<目 次>
は し が き ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
絵葉書 天皇行幸 瀬戸鉛山村 ・・・・・・・・・・・・
絵葉書 天皇行幸 串本町・・・・・・・・・・・・・・・
行幸日程表 瀬戸鉛山村・・・・・・・・・・・・・・・・
串 本 町・・・・・・・・・・・・・・・・・
大阪・神戸・東京 ・・・・・・・・・・・・
瀬戸鉛山尋常小学校一年生 松本貞子 感激の涙・・・・・
大島村樫野 樫田文右ヱ門 トルコ軍艦遭難当時の追憶・・
あ と が き・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
編 集 後 記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<は し が き>
昭和天皇をどのように評価するか。それは人それぞれの胸中に飛来する時代体験によって異なり、また戦前、戦中の天皇と戦後の天皇像によっても異なる。
だが、即位して4年目28歳の若き天皇に対する評価は日本国中異なることはなかった。時は、「天皇は神聖にして侵すべからず」「天皇は国の元首にして統治権を総攬」との条文をうたう大日本帝国憲法下にあり、天皇は神格化された国家元首であり陸海軍の大元帥であり、まさに現人神であったからだ。
その行幸を和歌山県の瀬戸鉛山村と串本町が賜った。都から遠く離れ、鉄道も引かれていない紀伊半島の片田舎に臨幸をあおぐ。和歌山県は全県をあげて奉迎し、その手順を周到に練り、全市町村に周知徹底した。その詳細は県知事の序言ではじまる『和歌山県行幸記録』(全240頁。昭和4年12月発行)のなかにしるされている。この書の全篇に表れているのは「限りなく尊くかしこき御方」への景仰と尊慕で、言葉の一語一語にいたるまでそれがある。
ここに紹介する昭和天皇の行幸を伝える絵はがきと写真からは、その県民の景仰と尊慕との様子を目で見ることができる。
後半で紹介している瀬戸鉛山尋常小学校一年生・松本貞子の言葉は、奉迎に参列して天皇の御姿を目にした感激を述べたものであり、また串本に停泊した御召艦長門に召された樫田文右衛門翁の言葉は、トルコの軍艦エルトゥールル号遭難事故の救助にあたった時のことを語ったものであり、どちらもまことに興味深い。
昭和天皇の瀬戸鉛山と串本での行幸日程と、その後東京に帰還するまでの日程を掲げることができた。あわせて御覧いただきたい。
令和元年5月12日しるす
久 保 卓 哉
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