和歌山県串本町 行幸記録 |
昭和4(1929)年 |
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6月2日 | 朝来初夏の空青く晴れて一碧拭うがごとし。海面を吹き渡る朝風も快く、 この上もなき行幸日よりなり |
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6:30 | 御起床。沿岸の風景を御覧になる | |
9:00 | 出御を仰せ出さる。各艦一斉に登舷礼を行う。艦載水雷艇に乗御 | |
皇礼砲轟く。供奉艇2隻を従え、橋杭岩と大島との間を、白波を蹴って進む | ||
9:20 | 串本の新桟橋に着御(串本町桟橋は今時新たに建設) | |
(御幸道路には化粧砂利を敷き詰め、沿道に数ヶ所の奉拝所を設ける) | ||
奉拝者に対し挙手の御会釈を賜いつつ玉歩を進め一路潮岬へ | ||
爪先上がりの大正坂となるも一歩一歩と登らせ給う | ||
上野街道を御通御。一里ほどの御順路を経る | ||
10:30 | 潮岬燈台に着御。燈台事務所内の便殿に入御 | |
(便殿の「便」はくつろぐ意。行幸先で天皇皇族が休息するために設けられた部屋) | ||
玉歩を燈台の高塔に。(狭き石階68段、傾斜急なる鉄梯子) | ||
頂上の燈室に臨御 | ||
燈室を廻る展望用廻廊に出御。海上の壮観を御俯瞰遊ばさる | ||
燈台を御降りあらせらる | ||
天幕に入御。燈台用の燈器等を叡覧 | ||
構内の船舶見張り所に臨御 | ||
11:00 | 五町を東に隔つる潮岬無線電信局に向かわせ給う (無線電信局は望楼の芝の南隅絶壁近きにあり) |
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小松の若芽生い茂る白砂の道に玉歩を運ばせ給う | ||
11:15 | 無線電信局に着御。玄関右側の便殿に入御 | |
通信室に成らせらる。各種無線電信機を天覧 | ||
構内の海軍望楼跡に臨御(東経35度46分8秒、北緯33度25分32秒。本州最南端の地) | ||
玉歩を止め、南方遥かに大洋を御眺望遊ばさる | ||
(望楼跡は安政年間紀州藩に於て内外船舶の監視をなすため遠見番所を設けし処) | ||
(明治27年日清戦争に際し海軍望楼を設け、日露戦役の時海軍無線電信を装置) | ||
各藩船形図、異国船絵図、異国船攘払命令書、竹筒製望遠鏡等を天覧 | ||
11:50 | 海軍望楼跡を発御 | |
楠平見に設けたる天幕張りの簡素な御野立所に入御 | ||
御昼餐 | ||
五万坪近き緑の芝生を白浪躍る岸壁近くに沿い御散策 | ||
13:00 | 御野立所を発御 | |
御往路と同一の御順路を経て、潮岬村より串本町に入らせられ、 遥か右手に橋杭岩を望ませ給う |
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14:20 | 串本桟橋に着御 | |
艦載水雷艇に乗御、駆逐艦灘風に御移乗 | ||
御召替 | ||
大島村須江海岸に向わせ給い、灘風は須江海岸に投錨 | ||
伝馬船に御移乗 | ||
島陰の波静かなる処に御船を停め、箱眼鏡を以て海底を窺はせ給う | ||
珊瑚類を御覧ありて 「いかにも良く発達せり」 と宣い叡感斜ならず拝せらる | ||
(潜水の海士は、高野一一、田代角雄、井本四郎一、伊勢谷英一、小峰武平の五名) | ||
御採集品を陛下は一々御検索あらせ給う | ||
御船を須江白野の北側に移し参らす | ||
此処にても多数の採集品を御覧 「実に見事なり」 と御称讃 | ||
桟橋より白野に御上陸 | ||
17:30 | 白野を発御 | |
灘風にて御更衣 | ||
御召艦長門に還御 | ||
18:15 | 御召艇は白浪を蹴て湾内を真一文字に進み、御帰艦 | |
直ちに後甲板に出御 | ||
陳列の献上品、天覧品につき、40分に渉り説明を受け給う | ||
19:00 | 御召艦長門に於いて、海軍大臣晩餐会に臨御 | |
上甲板の会場へ臨御。側近の方々と種々御物語あらせ給う | ||
21:00 | 陪席の諸員一同、各自退下 | |
別室に出御 | ||
トルコ軍艦遭難救助者樫田文右衛門より、 遭難当時の思出物語を聞召さる(約20分間) |
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22:00 | 内閣奏請の諸政務を御覧 | |
23:00 | 御寝に就かせ給う |
2019年9月26日木曜日
昭和天皇 行幸日程 昭和4年6月2日 串本
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