2018年4月16日月曜日
久保てい天以 書信 昭和46年11月
拝畧御免下さいませ 卓哉君此の度王(わ) とても愛情の籠つた御見舞状頂きまして 厚く御禮申上ます
卓哉君の様々▲の如者(は) 尊敬されて王(わ)御返事の出(だし)様も御ざいません
早速に返事差出筈の處 私の宝わ三人で 先からの人わ 四十の一日も居る人と 卅の一日も居る人で 心安い友人 多く入り変り立ち変り 人の出入り多くて よく賑(にぎ)わうため 手紙書く間が奈(な)くて 困りました
此の病院へ来たお蔭で 見尓(に)くい顔が 見安く奈りました もうはれて王(わ)来ません
十月廿九日に 全快して帰りました
御返事の延引の事 御許下さい
帰った日に家の中ですべって 箱の角で横腹お打ち 又熱出して もうよくなりました
お父上甚一郞の御蔭で立ぱ奈新築立(たて)て貰ふて 身分に過ぎた家で 十二分の扱(あつかい)おして貰ふて 丸切(まるっきり)天国へ上(のぼ)つた様奈気分で住んで居ります
申(もうし)おくれましたが 先日王(わ)正明の事で大變御苦労掛けました
遠い/\所へ行(いつ)て お金お使ふて 険▲しい所迠で行て 細(くわ)しく調(しらべ)て下さった事 厚く感謝致します
阿連王(あれわ)だめでした 又次に見付(つけ)て居ますから 出来たら知(しら)せます
次に卓哉君帰ったら 先(まず)私の家へ来て 宿(とま)つて下さい 楽しく待って居ります
先(まず)ハ延引乍(ながら)御返事まて かしこ
十一月十三日 祖母
卓哉君
2018年4月6日金曜日
紀伊民報 「鄕組一札」を出版 紀州藩固有 あおい書店 2018.3.31
紀伊民報の記事 |
元禄12(1699)年に出され、幕末まで160年余りにわたって続いた農山漁村支配のための紀州藩固有の法規「鄕組一札ごうぐみいっさつ」の原文コピーと、これを翻字・解説した「紀州藩鄕組一札 雛形と解説」(A5版68頁)がこのほど、田辺市湊の「あおい書店」から出版された。市文化財秦羲委員の田所顕平氏は序文で「鄕組一札は大庄屋にとって権威の象徴であった」と述べている。
同書店の多屋朋三氏が昨年十一月、ネットオークションに出ているのを見つけ、落札した。「本の冒頭に「父母耳孝行尓法度・・・」という紀州藩主徳川頼宣の教えを記した「父母状」の言葉があり、紀州藩のものと直感した」という。
出版された「紀州藩郷組一札 雛形と解説」は熊野歴史懇話会(橋本観吉代表)が企画し、田所氏、福山大学名誉教授の久保卓哉氏、田辺市教育委員会の堀純一郎氏の協力を得て作成した。翻字と解説は久保氏が担当した。
それによると「郷組一札」の「郷」は、数カ村かそれ以上の数の村を含んだ広域。「組」は地縁的に結びついて相互扶助をする近隣の単位。「一札」は一通の文書のことで、江戸時代、藩からの通達を大庄屋が各村の庄屋を通じて郷組の農民らの隅々に至るまで教え知らしめた一通の書状ということになるという。
年貢は五人組や郷組ぐるみで完納すること▽農業に精を出すこと▽キリシタン禁制のこと▽徒党を組むことは禁制であること▽浪人・犯罪者の抱え置きは禁止であること、などのほか、他国や他領への出稼ぎや出入り、家屋・田畑の買売についてなど農山漁村支配のための諸事項が細かく記されている。
田所氏は「郷組一札が出された頃、紀州藩は大規模な用水工事に着手し、検地も実施。生産を上げ、貢租の増収を確保するためで、郷組一札冒頭の年貢完納と耕作推奨もこのことと大きく絡んでいる」などと指摘。「藩は、大庄屋の権限を拡大・強化し、大庄屋を郡奉行や代官に代わって第一線に立たせることで農村支配の強化を図ろうとした」と説明している。
解説では、「紀州田辺万代記」から田辺領郷組などを紹介。大庄屋の仕事ぶりや「父母状」の由来などについても詳述している。
定価600円(税込み)。70部作り、20部は協力者と図書館に配布した。残り50部を同書店で販売している。 (沖本記者)
紀州藩 鄕組一札 「解説」 2018.1.31
解説
久保卓哉
はじめに
まずは、あおい書店多屋朋三氏のことを書かねばならない。この一年の間だけでもわたしは随分とお世話になった。紀州の田辺、熊野、鉛山(白浜)にゆかりのある史料を相当数紹介され奇品に面する眼福を得たからだ。
平成二十八年八月には毛利柴庵による『牟婁新報號外』185枚を、平成二十九年一月には鳥山啓、伊達千廣、熊代繁里の和歌の短冊、二月には小山家文書17通、三月には「紀州西牟婁郡瀬戸鉛山温泉圖」の版木と、その景観図を描いた絵師藤田苔巖が目良碧斎に贈呈した「耶馬溪之圖」1枚、四月には津田香巌の漢詩軸、六月には南方熊楠筆の川柳「奈さけとは末つむ花乃しつ久哉」と、高僧眞淨元苗の書を、八月には仁井田好古の漢詩軸、十月には半山國重正文の扁額、十一月には毛利柴庵の「紀伊毎日新聞」写真部による「關東大震災繪葉書」と、古文書「鄕組一札」、平成三十年一月には佐藤春夫の色紙「山の畑にけふも来て」と、伊達千廣の墨跡「観心能因尓詠る歌」をというふうにである。
本書『鄕組一札』もこのようにして面し得た結果、出版の運びとなった。
鄕組一札
鄕組一札の郷とは数カ村ないしはそれ以上の村を含んだ広域を意味し、組とは地縁的に結びついて相互扶助を行う近隣の単位を意味する。一札とは一通の文書ということで、江戸時代に藩からの通達を鄕組の百姓に至るまで教え知らしめた一通の書状ということになる。
田辺領の鄕組
田辺には古文書として残る厖大な古記録を読みこんで活字に直した翻刻資料『紀州田辺万代記』『紀州田辺町大帳』『紀州田辺御用留』(清文堂出版)があり、その『紀州田辺万代記』(以下「田辺万代記」と記す)に翻刻された古文書を見ると田辺での鄕組の範囲が分かる。
田辺領鄕組
切目一組
西之地村 宮ノ前村 古屋村 羽六村 古井村 下津川村 見影村 脇ノ谷村
八ケ村
南部一組
堺村 埴田村 芝村 南道村 気佐藤村 徳蔵村 熊岡村 山内村 山田村 平野村
北道村 山内村之枝鄕夙浦 吉田村 筋村 谷口村 東岩代村 西本庄村 東本庄村
西岩代村
拾九ケ村
芳養一組
下村 芋村 中村 境村 林村 田尻村 西野々村 平野村 小野村 日向村 西山村
東山村
拾貳ケ村
田辺一組
西之谷村 糸田村 伊作田村 湊村 敷村 神子浜村 新庄村 江川浦
八ケ村
富田一組
保呂村 内川村 庄川村 平村 十九淵村 芝村 高瀬村 朝来帰村 中村 吉田村
高井村 溝端村 才野村 堅田村
拾四ケ村
(田辺万代記十 正徳五年1715 99頁)
右の通りだが、これよりさかのぼること63年の古文書には、
指上申鄕組之事(指し上げ申す鄕組の事)
田辺町
江川浦
敷浦
瀬戸村
鉛山
西谷村 下秋津村 上秋津村 秋津川村 下万呂村 中万呂村 上万呂村 下三栖村
中三栖村 長瀬村 馬我野村 伏兎野村 上三栖村
(田辺万代記三 承応元年1652 115頁)
とある。年代により鄕組の地名に異同と多寡があるが、これは急事に狼煙(のろし)を上げる時であるか、異国船着岸の時であるか等により文書の目的が異なっているためであり、田辺での鄕組の範囲を示した史料と見てよい。
大庄屋
和歌山大学名誉教授平山行三著『紀州藩農村法の研究』(吉川弘文館)には、
「郷組一札」とは郷組を統轄する大庄屋が、農村支配の諸事項について百姓に申し聞かせ遵守せしめる旨を記して藩に差出す一札である。(24頁)
とある。つまり大庄屋が下じもの百姓が守るべき条文を明記し、抜かりなく周知せしめるための書状が鄕組一札であり、大庄屋の責任と役割は大きく、平山行三氏は「鄕組一札は大庄屋の権威の象徴であった」(196頁)という。
田辺の大庄屋を代々世襲したのは田所家で、本書の「序文」の著者田所顕平氏は『田邊町誌』(舊家名家人物誌、田所氏)によれば、熊野別當の族、八郎左衛門尉・田所顯家より数えて26代目にあたる。まさに本書が立ち帰るべきもとになるお方である。
「田辺万代記」は、田所家に伝わる古文書の記録105冊を称したものでまた「田所万代記」とも称される。室町時代の文明三年1471から江戸時代末期の天保十年1839までが記録されており、これを読めば田辺の大庄屋田所氏がなしてきたことが分かる。
いくつか具体的な例を上げておく。
【御領主から代官役を拝命 田所弥三左衛門】
「御領主より田所弥三左衛門、御前へ御呼び出し遊ばされ、家柄御尋ね、諸士並び(家臣)に御取り扱いなさるべき由、仰せ聞かせられ、御代官役相い勤め、御領分、御用、仰せ付けられ候」(慶長十二年1607 田辺万代記一20頁)
【町々の飢弱人に御救麦を願い出、男一合、女五勺づつ配給】
「町々弱人の飢扶持(うえぶち)願書たてまつる。四月十日迄取り続けさせたしと、片町、紺屋町、北新町、南新町、〆六十四人。
受取り申す大麦の事
大麦合わせて一石一斗五升五合。右は町江川、男六十人、一日一人一合づつ。女九十人、一日一人五勺づつ。三月二十九日より四月十日迄、日数十一日分、御借り下され受取り申し候。大年寄 田所弥三左衛門。 鈴木忠右衛門殿」(元文六年1716 田辺万代記十九 568頁)
【急事の際に鄕組間で伝達する手順の詳細】
「組ゝの内、急事これ有る節、その組の大庄屋居合わせざる時は、他組里方大庄屋へ申し遣わすべし。組合は左の通り。 一、切目組より申し遣わすべき他組これ無き候間、南部組へ申し合わせ置くべき事。一、南部組、はや組、田辺組よりは、秋津組、三栖組へ申し合わすべき事。一、富田組よりは、朝来組へ申し遣わすべき事。 右の通りにて指合(さしあい。故障)の義これ有るまじきかな。吟味の上あい達せらるべき事。五月」(正徳五年1715 田辺万代記十 100頁)
【葬礼仏事は鳴り物を慎み 幕を張るまじく候】
「近年、葬礼仏事等、軽く仰せ付けられし事。それに就きて、田辺にて葬礼仏事の義、重き様にお耳に達し候。自今以後は葬礼の節、町の内は鳴り物慎み申すべく候。女、葬礼の供、町中は仕るまじく候由、慎みこれ無き者葬場へ出申すまじ。葬場にて、四方幕、二方幕張り申すまじく候。右の品に応じて、仏事等軽く執り行い申すべき事。
三月十四日仰せ出ださる」 (貞享三年1686 田辺万代記六 270頁)
【お尋ね者の人相書きにて捜索するも見つからず】
「この度お尋ね遊ばされ候、海士郡田尻村権兵衛の人相お書付をもって、庄屋、肝煎に指し遣わし、組下家々残らず人別吟味仕り、ならびに神社山林海川池等に至る迄、詮議仕り候へども、似寄り候者、又は姿をかえ疑わしき者、見及び申さず候。勿論、行き倒れ者も御座無く候。これ已後もしもお書付の者見出し候はば留め置き、早速お断り申し上ぐべき条、村々残らずきっと申し付け候。以上。丑六月。田辺組大庄屋、岩本弥三左衛門。 石川甚内殿」 (享保六年1721 田辺万代記十三 308頁)
【新庄の鳥ノ巣の高札 墨薄くなり垣まわりも朽ち申し候】
「新庄村の内、鳥巣のご高札ご添札、墨薄くなり申し候。垣廻りも朽ち申し候。右の通り、庄屋申し出候に付き、お断り申し上げ候。以上。申九月。田所弥三左衛門。 加藤伴右衛門殿」 (元文五年1740 田辺万代記十八 557頁)
大庄屋が権限をもって支配する範囲はまことに広く、しかも負う責任は重い。右のように高札の墨が薄くなっています、高札を囲う垣根が腐ってくずれていますと上申する些細なものから、飢えた貧者のために食糧配分を要請する福祉施策も大庄屋の役割であった。他にも津波の被害状況を調査せしめて藩に報告し、異国船出没、不審者上陸を発見した場合は即時報告を徹底せしめ、喧嘩のあげく斬り殺された武士の名と斬り殺した武士の名、及びその者が与力衆七人の検分のもと勝徳寺(今福町)で切腹した旨報告する事も大庄屋の役割であった。
父母状 徳川頼宣遺訓
龍祖遺訓父母状 紀州藩儒・李梅溪 書 |
右は紀州藩祖徳川頼宣(諡号、南龍院)の教えを藩儒李梅溪が書いた墨跡で、『龍祖遺訓 父母状』(南葵文庫 明治35年刊、国立国会図書館デジタルコレクション)の口絵写真による。「子正月日」は万治三年1660正月の日に梅溪が書いたことを示す。本書『鄕組一札』の冒頭に「御教訓」とあるのがこの頼宣の遺訓で、万治三年より明治維新当初に至るまでおよそ210年の間、領内下層民を広く徳化してきた証拠となる一つである。
父母状の由来
『龍祖遺訓 父母状』の著者足立四郎吉(栗園)は父母状の由来を次のように書く。
万治元年、紀伊国熊野山中に父を殺せる者あり。吏捕らえてこれを糾明せるに、その者答えて曰く「我が親をわれが殺すに何の不可かあらん。我が父生来放縦無頼、一家を苦しむること甚だし。われこれを以て殺せるのみ。決して我が過ちにあらざるなり」と。恬として恥ずる色なくまた忌み憚る所なし。
吏驚きあきれこれを曳いて司直の手に委す。司直重ねて親の尊重すべきを説きその罪に服せしめんとす。その者の答うる所前と異なることなし。いささか羞じたる気色なくかえって自己が咎を受くるゆえんを怪しむ風情あり。
奉行頭人その趣きを見、当惑して言の出る所を知らず。ついにこれを国主に聞こす。国主は即ち徳川頼宣卿その人なり。時たまたま孟夏に際す。頼宣卿扇を手にして風を送り、涼ををいれつつその訟を聴かれしが、訟半ばならずして、驚愕色を改め、扇を額にあて、俯首して答えらるるなし。
やや久しくして涙をおおうて曰く「辺陬の土民礼を解せざること、もともと聞知せざるにあらず。しかもかく人倫の大義を没却して自からその罪悪を知らざるごとき、今初めて耳にする所なり。しかしてこの事我が治下において生ぜんとは。熊野山中人跡稀なりというも、我が城下を距たることさまで遠きにあらず。禽獸なお犯さざる大罪を犯し、自からその非を悟らざる智愚者をこの間に見る。畢竟我が教化のあまねからざる故にして、今さら予の不徳を恥ずる所なり。ああまた誰をか咎めん」と。
嗟嘆久しうして曰く「かかる愚昧者を拉し、ただちにこれを刑に処するも、治教上何の効あることなし。しかず、これに人倫の大道を説き聴かせ、自からその罪を覚らしめて、潔く刑につかしめんには」と。即日藩儒李梅溪を召しこれに命じて、日々獄舎につきかの囚人に接して孝経を説かしむ。
梅溪命を奉じ仰せのごとくすること而後累年、囚人さらに感ずる色なし。後三年の春に至り、囚人夢より覚めたることく、一日梅溪を見て容を改め、叩頭涙を流して曰く「思わざりき、人倫上孝道のいよいよかく重大の務めなることを。吾蠢愚にして自から解せず。手づから高恩の父を殺して恥ずる所なからんとは。且つ国主のこれが為に憂慮したまえることいくばくぞや。恐懼なす所を知らず。請う愚が罪を正してこれを天下に示せ。天は一日も吾が存生を許さざるべし」と。嗚咽大息して戦慄止むなし。
梅溪その状を見て大に悦び、積年の教化奏功の空しからざるを祝し、即刻このよしを具して頼宣卿に聞こしめす。
頼宣卿聴いて面を和らげ、すなわち曰く「かの凶児にしてその罪を解す。まことに予の満足に思う所なり。されど国刑なくんば一日も立つべからず。国法もまたいかんともすべきなし」と。
ついにかの囚人を曳き出し、これを国法に照らして首切る。時に頼宣卿大に感ずる所あるがごとく、我が領内において、またかかる不孝児を出でしむべからずと、即座に筆を執り、一條の訓諭を草せらる。(時に頼宣卿五十九歳)
かくてこれを領内なる紀伊、伊勢両国に下し、山々浦々まで壁書として一般を戒飭し、また有司をしてこの教訓によりて下民を諭さしむ。
頼宣は囚人に非を覚らしめた梅溪を賞し、ただちに教訓を草し、梅溪に命じて浄書せしめたのが前掲の墨跡である。
郡市町史に録された鄕組一札
鄕組一札に言及した郡市町史はいくつかある。県下の史誌のうち『東牟婁郡誌』『日高郡誌』『粉河町史』『大塔村史』『古座の古文書』を見ただけなのだが、各史誌が記録する「鄕組一札」にはそれぞれの土地の特徴がある。例えば大塔村では山林管理の条文、火事発生時に行動すべき条文、東牟婁郡では独身の百姓に対する条文、山焼きの際の注意の条文、粉河町では池の漏水・普請は小破のうちにせよ、池の水引きは我意を張らないこと、古座組では博痴・博奕、人寄せ一軒屋の禁止、婿取り嫁取り出合いの際の不相応な華美の禁止、疱瘡・病人を山野へ捨てず家にて養生せよ等がある。とりわけ古座組の一札は条文の数が45カ条にも及び、東牟婁郡誌の12カ条、大塔村の23カ条、日高郡の30カ条、粉河町の38カ条に比べると圧倒的に多い。それだけ古座の郷組は、農業、漁業、林業、商業において他郷よりも経済が栄え、人の出入りが多く、問題も多かったということであろうと読み取れる。また『古座の古文書』(古座古文書研究会発行、2002年)は文献資料としても出色の書籍で、古文書が影印されているゆえ一語々々の翻字を対照することができる。
本書『鄕組一札』の翻字
本書の全文を翻字しふりがなをつけたのは筆者だが翻字する上で迷った文字がある。
それは「品」という文字で、本書では最終第30条の中に4箇所ある。「村役人ども其品をも申し聞かせる事ニ」「自今右段々の品を越え出訴致し候はば」「畢竟徒黨の品に候」
「願いの品曽て相立ち申さざる筈」がそれである。なぜに迷ったかといえば「品」が品物、賄賂の品などの物体では文意が全く通らないからである。古文書のくずし字を読む上で拠り所となる辞書を引いてみると、くずし字の「品」と似た字に「衆」がある。4箇所の「品」を「衆」に置き換えると「其衆をも申し聞かせる事ニ」「自今右段々の衆を越え」「畢竟徒黨の衆に候」「願いの衆」となり、文意が通る。
これを『田辺万代記』で検証すると、「品」と翻字された例のうち、「人数の儀は其品によるべきこと」「右の品も」「宗門改めの品」等の「品」は「衆」に置き換えるとやはり文意が通じる。だが『田辺万代記』はすべて活字に翻刻されているために、筆で書かれたくずし字の字形を見て判断することができない。しかも田辺の先学者に誤読があるとは思えない。
次に本書で「年寄衆」「御侍衆」と書かれた「衆」のくずし字と、4箇所で「品」を「衆」に置き替えたくずし字とを見比べると、字形は似ていない。本書の原版を墨書した書き手は「品」字と「衆」字とを混同していない。4箇所とも「品」の字形である。
はてな、どう考えればいいのだろう。
その答えを得た裏話をはずかしながらここで明かせば、『日本国語大辞典』を引いたことによる。「品」を品物(しなもの)の「しな」と短絡的に考えた結果生じた疑問だったが、『日本国語大辞典』の「しな 品」を引くと
⑤物事の事情や理由 ㋑そうなった事情や立場 ※浮世草子「あたまから御かへりの後は、としてかくしてと、其品(シナ)をかかるべし」
⑥方法。しかた。やりかた ※中華若木詩抄「罪科に依て、成敗のしなあり」
とある。この「事情」や「やりかた 方法」を「品」に当てはめて解釈すれば意味が通じることが分かった。4箇所の「品」は、「村役人ども其品(事情)をも申し聞かせる事ニ」「自今右段々の品(やりかた)を越え出訴致し候はば」「畢竟徒黨の品(やりかた)に候」「願いの品(方法)曽て相立ち申さざる筈」と解釈すれば意味が通じる。
おわりに
おわりにもあおい書店多屋朋三氏のことを書かねばならない。「鄕組一札」を入手したと連絡を受けたのは平成29年11月であった。これは紀州に関わりの深い古文書で地元に紹介したい文献だという。なぜこれが紀州に関わる文献だと分かったのですかと訊ねると、冒頭に「父母に孝行に法度を守り・・・」のことばがある、これは藩主頼宣のことばだからだ、紀州の大庄屋が「鄕組一札」を配布するときに手本としたのがこの版本だ、とのことであった。しかもすでに参考となる資料『紀宝町誌』『日高郡誌』『紀州藩農村法の研究』の「鄕組一札」に関する部分と、『田辺町誌』田所氏の系譜に関する部分のコピーは準備済みであった。
かくして私は本書と関わることになった。そのおかげにより紀州藩の施策、体制、鄕組、大庄屋、田所家について学ぶことができ、田辺万代記、田辺町大帳という巨冊の頁をめくることができた。
本書の価値がいささかなりとも伝わることを願う。
平成三十年一月三十一日 記す
紀州藩 鄕組一札 2018.1.31
鄕 組 一 札
御 教 訓
父母耳孝行尓法度を守り謙里奢ら須して面々乃家職を勤免正直越本とす累事誰毛存堂る事なれとも弥能相心得候様常尓無油斷下江教可申聞者也
被仰付候鄕組仕上る一札之事
一 壹ケ村ニ徒百姓御座候而御年貢不相立走り候ハゝ殘百姓中として御藏御給所共御免定之通急度皆濟可仕候
若御年貢遅々仕候ハゝ鄕組として皆濟可仕候
尤走り百姓之儀者鄕組として尋出可申候
并御年貢皆濟無之以前借銀借米取遣仕間敷御事
一 獨身之百姓相煩所縁もなく耕作成兼候時五人組之
儀者不及申上其一村として相互ニ田畑仕付御年貢無滞納所可仕候
一 前々ゟ被仰付候通所之者ニ而御座候共田畑をも不作奉公も不致商内抔も不仕徒ニ有之者御座候ハゝ急度可申上候
縱田地作り申百姓之内ニ而茂徒者と及見候ハゝ是又可申上候
右之通若徒者と乍存隠シ置脇ゟ訴人御座候ハゝ庄屋肝煎曲事ニ可被仰付候
一 男女共他國他領江奉公日雇縁付ニ至迠壹人も越シ申間敷候
若他國江越シ候ハゝ其諸親類者不及申上其鄕之庄屋肝煎曲事ニ可被仰付
附り比丘尼山伏之弟子ニ向後壹人も遣申間敷事
一 諸職人他國他領江稼ニ參度と申候ハゝ大庄屋江相斷指圖次第ニ請人を立壹年歸ニ可仕事
一 行衛不知牢人抱置不申候
縱其所之者之親類縁者ニ而も久敷他國ニ罷在候を歸參爲致百姓ニ仕付申度と存候ハゝ大庄屋江相斷指圖を受歸參仕候様ニ可致候
尤切支丹誓紙并日本起請文を書世御指圖次第可仕候
一 度々御法度之旨被仰付候切支丹宗門於有之者早速
注進可申上候
隠置脇ゟ訴人御座候ハゝ其鄕之庄屋肝煎曲事ニ可被仰付事
一 手負走り者縱親類縁者ニ而御座候共隠置申間敷候
自然他國ゟ走り者追懸參御國之内附届も無之搦捕候ハゝ其者押へ置御注進可申上候
并在々ゟ他國江逃走り候者御座候時者其在所聞へ出シ候ハゝ申上御指圖を受其上ニ而呼取可申
自然急成事ニ而相斷時刻無之追懸參他國ニ而見候ハゝ其所之庄屋肝煎ニ相斷召連可參候
若遅々仕候ハゝ其所之庄屋ニ預ケ置罷歸子細可申上候
一 先年ゟ被仰付候通他國越歩行道馬道走り者何歟之爲尓其手寄之在所村分ケ之通大庄屋之指圖を受早速出合可申事
一 百姓出入仕候時一村之出入者其村懸りニ可仕
候
其外者出入之當人ゟ出さ世可申御事
一 從先年御定之通他国へ人賣買不仕候
并男女奉公人年季是又御定之通十年を限り相守申候御事
一 何事ニよら須徒黨を結ひ起請文を書神水を呑一味同心仕間敷候
一 百姓奉公人之眞似仕間敷候
衣類之儀大庄屋者絹紬女房共同前小百姓者布毛綿女房共同前相守り申候
百姓家造其分際ニ不應儀不仕候
附り他所江家賣申間敷候
賣候ハ而不叶儀候ハゝ大庄屋へ相斷指圖次第ニ可仕事
一 田畑賣買之儀双方ゟ大庄屋江相斷其上指圖次第ニ可仕候
質物ニ書入候田畑之儀も右同前可仕御事
一 在々自然火事出來之時者御定之通早速火消道具火元江持參仕消シ可申候
尤若衆ニ付可申御事
一 往還之者遅滞不仕様ニ一夜之宿借シ可申候
惣而一日者不及申ニ少々内ニ休ミ候共不審成者与及見候ハゝ先キゝ江附送り注進可仕候
一夜之宿借候共又隣之家ニ移り近邊を不離廻り候者御座候ハゝ是又早速可申上候
一 鷹御遣候衆御座候ハゝ御手判改早速可申上候并餌指衆御札改申候
一 御法度之所ニ而鉄砲打申間敷候
附り御留淵ニ而殺生仕間敷候
若右之場所ニ而諸殺生被仕候衆御座候ハゝ見合次第御名承り可申上御事
一 山林竹木從先年御定之通伐取申間敷候
尤竹ノ子一切抜申間敷候
山野ニ而かくひ堀申間敷候
并墅山むさと燒申間敷候
燒候ハ而者不叶所者其村之庄屋肝煎相談之上大庄屋へ相斷燒可申候
附り山燒候節若山林抔ニ火付候ハゝ其鄕組として駈付早速消可申御事
一 從先年御定之通杉檜栢槻楠松此六木御留山者不及申上何レ之山ニ而茂伐取申間敷候
一 萬賭勝負不仕候
若隱置脇ゟ訴人御座候ハゝ鄕組之庄屋肝煎曲事ニ可被仰付御事
一 鄕中諸役懸り物少々入用等迄割符仕候節者小百姓入作迄立合致吟味其上ニ而相究壹年切ニ致割符不殘判仕候御事
一 惣而百姓男女共一切乘物ニ乘り申間敷候
附り荷鞍ニ結構成蒲團毛氈懸ケ乘り申間敷御事
一 往來之輩何ニ而も落候物拾ひ申候ハゝ早々其主を
尋追付返シ可申候
若程を經追付申事成り不申時者早速大庄屋へ相斷可申御事
一 百姓若山江參候時町者つれゟ下馬可仕候
其外道中ニ而御侍衆ニ行逢申候ハゝ下馬致道をも除ケ通可申御事
一 沖合ニ而不審成船相見へ申候ハゝ時刻不移注進可仕候
附り篇々之船懸り仕罷在候ハゝ子細を尋大庄屋江達シ可申御事
一 他國他所之船難風ニ逢候時者見附次第助ケ船を出シ船破損不仕様ニ精を出し可申候
若船致破損荷物海中江捨て候ハゝ悉ク取上ケ船頭水主ニ相渡可申候
猥ニ荷物散さ世申間敷候
荷物之内隠置訴人罷出候ハゝ曲事可被仰付
一 諸廻船入船之節水主宗門改之儀從先年仕來り申候今以無懈怠相改申候御事
一 新田畑荒起畑返り隠置申間敷御事
右ヶ條之通直ニ被仰渡候
彌大庄屋も被申渡候
惣而正保二年ゟ以來之御定書小百姓ニ至迠申聞世相守り申候御事
一 近年者在々百姓之心入悪敷成御年寄衆御宅抔江猥ニ越訴ニ罷出候
第一上越不恐致方支配方之申付をも輕シ免堂累不届千万ニ候
尤其度々御咎も有之候得共相止ミ不申候
惣而願書訴出之儀者村役人ゟ大庄屋へ相達御代官
吟味之上奉行所江茂相達夫々申付候御事ニ候
夫ニ付願之趣難相立筋者村役人共其品をも申聞る事ニ候得者不相濟儀を猥ニ致越訴御咎ニ逢候儀不了簡至極之事ニ候
尤古來御定ニも百姓出入之儀御代官理非を分ケ可申付候得共若其身合点ニ不乘儀ニ候ハゝ奉行所迠書付を以可申出事
御代官郡奉行并下代大庄屋小庄屋ニ對而百姓申分於有之者早速奉行所迠目安を以可申事ニ候と正保之御定書ニ有之候得者右之類之儀ニ付申出候儀者勿論惣而願筋庄屋大庄屋江相達取次不申候ハゝ御代官所江可願出
御代官所ニ而も取上無之候ハゝ奉行所江可訴出事ニ候
自今右段々之品を越致出訴候ハゝ縱道理有之儀ニ而も願相立不申筈
尤奉行所御代官宅江願出候共人數三四人よ里上エ罷出候儀堅無用可致候
若村數多一同之願ニ候ハゝ村々頭百姓又者村中惣代之印形取揃右村々之内よ里鬮取ニ致三四人可罷出候
大勢相催罷出候儀者畢竟徒黨之品ニ候故徒黨之儀者重キ御法度之旨公儀御條目ニ茂出有之儀ニ候得者右躰御條目ニ背キ候上者願之品曽而相立不申筈御吟味之上頭取躰之者者急度御仕置可申付候
右等之趣大庄屋村役人共常々入念末々迠可申聞候
若此已後心得違御年寄衆御宅江致出訴候者有之候ハゝ縱村役人不存候共可爲越度候
但奉行所江願書指出候ハゝ願主者勿論願書筆者之名をも書付印形爲致出シ可申候
若願主名前印形も無之筆者も不相知願書役人宅ニ捨置候類者不及吟味令火中候筈
右之通常々能相守り末々迠入念申聞世公事出入無之様可仕者也
右之通被仰渡承知仕候
此旨末々迠申聞世相守り申候
以
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