熊野詣の新史料(三)中村直勝 |
中外日報 昭和七年三月十九日 第一面
熊野詣の新史料(三)
四
旦那の事を、先達から申すと引旦那と言ったのは普通であるが、「男友」といふ呼び方もあったと身へる。
あうみの國箕浦庄松尾寺
先達筑後公ひき友
しんくわん御坊(花押)
ドウ荅法房
さぬきとの むませう
同くま一女 式部公
ひめ若女 藤三郎
日向殿分
善阿弥陀佛 戒法御公
正平二十三年三月二十七日
日光寺 先達行快(花押)
茲にいふ「しんくわん御房」以下は前の文書と同じく熊野の御師と師壇の契約をした人々なのである。また歴史家の方から言へば、珍しくも正平二十三年といふ南朝の年號を使用して居る事は、この文書が近江箕浦庄で書かれたものか或は熊野山で書かれたものかに就いて、何か一説が出し得るものではないか。
右の外引友と言ふ言葉で表された旦那に関して四五通の史料があったけれども、省略して次の問題に移らう。
五
次のやうな文書がある。
山▲落陽廣覺寺僧熊野本宮參▲朝文事
智桂(花押)
林叟(花押)
正雪(花押)
延文六年三月十一日記之
× ×
石見國葛野修道場
光台寺住持相阿
宇津郷和田方(花押)
波彌萬屋方(花押)
先立 都野宮證忍
応永十一年八月二十三日
少貳(花押)
本宮吉田殿
此の初の方の文書は廣覺寺の僧侶である智桂等三人の紹介状とでも申すべきであらうか。これがその本人であることの證として自分の名の下に花押を加ヘて熊野の御師の所に持参するのであらう。言はば身分證明書とでも言ふべきに相當しようか。後の方の文書で更にさうした關係は明らかにし得ようと思ふ。即ち石見國葛野郷にあった道場を中心として、その同行である光台寺や宇津郷の和田某の引旦那、浪彌萬屋の引旦那、それの先達として都野宮の社僧(とでも言ふべきか)證忍を道場の主である少貳房が紹介證明して本宮の吉田といふ御師に送り付けたものであるらしい。
六
道者へのさうした證明書は、道中の関所々々への國手形ともなり得た訳であって、如上の願文がこれを裏付けて居るが―を持参することは、途中の通過免状ででもあった。
伊豫國道後わけの郡久枝内
うしとの寶性房賢慶(花押)
引旦那 同所住人
乙女〈略押)
おなしき所住人
孫二郎〈略押)
応永二年三月八日
本宮 音無
ほんくうの御師ハととなしき
越尚殿
のゑちせんとのの御坊へまいり候
といふものの如き、また
入峰
にうふの山伏三人
たんはの國いはらの岩屋
しやうちう(花押)
せんかく(花押)
せんとく (花押)
熊野本宮の御師敷屋の
きしとの
応永二十七年八月十一日
の如き、たしかに此の三人の山伏が本宮の御師岸殿へ行くものであると言ふ證明状である。而して之等のすべてに、本人の下に花押の自署されて居ることは一種の印鑑證明とも言ふべきでもし御師の方で本人でないと疑へば、花押を書かせて見れば、その疑が判然するのである。
由来、我が國中世に於ては、▲上と言はず洛上と言はず、河上湖上到る所に関所の設があって、通行者から關錢を徴収して以てその關主の収入を計ったものであり、甚しきは伏見から大阪までの淀川岸に三百餘箇所の關があったと記録にある程で、ために人馬荷物の通行運搬は常に悩まされたものなのである。だからとりわけて諸国巡礼とか山伏行者とかの如く所々方々を遍歴する者に取りては關錢を徴発さるることは、何よりの憂き事柄であったに相違ない。されば此の種願文によって、その身分が判定され、その目的が明示さるる結果として、關錢が免除されたとすれば、それは道者の身に取りては莫大なる利益であらう。仏恩に今更ながらの感謝をしたことであらう。
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