紀州田辺藩版の仏書(下) 藤堂祐範 |
中外日報 昭和七年六月十五日 一面
紀州田邊藩版の佛書(下) 藤堂祐範
なほ管板の四寺の現状や、地蔵寺にこれ等の版木が所蔵せらるるわけは、
管版の筆頭海蔵寺は妙心寺派の末寺で、現に田邊南新町にあり、元来は浅野氏(元和年間廣島へ轉封せらる)の開基なりしが、安藤氏の入城以来また菩提寺とした。併し安藤氏は和歌山城の城代として(紀州侯は親藩として江戸在勤多かりしゆへ〉多く彼の地にありしを以て寺▲の關係至て浅く、漸く奥方の墓二基あるのみと聞く、されど田邊では有力寺院であるから筆頭に第しものならん。
松雲院は▲▲派に属し新熊野山と稱。元来田邊の地は古来熊野道の要路で、併も海辺の參路と大邊地と称する山中の參路との分岐点に近き都邑であるから口熊野と称し、附近に幾多の遺蹟を存せるほどで、早く平安朝に熊野権現を勧進し、新熊野十二所權現と称して名高く現今の闘鶏神社はそれで、その権現の執行寺として有力な寺であったが、明治維新の際当地内の地蔵寺(仁和寺末)に合併され、その時この版木も共に移管されたものらしいと聞く。
湊福寺は海蔵寺開山天叔の隠棲寺で、田邊町大濱にありしを安藤氏▲の時、海蔵寺の▲に移したが、明治維新の時海蔵寺に併合しその跡地は現今田邊佛教総合會の昭和幼稚園となって児童に佛種子を植つけている。
高山寺は仁和寺末で、▲町に近き稲荷村にあり、空海の開創と傳へ、当地方での古刹大山である。
想ふに紀州の地、東は新宮に城主水野氏ありて、丹鶴叢書を出版したことは有名であり、和歌山では学習館等ありて、貞観政要や論語集解補解等十数部の印行あり、その他儒臣にも伊藤蘭嵎や祇園南海等ありて、藩臣の出版がかへって藩邸のものよりも多いと傳へられて居る。かほどに田邊の周囲には版行の擧さかんであって、その刺激は多少ともに受けたとは云へ、田邊の地は和歌山市を去る二十余里現今は海路汽船あり、陸路は近く鐵道開通せんとするの利便ありとは云へ、十数年前までは▲舟によって太平洋の浪を凌ぐか山岳海に迫て羊腸道なき山道を旅するかの不便の地で、城下とは云へ海辺の一小邑に過ぎない地に於て、敢て他藩の體にならはず、果然鬱奥の出版を▲し版型▲美な書が梓行されたことは、實に奇蹟とも見らるるほどで、如何に道紀觀妙公の求道の志勇猛にして、道心の堅固なりしかが窺はれるのである。この開版ありてより殆ど百二十年計らずもこの書籍を拜し合掌もって、道紀公の増保品位を向頭せんとす。道紀公は安藤氏十二代、曇一得軒、法▲觀妙院玄玄居士、文政七年十一月十三日没▲六十四歳 (昭和七年五月二十九日稿)
この稿を草するに就いては海蔵寺上人、及び多屋謙吉、下村利一郎諸氏の▲▲を賜はりしを感謝す。
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