2017年2月5日日曜日

熊野詣の新史料(一) 中村直勝 中外日報1932年3月17日

熊野詣の新史料(一)中村直勝 中外日報
熊野詣の新史料(一) 中村直勝

  一
中外日報の昭和六年八月二十八日号にあつた「建長年間の熊野御師宿帳、和歌山県で發見」とした標題の記事は、私を悅ばしたものの一つであつた。其に据ると、和歌山県東牟婁郡三里村字大居のある農家から建長年間以降南北朝期にかけての古文書が百五十七通発見され、それは御師の宿帳であるらしく、以て当時の熊野詣を窺うに足る貴重な文献である、という意味であつた。
 かねてから寺院・神社と交通設備との関係に、多大の関心を有する私は、この記事が非常に嬉しく思われたので、京都帝国大學国史研究室に頼んで早速三里村に手紙を出して貰い、其等の文書を借用したい事を申込んだ。其の結果、十月の中頃になつて、其の一部として一百通一册を送って呉れたので、大に勇んで整理を初め、目録を採りかけた。所が、どうした訳があってか、日ならずして、それらを直ちに送り還せという電報が来たので、已むを得ず、心ならずもすべてを返還しなければならなかった。
 その後に、その所有者である畠中佐一郎氏から手紙が来て、それによると、何か手違いのあった結果らしく思われるので、再度借用方を申込んだけれども、未だに私共の懇望は容れられないのを、遺憾に思う。が、ともかく其の百通一册を僅かの期間であったけれども送附して下さった三里村当局者の好意と配慮に限りなき感謝を表すると共に所有者畠中氏に対しても心からの御礼を申述べたい。
 それに就いても悲しい事は、それを借用し得たのが僅かに数日―旬日を出ない短い期間であったために、やっと文書を整理して目録を採り得た位で、其の模写は勿論、写真撮影さへも出来ずに急に返却しなければならなくなったので、充分の研究を加える余裕がなかったことである。切角の面白い史料を手にしながら、長蛇を逸した感が深い。其の整理の際に、一二の史料が私の手記に留められた。これが只今では唯一の材料である。
 而して、今、本紙に何か一文を草する事となったので、あれやこれやと思い惑うたけれどもこの畠中氏文書に接する事の出来たのも、一に本紙の記事に導かれたのであるから、本紙に対する感謝の意味を以て、その私の二三の手記を繰り展げる事にしたい。何となれば、その畠中氏文書からは、未だあまり知られて居ない二三の事実が教示さるるからである。

  二
 熊野詣に就いては、從來可なり多くの研究が積まれて居る。王朝以来朝廷の大きな行事の一であった上に、途中に於て和歌の会の御催などが企てられたものであるから、文学の上に於いても、相当に知られて居り、それだけに、幾多の人々が手を染めて来た問題である。就中、宮地直一博士の著「神祇史の研究」中に収められたる「熊野詣と熊野山」と昨年七月の雑誌「歴史地理」に載せられた三上左明氏―其の人は既にいまは亡き数に入ったが―の「中世に於ける伊勢並に熊野道者に就いて」は卓見に満ち満ちた所論であって常に私らの推薦する所である。然るに今回発見された史料の中には、それらの従前の所説にあまり言及せられなかった方面を開明し得るものがある。
  ×  ×  ×

一体熊野に限らないが、伊勢にしろ、吉野にしろ、高野にしろ、多賀にしろ、北野にしろ、中世に於て、それぞれの信者が遙かな旅を続けて其の目的とする所に参詣する場合、何所に、どうして宿泊したらうかという事は、交通機能の発達しない時代、交通機関の不充分な時代にあっては、殊に究明されねばならぬ問題である。そして其の事に関しては、先人の研究で大てい尽された様である。即ち彼等旅行者―道者は、目的地に到着すれば、其の社寺に附属したる宿坊で一夜の宿を得るのである。そして其の宿坊の主人公が多くの場合御師と呼ばれる。御師からは其の道者を旦那と呼び其の旦那を伴うて来てくれる案内者―時には経験者―を先達と言って、非常に人事にかけたものである。大てい一定の旦那は一定の御師に宿る。一定の先達は一定の御師に旦那を伴う或は一村、一地方が、甚しい場合は一国が、一定の坊に辿り着くのである事は、今日の高野山に於ける宿院と一般であった。

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