2017年2月5日日曜日

熊野詣の新史料)(二) 中村直勝 中外日報1932年3月18日

熊野詣の新史料(二) 中村直勝
熊野詣の新史料(二)

  三
 何しろ熊野詣の事は、宇多法皇の延喜七年十月の御幸以来亀山上皇の御時まで上皇法皇の御幸のある事百度以上にも及び、貴顕縉紳の参詣引きも切らない程の流行を来したのであるから、宿泊旅行に関する幾多の設備は、早くから発達し、其の組織は相当の完備さに到達した事であらう。乍件、熊野詣の道者は決してかかる上流社会の人々に限ったのではない。熊野詣が流行するにつれて、また西国三十三所図絵なんかが盛行するに従って、一般民衆また此の道者であった。否、道者といふ名は寧ろ顕貴の人々を指すのでなくして一般の民衆を指したのである。上流の人々こそは途中に於ても特殊な設備も出來ようし施設を地方官や地方民に下命する事も出来よう、熊野に於ても寺院の方から進んで其の一宿を懇願した事であらう。けれども一般大衆に対しては、途中にあるては言うまでもないし、熊野三山に於ても、果して宿泊所が得られるか否かが大に疑はしい出発の時からの心配の種は、御山に於てうまく泊れようかといふ事である。
 そこで其の宿泊の安全を期するために、宿泊所と特別の関係契約を有する先達に伴はれて入山する事が考へ出される。それ故に先達なるものは御師の方から大事に取扱ったのみならず、旦那の方から申しても必要なものである。先達から申しても或る一定の旦那を引率し得る事は御師に対して顔が良くなるわけであり、其の旦那を掌中に握る事は或る意味に於ける財産を作る事にもなるし、御師から申しても旦那と直接にある契約―師壇の約束を結んで置く事は、将来への保證である。
  摂津國満願寺先達讃岐坊引壇那
左近五郎藤安(花押)、兵衛尉最国(花押)、沙▲道▲(花押)比丘尼覺妙(花押)、八郎二郎宗吉(花押)、弥五郎景重(花押)、孫太郎国安(花押)、八郎宗次(花押)、三郎五郎▲(花押)、三郎国永(花押)、六郎太郎光吉(花押)
  貞治三年二月二十二日
    於本宮御坊注文
      先達宗覚(花押)
 即ち此の文書に見える左近五郎藤安以下六郎太郎光吉に到る十一名は先達宗覚が熊野本宮に引率して参詣した旦那(引旦那ともいふ)であるが、それが本宮の御坊に於てなされた事、またそれが他の同様の文書と共に熊野の方に存在した事、この三点から観て、これらの旦那が本宮御坊を御師と頼み、自らは本宮御坊の旦那である事を承認した一種の契約書であると考へざるを得ないであらう。この師壇の契約が出来れば、そこで始めて、再度入山の時は、先達の同伴なくとも本宮御坊の旦那として立派に、安心して宿泊し得る事となるのである。御師から言へば宿泊を保證する事となり、旦那から言へば、他の御師には附属しないことの誓言であると同時に、宿泊の権利を得たこととなるのである。而して面白い事は、旦那を引ゐて行った先達宗覚は、此の際には、此の契約の媒介者であると同時に立合人ででもあるのである。
 師壇の契約は一世一代位で消滅するものでないらしい。一旦この契約を結べば子々孫々にまで亘るものがあったと見做されるのは、次の一通である。
  かきおき申候くわんもんの事(書置申候願文之事)
右いつのくにみしまの仁人(伊豆国三島の仁人)
真野の主斗亮師実、おなしくなにて候(自分と同名である)小太郎 そうして師実かしそんにをいて(総して師実が子孫に於て)御やくそくをたかへ申候はず候(御約束を違不申候)このはうへまいるへく候(此坊へ可参候)もしいつはり申候事候はは、▲の御とかめおかふり申候へく候(▲の御咎を蒙り申候へく候)
  応永十七年七月十五日
     師 実(花押)

伊豆国三島の住人に実の子孫何れも某坊の旦那たるべき事を記して奉ったもので、書置きとは必ずしも死の直前に書かれて子孫に申残す意味でもないし「願文」とは此の種の師壇契約状を当時さう呼んだらしい。

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