熊野詣の新史料(四)中村直勝 |
中外日報 昭和七年三月二十日 第一面
熊野詣の新史料(四)中村直勝
七
彼等参詣者が熊野に於ける宿泊所としては、御師の坊を求め得たとしても、そこに達するまでの途中に於てはどうして一夜一夜の夢を結んだであらうか。勿論、野伏せ山伏せの事もあったであらうし、また幸にして神社寺院に一宿を乞うて許さるる事もあったらうし、また布施屋の如きものもあって、それに雨露を凌ぐ夜もあったであらうがそれよりも最も多くの場合に、途中の在所々々に止住する先達の家を、宿泊所とした事があったらうと思ふ。言ひ換へれば、一地方々々に居った所の先達なるものは、参詣道者の先達として入峰する時は、先達としての本格的な職務を果すのであらうが、平素その在所にある時にはその住宅が自ら道者等の宿泊所に当てられたのではないかと思ふ。而してその場合にも、前掲の如き願文があれば、その人の生国から熊野における御師までが判明するのであるから、この先達の宿泊所に宿る事も容易であったらうし、泊める先達の方からも安心が出来るわけであるまいか。
八
但馬國美合庄大乗寺自僧
越前公觀俊(花押)
備後公學俊(花押)
右件人者、入峰時參候也
元武元年甲戌八月十日
例の紹介状であり過書であるが、年號の所に注意すると元武元年とある、元武といふ年號は無いのであるが、年號の下に「武」があって元年が甲戌である年は建武元年しかないから、これは建武元年の間違である。また中には「延文」とあるべきを「正文」と書いたものもあった。それらの事柄は、要するに此種願文に筆を染めた人々の教育程度を暗示するものであって、一体に通じて文字は拙劣であり、花押には気品がなく、如何にも教養の低いものであるを思はしめる。
乍併、熊野道者に教育を求めるのは、求める方が無理であって、彼等が重んずる所は、教育ではない信心なのである。「行」なのである。そしてそれであればこそ、あの難路を踏み越え踏み越えして参詣したのであった。
九
更に此程願文の日付が、二三月と七八九月が大部分であることは、中世に於ける熊野詣の時季を知ることが出来るのではないかと思ふ。且つこれが今日に於ても首肯し得べき季節であることは、(不思議でないと言はばそれまでであるが)興味のある事象だと思ふ。(終)
0 件のコメント:
コメントを投稿