2012年4月23日月曜日
かわにな 古川 2012 4 14
いい天気 四人がわいわい声をひびかせながら 歩いてあがってきた
カワニナ集めに川へ 網4 ゾウリ4 バケツ2 を持って古川へ
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| あき 水はまだ冷たい |
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| ももか |
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| ひろな はるな あき |
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| へんがおしてみて というと |
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| へんがお~ぉ |
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| ははは は |
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| ほんと ほんとの えがお |
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| 向こう岸まで |
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| またひきかえす |
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| ゾウリをはいているのに ぬぎたがる だいたんさ |
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| どんなこえをあげているとおもいます? |
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| こんどはだっしゅ |
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| このあみ 左白ふたつは10年前 右青は3年前のあみ あみをもっても うごきがたのしい |
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| ひろなが どどど |
2012年4月22日日曜日
恐怖のぶらんこ ロープが
バーベキューで昼食
放流 恐怖のブランコ ロープが
ホタル幼虫 恐怖のブランコ ロープが
12日茉映まな誕生。14日送別会。
16日東京、福江さん、巣鴨、コンフォートホテル、17日新宿歴博、後藤さん、巣鴨、望月百合子記念館、尾形明子講座、ボケと浅草立ち飲み、18日長野、湯田中、よろづや、林芙美子文学館、黒鳥正人さん87歳、19日角間温泉、志賀高原ロマン美術館、鈴木幸野さん、東京。
20日卒業式、22日尾道図書館、尾道東高校、林芙美子書簡、池田康子さん、24日拍案驚奇宴会、25日尾道研究室引っ越しレンタカ健豊。
2009年1月30日金曜日
文化フォーラム「林芙美子」 の反響

「林芙美子・魯迅・内山完造」の題名と林芙美子の写真は印象的だったようだ。問い合わせの電話がかかり、手紙が届き、小包までも届いた。いずれも、話を聞きたいが行けないのでどういう内容なのか知りたいというものだった。はてな、と不思議に思った。電話は東京からだったという。フォーラムのことが新聞に出たわけではない。なぜ東京に知れたのだろう。
数日して届いた手紙から謎がとけた。電話をした人からだった。尾道を訪れ芙美子の女学校をたずねたところ、尾道東高校でポスターを見たのだという。二十四日は行けないので発表文とポスター一枚を送ってほしい。NHKラジオの録音テープと、なんと寸志として紙幣が一枚入っていた。テープは今年の元旦に放送された「新春朗読への招待 林芙美子の世界」の録音で、姪の林福江氏が出演していた。
それを聞いていた時だった。こんどは男性の声で電話がかかった。林芙美子の講演があると聞いたが行けないから書いたものを手に入れたい。尾道に行った人が東京にもどってそう言っていたと別の人から聞いたのだという。どうやら新宿区では人づてに広まっているらしい。
八十を過ぎているというこの男性は、芙美子が教師になっていたらあのように若死はせず、教えながら小説を書くことができただろうに、なぜ小学校の恩師がそうさせなかったのか、その恩師も自身が苦労して教師になったのだから芙美子にもその道を歩ませた方がよかった。芙美子は戦争を書いているが、どこまで見てどこまで書いたのか、検閲の下でどのように筆を曲げたのか。考えを聞いてみたいと思い電話をかけたという。
放浪記から北岸部隊までかくも詳しく読んでいる人がいる。芙美子と聞けばすぐに行動を起こす人がいる。芙美子の魔力はすごいものだと思った。男性には後日出来上がる文章をお送りすることになった。
小包はこうだ。会場に荷物が届いたという連絡が入り、行ってみると段ボール紙で厳重に梱包された手作りの荷物があった。中には林芙美子記念館の紅葉と四季の花のパネル写真があり、新宿区発行の冊子「落合の追憶~落合に生きた文化人」や、芙美子一筆箋などがあった。送り手は冊子の作成者に名を連ねる女性で、来場する芙美子ファンにいろどりを添える品々を提供してくれたものだった。きれいな字で書かれた手紙には、尾道を訪ねた友人からフォーラムの事を聞いて送るとあり、いつぞやは記念館でお会いしましたねと書かれていた。そうだあの時の、とすぐに思い出した。落合の記念館を訪ねた私に林福江氏がまもなく来られますよと教えてくれ、邸内の小路でぶつかりそうになった女性を、この方が福江さんですよと引き合わせてくれた人だった。
2008年2月18日月曜日
高知県高岡郡窪川町志和に浜野春尾(ねえやん)を訪ねて 34年前 その三

年馬さんの家であることは疑いようがなかった。上がると座卓のまん中に大皿があった。両手を拡げなければ持てないほど大きな皿には赤い切り身が山のように盛られていた。土佐名物鰹のたたきだった。座ると「春尾の兄じゃ。食え」と言った。分厚く切られた鰹は噛んでもかんでも呑み込めなかった。塊のまま無理に呑み込んで次の切り身に箸をのばした。うまかった筈だが味は思い出せない。おいしい、嬉しい、腹を空かしている、と思ってもらいたい一心だった。
「兄妹九人がさっきの角の小さい家で住んどった」「食ったら墓へ連れて行っちゃろ」「春尾から電話があった。きっと行くさかいよろしうたのむ、と」「やっぱり来たか」
私の仕事やなぜ来たのかなど、少しも聞こうとしなかった。ねえやんがすべてを話しているにちがいなかった。
志和小学校の横の細い道を山に向かって上がると古びて小さい墓石がたくさん並んでいた。「先祖の墓じゃ。わしらの父親はこれじゃ」立ったまま指さすその墓石の前にしゃがんで両手を合わせた。ねえやんもこうしているにちがいない。
墓は、畑の畝と同居していたように思う。34年前は、一人が歩けるだけの小さな道が小高い丘をなでるように続き、農作物にまじって小さな墓石が並んでいた。下にはぎっしりつまった屋根が見え、向こうに海が見えた。
【写真】ねえやんと同級生 中央立ち姿の女性四人のうち右から二人目がねえやん
2008年2月16日土曜日
高知県高岡郡窪川町志和に浜野春尾(ねえやん)を訪ねて 34年前 その二

黒石から志和への道は驚きの連続だった。一本道の道路は田と畑と山の間をくねくねと曲がり、曲がる先々に一、二軒の家が現れた。海に向かって南下しているはずなのに、だんだんと家が少なくなる。道はついに森の中へ突入し、木々の枝に触れながら進む。ひと曲がりするごとに道は下りに入った。ハンドルをもどすと、もう次のカーブのために逆に回さなければならない。いけどもいけども森の下り坂で、まるで断崖の迷路だった。
木々の間から下の方に海と集落が見えた。断崖の真下に集落がありそのすぐ前には海が迫っていた。そこがねえやんの故郷、志和だった。
志和にはねえやんの兄、年馬が住んでいる。志和へ行ったら、そこへ行ったらええ、とねえやんは言っていた。家と家の間の狭い道を行くと小さな空き地があり、そこに止めて車を降りた。少し路地を歩いてみよう。きょろきょろと左右を見ながら歩いていると角に男が立っていた。その男は私を見ると近づいて来て「お前か」、「来い」と言った。えっ、なぜ、とも思わなかった。きっとこのひとが年馬さんなんだろ、と思った。
角から入ると道は右に曲がり、すぐにまた左に曲がった。同じような玄関が並ぶ家の間を行くと、まもなく家の前に着いた。引き戸を開けると前を向いたまま、「上がれ」と言った。
【写真】昭和31年伝染病ジフテリアに罹患し古座川病院で九死に一生を得て退院 白浜に戻った私に会いに来たねえやん36歳 柳橋通りクボヤの前で 電信柱の後ろは正木自転車店 写真が切られているのは 財布の写真を見つけた中学の同級生がこっそり抜き出し いたずらして切ったもの
2008年2月13日水曜日
志和から田邊のたえさんに電話
2008年2月12日火曜日
高知県高岡郡窪川町志和に浜野春尾(ねえやん)を訪ねて 34年前 その一
どれだけ志和のことを聞いたか。ねえやんは「一緒に志和にいこよ。いっぱいあわせたいひとある」といつも言っていた。とうとうねえやんはわたしを志和へは連れて帰らなかった。自分一人でも土佐に帰るヒマがなかった。そのゆとりもなかったからだ。
志和には34年前の1974年に初めて行った。一人だった。仕事で参加する大会が高知市であった。会場に少しだけいて、すぐに窪川まで車を走らせた。姉が全額を出して現金で買った中古のシビックだった。高知へ行くこと、志和へ行くかもしれないことを田邊のねえやんに伝えてあった。
窪川には電器屋をしている黒石の姉がいると聞いていた。国道56号から志和への県道に入ってしばらく行くと、道路脇に「窪田電器」と書いた店があった。ここに違いないと思い、店に入り、田邊のねえやんに我が子のように育てられたんです、と出てきた人にいうと奥から着物をきた女性が出てきて、疊の上に座った。黒石の姉だった。
ねえやんは行くと確信していたのだろう。行ったらよろしくたのむと電話が入ったという。女性は老齢に見えた。九人兄妹の末っ子のねえやんからすると長女の黒石の姉が老齢に見えたのは無理もないと今に思う。さほど大騒ぎをしてくれなかった。これから志和へ行きます、と告げて再び車を走らせた。

















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