2019年9月26日木曜日

昭和天皇 白浜串本に行幸 昭和4年5月31日~6月3日 <瀬戸鉛山尋常小学校一年生 松本貞子 感激の涙>

< 瀬戸鉛山尋常高等小学校一年生 松本貞子>
< 感激の涙>

 畏れながら 陛下には御仁徳に富ませ給い、至仁至慈、民を視ること子の如く老をいたわり幼を憐れませ給い、今次の行幸に際して風雨、炎天もいささかの御厭いなく、到る処御英姿を拝せさせ給わんとの深き思し召しより、第一日瀬戸鉛山村の如き兼ねて降雨の際は直ちに臨海研究所の裏桟橋より御上陸の事に御治定ありしに、さる御事なく、降りしきる雨中に濡るるがまま御徒歩にて予定の御道筋を進ませ給い、余りの難有さに数万の奉拝者は恐懼措く所を知らず、覚えず大地にひれ伏して、唯感涙に咽ぶのみ。

 可憐なる一少女(瀬戸尋常高等小学校一年生松本貞子)は奉拝後胸を躍らせながら左の如く語り、

雨はさんさんと降ってましたけれども 天子様がコンクリートの道を御疲れの模様もなく私達の側近く後出遊ばされた時、雨はぴったり止みました。最敬礼のおつむを恐る恐上げると 天子様はにっこりと御笑い遊ばして黒いまんとの間から白い手袋の御手を上げて御会釈下さいました。私はもう嬉しくて嬉しくて嬉し泣きに泣けて来てぽたぽた膝の上に難有涙をこぼして俯(うつむ)いてしまいました

嬉しくて嬉しくて嬉し泣きに泣けてきたとは実に肺腑よりほとばしり出たる告白。奉迎者はいずれも此の感激の涙あるのみ。
     (『和歌山県行幸記録』第二章 国体の精華 第一節 御聖徳の一端 21頁)
(仮名づかいのカタカナを平かなにし、漢字、送り仮名を新字体にした)

松本貞子さんについて分かったこと
 昭和4年6月1日雨中の瀬戸を歩く天皇陛下の龍顔を見たという人を見つけだして、話を聞くことは今ではむずかしくなった。ましてや、その時尋常小学校一年生だった松本貞子さんを捜し出すことは更にむずかしい。不可能かも知れないと思いつつ松本貞子さん捜しを始めた。

 瀬戸1丁目の「はまや」の長女・藪本近衛(やぶもとこのえ)さん(94歳 大正14年生まれ)を訪問したのは平成の末年、31年4月17日であった。近衛さんは尊父不動庵藪本近蔵が発行した回覧文芸誌『赤芋』の所蔵者であり、現在でも町立図書館から一度に5冊の本を月に二度、三度と借り出す読書家でもある。近衛さんは次のように語って下さった。「天皇陛下がお通りした時はまだ小学校に上がっていない時で、小さな身体で大人の後ろからのぞいたが見ることはできなかった。しかし確かにお通りであることは分かった」「松本貞子さんという人は覚えていない。その人が一年生だったということは私よりも一歳上」「ちょっと待って、私の友達何人かに聞いてみてあげる」。すぐに電話機に向かい手帳を開いて電話番号を押してくれたが、「元気な人は少なくなった。寝ついたり入院したりで」とのことで呼び出し音は鳴るもののすぐには通じなかった。後で何人かに聞いておいてあげるとの言葉をいただいて御宅を辞去した。

 その足で白浜から田辺市立図書館に行き、『紀伊新報』の合冊本を閲覧申請して天皇行幸の串本記事を繰っていると、近衛さんから電話があった。「松本貞子さんを知っている人が見つかった。私の友達のてるちゃんが知っていた」「玉置輝代という同級生で、てるちゃんによると松本貞子さんのお父さんは先生をしていて、瀬戸2丁目の借家に住んでいたという話」。それを聞いて私は近衛さんの電話に感謝しつつ合冊本の複写数十枚を終え、翌日玉置輝代さんの家に向かった。
 輝代さんは次のように語って下さった。「天皇陛下がお通りした時は子供ながら見にいって、私は天皇陛下を見た」「松本貞子さんは確かに小学校にいた。学年が違うから一緒に遊んだことはなかったが、松本貞子さんの名前ははっきりと覚えている」「お父さんは先生で瀬戸2丁目の辻先生の持家を借りて住んでいた。その家には雨水を貯める大きな甕があり、その甕の中に子供が落ちて死んだ。近所でえらい騒ぎをしたのでよく覚えている。子供は男の子で松本貞子さんの弟さんだったと思う」「そのうち松本さんたちは他所に引っ越していった」という。輝代さんの記憶は具体的で多くの情報を得ることができた。
 松本貞子さんのお父さんが先生であったということを手がかりに『百年の回顧 創立百周年記念』(白浜町立第一小学校 昭和49年発行)を調べると次の記述があった。

在勤教職員一覧
  松本安助 校長 勤務年月 昭和4年4月~昭和8年3月 期間4年

松本貞子さんの父は昭和4年から8年までの四年間小学校の校長を務めていたことが分かった。まさしく天皇行幸の年と重なる。そして一年生52名のなかから貞子さんが選ばれたのは校長の娘ということと関係がありそうである。

 だが『百年の回顧 創立百周年記念』の「卒業生名簿」を調べると、昭和4年に一年生であった貞子さんは昭和10年3月の卒業であるが、そのなかに名前の記載がない。卒業年度を待たずして他地に引っ越し学校を転校したのであろう。上に引く松本安助校長の在任期間が昭和8年までであったことから、その年月は昭和8年3月であったと思われる。まさしく玉置輝代さんの記憶と一致する。

 貞子さんの同級生51名が健在であれば更に記憶を語ってくれたであろうが、残念ながら今となってはどの同級生にもお会いすることはできなかった。

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