赤門前で見た大逆事件の号外 - 周作人の『知堂回想録』-
はじめに
魯迅と周作人の周氏兄弟は、ともに日本に留学した清国からの留学生であった。
魯迅は明治三十五(一九〇二)年に来日して東京の弘文学院で二年間日本語を学んだ後、仙台医学専門学校に入学した。
その細菌学の授業中に、日露戦争で日本兵が中国人を殺害する場面と、それを「見物に来た連中」を幻灯で見た時深い衝撃を受け、「彼らの精神を改造」しようと医学から文芸に転じたことはよく知られている。
明治三十九(一九〇六)年三月、仙台を退学して東京に戻った魯迅は、ドイツ語を学び、ロシア、東欧文学を読み、「摩羅詩力説」「文化偏至論」などの文学論を書き、周作人との共訳書『域外小説集』を出版して、文学活動を実践した。
七年間の留学を終えて帰国したのは明治四十二(一九〇九)年八月であった。したがって、大逆事件が起こった時、魯迅は日本にいなかった。
一方、周作人は明治三十九(一九〇六)年に来日した。
来日した時は兄の魯迅と一緒だった。魯迅は仙台を退学して東京に戻っていたが、母の命に従い朱安と結婚するために一時帰国し、留学する周作人を日本に連れて来たのだった。
魯迅が下宿する伏見館(湯島二丁目)に周作人も下宿した。
翌明治四十(一九〇七)年三月に周氏兄弟は伏見館から近くの中越館(本郷区東竹町)に移り、この秋周作人は法政大学清国留学生予科に入学した。
その翌明治四十一(一九〇八)年四月には中越館から本郷西片町十番地ろノ七号に転居した。
ここは夏目漱石が明治三十九(一九〇六)年十二月から九カ月間居住した家で、許寿裳と周氏兄弟、朱希祖、錢家治たちは五人で住んだことから「伍舍」と名付けた。
この年の七月、法政大学予科を修了した周作人は、翌明治四十二(一九〇九)年三月、本郷西片町の下宿に住み込みで働いていた羽太信子と結婚し、四月には立教大学商科予科に入学した。
同年八月に魯迅が帰国した後は、翌明治四十三(一九一〇)年十二月、本郷西片町から麻布区森元町へ転居して立教大学に通った。
周作人が立教大学を退学したのは明治四十四(一九一一)年四月で、日本での留学を終えて信子夫人と共に故郷の紹興に帰ったのは、この年の秋であった。
したがって、大逆事件が起こった時、周作人は立教大学の学生として東京にいた。
しかも、幸徳秋水、森近運平、大石誠之助等十一名が処刑された一月二十四日に、周作人は東京帝大の赤門前を歩いていた。
そして号外を叫ぶ声を聞いて一枚を買い求め、手にした号外を見て愕然として立ちすくんだ。
その事は、周作人が最晩年に執筆した『知堂回想録』に書かれている。
この自伝を周作人は、北京の八道湾十一号の自宅で、一九六〇年十二月から一九六二年十一月の二年間で書いた。
その後、一九六二年十一月三十日の「後記」と一九六六年一月三日の「後序」の執筆を得て『知堂回想録』が香港から出版されたのは、周作人の死より三年後の一九七〇年五月であった。
『知堂回想録』は周作人を評論する多くの著作に引用されているが、全篇を訳したものはまだない。したがって、ここに訳した「大逆事件」の章は初めてお目にかけることになろう。
周作人が『知堂回想録』で記す 大逆事件
前の文(「俳諧」の章)は一九一〇年十月に書いたのだが、当時はまだ本郷の西片町に住んでいたことを思い出した。そこに出てくる鈴木亭は西片町のはじにあった。そこは私たちがよく落語を聞きに行った寄席だった。
十一月に私たち(私と妻羽太信子)はまた引越をして、本郷区から留学生が少ない麻布に移った。そこは芝区に近く、慶応義塾に通ってこそ便利な所で、次に立教大学にも便利だった。
だがその時は慶応に通う留学生はあまり居ず、立教には羅象陶がいた。
とはいえ私が立教に入った時、彼はもうそこには居ず、まだ留学中のはずなのにどうしているのか分からなかった。彼は龔未生と陶冶公の友人で、彼も革命に参加していたが、中華民国成立後は不遇であったと聞く。
私は以前、彼のために手紙を書いて、哀惜の意を表したことがあった。その手紙は陶冶公が持っているが、その文は、
「光緒の末年、私が東京の本郷に寓居していた時、龔未生君がよく訪ねて来て、老和尚と羅象陶のことを話題にした。蘇曼珠は龔未生について来たことがあったが、つくねんと座るだけで短時間で帰って行った。羅象陶はその時築地の立教大学で学んでいたが、私が一九〇八年に入学した時、羅象陶は既に他校へ転学していて、とうとう会わず終いであった。たちまちのうちに二十年が経ち、三人とも相次いで亡くなった。今日、陶冶公所蔵の羅象陶の書簡を開けて見て、思わず撫でずにはいられず、今昔の感に打たれた。羅象陶は、革命に努力したけれども「鳥尽きて弓蔵(しま)わる」(事が成功すると尽力した人も用なしになる)の諺どおりに死んだ。まことに悲しい。兼愛の人陶冶公も、片時も忘れられないであろう。民国二十三(一九三四)年三月十日。周作人、北京にてしるす。」
というものだ。
私たちが転居した所は麻布区森元町で、芝公園と赤羽橋に近かった。
賑やかな場所へ行くには、芝園橋まで歩いて、神田行きの電車に乗った。
ほかには赤羽橋まで直通の電車があったが、遠回りをするので倍の時間がかかり、あまりそれに乗らなかった。
夜に散歩して古本屋を見て回った後だけは、乗るとまっすぐに家の近くまで帰ることができた。時間がかかったが、歩くのを省けたのでよかった。
だから辺鄙な所に住んでいたとはいえ、街へ出かけるには便利で、午後は本郷の大学(東京帝国大学)の前に行き、夕食後は神田神保町一帯で本を見るのが常で、遊惰な生活を送っていた
。
しかし、この期間に一つの出来事に逢い、私は大きな衝撃を受けた。
それは明治四十四(一九一一)年一月二十四日の事で、丁度大学の赤門の前を歩いていた時だった。
突然、新聞の号外の叫び声を聞いた。
すぐに一枚を買い、手にして見て愕然となって立ちすくんだ。
これこそまさに「大逆事件」の裁判と死刑執行であった。
これは五十年前の事で、その頃日本には共産党があったのかどうか定かではないが、しかし日本の官憲がいわゆる「社会主義者」と見なしたのは、それら無政府主義思想の人々と、急進的に社会改革を主張する人々だけであった。
この事件には各種各様の二十四人が含まれ、ただ当時の政府が危険と判断しただけで、関係が有ろうと無かろうと、無実の罪をでっち上げて一網打尽にした。
罪名は「大逆」であった。つまり、天皇の暗殺を画策したというわけだ。
官憲が首謀者とみなしたのは幸徳伝次郎(秋水)と彼の妻菅野須賀であった。
幸徳秋水は実は全く関係がないのに、彼が最も有名で文筆の指導的地位にあったゆえ、巻き添えを食らったのだ。
もともと、共謀者は四人だけで、その内の宮下太吉と管野須賀とは無政府主義者で、彼らは火薬を調合して明治天皇に対して炸裂させようとした。
目的は、天皇も死ぬ凡人であって決して神の化身ではないことを証明するためであった。
押収された証拠物は、ブリキ缶と数本の針金と火薬と少々の塩酸カリだけであった。
私が思うに、当時陶冶公が、長崎に行ってロシア人から爆弾を学ぶのだと言っていたことも、およそこの種の物のことであろう。
ほぼ同時期に、仏教徒の内山愚童が、単独で皇太子を刺そうと計画して発覚したことも仲間と見なされ、事件として処理された。
彼らは確かに幸徳秋水と付き合いがあり、宮下太吉は幸徳秋水と共に熊野川で舟遊びをしたことがあったが、それが密議とされた。
大石誠之助と松尾卯一太は平民社へ幸徳秋水を訪ねたことがあったが、それが反動勢力数人を引き連れて会に出席したとみなされた。
これらはすべて検事小山松吉が作りあげた作品だが、実のところは日本政府の伝統的な手法で、近年の三鷹事件と松川事件(昭和二十四年)も同様の方法ででっちあげた。
彼ら(検事と政府)は、互いに支配と従属の関係にない二十数人をひとまとめにして、大逆を共謀したと主張し、主犯と共犯とを分けずに全員に死刑を言い渡した。そして翌日には天皇の特赦によって減刑して、半分を死刑、半分を無期懲役にして、皇恩の深さを示した。この手段は憎たらしいほど凶悪で、しかも憐れなほど稚拙である。
当時私が見た号外は、これら二十四人の人名簿であった。
この時私は異国に住んでいて、道理からいえば異国の政治に関心をもつ必要はないのだが、これはまぎれもなく、政治の範囲を超え、人道の問題に関わる事件であった。
日本の新聞が私を驚かせた事はこの他にもう一つある。それは、一九二三年九月一日の関東大震災の時、甘粕(正彦)憲兵太尉が無政府主義者の大杉栄夫妻を殺害し、六歳になる甥の橘宗一をも殺害した事件である。
日本の明治維新は、本来西洋の資本主義的民主主義を模倣したのだが、根は封建的な武断政治で、表面上はまだ少し民主的な自由の兆しはあったものの、だんだんとそれは消滅していった。
この一大事は日本の思想界にも大きな影響与えた。注目すべきは、石川啄木、佐藤春夫、永井荷風、木下杢太郎である。
石川啄木は、積極的に革命的社会主義者に転じ、永井荷風は消極的に「戯作者」をもって任じ江戸時代の芸術に沈潜した。荷風は「浮世絵の鑑賞」で次のようにいう。
「今や時代は全く変革せられたりと称すれども、要するにそは外観のみ。一度(ひとたび)合理の眼(まなこ)を以て其の外皮を看破せば武断政治の精神は亳(ごう)も百年以前と異なることなし」
と。これが書かれたのは大正二(一九一三)年二月、「大逆事件」より一年後のことであった。
以上が『知堂回想録』に載る「大逆事件」の全文である。周作人は戦争中日本に協力した漢奸(売国奴)として逮捕され、一九四五年十二月から二年余りにわたって獄中生活を送った。一九四九年一月に保釈されてからは、保釈されてからもと言うべきだが、執筆と翻訳を精力的に続け、文筆家としての姿勢はついに終生変わらなかった。その姿勢とは、資料と事実にもとづいた事を書くという姿勢である。それはこの「大逆事件」の一文をみても分かる。
【注】
羅象陶 1888~1927
立教大学の学籍簿によると羅象陶は「明治二十一(一八八八)年二月十九日生れ。住所は小石川区大塚町五十。明治四十一(一九〇八)年三月支那青年英語学校修了後、四月一日立教大学選科入学。同年五月三十一日除籍」となっている。(波多野真矢「周作人と立教大学」『魯迅研究月刊』二〇〇一年〇二期による)筆名、羅黒子、黒芷。「無聊」「在談藹里」「牽牛花」「郷愁」などの作品がある。
龔未生 1886~1922
明治四十一(一九〇八)年、魯迅、周作人、銭玄同、朱希祖などの留学生とともに、日本に逃避中の章炳麟(太炎)の『説文解字』の講義を聞くために、牛込の民報社に通った。周氏兄弟が住んだ中越館には龔未生たちが「殆ど三日にあげず、必ず誰か一人はやって来て、何くれとなく一日話し込み、照ろうと降ろうと一切かまわなかった」と周作人は『魯迅の故家』でしるす。龔未生は、章炳麟の娘壻で、革命、哲学、仏教に強い関心を持っていた。
陶冶公 1886~1962
明治三十九(一九〇六)年日本に留学し、東京で中国革命同盟会を結成した孫文に会った。明治四十(一九〇七)年章炳麟に請われて『民報』の発行に携わり、明治四十二(一九〇九)年より長崎医学専門学校で二年間薬学を学んだ。明治四十四(一九一一)年辛亥革命が勃発すると、中国革命同盟会の指示で帰国し、大正元(一九一二)年再び長崎医学専門学校に来て学業を継続した。
中国清末の漂泊詩人。日本人を母として横浜に生まれ、早稲田大学予科に学ぶ。蘇州で教師をするかたわら、上海の国民日報に翻訳・論説を寄稿、後、僧となり、東南アジアを遊歴しつつ作詩し、バイロンなどを中国に紹介。自伝的幻想小説「断鴻零雁記」のほか、「蘇曼珠詩集」がある。(精選版日本国語大辞典による)
号外を見た頃の周作人(中)と妻羽太信子(左)
右は信子の弟羽太重久