和歌山県瀬戸鉛山村 行幸記録 | 昭和4(1929)年 |
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5月31日 | 警備艦大井、第18駆逐隊浜風、磯風、天津風、第三駆逐隊島風、田辺湾入港 | |
6月 1日 | 7:00 | 御召艦長門、供奉艦那智、灘風を随え瀬戸崎沖に姿を現わす |
7:30 | 大井、皇礼砲を放ち、天皇旗翻したる長門、田辺湾内に進む | |
7:53 | 長門、投錨 | |
8:00 | 田辺御入港 | |
賜謁(和歌山県知事等) | ||
9:00 | 艦載水雷艇に御乗艇 | |
9:23 | 綱不知桟橋御到着 | |
9:30 | 瀬戸鉛山綱不知桟橋御上陸 御徒歩40分 | |
綱不知-大通り-御船山横-藏ノ鼻入江-磯伝いコンクリ新道-円月島 | ||
9:56 | 桔梗平の臨海研究所着御 | |
10:10 | 京都帝国大学附属臨海研究所着御 | |
便殿(特別研究室を充当) | ||
(便殿の「便」はくつろぐ意。行幸先で天皇皇族が休息するために設けられた部屋) | ||
賜謁(京都帝国大総長等) | ||
研究御聴取(前後1時間) 南紀の地形、地質、温泉に就て | ||
紀伊沿海の動物に就いて | ||
紀伊産貝類に就いて | ||
浮游生物に就いて | ||
海藻類に就いて | ||
海藻の色素と夏蜜柑の生化学的研究 | ||
11:20 | 学生実験室に入らせ給う | |
御巡覧 機械室、材料室、図書室、整理実験室、薬室、暗室、普通研究室、水槽室 | ||
体重30貫の大海亀、胴回り1尺2寸体重3貫の大鰻 | ||
地方物産御覧 | ||
12:30 | 便殿に還御 | |
御昼餐 | ||
御召替 | ||
13:20 | 崎の浜より御座船に乗御(船夫、雑賀弥之助、南常三郎、大江四郎吉) | |
和船「ぢのしま」(海士、正木善松、金谷徳松、田中惣一郎、小山仙之助、今津佐太郎) | ||
御座船と「ぢのしま」は、長門艦載水雷艇に曳かれて進む | ||
少し離れて「をきのしま」は他の艦載水雷艇に曳かれて進む | ||
円月島通過 | ||
四双島停船 「ぢのしま」の海士5名、潜水 前後30分 | ||
番所ヶ崎を右にして進む | ||
塔島の岩間に停船 同様に御採集を続けさせられ 約30分 | ||
再び御座船の綱を艦載水雷艇に結いて田辺湾深くへ | ||
江津良の浜辺に当たり「一団の群衆を望みしか小学校の児童と覚しく手に手に国旗を持ち 御座船の近づくと共に高く之を捧げて萬歳を唱えたる」 |
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神島停船 「陛下には島蔭の波静かなる処に御船を停めて島に下り立たせ給う」 | ||
南方熊楠に島上に於て拝謁を賜り暫し御進講を聞こし召す | ||
再び御座船に乗御 | ||
畠島に向わせ給う(全島徳川公爵家の所有に属す) | ||
小丸島の傍より御上陸あらせらる | ||
畠島に渡御 | ||
北方の断崖に沿いて砂浜に出御あり | ||
再び小丸島に戻る | ||
17:30 | 艦載水雷艇に御移乗、御召艦長門に還御 | |
直ちに海軍軍服に御召替、南方熊楠に拝謁を賜る 25分間御進講 | ||
18:30 | 長門御抜錨、那智以下の供奉艦を随え、田辺を御後に御出航 | |
19:00 | 御晩餐会(御召艦内にて) | |
21:00 | 潮岬の突端に差し懸る (町民は午後7,8時頃より手に々々提灯を打ち振りつつ 続々海岸に詰めかけ人の波は刻々と増加) |
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御召艦、串本湾内樫野崎沖に投錨 | ||
22:30 | 串本御入港 | |
23:00 | 午後11時過ぎ、御寝に就かせ給う | |
(『和歌山県行幸記録』和歌山県 昭和4年12月20日発行による) |
2019年9月26日木曜日
昭和天皇 行幸日程 昭和4年5月31日-6月1日 白浜(瀬戸鉛山村)
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