2012年12月31日月曜日

【忘年会案内】ヨット部41歳のつどい

【忘年会案内】 ヨット部41歳のつどい

12月4日はションと恐羅漢スキー。25日はA助、ション、ひろしんハタチgalsと
官能スキードライブ。
とどまるところを知らぬ遊び好き。
ひたすら世間と家族の顰蹙をかっていますが、
  人生は悟るのが目的ではないです。
  生きるのです。
  人間は動物ですから。(岡本かの子)
だし、
もうこの先
  さしあたりたる目の前の事にのみまぎれて月日を送れば、
  事々なす事なくして、
  身は老いぬ。(徒然草)
の様子が見えて来ているし、
  死して花さく身にてもなし。
  命だに長らへば、
  又おもしろき事もあらん。(古浄瑠璃)
なんですから、
  常に未知のものへの漂白たる人生(三木清)
を積極的に生きている結果なのです。
いや実を言うと
  四十過ぎると、容易に友達はできない。(吉川英治)
というのが本音なのかも。

12月30日夕6:30 「浦島」(流川、新天地劇場横、シズラー裏、
新天地近Pから天満屋寄り)Tel:243-5768に決定。
21日現在参加者
  ウス、ダイ太、チン太、タビ、ション、円、
不参加者
  ボケ、ガニ松、A助、ノンちゃん、おから
未定者
  チョンボ、巨泉、アヲ、ベッティちゃん

告知板:A助、ボトルたのむ

1988.12.22 通信No.3


2012年9月30日日曜日

天中九組 与志 同窓会 50年  2012.9.17

堀口さんは 遅れるので直接与志へ行くと聞いてるから と 幹事のつじもと
じゃぁ ぼちぼち 行こか と 幹事のときだ
ほんの10分ほどで 十五の面影を ぷんぷん発揮しだした面々
全日空を出て 与志にむかって歩き出したのだけれど
ドアを通って出ていることに気付かないほど 話に夢中 
だれかの後をついて歩いたら いつのまにか北新地の道路を歩いていた

横にはありもとさん なんてはなしやすいんだろう
えぇ なに ほんま  と 相づちを打ちずめなほど 初めて知る事実
天中のときは 学校から帰ったら 自分がごはんを 作っていた
と ありもとさん

エレベータに乗り込んで3階へ



  * 日時  九月一七日(月祝)一四時より貸切   放歌高吟OK!


* 場所  与志   06-6345-2478


      大阪市北区曽根崎新地1-8―6   北新地山忠ビル3階

      (永楽町通り、御堂筋寄りの北側のビル)


* てっちりコース: てっさ・湯引き・唐揚げなど。早松茸も。

           ビール、ひれ酒、焼酎ほか。


* 会費  六千円(税込)


エレベータの中で かぶっていた帽子をとると 
や あるやないか
と みやい 帽子をかぶっているから 髪の毛がないと思っていたらしい
 う~ん ほんとは けぇ ないんや と 胸の内

与志は 若い夫婦の店だった
くちぐちに どこへ座ろ どう座ったらええんや と いうものだから
そんなもん 出席番号順や と ときだ
そのひと言で あっというまに あいうえお順の席が決まった

ビールがつぎからつぎへと 回って来て コップに注ぎ合い さあ 乾杯の準備OK
じゃあ 今日は一番遠くの東京から来た みやいさんに 乾杯の音頭をとってもらいましょう

つじもと 辻本は全員に電話をかけて 集合をよびかけた人だから みんなが賛同して
よっしゃ みやい いけ

乾杯まえのひとことは 50年振りのみやいのことば だから しーんと 聞き入る

インドネシアへ出張があったので 来るまいと思って北村に相談したら 北村は行くというので
予定をやりくりして 今日来た 
  おぉ~ と みんなのどよめき
つじもとくんには 御世話になった ほんとにありがとう
  おぉ~ そうや おれもや と 同意の声
それでは 乾杯っ
  かんぱいっ カチン カチャ チン の 音が 与志に響く




有本さんの演説に聴き入る 男子

堀口さんのアイサツに興味津々の 男子

2012年9月20日木曜日

天中九組 北新地「与志」 2012.9.17 同窓会

 ついに 春まだ浅く を 合唱する日が来た。
時田が書いた呼びかけ文は 格調高い 明治文語文


昭和三七年名門大阪市立天王寺中学を卒業してはや半世紀

恩師すでに亡く馬齢を重ね六十有余歳


ここに久闊を叙すべく下記の要領にて、


新地の酒亭に有志集まらんと欲す

往時茫茫、春まだ浅きを絶唱すれば青春未だ我にあり

敬老の佳き日、紳士淑女諸君萬難を排してのご参集を衷心より願ふべし。


飲み食ひ且大いに語りたく・・・




 呼びかけに応じて 東京から来たのは 北村 宮井 万喜ちゃん 大阪、奈良、京都、兵庫の近畿から集まったのは、有本さん、堀口さん、小林さん、清川、別所、末政、金井、上場、辻 そして、村田、岡、久保、そして幹事の時田と辻本。
 待ち合わせ場所は北新地に近い全日空ホテル。この日私は 広島から神戸に出て 古座の昔を語り合う家で一泊後 新快速で 梅田に到着。大阪の堂島を 歩いたことがなかったので 堂島の
適塾、公会堂 、市役所、北浜を 散歩してから 全日空へ行った。適塾は 建物が残っていて びっくり。撮影禁止と言われて がっかり。複製品が多いのに ええやないか。
 川向かいの堂島に 華岡青洲の医塾 合水堂 があったと思うので 行こうと思ったけど 緑の公園に なっていたので 行っても無駄 と思い 北浜向いて 橋を渡った。
 
 辻本と全日空で待ち合わせ、まだ早いので、近くのめしやに入って、二人で定食。おでん定食とウナギ定食。600円。
 ホテルにいると、村田が到着。ここまでは愛妻といっしょだったらしい。しかも有馬温泉の帰りという。ほんまにもう。
 すると、万喜ちゃんが かわいさいっぱいのまま 来て 合流。ロビーに 大声炸裂し始めて、他の客が どっかへ逃げ出した。
 誰が集まるかは 名簿で分かっているので 次来た奴は どいつや と 顔当てゲームに夢中になった。なんせ 15の春から 見た事もない やつ ばっかりやもん。
 小林さんが 堂堂の入場を 果たすと 有本さんが 中学のときのふんいき いっぱいに登場。
末政は 顔当てゲームで 即答といかなかった。眼鏡かけてるし、どっかですれちがう おっちゃんに似ていたから しばらく顔をみていたら、破顔した笑顔で 分かった。
 辻が登場した時は びっくりした。大きなってるし、体がごっついし、表情が高級紳士だったもんね。
 清川が 来た時は 末政と話をしていて 末政の背中ごしに 見たんだけれど すぐに 名前が出て来た。
 宮井が登場。みんなが わっと 宮井を囲んだけど 私は誰か 分からず 何度も 顔を見た。
 上場が登場。ぜんぜん変わってないので 直ぐ分かった。体の頑丈さも イメージ通り。
 北村が来た時は もうロビーが 大騒ぎになっていて 近づいて行けず。噂通り 巨漢になっていて 遠くから ちらちらと見た。
 自分の口に手をあてて 息を嗅ぐと どうも臭い。なんせ 前の晩 ニンニク効かしたビフテキ おごってもらったし。こりゃ あかん と思って、外のコンビニへ 歯ブラシ 買いに行こうと 座を離れると 時田が 入って来たのと すれ違った。時田がくると 猛烈に 皆のテンションが 上がって コンビニに行くの止めよか と思うも 口臭が気になって 歯ブラシに直行。


2012年8月5日日曜日

白浜 紀伊民報 白良浜にウミガメ 2012.8.1

【観光客見守る中で産卵 白良浜でウミガメ】

 白浜町の白良浜海水浴場で1日夜、ウミガメが産卵しているところを観光客が見つけた。
照明が明々とともる遊歩道やホテルのすぐ近くで感動的なシーンが繰り広げられた。
同海水浴場では昨年7月にも似た環境下で産卵が確認されており、專門家は「昨年と同じ
ウミガメの可能性もある」と話している。
 近くのホテルや旅館の宿泊客が、海水浴場北端の階段護岸に近い所で見つけた。
同海水浴場での上陸、産卵の確認は今シーズンでは初めて。
 甲羅の大きさは約90センチ。午後8時ごろ上陸したという。約2時間後に海に戻った。
 同海水浴場では昨年7月に4回、上陸と産卵が確認されている。このうち2回は観光客
らがはなびを楽しんでいる最中に上陸し、多くの人が産卵シーンを見守った。
 母親と産卵を見守った大阪市の金子真理奈さん(10)と龍一郎君(4)は「砂浜に
産卵するのは知っていたけど、どんな様子で産むのか知らなかった。間近で見る
ことができた」と声を弾ませた。
 ウミガメを飼育している串本海中公園センター(串本町)は「明るく騒がしい場所
に上陸、産卵するのは珍しい。昨年と同じ個体とも考えられる」と驚いている。

白浜 紀伊民報 読者の欄 「白浜町のゴミケアーはすばらしい」

紀伊民報 2012年8月4日 声 読者の欄
紀伊民報のweb投稿から 800字以内で文章を投稿したところ 翌日 紀伊民報の編集氏から 電話が入り 明後日の夕方の新聞に載せます と
掲載されたのは 声 読者の欄

【白浜町のゴミケアーはすばらしい】

 白良浜、権現崎、瀬戸、臨海浦、田尻、江津良を回ってゴミを拾い始めたのは、まだ梅雨が明けない6月下旬だった。朝6時、火ばさみとレジ袋を持って、高速歩行を始める。散歩の目的は、メタボ解消のためなのだが、白浜温泉が世界にほこるこの美景スポットには、訪れた人の余韻が必ず残る。その余韻を片付けるのが、もう一つの目的だ。余韻とは、ほかでもない、タバコの吸いがら、あめの包み紙、ストローのことだ。
 梅雨が明けると、白良浜、臨海浦、江津良浜には、海水浴を楽しむ人がどっと来た。白浜温泉の住民としては、これが一番うれしい。よくいらっしゃいました、あのね、ここはデビューしたての勝新太郎と中村玉緒がロケをした場所ですよ、と遠来の客に言いたくなる。
 人が増えると、ゴミも増える。そう思ってレジ袋を大きくしたが、意外なことに、ゴミは少しも増えない。それどころか、前の日拾い残した大きなゴミが、今日はなくなっている。つまり、美景スポットのゴミは、せいぜいタバコの吸いがらかあめの包み紙くらいなのだ。
 なぜなのだろう。不思議に思いつつ、白いフィルターを見つけては、ストレッチをかねた前屈姿勢で拾っていた。そんなある日の朝、大きなナイロン袋を手に、しゃがみこんではゴミをかき集めている二人の男性を見た。江津良の浜でである。道路には軽トラックが駐まっていたから、白浜町が委託した人たちだとすぐに分った。
 白良浜と臨海と江津良が受け持ちの二人は、毎日ゴミを集めて回り、浜辺の小さなゴミは手で拾うという。道路には道路の担当者がいて、椿から白浜までを巡回してゴミを拾っているという。だからなのか。私が拾い残したゴミが翌日には消えているのは。
 けど、見落としがあって小さいゴミはなかなか片付けられないと、いかにも申し訳なさそうに言う二人のアゴからは、滝のように汗が流れていた。
 大丈夫です。小さいゴミは任せなさい。
(久保卓哉)

2012年7月19日木曜日

白浜 臨海浦にアオウミガメ 50年ぶり テント野宿のドイツ青年 Mathias Kirf 2012.7.17


記事を書いたのは紀伊民報の沖本真孝氏

紀伊民報
写真説明

ウミガメが産卵したとみられる場所を指差すマティアス・キルフさん(右)と久保卓哉さん=白浜町、臨海浦海水浴場で

写真説明

海に戻るウミガメ。後ろのテントはキルフさんが寝ていたテント(17日午前3時半ごろ、臨海浦海水浴場で)

<臨海浦にウミガメ テント泊のドイツ人目撃 白浜>

白浜町の臨海浦海水浴場で17日未明、ウミガメが上陸しているのを砂浜でテント泊していたドイツ人のマティアス・キルフさん(33)が見つけた。町は砂浜を掘らず、産卵したとみられる場所にロープを張って保護している。キルフさんは「自然との素晴らしい触れ合いができ、感激した」と笑顔で話した。

キルフさんはチューリッヒ工科大学(スイス)の博士課程で海洋環境科学を専攻。8~13日に大津市であった先進陸水海洋学会に参加した後、白浜町に来ていた。

ウミガメを見つけたのは17日午前2時ごろ。「ハァー」「フー」と聞き慣れない音で目が覚めた。ウミガメが上陸しているのを見つけ、明かりをつけずに観察を続けた。約1時間半後、海に戻ろうとした時に写真に撮った。

キルフさんは白浜町を訪れたのは初めてで、4日間で潮岬や熊野の各地を自転車で回る予定だった。途中で無理と判断し、白浜に戻った夜にウミガメに出合ったという。

「ウミガメを見たのは初めて。辺りが暗く、初めは怖かったが、産卵場所を探していると分かり、静かに見守った。各地を回れなかったのは残念だが、ウミガメと出合えたので満足」と話した。

同日早朝、浜でごみ拾いをしていた久保卓哉さん(65)=同町瀬戸=にたまたま出会い、英語が堪能な久保さんに一部始終を伝え、久保さんの知り合いが町に連絡した。

同町ではここ数年、白良浜海水浴場や同町中の浜などでウミガメの上陸、産卵が確認されているが「臨海浦海水浴場での上陸確認は記録がない」と町観光課。臨海浦海水浴場のそばで50年以上住んでいる雑賀信也さん(86)は「かつてはよく上陸、産卵していたが、ここ40、50年は見たことがない」と話している。(沖本真孝 記者)
紀伊民報がニュースとして報道
2012.7.19夕方届いた 紀伊民報の第一面

2012年7月15日日曜日

天中九組 榎原慎之助先生 殴られた思い出 岡の語り

天中九組 1年 遠足 この場所はどこ? 
いよいよ、半世紀ぶりに再会する宴会をもつことがきまった。その日は9月17日。
参加人数は15名。 上場、岡、金井、川口、北本、久保、辻、辻本、時田、別所、村田、有本、小森、堀口、松村 (2012.7.16)

榎原慎之助先生の写真は 遠足、修学旅行のクラス写真のなかにあった。
この写真の中で、頭ひとつ出た人が 榎原先生。
榎原先生の前に立つ三人は、中原、井上、名合。
若くてかわいい 金銅先生は前列右から2人め。
金銅先生がいっしょだから、1年生の遠足だとおもう。

しかし、ここは、どこだろう。場所は、もう忘れた。

一年生に入学した最初の日に なぐられた岡に 順番がまわった。

こんどは おれか。繊維会社をやってて、いまは繊維から手を引いたけど、息子に会社をやらせてる。クラボウの社長とか、ユニクロの柳井とか、取引あった。
今は、のんびりと、飛鳥で世界一周。来年もまた、飛鳥で行くで。

ええ?飛鳥って、ダンスせなあかん、タキシード着なアカンのんと ちゃうか。

そうや。ダンスするがな。途中でガラパゴスへ行ったりしたけど、そのオプション一人、120万やで。そんなん、日本から行ったって そんなにせえへん。ぼったくりや。

ええ?ほなら 飛鳥は一人なんぼ。

一人、680万や。二人で行ったさかい、なんやかんやで、二千万つこたわ。

ええ? ほなら おもろい話あるやろ。船のなかで。

ありまっせ。航海中に、三組の夫婦が別れて、二組のカップルができた。

ええ? どっちも あたらしい女や男ができたんかいな。

そういうこっちゃ。80過ぎたおばちゃんなんか、ダンスのインストラクタとできて、船内で問題になったんで、そのダンスの先生規則違反やから、船からおろされてん。そのとき、これもって いき いうて、さらさらと1000万の小切手書いて、その男にやりよった。

ええ? 楽しんでるなあ。


2012年7月12日木曜日

天中九組 榎原慎之助先生 殴られた思い出 ED

榎原慎之助はこんな人 という すべてが映っている写真

白浜温泉 臨海裏の浜辺 波に向かって石を投げる少女 午前6:30
おいちょっと まて 
どや 
卒業後のこと たがいに知らん
順番に半世紀のことを しゃべれへんか
と 岡
よっしゃ だれから いく
すわってる順番や

ほなら おれからか

おまえどこで仕事しとってん と 岡

電通や

えっ でんつうかいな

でんつうのクリエイティブやさかい 番組作ったり コマーシャル作ったり タレントつこうたり タレント連れて行ったり こわい筋の相手したり そりゃもう おもろい話なんぼでもあるわ

この おもろい話のさわりの話も聞く暇がないほど あれこれ刺激豊富な話題で 半時間

つぎ 

おれか おれはまじめを絵にかいたようなもんや ときた と ちごうて
小田和正のおっかけやってて 女房 むすめ と 一緒に 日本全国 あっちこちいってる
このまえも 北九州へいってきた
なんせ なんの経験もあれへん


  あのな 医者はいろいろあるねん あれへんわけないやろ


ほんま 中学時代は声変わりもまだやったし 140センチ代やったし


  そや おれも声変わりしてなかった


この まじめ絵一枚のなかで おおとり高校時代の 進路の迷いもかたられて やっぱり 半時間


つぎ


つぎは おれや おれは ふせ高でブラバンばっかりやってて アメリカにいってん ことば全然わからへんのに むこうで 綿摘みなんか 黒人と一ショにやったで


  そうか 苦労してんな


英語分からんかったけど 物理が役に立ったわ アメリカの奴ら 物理の初歩が分かってへんねん
黒板に先生が書く 物理の式は いっしょやから 分かる
問題をすらすら 解いたら みんなから一目おかれた


むらたに入ってからは アメリカに行くときは ファーストクラスや 向こうへ行ってたときは
女房と一緒に ゴルフ ゴルフ や


中学時代の思い出から 最後の勤めまでの 豊かな人生が 語られて やっぱり 半時間




  

2012年7月8日日曜日

大逆事件は生きている  ドキュメンタリ映画 90分 完成する











































 大逆事件で幸徳秋水、管野須賀子、森近運平、そして新宮の大石誠之介、成石平四郎らが、各地から東京に連行されて、処刑されたのは、今から、101年前の1911年(明治44年)1月であった。

この100年のあいだに、つぎからつぎへと、埋もれた資料が見つかり、大逆事件の真相が明らかになった。

まさに、大逆事件は生きている、といわざるをえない。
投獄された彼等は、今や墓石と土になっているが、事件そのものは、今も生き続けている。

映画がついに完成した。全国に残る大逆事件の影を、ひとつひとつ映してまわり、厖大なフィルムを、それでも、90分もの長編に編集した映画が、ついに完成した。

そのしらせが 演出家の、田中啓女士からとどいた。


映画が完成したのでお知らせします。
ヒッチコックの映画のように、チラチラッと姿を見せています。
ワンちゃんとの後ろ姿は、知ってる方でないと気が付かない
貴重なシーンです。

高知県幡多郡中村の生地にある幸徳秋水の墓石にぬかづいて、両手を合わせたのは、2011年9月24日であった。
その時、すでに墓石のまわりには、映画カメラをかまえた男性数名と、一人の女性がいた。
その女性が田中啓氏で、撮影の対象や構図を、指示していた。

撮影の邪魔になってはいけないと思い、墓石の前から立ち去ろうとすると、ワンちゃんもいてちょうどいいかも、
お参りの樣子を撮らせてくださいますか、普通にしていていただいてでいいですから。

そのシーンが 映画に出ているというわけだ。

2012年7月5日木曜日

天中九組 榎原慎之助先生 なぐられた思い出 吉井 金山 名合

榎原慎之助先生 36歳 美術 二科展出品 入選多数
坂田俊一郎は 榎原先生を彷彿とさせる
梅ちゃん先生(NHK)の さむらい開業医だ
世良公則が 好演
権威や力が 嫌いで 自分を飾り立てず 許しがたいことには
身体を張って 行動する
こんなにいい役者だとは 知らなかった

榎原先生に入学初日に殴られた 名合は 明るく円満な人間だった
高校になると 与太歩き、ワルぶり、が 名合そのものになったらしい

この頃にワルになったやつ だれとだれがいるんやろ
ワルぶったやつの 列伝を 作るとおもしろい
中高生のときに ワルぶった経験を 持つやつこそ 好ましい人物となる

吉井は なんでも暗算で あっというまに計算しとった
あいつ 大倉高校へ行って 先生からも友だちからも一目おかれた
職業の時間かに 貸借対照表の時間あったけど 計算はいっつも吉井が ○○です というたら 先生は 吉井が言うのやったらまちがいない と いっつも そのままにしとった

高校のとき 友だちとボーリングへ行ったら 一緒に行った友だちが レーンの向こうで かつあげに おうとってん
そっちみたら かつあげしとんの 金山や

ええっ あいつ 順調に ワルになってたんやな

そんでな 金山のとこへ行って かなやまこいつらおれの友だちや かんにんしたってや て中にはいってん

ほんで かんにんしてくれたんかいな

かんにんしてくれよった

2012年7月4日水曜日

天中九組 榎原慎之助先生 なぐられた思い出  万喜ちゃん 吉井 名合

榎原慎之助先生 時田 上場 板井 田中 小山 北村
梶本さん 林さん
天中に入学した最初の日に おれ 榎原先生になぐられた
腕時計していったらあかんかったのに おれと
名合がしとってん
名合は赤目の瀧から通いで おれは和泉やから 腕時計いるねん
そしたら 榎原先生に 二人とも バンっ て殴られた
手加減なしやった

おれがいちばん 殴られたやろ
なんかあったら 殴られた
あの 地下の部屋へ呼び出されたとおもたら
殴られた

おれも殴られたで
美術部やったし しょっちゅう榎原先生の部屋へ 行ってた

おれも殴られた

おまえ はどうや

おれは一遍も殴られてないで

あのな 殴られてへんていうのは 相手にしてもらえんかったちゅーことや

一番印象にのこってるのは 万喜ちゃんや
おまえら覚えてないか げぇ吐いたやつおったやろ
あのときな あのこすごいとおもた

覚えてる
榎原先生のホームルームかなんかのとき 中原が 机の上に ドバ-て吐いてん
その時 榎原先生が だれかなんとかせえ て いうた

あのとき榎原先生 おれらを試してたんやと思う

万喜ちゃんが 私やります ていうて 保健室へ行って
十能に灰をもらってきて 吐いた上にまいて それを集めて捨てて
机の上を 雑巾でふいた

あのこ へいきで やってた

榎原先生も 万喜ちゃんならやると しってはって だれかやれ と いうたんやろと 思う

あのこ 好きやってん おれ

おれも 好きやった あの子の家の前 いったり来たり したことあったで


2012年7月3日火曜日

天中九組 榎原慎之助先生 なぐられた思い出  半世紀の飲み会

醉心に入ると一番奥まで案内された
通路両側の部屋仕切りがあるだけなので どんなグループが
飲んでいるか 見える
おどろいた
まだ6時なのに 仲間同士で怒鳴りあい 酒が入って 大騒ぎ
自分達 半世紀ぐみは 負けてはおれん
もっと 騒いでやる

席には 一番奥から辻本、村田、時田 向かい合った奥から岡、久保
奥まで案内のアルバイトの女子学生が メニューを配る
  まずは 生 5つ
これは即断
料理の注文は 時間がかかった
  なんでもええ 適当にいこ
  あかん 野菜や
  ほな まず 「ジャコおろし」 これ ふたついこか
  「サラダ」 この盛り合わせ これ ふたついこか
  刺し身 の盛り合わせ 刺し身食いたい

お刺身は「豪華」「お楽しみ」「そこそこ」の三種類がございます と女子学生
 
             一瞬頭の中で熟慮がめぐって 全員沈黙 「そこそこ」ははずして
「豪華」と「お楽しみ」がぐるぐる回る
   ほんなら「お楽しみ」でいこ
と 時田の決断 みなの顔に安堵の表情
   おれは ローストビーフ 食いたい
辻本が 肉を食うという
   あほか まだ肉食いたいんか辻本は しゃあない ローストビーフ ひとつ

半世紀は 全員を健康志向にしていたのだ 
この半世紀に 何があったのか 
聞くのがたのしみ

「ジャコおろし」は 耳に聞くと 酒のさかなの洒落た名前
しかし、出て来たのをみて びっくり
小鉢の器に 大根おろし その上に 干物のジャコが ぱらぱら
このジャコおろしが 来ると 一斉に箸が集まった

2012年6月28日木曜日

天中九組 榎原慎之助先生 なぐられた思い出     昭二、卓哉、勇二、泰士、宏 半世紀の飲み会 2012 6 24



  2012624日(日)天中九組の男子5名が卒業以来初めて京都タワー一階スターバックスで待ち合わせ。
昭和37年以来だから五十年ぶり。半世紀もの年月が経っている。

きっかけは卓が出した2通の絵はがきだった。「退職して白浜に引き揚げる。途中で京都に寄るから、京都で会えないか」年賀状で住所が分かっているものの、電話が分からず、分かってもかける勇気がない卓が、遠慮ぎみに出したはがきに、勇から電話があった。


「何回お前が書いたアドレスに送っても返ってくる。どないなっとんねん」半世紀はふっとんだ。「ktktあっとマークで、マイルドオシエンドットエヌイドットジェピやろ」
「ちがうtktkやで。ktktとちがう」
「お前ktktてかいたあったやないか」
「はっはははは、すまん、すまん。おっかしいなもうぅ」ますます半世紀はふっとんだ。
半世紀
左より 宏、勇二、泰士、昭二、卓哉

<すいしん>のカメラマン

芋焼酎 2本
 はがきが届いたのに連絡しない泰は、もしかしたら今海外かと思いながら、泰に電話。
「はがき見てないか」
「なんのことや、下へおりてないから郵便受け見てない」半世紀はふっとんだ。
「あのな、京都であいたいんや」
「ええで、京都のどこにしよ・・。あそこにしよか、京都タワー一階のスタバ。あそこなら、座って待ち合わせできるで」ますます半世紀はふっとんだ。

 京都で会うなら、宏にも声をと、賀状の束から宏の電話をさがすも、やっぱり住所だけ。和泉、医院、むらた、で 検索すると、二件ヒット。「もしもし、そちらの先生はむらた宏せんせいですか」
「いいえ違いますけど、どんなご用件ですか」
「天中の同級生なんですけど、むらた宏せんせいを探しています」
「ちょっと待ってください。聞いてみます。・・・・もしもし、弟さんです。ここはお兄さんの医院です」
「えぇっ! 番号わかりますか」
 聞いた番号にかけると、診察中なので、こちらからかけなおすそうです、と女性。
電話を切ってしばらくすると
「もしもしどないしたん。えらいひさしぶりや」
「おぉ、ときたとつじもととあうんや。お前時間ないか」
「いつや。行くで」半世紀はふっとんだ。
「京都や、遠いで」
「行くで。おかも呼ぼか。あいつとはちょいちょいおうてんねん」またもや半世紀はふっとんだ。

 18時が待ち合わせ時刻。
17時、勇からTel
「乗り換えで10分に着くから、そっちへ行くのは15分頃になるわ」


  17:50、泰からTel
「もう来て待ってるよ」
今向かいの横断歩道で信号待ちや、すぐ行くで。

 信号が変わってスタバに向かうと泰が手を上げて待つていた。
おォ、と話しながら、周囲を見ると、立っている一人が眼に飛び込んで来た。
おォ、むらた。
「もうだいぶ前から来て待っててん」


三人で話していると、ビルの中から近づいてきたのは昭二。
「地下で風呂入っててん、早めにきたさか、風呂でも入ったろ思て。今日は誰がくるねん」

 スタバから信号近くに移って待っていると、勇が後ろに来た。すぐに泰が考えていた<すいしん>へ移動。

2012年6月20日水曜日

ホタル産卵 成虫終る 産卵の苔を野外に 2012年6月20日

ホタルの産卵とふ化で これからの時期は 水分が欠かせない
霧吹きで 水分補給
ところが うっかりすると カラカラに乾燥させてしまう

だから今年の夏は 苔を ネットに入れて 3つに 分け
水が流れる水路の上に ネットを置く
ネットには 如雨露で 水をかけ
ふ化が 始まると ふ化した幼虫は 水路の中に
水路の中では カワニナが 増殖しているから
ふ化した幼虫は 水路の中の カワニナ稚貝を 食することができる

こういう方法で 一年間の飼育を行う予定
生存していた♂一匹 水路の岩で光っている

ネットの中に産卵した苔1

ネットの中に産卵した苔2

ネットの中に産卵した苔3

鉄のメッシュかごを 水路に置いて 中に 産卵苔のネット

二日に一度如雨露で水をかける

一番奥に 水路

水路手前のホースは鯛の迫川から引いた水



2012年6月17日日曜日

ホタルのポスター わたし林芙美子のポスター



ホタルのポスター と 林芙美子のポスター

鯛の迫川は 山あいの谷を流れる 小さな川

急坂を下る 高校生の自転車が 曲がりきれずに 転倒

急坂を下る 川の水も 曲がりきれずに 川からあふれて 梅雨どきは たいへん

飛んでいたホタルが 護岸工事のたびに 少なくなって とうとう 全滅

ところが 人の手で カワニナと 幼虫を 川に入れると ホタルが 復活

活躍したのは 川で遊ぶ こどもたち
川に入りたい こどもたち
ホタルのポスター3枚は 安東小4年生 作
「わたし林芙美子」は志賀高原ロマン美術館の
すずきゆきの さん 作

いつのまにか 600人の行列ができるほど 

人づてに ホタルが飛ぶ川 知れわたる

こどもたち が 描く 絵は 楽しい
ホタル、岩、水、草、

ゴミを捨てないで の 警告もあって おとなはタジタジ

「わたし林芙美子」のポスターは 全国博物館美術館ポスター展 の 本年度最優秀賞 に選ばれた(?) ポスター

志賀高原ロマン美術館の すずきゆきの さん作

2012年6月14日木曜日

石川啄木の母校 渋民小学校 への 手紙


石川啄木  ①
初めてお便りをする非礼をお許し下さい。
  去る六月十五日(土)、石川啄木の足跡を求めて貴校を訪問いたしました。鶴飼橋から校庭に入ると、校歌が刻まれた石碑がありました。石碑を前に佇んで、<春まだ浅く月若き 生命の森夜の香に>と刻まれた文字をたどりながら、いつのまにかメロディをつけて歌っていました。啄木の詩が渋民小学校の校歌となっていることを初めて知ったのですが、私にとってもこの歌は、四十年もの間口にしてきた歌でした。
  校舎を見ると、男の子の姿が見えました。植木の茂みをかき分けて、かの啄木の遙かなる後輩である男の子に声を掛けました。
 「おじさんは遠くから来たのだけど、啄木の校歌の碑を見て歌ってしまった。
  今もこの校歌を歌っているの? だったら歌ってみてよ」

石碑 渋民小学校校歌
3年生の女の子
5年生の男の子


















  五年生ですといった明るい表情の彼は、恥ずかしそうにですが、しっかりと<春まだ浅く月若き 生命の森の夜の香に>と歌ってくれました。
  その声を聞いて、教室の窓から女の子が顔を出しました。教室の中にはもう一人、机で絵を描いている女の子がいました。顔を出した女の子は、校歌を歌ってくれた男の子の妹でした。土曜日は学校が休みだから、今からお母さん達と活動をするのだと、説明してくれました。

雲は天才である 原稿 ②
  今となっては不思議な話ですが、大阪の天王寺中学校で学んだ私は、中学時代の三年間、啄木のこの歌を歌ってきました。三年間クラス替えもなく、担任も替わらなかった私達は、「これがわがクラスの歌だ、覚えろ」と半ば強制的に、覚えさせられたのでした。

   春まだ浅く月若き
   生命の森の夜の香に
   あくがれ出でて我が魂の
   夢むともなく夢むれば
   さ霧の彼方そのかみの

   希望は遠くたゆたいぬ

   「自主」の剣を右手めてに持ち
   左手ゆんでに翳す「愛」の旗
   「自由」の駒に跨がりて
   進む理想の路すがら
   今宵生命の森の蔭

   水のほとりに宿かりぬ

榎原慎之助 先生
天王寺中学
  担任の榎原慎之助先生は、野性的な美術の先生で、校長や同僚への気兼ねを一切しない、自由の気概にあふれた人でした。当時その先生は、なぜこの歌を歌わせるのか、その意義を説明してくれたはずなのですが、いま覚えていないということは、歌う意義よりも、ことばの美しさと語調のよさに心を奪われていたからだと思います。
  しかし、石川啄木が初めて書いた小説は「雲は天才である」だ、お前読んだか、などとクラスで言い合っていたことからすると、榎原先生は、石川啄木の「雲は天才である」の中に出てくる詩だと、説明してくれたに違いありません。
  なぜ、啄木の歌を私達に覚えさせたのか、昭和41年に、まだ41歳の若さで死んでしまった先生に、ぜひとも聞いてみたいものですが、おそらく先生は、啄木の詩に現れた、燃える希望と、遙かな未来と、強者にひるまずに進む気概と、山よりも大きい情熱とを、私達に持たせたかったからだと思います。 
  これらは渋民小学校の石碑の前で、突然わき上がってきた感情でした。私は天からの雷光に刺し貫かれたように、石碑の前に立ちつくしていました。
  高校に入って、岩波文庫の「一握の砂」を持ち歩き、岩波書店の「啄木全集」を買い、ローマ字日記までも読んだ私は、自分では気づかないまま、中学時代の榎原先生にそうなるように仕向けられていたのでしょう。今55歳となった私は、首を垂れて先生に感謝しています。

    やはらかに柳あをめる 北上の岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに

北上川を見るのが私の願いでした。

    故郷の山に向ひて いふ事なし 故郷の山は有がたきかな

岩手山を見るのが私の願いでした。

    石をもて追はるるごとく ふるさとを出でしかなしみ 消ゆる時なし
    かにかくに渋民村は恋しかり おもひでの山 おもひでの川

渋民村に行ってみたい、それが私の願いでした。そして、

    その昔 小学校の柾屋根に我が投げし鞠 いかにかなりけむ
代用教員を務めた二十歳の啄木の渋民尋常高等小学校を訪れることは、もはや叶うまい、と半ば諦めながらも、いつかその時が来るはずだ、と渋民への思いを燃やし続けていた私でした。

常光寺 
啄木誕生の部屋に伝わる立て屏風
  盛岡大学での全国漢文教育学会に参加した私は、一度も盛岡大学で降りずに渋民村に通いました。ようやくその時が来たのですから、学会どころではありません。啄木が生命の森だと言った愛宕山を歩き、鶴飼橋の下に降りて北上川の水と川原石に触れ、生誕の地、常光寺を訪ねました。
  常光寺では思わぬ収穫がありました。それは、啄木誕生の部屋とされるところに鎮座する桐の櫃(ひつ)と立て屏風でした。櫃には墨書の箱書きがあり、屏風には変体仮名の書が表装されています。ご住職にお尋ねすると、屏風の書は何が書いてあるのか分からないというので、写真をとって持ち帰り、拡大して解読したところ、変体仮名の書は、紀貫之と、よみ人しらずの和歌二首であることが判明しました。

      徒ら遊支                                              つらゆき
桜ちる木能下風の寒可らで                   桜ちるこのした風のさむからで
    そら尓志ら連怒雪ぞふ里介利      そらにしられぬ雪ぞふりけ

               よみ人志ら数                                       よみ人しらず
              足引の山路尓ちれる桜花                      あしひきの山ぢにちれる桜ばな
              消せ怒春能雪可とぞ見る                      きえせぬ春の雪かとぞ見る


いずれも桜の花を歌っています。櫃の墨書とともに、楷書に直して、常光寺のご住職にお送りしました。

  しかし良いことばかりではありません。心が痛んで茫然となり、空を仰いで嘆息したことがあります。愛宕神社の麓にある、啄木代用教員時代の尋常小学校の跡地を訪ね、愛宕の森に入った時です。
  宝徳寺に続く山道の樹木が伐採されて無惨な姿を見せていました。国道からもそれは見えて、荒涼としていました。啄木が愛した渋民の山容を、いとも簡単に変えてしまう無神経さに愕然としました。
  暗澹たる思いで山道を降りていると、山道を清掃する人々と会いました。いずれも地元の方で、一線を退いて渋民に戻り、故郷を守るために奉仕している人々でした。
  私は、やや憤慨して森林伐採を抗議しました。すると、愛宕の森の下に住居を構えた住民が、樹木の落葉が家に降りかかる上、日当たりが悪いと山の持ち主に訴え、やむなく森林を伐採した、ということでした。
  なんと住民の人々は、樹木を伐らせて落葉の減少と日差しの増加を獲得した代りに、動物と鳥たちのすみかを奪い、森林の生態系を破壊し、景観を醜くし、なによりも渋民村の歴史と文化を抹殺したことになるのです。
  私が住む家のまわりよりも、遙かに日当たりが良い所でした。住宅に近い山林の樹木は、放置しておくと危険ですが、十年ごとに大木を間伐すれば、すばらしい里山として共存できます。
  
  もうひとつ、暗澹たる気持になったことがありました。
  渋民村のバス停の横に立てられた、開発整備事業を宣言する計画図です。その図で塗りつぶされた区画には、広い道路が通り、商店や住宅が整然と建ち並ぶのでしょう。コンクリートと、整備された歩道と、作られた公園と、道路わきに作られた花壇。見た目がきれいになるに違いありません。
  全国どこへ行っても、同じ街が出現しています。県や市の整備計画は、全国一律の図面で引かれていると思えるほどです。
  渋民よ、お前もそうなるのか、と思わずそのトタン板をバンバン叩きました。広い道路が貫けば、その途端、住民のつながりが稀薄になります。車がスピードを落とさずに走り抜け、騒音と埃だけが残つて、住民は扉を閉めて家に籠もるようになります。これは日本全国で発生している現象です。
  尋常小学校の子供にストライキをさせ、課外授業で小学生の子供に英語を教えた啄木の精神を継ぐ人は、今、渋民村にいないのでしょうか。

    ふるさとに入りて先づ心傷むかな 道広くなり 橋も新らし

  啄木の心の傷を さらに痛みつけていると気付く人は、今、渋民村にいないのでしょうか。
  渋民小学校の校歌の石碑の前で熱く感動して落涙した私は、同時にまた、渋民を離れるバスの中で、失望と憤怒に拳を握りしめる私でもありました。

  贅言を弄して、申し訳ありません。貴校の生徒さんに写真を渡して下さいとお願い申し上げることが、敝札の目的でした。わたくしを温かく迎えてくれたあの子たちの笑顔に接して、渋民が生んだ若き世代の健全さに嬉しくなり、ああ渋民の風土はいい、と思ったことをお伝え下さい。
  久保卓哉画像引用文献
①②③④『石川啄木入門』 監修 岩城之徳 編集 遊座昭吾・近藤典彦 思文閣出版 平成4111日発行

⑤『啄木写真帖』 吉田孤羊 著 乾元社 昭和二十七年八月三十日発行

北上川 鶴飼橋 姫神山 啄木歌碑 
川下側から川上を見る
 ⑤
 
現在の鶴飼橋 北上川 
正面の丘に啄木歌碑 
川上側から川下を見る (2002.6.15)
 
17歳の啄木 ④
啄木生誕の常光寺
啄木処女詩集『あこがれ』 ③

2012年6月13日水曜日

えじそん食べなくなって5日め 18歳 2012.6.13

えじそん18歳 今年も6月になると 食べなくなった 今日で5日目   2011年も 2010年も 2009年も 同じように 6月になると 食べなくなる
牛乳も少し鼻を近づけるだけ
柔らかい魚の缶詰も 鼻でかぐだけ
モモの方が 魚の缶詰に 興味津々
けれども 7月になると 食べるようになる
去年もそうだった 一昨年もそうだった
だから 今年も 同じにちがいない



















2012年6月10日日曜日

横山大観の書簡 角間温泉高島屋旅館 高相芳之助 昭和5年

信州 角間温泉 高島屋旅館に泊まったとき (2012年5月26日)
女将さんの部屋にかかっている 横山大観の書簡を見せてもらいました
旅館の創立者は女将の祖父で この祖父高相芳之助が 旅館経営とともに
角間温泉の振興をはかる活動をしていたようです

横山大観を角間温泉にゆかりのある文化人とするため
角間温泉に「嶽心荘」という大観の別荘を建設し 角間に住んでもらおうと
したことがあったようです
その際に交流があった横山大観から 高相芳之助に宛てた書簡が
この扁額でした
以下に 解読した例を示しておきます



啓上
寒気嚴敷候處愈ゝ
御機嫌克久大慶之至ニ存候
扨て来る四月伊太利國ニ於テ
現代日本畫展覧会開会ハ多
され候ニ付て者野生も之ニ携は
りて渡歐致候事尓相成来る

二十七日午前十時東京驛出発
三十日神戸解纜白山丸尓
乗船旅程ニ上り候筈二御座候
隨つて此處半年程自然御
無沙汰申上候事ニ相成申上べ久
何卒不悪御諒承願上候
実者拝趨之上親し久御暇乞も
申上べき筈之處ニ候得共出発
前何角多用ニ取紛れ居候間
乍失礼書中越以而右御
挨拶申上度如此ニ御座候
          草々
昭和五年一月廿日
        横山大観
高相芳之助様

高島屋旅館創業者 高相芳之助 に宛てた 横山大観の書簡 (高島屋旅館蔵)

角間温泉バス停 便数は湯田中駅行き6:23一本だけ
湯田中から到着するバスは 9:22 13:22 17:22 三本だけ
左の坂を行くと 嶽心荘 すぐそこ

嶽心荘

横山大観揮毫の扁額




『興隆寺隠寮の歩み』 角間温泉の歴史
横山大観と嶽心荘 について詳しい