堂と称した俳人でもあった。著作としては田辺藩の学問教授方で漢詩人の池永源蔵、字は寿散を論じて『牟婁新報』に連載した「詩集から見た池永寿散」がある(大正12年11月)。(『田辺町誌』)
「東睦和尚の事」を翻字しながら思ったことがある。その一つは著者が東睦に関する文献を博渉していることで、長い年月をかけて『築山染指録』や『日本印人伝』、「睦庵書簡」を収集したと思われる。文献には漢文で書かれたものがあるが、著者が原文を読み下した訓読は基本をふまえたもので、僭越ながら言わせていただければ、漢文の素養が高く、しかも禅語を駆使する素養があるということである。その二つめは著者によって初めて知ることができた『築山染指録』についてだが、現在見ることができる1975年刊行の帙入り複製本も、筑波大学図書館蔵の和本(稀覯本)も、それぞれが別種の版に拠っていて両本の間には異同があり、著者が引く『築山染指録』とは異なることが判明した。著者が見た『築山染指録』は東睦和尚自筆の稿本で、田辺の佐山徐林所蔵のものだと著者みずからが記しているが、この本こそ真の『築山染指録』だと言える。上記の両本はこれを書き写したものの、書き手の誤写が生じたきらいがあり脱落部分がある。東睦和尚は田辺の海蔵寺第十五世の主僧であるから、その自筆の稿本が同じ田辺の佐山徐林の手に渡って不思議はない。この稿本の行方は現在不明なのだが、あおい書店の店主によっていずれ見つけ出されることと思う。その三つめは天保五年(1834)に田辺、白浜を旅した阿波の国香軒蘭秀の紀行文「温泉の日記」(自筆稿本、和文)の存在である。この稿本は現在和歌山県立図書館に蔵されている一冊のみの、まさしく天下の孤本で、そこには海蔵寺を訪れた時に見た東睦和尚建立の天授院のことがしるされている。天授院竣工は文化十三年(1816)であるから、建立後18年の天授院を国香軒蘭秀は見たのである。天授院はその20年後の安政元年(1854)に焼失したから、この見聞記は貴重である。また、「温泉の日記」には絵地図が描かれ、白浜臨海浦に現存する塔島を、二つの洞穴を持つ島として描いていることが注目される。現在塔島に洞穴はないが、もとはあり、しかもその数は、三から二へ、二から一へ、一から零へと変化したからである。「温泉の日記」はその二洞穴の景観を描いている。
なお、翻字にあたっては杉中浩一郎先生からの的確なご指摘を受けることができた。ここに記して謝意を表したい。
久保卓哉(平成27年9月11日)
2015年10月1日木曜日
⑦「観光ポスターに女性を」 白浜町まち創生戦略 提案 2015.9.30
課題等
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※現在、白浜町が抱えていると思う課題等を記載してください。
観光用ポスターに、目を惹きつける力がない
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提案事業の名称
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※課題等を踏まえた事業を提案してください。
観光用ポスターの工夫
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提案事業の内容
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※別紙(任意様式)に記入していただいても構いません。
これまでの、円月島、パンダ、白良浜のポスター図案を、工夫する。
若い女性の笑顔、少女の笑顔、があると、人の目を惹きつける。
(例:鹿児島のポスター)
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事業費 ※任意記載
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1000 千円
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※事業費(概算でも可)が想定できる場合に記入してください。
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事業実施にあたって想定される問題点等があれば記載してください。
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※任意記載
美女、美少女の発掘。図案のプロへの発注。
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白浜町の長所(強み)はどのようなところですか?
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自然景観(海岸、島、海、川)に魅力があり、丸公園の、信号機のないロータリーに特徴がある。
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白浜町の短所(弱み)はどのようなところですか?
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外部の一流の人材にコネクションがない。
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備 考
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※必要な資料等があれば添付してください。
丸公園を空撮して紹介する写真が必要。ホームページ、facebook
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⑥「白良浜のシャワー施設」 白浜町まち創生戦略 提案 2015.9.30
課題等
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※現在、白浜町が抱えていると思う課題等を記載してください。
海水浴客に手厚い受入態勢を
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提案事業の名称
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※課題等を踏まえた事業を提案してください。
白良浜のシャワー施設の改良。
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提案事業の内容
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※別紙(任意様式)に記入していただいても構いません。
夏の白良浜のシャワー施設は、旅客の好評を得ている。だが、シャワーの横に設置した、水道の蛇口は一つしかなく、順番待ち、割り込み、いがみ合い、が多発している。蛇口を二つに増設する。蛇口だけ並べた施設を新設する。
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事業費 ※任意記載
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1000 千円
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※事業費(概算でも可)が想定できる場合に記入してください。
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事業実施にあたって想定される問題点等があれば記載してください。
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※任意記載
設置は簡単で、予算をつければ可能となる
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白浜町の長所(強み)はどのようなところですか?
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白良浜、江津良浜、臨海浦の遊泳場は、ゴミ、漂流物などがゼロとなるようにされている。道路のゴミも同様に清掃されている。
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白浜町の短所(弱み)はどのようなところですか?
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夏の繁忙期、夜の街中、観光スポットの要所、駐車場の実態など、町内の実態を見て歩く町会議員、町長の姿をみかけない。
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⑤「観光案内所 ” i ” の充実」 白浜町まち創生戦略 提案 2015.9.30
課題等
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※現在、白浜町が抱えていると思う課題等を記載してください。
海外と、国内からの旅客に、観光案内をする場がそお粗末、おざなり。
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提案事業の名称
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※課題等を踏まえた事業を提案してください。
観光案内所「i」の充実
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提案事業の内容
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※別紙(任意様式)に記入していただいても構いません。
田辺駅を始め各観光地の駅にある観光案内所のレベルに、白浜駅としらすなの案内所を作り替える。人員を増やし、人材を配置する。(現在の人員に熱意も使命感もない)。(白浜駅には奥に一人座っているだけ)。(しらすなは「まちなか総合案内所」であるのに、道路からの標識なく、レンタル自転車の台数が少なく、サイクリングに適した軽快車がなく、対応が冷徹で事務的。)
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事業費 ※任意記載
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10000 千円
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※事業費(概算でも可)が想定できる場合に記入してください。
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事業実施にあたって想定される問題点等があれば記載してください。
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※任意記載
「観光協会」のマンネリと町行政の力不足。
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白浜町の長所(強み)はどのようなところですか?
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白浜、椿、富田川、日置川を含めて、美しい景観が小さい地域に凝縮されている。
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白浜町の短所(弱み)はどのようなところですか?
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自然の景観をめぐる案内情報の不足と、その移動手段の提供が不足。
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備 考
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※必要な資料等があれば添付してください。
【レンタル自転車】
ドイツ、スイスからの旅客は、ヨーロッパで有名な「シマノ」の自転車すらない、あるのはママチャリだけに失望。三段壁、平草原、安宅、富田の水、椿まで、ペタルをこげない。
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④「旧跡をたずねて歩くルートの掘り起こし」 白浜町まち創生戦略 提案 2015.9.30
課題等
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※現在、白浜町が抱えていると思う課題等を記載してください。
旧跡をたずねて歩く(歩行、レンタル自転車)ルートを提供していない。
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提案事業の名称
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※課題等を踏まえた事業を提案してください。
旧跡をたずねて歩くルートの掘り起こし
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提案事業の内容
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※別紙(任意様式)に記入していただいても構いません。
白浜、富田、椿、日置を含めて、江戸時代の人々が巡った名所に先例がある。そのルートの数々を掘り起こし整理する(例:祇園南海は、本覚寺、藤九郎神社、江津良、太刀谷も巡った)。
瀬戸から臨海へ抜ける山道(瀬戸古道)の整備と道標の設置。
辻々に鎮座する地蔵と神社巡りのルートの掘り起こし。(例:熊野三所神社、瀬戸の民家と小路、熊鷹稲荷、地蔵さん、蛭子神社、本覚寺、藤九郎神社、田尻、江津良)(例:金德寺、山神社、来迎寺、湯崎の民家と小路、源泉)
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事業費 ※任意記載
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5000 千円
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※事業費(概算でも可)が想定できる場合に記入してください。
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事業実施にあたって想定される問題点等があれば記載してください。
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※任意記載
地史文献を参考にして、ルートを網羅する。(教育委員会、町内の有志を募集)
瀬戸古道は、安全に配慮が必要。
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白浜町の長所(強み)はどのようなところですか?
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新地の小路と古民家、瀬戸、江津良、湯崎の小路と古民家(廃屋を含む)には、観光客を満足させる古さがある。
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白浜町の短所(弱み)はどのようなところですか?
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趣きのある廃屋、古民家を観光に役立てる構想と予算付けがない。
観光協会、旅館組合、商工会を統率して、観光行政を実行する機関がない。
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③「道順案内、説明板の新設」 白浜町まち創生戦略 提案 2015.9.30
課題等
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※現在、白浜町が抱えていると思う課題等を記載してください。
神社、旧跡、名所、泉源への道順案内、道標、説明板を、充実させる。
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提案事業の名称
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※課題等を踏まえた事業を提案してください。
道順案内、説明板の新設、改良。
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提案事業の内容
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※別紙(任意様式)に記入していただいても構いません。
温泉につかり、歴史散歩を目的とする旅客のために、街路の辻ごとに、案内道標を立てる。藤九郎神社、山神社、金德寺、本覚寺、薬師堂、草堂寺、等は重要。(『白浜町誌』、雑賀貞次郎の著作で、その旧跡を知ることができる)
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事業費 ※任意記載
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10000 千円
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※事業費(概算でも可)が想定できる場合に記入してください。
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事業実施にあたって想定される問題点等があれば記載してください。
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※任意記載
標識の、色、書体、デザインを統一し、説明板の場合は、説明文を学術的に正しくする。
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白浜町の長所(強み)はどのようなところですか?
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白浜、椿、富田川、日置川を含めて、歴史的な寺社、地名、湯名、旅館が現存する。
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白浜町の短所(弱み)はどのようなところですか?
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現代的な観光地として認識されているが、歴史的な観光地としての認識はされていない。
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②「湯崎の源泉を見せる湯池」 白浜町まち創生戦略 提案 2015.9.30
提案テーマ
※該当する番号に○を付けてください。
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1 白浜町の特徴を活かした雇用を創出する(しごと)
2 若者がまちにとどまり、戻ってこられる環境をつくる(ひと)
3 安心して子どもを産み、育てられる環境をつくる(ひと)
4 安全・安心で快適な暮らしを確保する(まち)
5 白浜町のブランド力を向上・創出する(まち)
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課題等
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※現在、白浜町が抱えていると思う課題等を記載してください。
温泉地を象徴するような、湧出する源泉を見せる施設、場所がない。
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提案事業の名称
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※課題等を踏まえた事業を提案してください。
湯崎の源泉を見て旅客に、わっすてき、と歓声をあげてもらおう
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提案事業の内容
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※別紙(任意様式)に記入していただいても構いません。
湯崎に現存する湧出源泉を、別府の地獄湯、草津の湯畑のように、見せる源泉の場として作る。規模は大きくなくてよく、旅客に「湯めぐり」コースを提供する。
場として、歴史的な湯崎七湯が現存する「鉱湯」、湧出量豊富な「行幸湯」「甘露の湯」、「衝幹湯」(足湯の源泉と三楽荘の横の坂道に湧出)を端緒にする。
湯池を作り、湯を湧噴出させ、小屋、売店、説明板を立てる。
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事業費 ※任意記載
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30000 千円
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※事業費(概算でも可)が想定できる場合に記入してください。
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事業実施にあたって想定される問題点等があれば記載してください。
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※任意記載
町造りの構想を実行する政治力と主導者が不足。
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白浜町の長所(強み)はどのようなところですか?
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歴史的に温泉と景観が漢詩、和歌によまれている。
温泉があり海水浴ができ、自然景観が美しく、魚釣り、船遊びができる。
町民はにこやかに挨拶をし、自転車泥棒すらない安全な町。
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白浜町の短所(弱み)はどのようなところですか?
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白浜を訪れる旅客に対して、案内する工夫がない。
観光案内所ですら、場所が分散し、対応が貧弱。
(http://www.mapion.co.jp/phonebook/M06011/30401/ST26792/)
典型的には、JR白浜駅、案内所しらすな。
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①「湯けむりを活かそう」 白浜町まち・ひと・しごと創生総合戦略 提案 2015.9.30
白浜町総務課が募集する「白浜町まち・ひと・しごと アイデア大募集」(締切:2015年9月30日)
に応募。
に応募。
提案テーマ
※該当する番号に○を付けてください。
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1 白浜町の特徴を活かした雇用を創出する(しごと)
2 若者がまちにとどまり、戻ってこられる環境をつくる(ひと)
3 安心して子どもを産み、育てられる環境をつくる(ひと)
4 安全・安心で快適な暮らしを確保する(まち)
5 白浜町のブランド力を向上・創出する(まち)
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課題等
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※現在、白浜町が抱えていると思う課題等を記載してください。
旅客が集まる場所を提供していない。
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提案事業の名称
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※課題等を踏まえた事業を提案してください。
湯けむりを活かそう
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提案事業の内容
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※別紙(任意様式)に記入していただいても構いません。
白浜温泉を歩くと道路に排水湯から湯げむりが立っている場所がある。旧桃の井旅館の坂道が典型。坂道の真ん中と両側から、常に湯けむりがあがるように排水路を作り替える。
「湯の坂」とし、坂道に露天もしくは小屋の店をならべる。その商店を誘致する。
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事業費 ※任意記載
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10000 千円
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※事業費(概算でも可)が想定できる場合に記入してください。
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事業実施にあたって想定される問題点等があれば記載してください。
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※任意記載
町造りの構想を実行する政治力と主導者が不足。
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白浜町の長所(強み)はどのようなところですか?
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歴史的に温泉と景観が漢詩、和歌によまれている。
温泉があり海水浴ができ、自然景観が美しく、魚釣り、船遊びができる。
町民はにこやかに挨拶をし、自転車泥棒すらない安全な町。
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白浜町の短所(弱み)はどのようなところですか?
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豊かな温泉があるのに、温泉地の魅力を引き出していない。
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白浜町の活性化 に関する 意見文 2012.11.5.mon.
白浜町が観光活性化のチームを作るため 県の内外から5名を選ぶ目的で 意見書を公募して
いた。(紀伊民報、白浜町Homepage)
締切は 本年10月15日。
応募の意見書を作成して 提出。
以下は、応募の動機 と 意見文
いた。(紀伊民報、白浜町Homepage)
締切は 本年10月15日。
応募の意見書を作成して 提出。
以下は、応募の動機 と 意見文
(応募の動機)
白浜第一小学校を卒業後65歳までは他県に住んでいた。盆、正月は白浜に
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帰っていたから、半世紀の間にわたって、外から白浜を見ていたことになる。
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国内市町村のすべてが、経済、政策、人口減少等に翻弄されたことにより、
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閉塞感におおわれるようになったが、白浜温泉も例外ではない。交通手段が鉄
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道から自動車に変わったことに対応すべく浜通りを拡幅し、同時に景観を考慮
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して電柱を地中化し、街路灯を林立させたが、その結果招来したのは、浜通り
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からの人離れであり、商店の撤退であった。
入込観光客が100万人を越える全国の温泉地で、今や白浜温泉ほど閑散とし
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た印象を与える地はない。しかし、白浜町には毎年200万人が宿泊し、150 万
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人が日帰りで訪れる。草津温泉や箱根温泉よりはるかに多い。それなのに、 こ
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の350万人を迎えるための白浜町の施策が奈辺にあるのか、見えてこない。
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公募に応じて愚見を提言する機会を得たいと思う。
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2015年9月17日木曜日
多屋謙吉の草稿「東睦和尚の事」あおい書店から出版
2015年7月25日土曜日
南方熊楠が毛利柴庵に宛てた書簡 昭和元年11月26日 和中金助氏の逸話 『南方熊楠全集』未収録 『紀伊毎日新聞』
和歌山の勢家・和中金助は、祇園南海の詩稿をもとにして『南海先生後集』を出版したことで知られる。
南方熊楠が和中金助に出した書翰は『南方熊楠全集』(平凡社)に収められているが、和中金助に言及している毛利柴庵宛ての書翰は、未収録である。
2015年7月、南方熊楠が多屋謙吉に出した葉書が、多屋謙吉直系の家から見つかった。その葉書には、出版したばかりの『南海先生後集』を和中金助が南方熊楠邸に持って来たことが書かれている。(所蔵者の談による)
南方熊楠と和中金助との関係は周知のことだが、新たに見つかった葉書はもとより、ここに掲げる毛利柴庵宛ての書翰も、いまだ知られていない資料と言える。
『紀伊毎日新聞』は和歌山県立図書館にマイクロの形体であるが、残念なことに三回のうちの一回分しか残っていない。この一回分の入手は、紀南図書館にお世話になった。
熊楠流の饒舌で詳細な描写を見ることができる。 以下にその釈文を掲げておく。
南方熊楠先生より本社の毛利に寄せられたる書翰
標本台覧の顚末(三) 附けたり和歌浦 和中金助氏の逸話
其の拙状をまことに亡父の人となりをよく書いたものとして表装して保存する由、金吉氏から言い越された。御存じの通り末廣一雄とまだ面識なき内、彼の歐洲大戦起り、英国より吾政府へ頼み越多数の我が軍艦を派して印度マレー半島の警備をつとめた。其時一雄氏大隈首相に建議してこの際英国政府に一札を我政府へ入れしめおく必要があると主張したのだ。然るところ、その時の外相加藤高明子は非常な英国に心酔した人でそんな契約を要求するのは日英間に波瀾を起すとか云つて末廣氏の口に耳を藉さなんだ其時、原敬氏は未面識の末廣氏を一夜紅葉館とかに招き其の説をきき実に尤もな説とあつて自ら一書を筆し大隈首相に採択をすすめたが一切聞き入れざるのみか郵船会社から末廣氏を追出さしめ、末廣氏は忽ち生活に困り出版業をなせしも大失敗し仕方が尽きて前?かけで蠣殻町の「相場の走り」と成下る処を、妻君お次が押し止め自分の衣裳迄売って産婆看護婦科を速成し、色々工面して青山産婆看護婦所を立て三四十人使ふて安楽に夫君を養ふ内、郵船会社前社長近藤男の伝記編纂事務長を末廣氏に任ぜられ、それより勇気を挽回して今は立派に暮らして居る。初め末廣氏其筋の旨に違ひ窮迫其の極に達した時予之をきき気の毒に思ひ一書を贈り
「切角国のためよい事を云つても用ひられざるは是非なし。立花宗茂はその娘を人に嫁する時嫁入り先で夫の仕方次第いつどんな目に合って死なねばならぬかも知れず、其時は我れは幸ひに武士の家に生れたお蔭で武士らしく死ぬ、是幸ひな事と有難く思ふて死すべしと言はれた。用ひる用ひぬに当局者の勝手として云ふべきことを云つただけが人間に生れた仕合せと思はれよ」と述べた。
之を一雄氏は時に取って誠にうれしく思ひ立派に予の書面を表装させ床の間にかけて眺めてばかりゐたそうだ。七年を経て大正十一年予が上京した旅館で始めて対面し又なにか望まれたので寄附金の集まるをまつ退屈最中居室の前の屋根へ毎日おほきな猫が来て遊ぶを観察し置き、或夜氏の面前で一気呵成に猫がカブトムシを捕へにかかる処を書いて、
才かちて猫にとらるなカブト蟲
これは東京でカブト虫は主としてサイカチの木に棲むのでサイカチ虫といふからだ。此画は其の翌夜平澤哲雄が連れてきた北澤楽天氏も痛くほめられ、或人は五百円予にくれて一覧された。今も末廣は虎の子の如く秘蔵してゐる。
これと反対なは和歌山市の未面識の某氏で予を敬慕の余り何でもよいから額とかにするものをかいて呉れとの事で、三銭郵便一枚封して来た。役場へ車の番号を問合せうすらこれでも返事が来ないだらう、ツマリ人を敬慕するからと言ったらロハで暇をつぶして書なり絵なりかいてくれると思ふは雨宿りした記念に宿札をはいで行くやうな料簡、こんな者が和歌山に多いらしい。兎に角末廣一雄と和中金吉氏の様な履歴と事情で拙い予の書翰迄も表装して珍蔵さるるは予にとつても誠に面目に存するから其の表装された書翰の景品とし今回の献上品の写真表敬文別刊等を和中氏に贈った訳である。こんな物は相撲の横綱と一緒でダンダン多くなると安っぽくなるから此一つで打留めとする。(大正十五年十一月十八日午前十時半)
南方熊楠が語る「白良浜の経営」 大正7年9月19日、小竹岩楠、毛利柴庵、『牟婁新報』
「この辺の人は海亀を見れば殺す」
「卵を産みに来ればその卵までも取り尽くす」
熊楠の「見えるやつや」「伸びるやつ」という、物を「やつ」と話す紀南語が、おもしろい。
□白良浜の経営に就て
◆近頃の植林家は造林と云えばすぐに杉とか檜(ひのき)とかいうが杉檜はドコへ植えても成功するものでない。反(かえ)つて瀬戸あたりは鈍栗(どんぐり)などがよい。鈍栗の実も皮も樹も工業用になって利益の多いものじゃ。俺(わし)の子供時代に和歌山の今の赤十字病院裏手に
◆夕かり樹 を栽えてあったが、大抵はどこでも生長する木だ。殊に此木は生長が至極早いから近年追々石炭が尽きるという場合に薪材(しんざい)として大に有益だ。前年英国の陸軍大佐某氏は亜弗利加(アフリカ)へ盛んに此ユウカリ樹を植え石炭に対抗する策を立てたが之れなど笑う人もあるが決して笑うべきでない。此木は衛生上必要なオゾンを放散するから都市の衛生樹にもなる。瀬戸あたりの並木として栽え込んで先づ禿山に日蔭をこしらえるにもよいし、第一工業用には有益な木だ。種類が千種もあるという事である。爰に絵を画いてある。
◆東嗇(とうしょく) という植物は西比利亜に沢山あるが米の代用になる草じゃ。米高で困って居るが此様な植物も試作して見るがよい。それから
◆黒クルミの木 兵生(ひょうぜい)あたりでは之を伐って薪木(たきぎ)にして居たが勿体ない事で、此黒クルミは家庭装飾用になる木で価いも高い。此実は西洋人の好む物で、日本でも地方によってはクルミの実を食えば髪が黒くなると言い伝えて女などは好んで食べる。俺(わし)が兵生の人に薪木(たきぎ)にするは勿体ないというてやったら大阪に送って八十円とかに売れたとか言って、礼をいうて居た。田辺の小学校で無鉄砲に之を栽えて見たが思いの外によく生長し大きな実を結び葉が常のよりは大層大きい。佐藤成裕という人は其著中陵漫録に会津辺にはクルミの種類六十種もあると書いたが、白井博士は之は嘘だと駁して居る。併しクルミは変化し易い木だから佐藤の説も丸空(うそ)で無く田辺学校の物如き、特態も生じたのだ。又暖地のクルミは学者界では珍態に相違ないから此辺で繁殖すれば学者達の鼻が折れる訳(わ)けだが、それよりも大に工業界を益するのである。
◆貝類 も色々あるが「太刀貝」「烏帽子貝」なども珍だ。此貝の化石も生品と相比接して出るが、其起源を尋ぬれば随分古い年代を経たものであろう。之も会社あたりで保管権を持ち、時を以て採り時を以て保護し、繁殖を計るようにしたいものだ。
◆真珠貝 も大に有望だが真珠貝を成功させるには「アイサ鳥」を保護する必要がある。之等(これら)の鳥が真珠養殖に大功ある事を知らず、海の底ばかり見て真珠が出来ると思うと大間違いである。全体何事でも、物の出来るというには複雑な関係があって、無茶に木を伐ったり米汁を流し込んだり田を拓(ひら)いたりしても其地特殊の産物が消滅して了う事があるから、一小事件と雖も忽諸(ゆるがせ)に見てはならぬ。又学理々々というても、まだまだ今日の学問の程度では、当(あて)にならぬことが多い。例(あか)せば牡丹に瑠璃色の花は咲かぬとしたものだが立派に瑠璃色の花を咲かせた事もあるのだ。
◆湯崎温泉の 改良發達をやるつもりならば、先づ第一にあの辺の禿山に地味相当の栗流(くりりゅう)の木を栽え、道路なども夫々生長し易い前陳(ぜんちん)如き木を栽え日蔭をこしらえてから第二期の事業に着手すべきである。ケエリーなども小笠原で出来る位だから良いかも知れぬ。何事も一度や二度の失敗で失望してはあかン。布哇(ハワイ)、米国、伯拉爾(ブラジル)たりへ往て来た、経験のある人にやらせて見るがよい。和歌山の小浦に
◆三浦男爵の別荘 があったが満潮の時は庭園内に汐が差込んで来る。時刻をはかって出口の樋を閉じ中で魚を釣ったり小舟を浮かべたりして遊んだものだが綱不知辺でも「海亀」や「あざらし」如きを飼養し、之に藝を仕込み旅館の庭園内に入江を設けるなども面白かろう。
◆海亀 之はタートルというが赤色のは左ほどでもないが青いのは公式の祝宴に必要な品で、貴重品である。此辺の人は亀を見れば殺す。卵を産みに来れば其卵迄も採り尽す。之れでは其種族が滅亡するより外は無い。経済上から見ても甚だ不利益だ。志賀重昴氏は「日本人は到る処ろ生物を殺すばかりで殖(ふや)す事をしない」と嘆息して居るが、予も至極同感だ。
それから「豌豆蟹(えんどうかに)のフライの話」曲亭馬琴が瑣吉と称した話」「やどかり」の話などあり、話上手の先生の話、滾滾(こんこん)としていつ果つべしとも思われざりしが長居をしては研究の御妨げならんと存じ、辞して帰る時、あの有名な「松葉蘭」の培養ぶりを見せて貰って門を出た。(此項終り) 柴庵記
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