【蛍と菅茶山と鯛の迫川】
蛍の火はひとの心をつよく照らす。
声もあげずに黙ったまま蛍を見ているひとに出会ったことがない。子どもは悲鳴にちかい声で「ホタルホタル」「いたいた」と連呼してやまない。おとなも同じで「まぁきれい」「ほらほらここにもホタルが」と感極まった声をあげる。
昔の中国でもそれは同じで、陶弘景(とうこうけい)という医薬学者が
「蛍はサナギの時すでに腹の下がひかり、数日で変じて飛ぶようになる」(『名医別録』)
としるしているのは、蛍の生態を注意深く観察していたからだ。
また、薬物としての草木や虫の効能をとく『本草綱目』には、蛍の味は辛いが無毒で、子どものやけどや虫さされにききめがある、とも書かれている。
蛍の火は熱くないし、草むらで火がついているように見えてもけむりがたたな い。
明るい灯火に近づくと光が消えて暗くなるのに、雨の中に飛び立つと燃え るように明るく光る
(梁元帝(「蛍火(けいか)を詠ず」)
この、子どものような無邪気さで、見たままをすなおに表して蛍の不思議をうたったのは、中国の天子、梁の元帝だ。この天子も「ホタルホタル」と追いかけまわしたにちがいない。
江戸時代の漢学者、菅茶山も蛍を愛したひとで、毎年のように蛍を見に行った。
茶山が行くのは神辺から四キロほどはなれた下竹田の川で、陸前(仙台)の蘭学者が訪れた時は、塾生十数名を引きつれてでかけている。
単に見るだけではない。酒とさかづきを運ばせて、蛍を見ながら酒をくみかわす。
食べるものは、釣ってなますにした魚と、たけのこ汁。
樽をかたむけて酒を飲むと、目のまえには蛍。茶山は、沸いているようだ、と漢詩によんだ。
九首よんだうちの一つがこれ。
蛍が沸くように飛んで、
水をわたり林に入る
ここちよいそよ風がくさむらをゆらすと
蛍の点が満天の星みたいにきらめいている
酔って暗やみで道に迷っても、蛍のむれを集めて帰路を照らしたからだいじょうぶだったらしい。
この詩の題は「四月七日諸君とともに蛍を竹田村に観る」というもので、「四月七日」とあるから、茶山がでかけたのは文化二年四月七日であることがわかる。
今のこよみでいうと、一八〇五年の五月二十一日にあたる。
この日づけはとても興味深い。なぜなら、蛍が飛ぶ時期は江戸時代も今も変わらないことが分かるからだ。
私自身が鯛の迫川を歩いて蛍を観察した記録がある。飛んでいることに気がついた日をメモした簡単なものだが、二〇〇一年から今年の二〇一一年までの日を順に書いてみよう。
5/28 5/24 5/21 5/30 5/26 5/21 5/17 5/21 5/30 5/29 5/29
鯛の迫は蛍の数が少なく、初めて目にした日の記録だから、最盛期はこれより二、三日か、もしくは六、七日あとだったかもしれない。
しかも、神辺と鯛の迫は百キロほど離れているから単純に比較することはできないが、それにしても、茶山と同じ五月二十一日が三度も記録されていたとは、じつにおもしろい。
自然のいとなみは、劇的に変わってはいないのだ。
鯛の迫 久保卓哉
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