2017年2月16日木曜日

『日露戦争を伝える 牟婁新報号外』全185枚 あおい書店より刊行 2017.2.16

田辺の あおい書店から 貴重な資料の復刻本が出た。

紀州田辺の『牟婁新報』が発行した日露戦争に関する「号外」を復刻したもので

『牟婁新報』には、幸徳秋水とともに大逆事件で絞首刑になった管野須賀子と、同じく大逆事件に深く関わった荒畑寒村が、在職したことがあり、記事と論説を書いている。

『牟婁新報』の社主・毛利柴庵は、南方熊楠との親交があつく、熊楠の研究を支援し、政治・社会の悪の実態を糾弾した奇骨のジャーナリストだといえる。
表紙
牟婁新報社  毛利柴庵

日露戦争

提灯行列
「遅れて笑われな、慌ててうろたえな」

あおい書店(田辺市)発行
裏表紙


                     解 説


              『牟婁新報』号外出版のいきさつ


 「牟婁新報」号外は現在田辺市立図書館に所蔵されているが、なぜ田辺市立図書館に寄贈されたかについては次のような経緯がある。
 「紀伊民報」が第一面で「「牟婁新報」号外見つかる 田辺市内で 日露戦争伝える185枚 「記者曰く」主筆・毛利の論評か」と大きく報じたのは二〇〇三年五月十一日であった。記事は、

   田辺市で明治33(1900)年に創刊され、社会主義者らも論陣を張ったことなどで全国的に知られる「牟婁新報」の号外計185枚が、同市本町の多屋長書店(多屋正治さん経営)で見つかった。(略)
   号外は、縦が約20センチ、横が十数センチ~約30センチまでと幅がある。日本軍がロシア軍に宣戦布告する前日の朝鮮半島での交戦(仁川沖海戦)から、ロシア軍の拠点だった旅順を攻め落とす(旅順開城)までの期間の戦況が報じられている。(略)
   号外は、正治さん(82)のいとこにあたる多屋朋三さん(57)=同市下屋敷町=が、祖母の百回忌を迎えて持ち物を整理していて、長持の中から見つけた。祖父の長三郎さんのコレクションではないかという。

と伝える。
 記事には多屋長三郎、多屋正治(まさじ)、多屋朋三の三氏の名が見える。多屋長三郎は正治さんと朋三さんの祖父で、正治さんは長三郎の長男・多屋長一の娘・のぶの夫にあたり、朋三さんは長三郎の次男・多屋孫次郎の三男にあたる。
 多屋家は『和歌山縣田邊町誌』(昭和五年)の「名門人物誌」に載る旧家で、江戸時代は累代において町大年寄の家格であった。その多屋家に朝来村の十四歳の吉田長吉が奉公に入り、長じてその忠勤・忠節を賞せられて多屋の姓を許され分家したのが多屋孫八である。

 祖父の多屋長三郎は文久三年三月九日、その多屋孫八の長男として生まれた。長三郎の元来の名は長太郎で、孫八が出した出生届「長太郎」の「太」の筆跡を戸籍係が「三」と誤読しために戸籍上は長三郎と記されてきた。それが明るみになったのは明治五年の壬申戸籍の時で、以後は戸籍通りの長三郎と称した。
 多屋孫八は長三郎を商販(商売)の道に進むようにしむけたことから、長三郎は雑貨を扱い、人力車業と金融業を営むかたわら、大阪毎日新聞の販売店を兼ね、また本を販売する「多屋長書店」を創業した。その長男・多屋長一が「多屋長書店」を引き継ぎ、次男・孫次郎もまた本を販売する「多屋孫書店」を創業した。

 「多屋長書店」の多屋長一、「多屋孫書店」の多屋孫次郎兄弟は八人兄妹で、妹に美代(みよ)と寿枝(すえ)の二人がいて、美代と寿枝とは最晩年まで長兄・多屋長一の「多屋長書店」で住んだ。後に祖父・多屋長三郎の妻・志奈の百回忌を迎えた際、古い物を運び出して整理したことがあったが、この時出した多くの古文物の中に「牟婁新報」の号外があった。その存在に気が付いたのが、多屋孫次郎の三男で現在「あおい書店」を経営する多屋朋三氏であった。「あおい書店」は、多屋孫次郎の「多屋孫書店」が出した支店である「多屋孫書店あおい支店」を受け継いで「あおい書店」として独立・創業したものである。

 「牟婁新報」号外は、号外の一枚々々を長い紙に糊でつなぎ合わせた巻物の姿で保存されていた。巻物を解いて横に拡げていくと約四十mにもなる長さで、手で持ち上げると貼られている号外がぱらぱらと割れてくるような状態であった。約一〇〇年の間多屋長書店の筐底にあったことを物語っていた。
 その巻物を二人の叔母から譲られた朋三氏は、半月ほど手許に置いていたが、取扱い方を誤れば損壊してしまう状態であったことから、牟婁新報研究者の池田千尋氏の助言もあり、田辺市立図書館に寄贈して保存をはかることになった。「多屋長書店」から出てきた物であるため寄贈者の名は多屋正治さんとし、田辺市立図書館との交渉の労を取ったのが多屋朋三氏であった。

              ○ ○ ○

 多屋孫次郎の多屋孫書店の家は元は鳥山啓(ひらく)が住んでいた屋敷であった。鳥山啓(天保131842)~大正31914)年)は田辺藩士として長州征伐に従軍した後、維新後の明治2年藩校・修道館の英語教授を務め、和歌山師範学校、和歌山中学校で英語、理化学、博物、生理等を教え、明治十九年には東京に出て華族女学校教授を務めた。(『田邊町誌』「名門人物誌 教育家」)和歌山中学校では南方熊楠に動植物の観察採集を教えたことで知られ、また「軍艦マーチ」の作詞者としても知られる。その鳥山啓の屋敷を多屋長三郎が明治十九年に買い取り、弟の多屋孫次郎に分与したという経緯がある。

 ではなぜ多屋長三郎の多屋長書店が「牟婁新報」の号外をかくも大事に保存していたのかといえば、それは長三郎が大阪毎日新聞の販売店もしていたことから、誰よりも地元紙「牟婁新報」を気にかけおり、次々と出る号外を集め置いたからであろう。そしてまた、日露戦争の戦況を伝える号外が、紀南の地で発行されていたことを示すためにも、巻物にして残しておいたからであろう。
 
              ○ ○ ○

 この『牟婁新報』号外が一册の書として出版されることになったきっかけは二〇一六年八月、大逆事件の研究機関である「大逆事件の真実をあきらかにする会」の大岩川嫩(ふたば)氏が田辺を訪れたことにある。「牟婁新報」の社屋跡や管野須賀子と荒畑寒村の住居跡、そして毛利柴庵の墓所などを見るために、篠塚英子・お茶の水女子大学名誉教授、竹内栄美子・明治大学教授、竹内友章・コグニザントジャパン株式会社社長と共に来訪した。一行を案内したのが多屋朋三氏で私も同行した。

 「牟婁新報」に号外があることを朋三氏から聞いた一行は、是非にと閲覧を希望し田辺市立図書館に行った。別室には既に号外が運びこまれており、大机の上に一部だけが拡げられた巻物があった。一行は初めて原物を見た。私も初めてだった。

 大岩川嫩氏は、不二出版から出た「牟婁新報」の復刻版は値段が八十五万円もするがこの号外は収録されていないと、私達一行と図書館員に説明しながら、顔を近づけて具に見た。その嫩氏の説明と所作につられて、私達も感嘆の声をあげながら見た。目の前に拡げられた号外の巻物は、天下の「孤本」と称するに足るものだと評価された瞬間であった。多屋朋三氏はこの時、斯界に貢献するためにも号外一八五枚を一册の本として出版すべきだと考えた。横で見ていた私にはそう決断する多屋氏の胸のうちが伝わってきた。

              『牟婁新報』号外について


 「牟婁新報」号外にはいくつかの特徴がある。それを紹介しておく。

       一 「記者云く」


 号外の最大の特徴は大見出しの脇に「記者云く」の小見出しがあり、号外に対する記者の意見が書かれていることである。時には「註」「参照」の小見出しもあり、大見出しの不備を補っている。これらは僅か二行から二十行の長さに及ぶこともある。
 これを書いたのは「牟婁新報」の社主・主筆である毛利柴庵であることはよく知られたことだが、いかにも柴庵らしくて柴庵以外の余人には書けないと思われる記事がある。それは提灯行列を呼びかける文で、繰り返し五度も呼びかけている。

◎朝霧早鳥二艇 敵艦三隻を轟沈す 吾二艇は無事なり
今夜午後六時より提灯行列を催す同感の士は提灯と蠟燭とを携帯し新報社前小學校運動場に参集すべし                (明治37227日)

◎海戦は我軍の勝利に歸し捕虜四名ありし 旅順の火薬庫と砲臺とドックとを粉砕し大連にては市街全く破壊せり
右我軍の大捷利を祝し且つは出征軍人家族諸氏に對して慰問の意を表する爲め明十四日午後六時より提灯行列を催すべし同感の士は提灯と蠟燭とを用意し本社前の運動場に参集ありたし               (明治37313日)

◎旅順の敵は同地を捨て去りし様子にて船舶出入自由となれり
愈よ今晩は提灯行列を催すべし
注意(◎◎) 本隊は必ず出征軍人諸氏の宅毎に萬歳を参唱する事(明治37314日)

◎敵の主力殆んど全滅の事を確めたり
我軍の大捷利敵の大敗北一目瞭然たり。(略)提灯行列を催すは正に此時なり、苟くも帝國の男子たるものは今夜七時を期し各提灯を手にして吾社前に参集ありたし
注意 先夜の提灯行列は群衆甚しかりも、却つて活氣に乏しく隊伍も亦整はざりき 今夜の行列は大に男らし大に勇ましく各自大なる責任を帯びて進行ありたし、於くれて笑はれな、慌ててうろたへな、真面目にドシドシ遣りたまへ、子供ばかり出して、於やじ傍観のテイは頗るよろしからず、齋藤実盛ぢやねエがしらがあたまも皆な出て御座れ今夜うまく提灯行列のけいこをして置かんと、露軍全滅我軍凱旋の時になつて提灯の持ち方も知らずにまごつく事が起つたらドーする
                          (明治37417日)              

昨日ダルニーをも占領したり 萬歳。萬歳。大萬歳。
今晩は是非とも提灯行列の必要あり、諸君、曩の如く提灯と蠟燭とを用意して午後七時扇ケ濱公園に参集ありたし            (明治3758日)

 毛利柴庵の筆はまことに軽快で読んで面白い。行列の群集は多いが、隊列がばらばらでしまりがない、遅れてきて皆に笑われるな、子供ばかりよこしてオヤジが傍観とはなにごとだ、と書き飛ばしている。さぞかし田辺町民は号外を読むのが楽しかったであろう。

       二 「牟婁新報」復刻版が「原紙破損」とした欠落記事は、号外によって甦る


 「牟婁新報」本紙は復刻版(不二出版)で読むことができるが、原版の紙面が破損し欠落した部分は、「原紙破損」の四文字があるのみで白地のままである。その欠落した記事は号外で再現することができる。
 一例だけだが、明治三十七年五月九日の「牟婁新報」(復刻版)の欠落記事は、五月八日に発行された号外によって甦ってくる。

 それは「牟婁新報」本紙の「東京電報◎第一報五月八日午前七時四十分発同午前九時着 ◎昨七日ロンドン発の電報によれば左の如き快報あり(略)記者云く 文中日本軍とあるはいふ迄もなく我第二軍を指すものならん従つて前電遼東半島上陸とあるは金州上陸の事たるや想察するを得べし」に続く箇所で、本紙では白地に「原紙破損」として空白にしている部分である。

 その「原紙破損」の欠落記事を、五月八日の号外によって再現すると次のようになる。(以下▲表記は薄れて判読困難な字)

◎横川省三氏の葬式を執行し非常に盛大なりき
註に云く 横川省三氏は慶應元年に生れ岩手縣盛岡の人、性傲岸不羈、夙に身を政界に投じ勇名同志の間に嘖々たり明治十六年頃東京に於て自由黨志士等の設立せる有一館の牛耳を執れり、明治十八年加波山事件に關して入獄一年許、出獄の後ち東京に來り、明治二十年保安條例に触れて二年間退去を命ぜらる 明治二十七八年役の時は東京朝日新聞社の海軍従軍記者たり、黄海観戦記を作り、自ら請ふて水雷艇に乗組み 威海衛攻撃に從ひ 冒險家の名益々高し 後ち北京に赴き 露語を研究し 三十五年東蒙古地方より滿洲一帯の實況を視察せんとて、某士官と北征の途に就き、辛酸を嘗め、同年十月ハイラルにて露兵に捕へられ ハルビンに押送されしも、現地日本人倶楽部へ責付の身となり 十一月放免、一旦北京に皈り 則ち日露戦争開始の前に當り龍巖浦海面の敵雷を偵察し隠微の間に國家に貢献せる功績少からず、遂に二たび露軍に捕へられ奇傑沖禎介氏と共に銃殺せらる、君刑に臨んで顔色變ぜず 大音響に目的を自白し 露奴を罵倒して死す。日本男児の面目躍々たり▲▲容貌魁梧 巨體厚唇、雄材大略▲▲る 腹便々、一見其偉丈夫たるを知るべし、人と成り▲▲朴 内ち▲、摯實快語、膽勇絶倫 平生酒を好み醉へば則ち酣歌淋漓 本年一月の書信に云く「戦争が始まらば一世一代の事業を▲ると」▲謂一世一代の事業とは▲々電信鐵道の破壊に▲▲じ▲半途敵▲に殪る 遺憾知る可きなり、君二女あり 東京麻布簞笥町に住す故に東京に於て葬儀を執行さるるのか、其壮烈を仰望する人の豈に獨り会葬者のみならんや 幽魂以て瞑すべし
                          (明治3758日)
        
 横川省三の横死に対する毛利柴庵の悲憤の大きさが伝わる号外である。横川省三が銃殺された背景は東京朝日新聞と讀賣新聞が報じた記事を追えば明らかになる。ここでは見出しのみをあげておく。

 明治3754
東京朝日新聞      一面   「被捕獲勇士の最期」
                  二面   「哈爾濵遭難の志士横川省三氏」
讀賣新聞          五面   「露軍に銃殺されし快男児横川省三氏」
                         「故横川省三氏の母堂」
 明治3755
東京朝日新聞      二面   「志士横川省三氏の書翰」
                         「横川省三氏に就て(某海軍幕僚の談話)」
                  三面   「哈爾濵遭難の志士横川省三氏の手紙」
 明治3756
東京朝日新聞      二面   「横川省三氏の葬式」
                         「横川、沖兩氏遭難の地(地図)」
讀賣新聞          二面   「横川省三氏の葬儀」
 明治3757
東京朝日新聞      二面   「横川省三氏の母堂を訪ふ」
 明治3758
東京朝日新聞      二面   「横川省三氏の葬儀」
                         「横川省三氏墓誌銘」

 「牟婁新報」が号外を出した五月八日までの東京朝日新聞と讀賣新聞の報道は以上の如くであった。ロシア軍に銃殺された横川省三の死を国をあげて悼んだことが分かる。

 東京朝日新聞が五月四日から八日まで連日紙面に横川省三を取り上げたのは、横川省三が東京朝日新聞に入り五年間朝日新聞社の記者であったことによる。銃殺が執行されたのは四月二十一日であったが、その二カ月前の二月十日に日本はロシアに宣戦布告をして、日露戦争が始まったばかりの時であった。

 上に引いた号外の「註に云く」には、横川省三が国のために一世一代の事業をなそうとした事歴と東京での葬式と二人の娘のことまでつぶさに書かれているが、この十八行に及ぶ長文の註は他社の紙面から孫引きしたのではなく、毛利柴庵が自らの筆で構成して書いたものである。

 なぜにそう断定できるかといえば、明治・大正の紙面は現在では聞蔵(朝日新聞社)、ヨミダス(讀賣新聞社)、毎索(毎日新聞社)で見ることができ、今回は聞蔵とヨミダスを参照したのだが、二紙の紙面を見ると、毛利柴庵は東京朝日新聞と讀賣新聞に書かれた横川省三横死を伝える記事を参考にして、記事の関鍵語句を使いながらも自らの筆で構成しなおして書いていることが分かるからである。末尾の結び「其壮烈を仰望する人の豈獨り會葬者のみならんや 幽魂以て瞑すべし」は毛利柴庵の悲憤が田辺町民に向けて発した叫びである。

 横川省三の葬式が行われたことを伝える号外は、この牟婁新報の号外を除いてどの地方のどの新聞にも見当たらない。(羽島知之編集『「号外」明治史1868-1912』第2巻、大空社、1997年を参照)

 なお、横川省三の葬儀は五月八日午後三時東京、赤坂霊南坂の教会堂で行われ、遺品は同日青山墓地に埋葬された。

       三 号外に載せ、「牟婁新報」本紙に載せない記事


 前の一「記者云く」のところであげた提灯行列を呼びかける記事は「牟婁新報」本紙になく号外にのみある記事だが、そのような例は他にもある。一例だけあげてあげておく。

◎當町特報
◎只今聞く所によれば今回の町政一條に就き片山町長辭表を提出したり仍て本日午後三時より町會を開く筈なり              (明治37520日)

 ここに見える片山町長とは片山省三のことで、内閣総理大臣・片山哲はその長男である。嘉永五年二月の生まれである片山省三は、弁護士となって田辺に開業し、田辺町会議員、和歌山県会議員を経て、明治三十五年十一月から明治三十七年六月まで田辺町長を務めた。

 この号外は単独で発行したものではなく、日露戦争の東京来電「◎拾五日午前一時山東角北方にて濃霧に遭ひ春日艦吉野艦に衝突し吉野艦沈没したり」で始まる記事の末尾に「◎當町特報」として付けられたものである。

 なぜ五月二十日の号外にこの「當町特報」があるのか。それは明治三十七年当時牟婁新報が三日に一度発行する新聞であったことと関係する。牟婁新報本紙を繰ってみると五月二十一日が発行日であったことが分かる。従って二十日は既に紙面が組み上がっており、割り込ませることは出来なかった。かといって次の二十四日では遅すぎる。だから二十日発行の号外に付けて、町政の異変を伝える「當町特報」を載せたのであろう。

 それもその筈、毛利柴庵は「田辺町政の不始末」というゾッとする素っ破抜き記事を展開していた。五月九日の第一報は「モハヤ田邊町政の不始末は現に公然の秘密」とまで書き、十二日の第二報では「アゝ田邊町役場は一種の魔窟殿たらざるなき」と収入役の公金管理問題を衝き、十五日の第三報では「田邊町の財務が如何遣りツぱなしになり居れるか」「誰れ言ふともなく世上に流布し、ドウも役場が臭い、變な臭ひがすると言ひ出した」と二千何百円の行き先を疑い、十八日の第四報では「田邊町の伏魔殿とまで噂されつゝある田邊町役場の内部の紊乱」が田辺小学校の建築費をめぐる問題である以上「手當り次第に批評し論難し、彼等をして心飛び魂驚くの境界に立たしめ、以て一日も速に町政の一大刷新を擧げんと欲するのみ。目的はコゝなり」と追求を続けていたのである。しかもこの日の結びには「サテ次號には、ドウいふ事が出るのであらう(一寸一ッぷくぢや)」と予告の狼煙をあげていた。

 そこへもって来て翌十九日「片山省三町長が辞表を提出」、「二十日午後三時より町會を開く」という急展開が生じたのであるから、この号外は何としても出さねばならないと毛利柴庵は考えたのである。

 かように牟婁新報とその号外を出す牟婁新報社は、毛利柴庵の記者魂と発信欲とが熱く噴出し、田辺町民にぴったりと密着した新聞社であった。

 なお本書には、手書きの号外記事「今十七日大本營着 長門沖ノ島附近ニテ砲聲盛ニ聞ユ」「常陸丸戦死一千余名ノ見込」〈明治三十七年六月十七日)を収めているが、これは巻物の中に別紙として挟まれていたものである。

 また、巻物で発見された時の号外は一八五枚あったが、このたびの出版にあたり精査したところ、原紙の破損と活字のかすれが著しく、収載することが不可能になったものが十枚ほどあったことを、お詫び方々お断りしておく。

 巻末に最近見つかった同じ田辺の「紀伊新報」の大正三年九月一五日付けの第一次世界大戦開戦の号外も伏す。

 以上「解説」には似合わない長文となったために、最後まで目を通していただけないのではないかと恐懼するが、この稀有な書『牟婁新報号外』が皆様の座右に備えられんことを願う。

          二〇一七年一月二十一日(記)
                                久 保 卓 哉



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