2015年7月25日土曜日

南方熊楠が語る「白良浜の経営」 大正7年9月17日、小竹岩楠、毛利柴庵、『牟婁新報』

白浜を温泉地として開発しようとした時、その実行者・小竹(しのう)岩楠は、やみくもに土地を開発したり、美しい海岸を埋立てたりしたのではなかった。
 自然破壊という深刻な問題が発生することを見透していた小竹岩楠は、南方熊楠を訪ねて、白浜の自然にはどういう特徴があるか、自然を守るためには何が必要か、開発に伴う道路建設の街路樹はどういう種類の樹木が適しているか、を聞いた。
 その仲立ちをしたのは、田辺・『牟婁新報』の社主毛利柴庵(さいあん)であった。時に、大正7年9月15日のこと。
 南方熊楠が語る「白良浜の経営」(白浜をいかに工夫して開発するか、という意味)を聞いた小竹岩楠は、この後間もなく、実際に白浜の用地を買収し、温泉の泉源を掘り出し、道路をつけて行く。
 現在の白浜温泉の始まりには、南方熊楠の助言がかかわっていることが分かる。
 小竹岩楠は、南方熊楠という大学者の助言を得たとのお墨付きが、事業の推進に必要だったのだと思われる。
 干潟や湿地が残り、美しい海岸が手つかずのままの白浜は、この日を最後に姿を少しずつ変えていくことになるのだが、その自然美を認識していた小竹岩楠の内的葛藤も見て取ることができる。
 
 田辺市立図書館にある『牟婁新報』の合冊版をもとにして、毛利柴庵が執筆した記事を、以下に翻字しておく。


 白良浜の経営について 南方先生百話 牟婁新報 大正7年9月17、19日

十五日の午後二時日高水電の小竹専務と同道して南方氏を訪問す。小竹氏白良浜土地会社の計画を語り「風致史蹟及其他の珍動植物損傷せずして目的を達したきに就き先生の教えを乞う」というに対し、先生語る所諄諄懇切を極む。左記は其大要にして文責は予に在り。敢て本欄に収む(柴庵)

◆白良浜方面にも語るべき事はあるが綱不知には珍品が多い。海が浅くて底迄見え透いて居るので濫獲の恐れがある。年々大阪の医学校の生徒が多数に来て取捲るから之も程無く絶滅するであろう。第一の珍物は
◆△蟹だ うまくは無いが体が大きいから珍しい。近年は段々少くなるようだが獲るにしても繁殖を保護するようにしたいものだ。其他にも『海の二十日鼠』それ此図に見えるやつや其他いろいろあるが一々話すと片っ端から獲尽すから浮々話は出来ぬ。(此時小竹氏白良浜の図面を広げる)
白良浜にも湯 の出る所は幾箇所もあろうが之も永久的に出るのか暫時的か明白でない。尤も海中を調べたら大に出る所があるかも知れぬ。旧物保存などいうでも時勢の変遷で別府温泉の如く大改革で旧態を留めぬもある。又横浜の如きもそうで浦島の塚などドコへ往つたか分らぬ程の大改革で以前の小漁村が大都市に変った。白良浜付近も今後は大に変わるであろう。先づ綱不知からズッと馬車道でも附ける計画なら道の両側に、生長し易い樹木を栽えるもよかろ。大阪城では紅葉に似たスズカケの木を栽えるそうだが之も生長し易い。橡(とち)などもよい。田辺あたりは梧桐(あおぎり)を栽えるのもよかろ。此時呉其濬(ごきえい)の『植物名実図考』を示し、この「無漏子」とあるのが
デートだが 之は棕梠(しゅろ)見たようで、実は食える。マホメットの生れた亜拉比亜(アラビア)辺では盛んに此デートを食うのだ。此通り行儀のよい樹だから境界樹などには至極よい。来月あたり来訪さるる筈の米国のスイングル氏は此の植物研究の為めにアルゼリアへ三度も往つた人だから、会って話を聞くがよい。能く伸びるやつで高さ四五間にもなる、日蔭を作るにはよい植物だ。先づ日蔭を作りそれから地味気候に適したものを栽えて行くがよかろ。先達て東京の商業会議所から、この
金草(うこんそう) の事を尋ねに来たが、之は染料になる植物で観賞用にもなるとて『本草図賦第七』を示めさる。始めはカシュミルにしかなかったものだが、享保年中に漢種が日本に渡ったとある。秋になると此図のような花が咲くのだ。之れなど栽えて染料を採るもよかろ。始めて植えて失敗しても落胆するには及ばぬ。度々やるので遂には成功するのだ。木犀(もくせい)なども実は成らぬものとしたのだが田辺では地味に適すると見え、連年生(な)るのを脇村夫人於高(おたか)の方(かた)喜多幅亡夫人於新(おしん)の方より戴き、前年スイングル氏に贈った。其木犀と同科に属するオリフなども七年もせねば実はならぬと云うたものだが田辺では年々成る。此樹などもドシドシ栽えて見るがよい。「綱不知辺」の禿山(はげやま)あたりに植えるにはこんなのもよかろ。日本人は此油を好かぬようだが西洋人向きには至極よいのだ。先年日露戦争当時尾張の知多郡の人がオリフ油で鰯(いわし)の缶詰をこしらえたがそれが十二疋入りで九十錢にも売れた。西洋には鰯は段々少くなるが田辺には多いのだから西洋人向きのオリフで好物の鰯の缶詰をこしらえるも妙である。之に鬱金草の香料を加味するなども面白い。香水を採るにはここに
素馨(そけい) というのがある。之も奇態な花が咲く。一本や二本でなく沢山栽える。一反二反も作ると遠方からでも其香気が鼻を撲(う)つ。広東に在る素馨という美人の墓に此花が咲き出(い)でたので花の名にしたのだという。まあ之等(これら)は追々のだが此辺の禿山を茂らせるのには杉や松よりも
鈍栗 がよかろ。此木は工業材料になる樹だ。焼石だらけの山にでも此木なら生長する。此木の利用法を知れば、使い道は沢山あるのじゃ(つづく)

2015年6月22日月曜日

林芙美子遺品中の周作人書簡 木山英雄


 木山英雄先生の近著作「資料紹介 林芙美子遺品中の周作人書簡」が公刊された。
東京大学伊藤徳也教授を主編とする『周作人研究通信』第3号2015年6月8日に
掲載されている。(http://home.netyou.jp/88/iton/index.files/Page1262.htm)
 林芙美子と周作人との交流は、『文藝』(1941年5月号改造社)に林芙美子が寄稿した「周作人氏へ」によって知られていた。しかもその交流を裏付ける周作人の書軸が芙美子の手許にあり、現在は新宿歴史博物館にある。だが、それを知るのは一部の研究者だけで、林芙美子と周作人のことはさほど世間の注目を浴びなかった。
  ところが、この文章には注目すべきことが書かれている。なんと、林芙美子には周作人から届いた手紙があったというのだ。これまではそういうものが存在するとは誰も知らなかった。だが、載せられた画像をみると、これがそれなのかと初めて見る書影に驚くしまた納得もする。しかし、読み進むと、さりげない表現の中に驚くべき事実が隠されていることに気がつく。














2015年4月26日日曜日

南極観測隊(第56次)に行った ゆうき11 第1次の昭和基地の建物

昭和基地には第1次観測隊が基地とした建物が残っている
第1次観測隊の昭和基地の建物(赤色)
うしろは現在の昭和基地の建物
第1次観測隊の建物は小さい
両手をあげるゆうき

南極観測隊に行った ゆうき10 しらせの湯

しらせの甲板に湯舟をおいて「しらせの湯」にはいる
湯舟は隊員が板の切り出しから始めてすべて自作
湯は 海水を涌かせていれたもの
しらせの湯 湯舟は手作り

氷海の露天風呂
外気は氷点下  水温40℃

2015年3月23日月曜日

広島大学病院へのお礼の手紙 2015.3.20


3.7 入院
3.9 オペ
3.18 退院
3.20 礼状
広島大学病院 9階スタッフセンター東
先生、看護師の皆様 

 入院中は大変お世話になり有難う御座いました。
 老齢になってからの手術、入院は、不安と戸惑いと自信喪失の連続でした。なにしろ体内から二本のチューブが出ているのが見えるのですから。しかも一本は、あろうことかPの尖端から差し込まれています。とほほ、なんじゃこれは。
 けれども、消沈する老体を受け止め、(すく)い上げてくれたのは、先生と看護師の皆様でした。医学の凄さを体験し、医学の温愛が老体に注がれるのを実感しました。だから一日の24時間は、今まで経験したことのない長さでした。冗長(じょうちょう)で退屈なのではなく、隙間(すきま)無く充実していたのです。その(みなもと)は皆様の声、言葉、笑顔でした。
 老齢の男は例外なく癖のある難物です。時には猛々(たけだけ)しいライオンのように、時には(ひね)くれた狸のように、手に負えないと言ったらありゃしません。ところがそのどの個体も皆様によって、従順なヒツジに、温和なウサギになって行きました
 男全般をおっさんと呼ぶなら、(はるか)洋子番組でこんなことを言っていました。「温泉地の旅館に泊まると、女湯と男湯を日替わりで交代している所がある。絶対に()めて欲しい。おっさんの入った(あと)は、何が浮いてるか分からん。汚くて入れるか」
 そのおっさんの身体を綺麗にして、しかも、痛い所はありませんかと声を掛けてくれるのですから、おっさんの感激は尋常ではなく、消灯後の病床で手を合わせていました。

 この思いをお伝えしたくて、ここにお礼のお手紙を差し上げます。
 心より感謝致します。


           2015年3月20日

2015年2月28日土曜日

南極観測隊に行った ゆうき9 ペンギン

ひとりで見物に来た ぺんぎん

南極観測隊に行った ゆうき8 白夜、ビーフステーキ

白夜

白夜の空

パースでの食事

南極観測隊に行った ゆうき7 越冬隊夏季隊の伝達式、ドラムもある娯楽室、建設中のアンテナ

越冬隊(右)と夏季隊(左)の伝達式

アンテナを建設中


昭和基地の娯楽室 ドラム、卓球台、マージャン台 なんでもある

南極観測隊に行った ゆうき6 二段ベッド、アンテナ


二段ベッド

ここはどこかな
アンテナを建てるのが仕事のゆうき

南極観測隊に行った ゆうき5 昭和基地、宿舎

昭和基地 夏季隊の宿舎

夏季隊の宿舎

凍土を掘削

南極観測隊に行った ゆうき4 しらせ、雪上車、隊員

しらせ から昭和基地へむかう(と想像して)

しらせ の勇姿

しらせ の物資を移送

南極観測隊に行った ゆうき3 氷山、ペンギンの写真

しらせ の前に現れた 氷山
ペンギン

しらせ に 驚いたのか 海にむかう南極ペンギン


2014年11月1日土曜日

南極観測隊(第56次夏季)にいく ゆうき2 2014.11.01

日本南極観測隊のシール
ほぼプロのドラマーだからライブがあるたび
仕事を終えたばかりでも練習に行く。
先日は土曜日も休みとはならず深夜に帰ってきた。
日曜日は休みか と聞くと 
休みだけど夜8時半に仕事に行く という。
おぉ じゃぁ 夜までゆっくり休みや というと
明日は練習がある という。

つまり日曜日は練習を済ませたあと 夜から仕事に出るというわけだ。
その日曜日の夕暮れどきだった。
「車をぶつけた」と 息を荒くして玄関から入って来た。
その表情は血の気がうせていた。
どこでだ と聞くと
家の近く という。
車を捨てて家まで知らせに駆け込んだようだった。
ほかの車とぶつかったのか それとも自転車か
まさか 人をはねたのでは・・・・ と頭の中が回った。

行ってみるとガードレールに突っ込んでいた。
ウインドウが割れ 助手席のガラスが車内に飛びちり
エアーバッグが垂れていた。
左の前輪タイヤは シャーシーにくいこんでいた。
登りの右カーブであるのに まっすぐに突っ込んだようだった。
居眠りしていたのか と聞くと
寝ていない ぼーっとしていた という。

体力の限界が来ていたのだ。
ハンドルを切ることすらできなかったのだ。


2014年10月31日金曜日

南極観測隊(第56次夏季)にいく ゆうき1 2014.10.31

男の子であれば 宇宙飛行士になって 宇宙に行きたい
南極探検隊に入って 南極に行きたい と誰もが思う。
その南極に ゆうきが行こうとしている。

普段はアンテナ工事や高速道路のETCのメンテナンスを仕事としているのだが
その労働の過酷さは 驚きの連続である。
過酷さは睡眠時間に表れている。
2時間しか眠らずに 6時に起き出して仕事に出かけることは日常茶飯事。
しかも その日の帰宅が深夜0時のことがある。
しかもさらに 夕食を食べずに帰るから みなが寝静まった家で
食卓に置かれた冷たい御飯とおかずを チンしてかきこむ。
なんと 次の朝も 6時に起きて仕事に行き
またもや 帰るのは深夜という日がつづく。

現場にいて深夜まで仕事をするわけはないから
会社には何時に戻るのか と聞けば
夕方6時には戻るという。
では 夜遅くまで会社にいたのかと 聞けば
そうだという。
何をしていたのかと聞けば
パソコンで書類を作っていたという。
その日の仕事の報告書や経理の報告かと 聞けば
まあ そうだという。

小さな会社だからしかたがない と 
なかば諦めながらも 余りの重労働を
目の当たりにして 同居者としては心配でならなかった。

そんなある日 事故はおこった。



2014年7月5日土曜日

中国新聞 でるた 「李清君」 1985年

中国新聞夕刊 でるた 1985年
李清君

 昨年のクリスマスのころ突然中国から手紙が舞い込んだ。四カ月前に私が出した手紙への返事であった。

 二十歳の李清(リーチン)君は桂林の漓江河畔で観光客を相手に似顔の「剪紙(せんし)」をしていた。記念にと思い前に立った私の横顔をわずか十秒ほどで剪り抜いた出来映えは見事というほかなかった。

 私は一行の他の三人にも剪ってもらうことを勧めた。一人一元の料金だった。彼は瞬時のうちに四元もうけたわけだ。私はその時彼がどのくらい稼ぐのか興味を抱いた。そこで、彼に写真を送る際に(四川省成都)そのことを聞いておいたのだった。

 彼は桂林での三カ月に五千四百元稼いだと書いて来た。ひと月に千八百元の計算だ。私の知っている三十五歳の事務幹部が五十五元の給料であったことを考えるとその三十倍の収入になる。

 日本の同年齢の人の給料を約二十万円と見積もってその三十倍は約六百万円になる。日本で毎月六百万円を稼ぐ二十歳の青年がいるとは思えない。しかし今の中国にはこのような若者が増えているのだ。

 先日も新聞に「急増する中国個人経営」の記事が出ていた。二十三歳の美容店主が月収九百元、三十六歳のレストラン店主が月収三千元という。だが彼らは資本を投資した上に税金を納めている。

 しかし李清君の場合は紙とハサミ一丁あれば足りるのに税金は納めてはいまい。中国の開放政策がもたらした申し子みたいなものだ。

 「勤為無価之宝」(勤勉は貴重な宝)の教えが生きる中国で、政府は国家建設のために尽くす労働者を必要とし、また六十元の給料でも十分に生活できるだけの社会主義国家を築いて来た。

 しかし政府が李清君に六十元の給料で働けと言ってももはや素直には従うまい。彼はかつて存在しなかった経済的価値観を持ってしまったのだから。こうした若者を抱えた中国の指導者はこれからが大変だといえる。

2014年7月4日金曜日

『学生通信』第10号(昭和39年1月15日 三省堂) 随筆欄「日記と真実」 高津高等学校2年

  昭和39年1月15日発行の『学生通信』1 新年号に掲載された、随筆「日記と真実」がこのほど、三省堂出版局の好意と尽力で40年ぶりに見つかりました(2004年10月7日)
 一投稿者のきまぐれな懐旧から依頼を受けた三省堂出版局が誠意をもって対応し、めざす文章を見つけ出してくれたものです

随筆
日記と真実-書くことで思索の跡をたどる-
大阪・高津高(2年) 久保卓哉

 
 ぼくが日記をつけ始めたのは中学二年から。それまでにも小学三年生のとき宿題で書かされて、海に沈む夏の太陽のことを書き、二重マルをもらったことを覚えています。その時は二重マルに味をしめてその翌日もまたわざわざ浜辺へ沈む太陽を見に行って、前の日と同じことを書いて、また二重マルをもらったことも記憶にあります。

  中学二年の時の日記も最初は学校から強制的に書かされたものですが、その後高校二年の現在まで、一月に一度、二月に一度というようにとにかく書いてきました。でも〃日記〃というもの、"日記をつける"ということを、客観的に考えてみたことはありませんでした。ところが先日の英語の時間にWilliam R.Ingeという人の書いた「日記」という文章が英文解釈の問題に出ていました。
ぼくはこれを読んで、〃日記〃というものについて改めて考えることを教えられました。その中には大体こんなことが書いてありました。

  もしある人がだれにも読まれないと確信して日記をつけるなら、はじめてその人は全くの真実を語っていることになるだろう。--- ぼくにはその意味が実によくわかります。ぼくは中学の時一度母に読まれて、その中にあまりにも恥ずかしいことが書いてあったので母を泣かせてしまったことがありました。それ以来、母は一度もぼくの日記を読みませんが、ぼくはいつも読まれはしないかと思って机の引出しのいちばん下のほうに隠しています。

  それから二日後、十二月十三日の朝日新聞の朝刊に福原麟太郎さんが「日記というもの」というテーマで書いていたのを読みました。ところどころひろってみますと、ざっとこんなことです。
  ---日記はなんのために書くか。その時々の自分の感想をつづるといったところで大したことはない。あとで読んでもその感想が再現するというためには、かなり文学的な表現上のくふうがなければ、ただ良かった、感動したというだけでは無効な文章になってしまう…。
  日記を書くという業(ごう)につかまったとでも言わなければとてもわからない。……
  日記はその筆者とともに埋めてしまうべきであろう。……

  ぼくほ、これも非常に興味深く読みました。ここに書き抜いた最初のところをぼくなりに考えてみると、日記はその時々の自分の感想を書くもので、そのほかにはなんの目的もないということのようです。実際そのとおりではありませんか。ぼくたち自身、なんのために日記をつけるのだと自問してみても、思ったことを書くためだという答えしか出てきません。 次に「文学的な表現上のくふうがなければ……」ということですが、このことはぼくは福原麟太郎さんに賛成できません。賛成できないというより、どんな目的からこういうことを書かれたのかわからないのです。未熟ではあるけれどぼく自身の場合を考えてみてもたとえば、ぼくはよく昔の日記帳を読み返して、思わずクスッと吹き出したり、改めてじっと考え込んだりすることがよくあります。これはその当時の感想が再現しているということではないでしょうか。それとも、こういうぼくはまだまだ"浅い"のでしょうか。

  次に「日記とは業につかまって書くもの……」ということは、ぼくにはこんなことを言っているのかなあと思うだけで、その意味を具体的に述べることはできません。ちょうど俳諧の道の「句のさび、位、細み、しをりの事は、言語筆頭におほしがたし。……他は推(お)してしらるべし。」と同じように思われます。

  福原麟太郎さんは、この業(ごう)のことを書く前にこういう例をあげています。英国人のサミュエル・ビープスは、奥さんに読まれたくないので自作の符号で日記を書いたという。役所の帰りに花屋へ寄って花を買ったついでに花のかげで花売娘に接ぷんしたなどと、いうことを書いておきたかったからなのだが---と。そしてどうしてそんなに符号を使ってまで苦労してそのようなことを書きつけなければいられなかったのか。……日記を書くという業(ごう)につかまっていたとでもいうほかはないと言っています。これでぼくにもいくぶんわかったような気がします。しかし、もう一つわからないところがある。

  そこで、ぼくは業(ごう)ということばを調べてみました。百科事典「因果」という項に「輪回(りんね)を続けさせる原動力を業というが、業とは身体、ことば、心による行為が習慣化した時生ずる潜在的な力である」と出ています。業の正体とは、間接的な、潜在的な、縁の下の力持ちのような、リモートコントロールで飛行機を飛ばす時の手もとの機械、または電波のようなものということで表わしていいでしょうか。そうすれば「日記というものは業につかまって書くもの」ということはおまえはどうしても書かざるをえないのだ。どうしても書け! と命令する魔物というか、そういうものの俘虜(とりこ)になってしまうことなのでしょうか。いわゆる憑(つ)かれた状態なのでしょうか。

  最後に「筆者とともに埋めてしまうべきであろう」ということ。
これは、ギリシャ神話の中に、ミダス王の耳はロバのように長いという秘密をどうしてもしゃべりたくて、砂地の穴の中へ耳を突っ込んでそう叫んだら、そこにはえた芦が葉ずれの音でそれを伝えたという話がある。日記もそのようなものかもしれない。とすれば、日記はその筆者とともに埋めてしまうべきでしょう。必要なことは芦の葉の風が伝えてくれる---。

  たしかに、日記とはその筆者が死んだら、彼とともに埋めてしまってもよい。なぜなら、もしその日記に、これがどうしても世に出ずにいられようかというほど必要なことが書いてあるなら、それはどんなことをしても世に出て伝わっていくものだ、ということだと思います。
  ぼく自身、自分のことを考えてまったくそのとおりだと思います。日記はその筆者自身にとってだけ価値のあるものなのですから。


  
けれども、とだれかはいうかもしれません。
「そんなものは日記に書かなくったって、われわれ自身、自分で体験しているのだから、わざわざ書く必要なんかないじゃないか」
  しかし、ぼくたちの思索や知覚は、ぼくたちが想像する以上にあいまいであやふやなものです。それをもう一度文章に書き、確かめてみるとき、はじめてそれはぼくたちの生活のかてとなり、あすの前進への原動力となるのです。 日記をつけていると、うっかり見過ごしたほんのささいなことの中にも、思いがけない発見がひそんでいるものです。
三省堂発行『学生通信』第10号 昭和39年1月15日 随筆「日記と真実」





『学生通信』第10号第一面


三省堂出版局への礼状 1

 学生通信、第10号のコピーをお送りくださりありがとうございました


  あやふやな記憶のままでしたが、思い切ってお願いしてよかった。40年前の新聞ではなく最近の新聞のような新しさで届いて、感慨もひとしおでした。手にして、出版社の精神というものを感じました


  陸上部に所属していた当時、練習後の部室で「恥ずかしいことが書いてあった」のはどんなことかと、先輩後輩から聞かれておおいに困ったことが思い出されました。他にも読んだ生徒がいたのですから、学校でこの新聞を定期購読していたのだと思います


  文章はほぼすべて忘れていました。読んで、多くのことを考えた文にびっくりしました。学力ではクラスの底辺だった生徒がこのような文章を書けるとは、なんと当時の高校の教育のレベルはすばらしかったのかと思いました


  おそらくは書庫の奥にしまわれたこの新聞を、踏み台に乗って、あるいはしゃがみ込んで探してくださったのだと思います。ありがとうございます


三省堂出版局への礼状 2

 40年ぶりに見た『学生通信』は地震のごとくにわたしを襲って振るわせました

 ありがとうございます。8号には池田満寿夫の絵があり、菅原和子の名があり、掲載された詩や文章のすばらしさがあり、すべてに驚きました。特に10号の詩や文章は高校生の作品とは思えないすばらしさで、わたくしの稚拙な文などは一気に色あせてしまいました。  多くの時間と神経を費やして探していただき、本当にありがとうございます。感謝申しあげます

  『学生通信』の編集はどなたの手によるものなのでしょうか。その手腕と高校生への言葉の質とレベルの高さに驚きました。現在はインターネット上で多くの情報を得ることができるようですが、『学生通信』の高校生の作品が本として出版されていること、また編集者であったと推知される方の文章が上がっていたりして、『学生通信』は現在でも生きているのだと知りました


 菅原和子さんへ

 突然のお便りでさぞかし驚かれたことと思います
 高校二年生の時、三省堂発行の『学生通信』紙「交歓ノート」欄で貴女のお名前と栗駒郡栗駒町の住所を見つけ、「きっと山と畑と草原に牛が鳴き清らかな川が流れているところだと思います」と書いて文通を申し込んだところ、「たくさんの手紙が届きましたが、書かれた風景がその通りで、貴男にお返事を書いています」と、わたくしを選んでくださいました

 その後、何度か文通が続きましたが、私の話題が豊富でなかったこともあり、自然に途絶えてしまいました

 私は大阪の高津高校の2年生で、文通が始まったことが嬉しく、その直後に『学生通信』に、文章を投稿してそれが掲載され、貴女からお褒めの手紙を頂いて、更に大喜びをしたことを覚えています

 今と違って、互いに会うこともなく、写真を交換することもなく、手紙だけのやりとりでしたが、何度目かの文通で、貴女から写真の交換を提案され、それが恥ずかしかった私は「そのような世間によくあるようなことはしたくない」と返事を書いて、結局お互いの姿を知らないままでした

 最近、自分の過去の文章を整理していて、高校時代に書いた文章はないかと探した所、かつて「日記」について書いたことがあることを思い出しました。それを「三省堂」「高校生向け新聞」「日記」だけの言葉を手がかりに、問い合わせた所、ひと月後にすべてが判明したというしだいです


2014年5月21日水曜日

中国新聞夕刊 でるた 「江戸時代の白浜温泉」 2014.5.21

中国新聞の編集部氏から寄稿を求められて 
何を書けばいいかと 一週間余り考えたすえに
ようやく書き終えたのが 5月7日。
700字の文章は むつかしい。
編集部からの指摘で
  穴が空く は 新聞では 穴が開く と 「開」の字を使う
  文中に「、」があれば 「、」の後ろは違う内容となる のが 新聞の考え
と 教わり いい勉強になった

中国新聞夕刊 2014年5月21日
    立っていられなくなるほど驚くことは、そうあるものではない。しかし紀州の文人画家・桑山
   玉洲(1746~1789年)が白浜(和歌山県白浜町)を描いた絵を見た時は、足もとが震えた。
   絵には「三つの洞」が開いた塔島の図が描かれていたからだ。

    現在、白浜の塔島には穴はなく、海上に岩山が突き出ているだけである。穴があることで
   有名なのは円月島で、その奇観は有名だが、穴は中央に一つだけで、三つもない。

    実は私は、江戸時代の塔島には三つの穴が開いていたと主張してきた。それは、
   紀州の儒官・祇園南海(1677~1751年)の「鉛山紀行」(原漢文)に、「唐嶼」(塔島)は
   「三洞玲瓏として宛も牕牖の如し」とあるからだ。連子窓のように三つの洞穴が連なって
   いるという意味である。同じ時の享保18(1733)年の漢詩にも「唐嶼の三窓 凝として
   流れず」とある。これを根拠として私が文章を発表したのは7年前であったが、既刊の
   郷土誌にも取り上げられていないためか、信用する人はいなかった。

    ところが、昨年4月、塔島に三洞がある図を描いた絵がみつかったのである。玉洲の
   「鉛山勝概図巻」がそれで、美術商が所蔵していたのを和歌山県立博物館が見つけ
   出し、特別展で公開した。全長525㌢に及ぶ図巻には、三段壁、千畳敷、白良浜
   円月島の景観が描かれ、塔島には、三連の窓がぽっかりと開いていた。

    図の款記には寛政5(1793)年とあるから、祇園南海の詩文より60年後の絵である。
   まさに疑う余地のない証拠が出てきたわけだ。絵は宿年のもやもやを一気に払って
   くれた。

  

2013年10月7日月曜日

現代女性文化研究所ニュース38 望月百合子の周作人へのインタビュー 2013.107



望月百合子の周作人へのインタビュー


 魯迅と周作人の故居がある八道湾十一号は、必ず訪れておきたい所だ。
 現在の北京で、地下鉄新街口から地上に出ると、「八道湾胡同」と書かれた標識が目に入る。「胡同」はよく知られたように北京名物の路地のことで、八道湾の「湾」は「弯」に通じて曲がり角の意味だから、到る処に曲がり角がある街はここですよ、と案内している。

 路地に入るとすぐに角があり、行きつ戻りつ何度も曲がると八道湾十一号の住居表示が見つかる。故居はさらにそこからくねくねと入った所にある。まるで迷路のような道を、かつては武者小路実篤も久米正雄も小林秀雄も通ったと思えば、幅の狭い路地を歩くことが楽しくなる。だがこの胡同は、あの文化大革命の時、八十一歳の周作人が紅衛兵によって引きずり回された胡同でもある。押えつけられて何回も殴打されたのはここです、私は見ました、とその場所を指さす男性は今もその横に裏口がある家に住む。

 周作人は戦争中日本に協力した漢奸(売国奴)として逮捕され、日本敗北後約三年にわたって獄中生活を送った。この漢奸という暗い評価は周作人につきまとっていたが、今では評価は好転し、中国本土での周作人の著作は出版が相次いでいる。

 その理由は、「周作人は人道主義、寛容主義の人で、すべての虐げられたもの、すなわち婦人・子供・動物に対して、とりわけ中華民族に対しての慈愛にあつい文人」(方紀生と松枝茂夫の表現を借用)だと認識されてきたからである。

 さて、好評価に到る過程で見過ごされてきた資料として、望月百合子が周作人の自邸を訪問して談話を取った記録がある(「黎明期の中華文化を語る」『大陸に生きる』大和書店一九四一年五月五日発行収)。時は一九四一年一月三日で、望月百合子(四一歳)が華北教育總署特辨という文化行政の長に就任した周作人(五六歳)を取材したものである。岡田孝子氏の「望月百合子略年譜」によると、この時望月百合子は満洲新聞の記者で、ジャーナリストとして周作人に会ったと思われる。

 「満洲新聞」に掲載されたであろうこの望月百合子の記事には、周作人の「教育、文化、文学、学芸」に対する見解と将来への展望を語った内容が記されている。例えば、  「小學校の教育はどうですか」周氏「貧しい家では小さな子供でも何か家の役に立つことをして働きます。(略)その働きを一切やめなければ學校へはゆけないわけで、それをやめて學校へゆけば生活が出来なくなるといふことになるので、まづ生活を安定させてやらねば義務教育制も布けないわけです」。  「満洲では文學運動でも政府が援助するやうな機運になつてゐますが…」周氏「文學などはいくら援助されても文化的地味の貧しいところからは生れるものではない。だから若し立派な文學とか藝術とかの成果を欲するならまづ學問を盛に興すことが大切です。さうして個人の意見が尊重されて、自由の空氣がなければよい文學も立派な文化も生れるものではない。さうして各人がいろいろの意見をたて、盛んに議論が行はれるやうにならなければ駄目です。(略)ともかく自由な雰囲氣のあつた時代がいつも成功しているのであつて、統制が強く行はれて成功したためしはありません」と語る。

 日本の傀儡政権である満州国と華北政務委員会を念頭において、統制を批判し、自由を主張する周作人の姿勢が露わである。漢奸どころかそれとは正反対の中国及び中国人を酷愛する思想が表れている。周作人を評価する上で、望月百合子のこの記事は注意すべき資料であるといえよう。

 望月百合子は記事の始めに「其自邸は飽迄も文學者らしいつつましやかさと静けさが漂ふ。訪問客もうけず一茶や啄木等の愛讀書に囲まれて悠々自適の氏の眉はまことに明るくおだやかである」と記しているが、この印象は周作人を訪ねる者すべてに共通しているようで、翻訳家・文潔若女士も「八道湾の周作人の家を訪ねる際には、いつも事前に手紙を書いて、約束の時間どおりに出向くことにしていた。いつ行っても彼の書斎はきちんと片づいていて、机には筆硯、原稿用紙と原書以外のものは紙片れ一枚載っているのも見たことがない」(「晩年の周作人」。木山英雄『周作人対日協力の顛末 補注北京苦住庵記ならびに後日編』岩波書店より)と書いている。

 望月百合子は周作人の談話を「全く得難いものだ」と重要視したようだ。随筆集である『大陸に生きる』の中に、随筆とはいえない談話記事を特に加えた理由は「先生のお話の中には中國人の特徴が最もよく言ひ表はされてゐて、大陸に關心を持つものの知らねばならぬことがある」からだったと、その「後記」にしるしている。


 (中国文学研究者)

2013年9月18日水曜日

佐藤春夫記念館 最新情報 毎日新聞が報道 2013.9.18

毎日新聞 和歌山版 佐藤春夫記念館を紹介

新宮市出身の作家で詩人の佐藤春夫(1892~1964)を紹介する同市立佐藤春夫記念館(同市新宮)が、同館の魅力をもっと発信して市民に親しんでもらおうと、ブログを開設するなどさまざまな取り組みを行っている。

2年ぶりに「佐藤春夫記念館だより」の第18号も發行した。

同館は、東京都にあった春夫の家を移築して1989年に開館。愛称は「さとはる館」だ。

現在館内では、季節の花などにちなんで春夫が書いた文章を紹介する展示もしている。また、小学生が館内を楽しみながら見学できるようにと、春夫の誕生日などをクイズ形式にした学習シート(初級編と上級編)を作成。春夫が7,8歳の頃に撮影された姿を基にデザインした男の子「はるちゃん」も学習シートに登場させている。

記念館だより第18号では、日中文化の橋渡しをした内山完造に春夫が宛てた書簡について、白浜町出身で福山大の久保卓哉名誉教授が書いた文章や、同紀念館で開かれた企画展の内容などが掲載されている。第18号は希望者には無料提供している(送料は必要)。問合せは同記念館(0735 21 1755)。【藤原弘】



2013年9月12日木曜日

佐藤春夫の内山完造宛書簡 全集未収録 2013.9.1



 全集を編むのは難しい。のちに遺漏が見つかるからだ。ここに紹介する佐藤春夫の書簡も既刊の全集類に未収のものである。

 この佐藤春夫が内山完造にあてた書簡は、とりわけ注目される。魯迅と密接な関係を持つ内山完造にあてているからであり、魯迅の訳著の出版や支那小説大系の出版に言及し、増田渉を宜しくと頼んでいることが書かれているからである。

 その全文をあげる。
「拝復 朶雲拝誦仕り候 諸子毎〻御世話様尓相成感謝 文字不可盡 御申越の中華文藝家諸君子の近況及それに對春(す)る貴下の深甚なる御同情 人ことなら春㐂はしく存し候 勿論小生としても微力な可ら出来得る限りの努力を致春可く 魯迅先生の譯著の如きは必ず出版し得可しとの自信有之候間 喜んで何れかへ紹介致春可く  且つもつと何か纏つた仕事を出版家に企てさせて 例へば(中国)支那小説大系とか何とか全集とか称春るやうなものをやらせる事を説き春すめて なるへく多数の諸君に半永續的の仕事を頒ち得るやう工夫致し度と存し居り候間 何かそちらの諸君子及び貴下に於て御名案も有之候者(は)ゝ承ハり度 無論こちらでも諸出版者と面會して途を開き置き候 次便まて暫く御待ち下され度願上候 尚御序の節増田子へよろしく御致聲願上候 四月五日 佐藤春夫 内山様」(巻紙、墨書)。封筒表「中華民国上海北四川路 内山書店様御主人 貴酬」。封筒裏「東京小石川区關口町二〇七 佐藤春夫 四月五日」(鳩居堂製の封筒、墨書)

 これが書かれた四月五日は何年のことなのかについては、末尾の「増田子へよろしく御致聲願上候」から推定することができる。増田子とは増田渉のことで、佐藤春夫は増田渉のために内山完造宛の紹介状を書いて持たせていた。増田が記した岩波文庫『魯迅選集』の「あとがき」に「余は上海に着くや、佐藤先生からの添書を内山書店主に通じたところ、内山氏はかねて魯迅先生と親交があり、……」とあるのがそれで、佐藤春夫も「友人の増田渉が東京帝大の漢文科を出て上海に遊ぶと紹介状などを求めた時の話の序に……」(「蘇曼殊とはいかなる人ぞ」)と同様のことを書いている。増田が上海に遊学したのは一九三一年三月であるから、この書簡はそれから間もない一九三一年四月に書かれたものと考えられる。

 しかも、頭語に「拝復」とあり、続けて「朶雲拝誦仕り候」とあることから、この書簡は内山完造から届いた手紙に対する返書であることが分かる。「朶雲」とは相手の書簡を敬っていう語であり、封筒表の宛名の横に記した「貴酬」も、手紙の返事を、先方を敬っていう語で「御返事」と同義であることからもそれはいえる。内山完造は、あなたの紹介状を持った増田渉がたしかに書店に来ましたよ、と佐藤春夫に報せる手紙を出していたのだと思われる。

 この時内山完造と佐藤春夫とは旧知の間柄であった。佐藤春夫が一九二七年七月に三番目の妻多美と、姉の保子の娘で姪にあたる佐藤智恵子とを連れて上海、杭州を旅した時は、内山完造の歓待を受けているからである。それは、谷崎潤一郎の紹介であったと内山完造は『花甲録』に書いている。

 従って、以前から中国文学専攻の学生として佐藤春夫の門を敲いていた増田渉が、佐藤春夫の紹介状を持って上海に行ったのは自然の流れであった。ちなみに、増田渉の前年一九三〇年九月に上海に行った林芙美子は、新居格の紹介状を持って行っている。

 佐藤春夫の書簡文から推量すると、内山完造は日本に魯迅の作品を紹介した出版物が少ないことを嘆いたと思われる。一九三一年当時は、わずかに魯迅の短編「故郷」の邦訳が春秋社発行の月刊誌『大調和』十月号(一九二七年)に出ただけで、魯迅は「世界が、世界的に関心を持つ作家である」(「「個人的」問題」)と佐藤春夫も認識していたにもかかわらず、日本での訳著出版は未だ進んでいなかった。だから、内山完造への返書に佐藤春夫は、魯迅先生の訳著は必ず出版すべきで、出版できるように方々に取り持ちたいと応じたのであろう。さらに、魯迅の作品のみならず支那小説大系とか、中国小説全集とか称する大がかりな出版をおこない、半永続的に中国の小説を出版してはどうか、その道筋をこちらでもつけておくつもりだと構想を語っている。佐藤春夫がいう支那(中国)小説とは、六朝・唐の文言小説と明・清の白話小説を指すのであろう。白話小説に限っていえば、「三言」(『古今小說』『警世通言』『醒世恒言』)、「二拍」(『拍案驚奇』『二刻拍案驚奇』)や、そこから四十話を選録した『今古奇観』がそれで、佐藤春夫はこの時すでに『今古奇観』の第七話と第八話とを翻訳し、それを収録した『支那文学大観』第十一巻が一九二六年に出版されていた。そういう背景を念頭にして、小説大系構想を内山完造に語ったと考えられる。

 これらの出版構想は、魯迅に限っていえば、一九三二年七月一日発行の『中央公論』に魯迅の「孤独者」佐藤春夫訳を発表し、一九三二年十一月には改造社から『魯迅全集』井上紅梅訳(全一冊)が刊行され、一九三五年六月には岩波文庫『魯迅選集』佐藤春夫、増田渉訳が、そして一九三七年には改造社から『大魯迅全集』全七巻が刊行されたことにつながる。

 このようにして見ると、佐藤春夫の内山完造への「貴酬」は、魯迅と日本、中国文学と日本との、時代を貫く一つの節を示すものであることが分かる。


 現在この書簡は内山完造のふるさとに住む内山家に所蔵されている。