2013年5月6日月曜日

袁清林と初めて会う 『中国の環境保護とその歴史』(研文出版)の 出版にむけて



袁清林氏

中国の環境保護とその歴史』の原著者である袁清林氏と著作権の問題について話し合ってきたところ、原著者と出版社の中国環境科学出版社の二者が倶に、著作権を要求しないとの回答を伝えてきてくれた。これはありがたかった。私は袁清林に謝意を表すために、二〇〇三年三月北京に赴いた。ここにその時の事を記しておく。


 がっしりした体躯に黒のスーツと赤いネクタイを付けた袁清林氏が、ドアの外に立っていた。私は声を挙げて初めて面会する喜びを伝えた。

その日私は北京に着いたばかりだった。氏と会うために十五時間夜行列車に揺られ、十四年ぶりの北京に降り立っていた。タクシーに乗ったものの車が道路に溢れ、北京大学勺園の宿舎に着いたのは一時間後の午後二時だった。今にも雨が降りそうな曇り空だった。携帯に電話をして上京したことを伝えた。

春になれば北京で会いたいと送ったファックスに返事が来たのは、二月のことだった。そこには、「知nin三月将到中国来訪問、熱烈歓迎nin。有朋自遠方来、不亦悅乎?我期待着在北京与nin会面、以便請教和交流。関于拙著的著作権問題、経与出版社聯係、出版社表示不提出要求。根拠?介紹的情況、我本人亦不提出要求。我的移動電話是○○、到達北京前後請告知。」とあり、この時も私は声を挙げて繰り返し読んだ。

部屋に入った氏は持参したものを袋から出し、説明しながら私に渡した。電話を受けて二十分後にはドアの前に立っていた氏に、品物を準備する時間は五分もなかった筈だが、紙袋の中から次から次へと品が出てきた。自ら揮毫した書、近著の本『行草毛澤東詩詞一百首』、北京の銘酒「二鍋頭酒」、海南省特製の珈琲一缶「興隆珈琲」。圧巻は氏の手になる草書体の書一幅であった。縦七十㌢㍍横百四十㌢㍍の画仙紙に、李白の楽府詩「行路難」の一節「長風破浪会有時 直挂雲帆済滄海」が墨痕鮮やか躍動していた。私はその時まで書家袁清林のことは知らなかったが、これはあなたに差し上げていなかったかな、と出した近著『行草毛澤東詩詞一百首』(台海出版社二〇〇〇年)は、書においても第一人者であることを示していた。これはすこし濃い味ですが、という「興隆珈琲」は帰国後試飲してその美味さに驚いた。口に含んだときの、香り、色、嚥下した後に広がる苦味の濃さが絶妙だった。何故珈琲を持参したのかその時は分からなかったが、後に中国熱帯農業科学院熱帯香料飲料作物研究所で作られた製品であることを知って納得が行った。氏の多くの農業科学の著作と、現在の職責、中国老科学技術工作者協会副秘書長とを考えると、熱帯の地海南省の珈琲が氏の手元にあったとしても不思議は無かったからだ。

勺園の部屋の寝台と寝台の間の狭い空間に向き合って腰掛けて話し込んでいると、いつの間にか二時間近く経っていた。腕時計を見た氏は、夕食を一緒にしましょう、下に車があります、と立ち上がった。階下に降りると、黒塗りの大型車に品のいい紳士がいた。私たちが来るまで待っていてくれたのだ。着いた先は中国農業科学院で、院内にある外賓招待所が会食場所であった。そこには氏の要請を受けて集まった男女二人が待っていて、にこやかに迎えてくれた。運転してくれたのは、中国老科学技術工作者協会秘書処辨公室主任の李国慶氏で、女性はその夫人、男性は副主任だと紹介された。

中国の会食は、客人の嗜好に合わせて魚肉の種類と調理法を決めると、当地の名物料理と季節の野菜の検討に入り、その後は点心(包子、餃子、ごま餅等)と果物が決まる。生来質素な食事で事足りてきた純日本人の私などは、満腹さえすればそれでいいのだが、あれが好き、これは嫌いと注文を付ければ付けるほど、熱心に食材と調理法を選んでくれる中国人の優しさに負けて、ついついわがままを言ってしまう。この時は、魚は余り好きではないがエビならいい、包子、餃子が好き、野菜は何でも食べる、と言ってしまった。すると、それを聞いた袁清林は、独自の料理哲学を私に講釈しながら、「日本人」向けに微修正する調理法が確実に厨房に届くようにと念を押して注文してくれた。しばらくすると大きな円卓に並べきれないほどの料理が次から次へと運ばれてきたのはいうまでもない。

「美味しいですね」「食べきれないほどですよ」「もうお腹がぱんぱんに張ってきました」「ほんとに美味しい」と言いながらお箸を動かしていると、「美味しい食事を食べると家に帰りたくなくなるでしょう。それを『喫飽不想家』というのですよ。」と袁清林。「中華料理は色と香りと味の良さが特徴です。それを『色香味美』といいます。」「これは筍ですよ。」と私の皿に運びながら、「蘇東坡の詩に、肉が無くても食事ができるが、筍無しで居ることはできない、というのがありますね。『寧不食無肉、不可居無竹』というのが。食べて見て下さい。今が旬ですからね。」

このように中国では、食事の時に、料理だけではなくて、中国の故事、ことわざ、古典の名句が次から次へと出てくるのが常である。それは年齢が高く学識も高いからだと思われがちだが、私の経験では、小さな子供や若い学生でも、四言、五言の古語名句が、歌を歌うように出てくる。これには感心する。中国では、何かにつけて名言警句を口にし、それをリズム良く朗唱する伝統がある。本来身につけているべき教養が、一定の水準以上保たれているのだ。日本だとこうはいかない。日本にも五七調の小気味よいリズムと古来の名句があるが、それが素養となって身につき、何かにつけて口に出てくるという、小さな子供や若い学生はいない。これは、花や草木の名を知らず、小鳥や昆虫の名を知らない日本人の空っぽさと、根は同じであろう。醜い形や、異常な色をした虫に悲鳴を上げて逃げまどい、悪臭や汚れに、全身で嫌悪感を表す今どきの日本人の軽さとも、根はつながっている。言葉と自然にまつわる体験の貧弱さがそうさせるのだ。わが国で、素養をはぐくむ伝統がなくなったのは痛い。

酒は普段から飲まないという袁清林は、一本の白酒、「京酒」を注文して私に勧めてくれた。私も普段から酒は飲まないので、沢山は飲めませんよといったが、自分も飲むから一緒に飲もうと、杯と杯を合わせて乾杯した。二人ともほぼ同時に顔が赤くなった様子は、見ていてほほえましかったのだろう、瓶を手に注ぎに来る女性の目元が笑っていた。酒に弱くてもアルコールが回れば気分が高揚する。私は、著作権を要求しないという著者への謝意をこめて、次のように言った。「この『中国環境保護史話』を読むと、日本の人々が持つ中国観が覆ります。現在の中国は、経済優先の開放政策のもと、環境破壊が深刻に進んでいるという印象があります。しかし中国では、環境保護を目的とする保護システムが、古代から確立していました。こうした歴史的事実は、日本では、一部の研究者を除いて、一般には知られていません。この本にはそれが詳述されているだけでなく、極めて現代的で切実な環境問題への提言があり、その解決策が示されています。例えば、人間が生きるために山林を開発して耕田を作り、干潟湖沼を埋め立てて耕田を作ったことが、生態の均衡を崩して環境に悪影響を与えたと書かれています。人間が豊かになるための経済活動が環境破壊を招き、その結果、却って経済に損失を与えて人間を貧しくしていると警告しています。日本でも現在進行中のものとして、諫早湾の干拓や、宍道湖の干拓、熊本川辺川のダム建設などがあり、環境破壊とそれに伴う経済と人間生活への悪影響が懸念されています。その意味でも、この本を日本に紹介して、広く読まれるようにしたいと思います。」袁清林は、私の拙い中国語を辛抱強く聞いた後、大きくうなずきながら更に一杯の酒を私に勧めた。
(『中国の環境保護とその歴史』研文出版 あとがき)


石川啄木の生家常光寺に伝わる物




  啄木の生家・常光寺に伝わる物
                     
                                 
 

常光寺御住職に宛てて 
6月15日は記念すべき日でした。私が13歳の頃より親しんだ啄木の歌にうたわれた、北上川、岩手山、姫神山、愛宕の森、そして生家常光寺を訪れることができたのですから。貴寺を訪問した際には御住職御自ら説明をして下さり、感激は一入でした。
啄木誕生の部屋 ②
「石川啄木生誕之地 昭和三十年秋 金田一京助書」の軸と米櫃(中央)
啄木生誕の部屋、およびその庭を見、金田一京助の書を見、宝物が入った桐の箱を見、立て屏風を見て、わずかの時間に啄木生前の時空に入り込んで、眩暈に立ち眩んでおりました。


屏風
米びつの箱書き


屏風




カメラに収めさせて頂いた屏風の書を、こちらに帰って国文学の先生に見せたところ、紀貫之とよみ人しらずの歌であることが分かりました。紀貫之の歌は、

徒ら遊支             つらゆき
桜ちる木能下風の寒可らで             桜ちるこのした風のさむからで
そら尓志ら連怒雪ぞふ里介利             そらにしられぬ雪ぞふりけ
          (屏風の書)                          (読み下し)

よみ人しらずの歌は、

                          よみ人志ら数                                       よみ人しらず
             足引の山路尓ちれる桜花                あしひきの山ぢにちれる桜ばな
             消せ怒春能雪可とぞ見る                きえせぬ春の雪かとぞ見る
          (屏風の書)                          (読み下し)

でした。
この二首は『拾遺和歌集』巻第一春のところに収められた歌で、それと比べてみますと、異同が三個所あります。

一 屏風の紀貫之の歌は一首ですが、『拾遺和歌集』には二首あり、続いてよみ人しらずの歌一首が集録されています。貫之の歌の後に続いてよみ人しらずの歌があるという順序は、『拾遺和歌集』と同じですから、屏風の歌は『拾遺和歌集』を手本として書かれたものでしょう。なぜ貫之の歌一首のみを書いたのか不明ですが、元来は二首有り、それが切り取られた状態で屏風に表装されたのかも知れません。
二 屏風の歌には題がついていませんが、『拾遺和歌集』ではそれぞれの歌に題がついています。紀貫之の二首の題は、「きたの宮のもぎの屏風に」と「亭子院歌合に」で、屏風の貫之の歌は「亭子院歌合に」という題です。ちなみに貫之のもう一首、「きたの宮のもぎの屏風に」の題の歌は「春ふかくなりぬと思ふをさくら花ちるこのもとはまだ雪ぞふる」という歌です。題が書かれていないのは、これを書いた人がわざと書かなかったのか、或いは、手本とした資料に無かったのか、よく分からない所です。
三 『拾遺和歌集』の紀貫之の歌は、「さくらちるこのした風はさむからでそらにしられぬゆきぞふりけ」ですが、屏風の歌は最後が「ふりけ」となっています。これを書いた人が、このように書き違えたのか、或いは、手本とした資料がそうなっていたのか、いずれかだと思われますがよく分からない所です。  
また、米櫃の箱に裏書きされていた言葉を活字に直すと、次のようになります。

       明治維新ノ後當寺維持經營頗ル困難ニ陷リ往々住職ヲ欠キ
       明治廿五年ニ到リテ檀家将サニ離散セントス此ノ際ニ當リ
       本寺報恩寺谷中老師七十餘歳ノ老齢ヲ以テ四里餘ノ山路ヲ跋渉シ當
       寺ニ來往シテ檀務ヲ鞅掌セラル此ノ櫃ハ當時米噌ヲ入レテ持參セラレタルモノ
       ナリ 永ク保存シテ当寺ノ什寶トス
                     明治廿六年四月十七日
       一 金八拾圓也 報恩寺廿七世谷中老師ノ御寄附
                      為常光寺永續基本金
一 田三反四畝五歩 右ハ谷中老師寄附金ノ一部ヲ以テ購入セルモノニシテ常光寺常什ノ飯米ヲ補フ為ナリ
                       報恩寺卅四世大絳叟誌
昭和十三年十月廿一日
         當寺廿四世石成老和尚本葬之日

  この箱書きから推量すると、昭和十三年十月二十一日に常光寺の二十四世石成老和尚の葬儀があり、そこに本寺報恩寺から三十四世の大絳叟(だいこうそう)と称される和尚が参列し、その際に大絳叟和尚が常光寺の二十五世の和尚の求めに応じて、この櫃の由来を書き記したものと思われます。昭和十三年に逝去された常光寺の和尚は、御住職様の祖父に当たるお方でしょうか。昭和十三年の大葬儀に関する記録があれば、当時のことが更に明らかになることと思います。 
  長々と贅言を弄して申し訳ございません。啄木を訪ねて貴寺を訪問したことによって、このような貴寺の宝物に接することができました。職業柄文献を漁っては意味不明の資料に頭をかかえる日々を送っている身にとって、このたびの体験は心躍るものでした。しかもそれが、啄木を通してのことですから、感激も一入でした。
   求めに応じて快くシャッターを押して下さった令夫人によろしくお伝え下さいませ。
常光寺
曹洞宗常光寺の碑
  画像参考文献
①②『石川啄木入門』 監修 岩城之徳 編集 遊座昭吾・近藤典彦 思文閣出版 平成4年11月1日発行

王枝忠 と 尾道 浄土寺、西国寺


 王枝忠と尾道浄土寺、西国寺 

 浄土寺の十二面観音像が安置された堂上にかかった額を見上げながら、王枝忠先生はしきりに首をかしげていた。幅二メートルほどもある木彫りの大きな額は、銅製の金網で大事に保護され、右横書きに「観聲殿」と読める。朱で色付けされた浮彫の文字は、やや色落ちて古色蒼然たるおもむきがあり、いかにも由緒深いものと推測されるが、はて「観聲殿」とは一体どういう意味なのか、にわかには解せないという表情であった。

 王枝忠先生は福州大学から岡山大学文学部に客員教授として招聘された中国の学者で、来日して一年余りになる。『三国志演義』や『聊斎志異』の明清小説の専門家だが、その該博な知識は先秦漢魏から唐宋明清の歴史、文学、哲学、民俗にまで及び、すべてに造詣が深い。その先生を尾道に案内したのは残暑厳しい九月中旬であった。
 拝観料を払って堂守りの説明をうけながら、充分に堂内と庭園を見てまわった後、これから履き物の所に降りようとしていた時のことであった。私は気づかなかったが、王先生は入るときすでにそれを見ていて、「観聲殿」(声を観る殿)というわりには、中にそれらしきものがなく、おやっと思って再び額を見上げたというわけであった。
 「ここに安置された仏像は何でしたかね。」
と私に聞くので、
  「十二面観音像ですよ。」
と答えると、
 「ああ、そうかそうか。」
と表情がやわらいだ。
 王先生によると、「観聲殿」と書かれているがこの額は「観音殿」という意味で、観音さまを収めた建物だと示しているという。しかし「観聲殿」がどうして「観音殿」を表すのかと首をかしげた私にむかって、次のように話した。
 「ひねりを加えて謎かけをしているようなものです。『聲』(sheng)は普通『聲音』(sheng yin)と熟した言葉でいいます。ですから、『聲』と書いて実は『聲音』の『音』を暗示しています。中国人の発想のようですね。ひょっとすれば、かつてここを訪れた中国僧が浄土寺の住職に頼まれて揮毫したものを、こうして額に彫り上げたものかも知れません。」
私は王先生の考証を聞いて、学問の真髄を教えられた思いがした。
 浄土寺のあと西国寺に向かった私たちは、また額を見上げて立ち止まった。それは、拝観料を払って入った畳敷きの部屋の前室に掲げられていた。やはり右横書きだが今度は墨書した絹布を錦で縁取りし、さらに金箔を張った額地のうえに麗々しく表装したものだった。「遍照室」と読めた。その部屋には遍照金剛である弘法大師空海がまつられていた。だから、「遍照室」は空海をまつった部屋という意味であることは明らかだった。王先生が注目したのは、その左に縦書きで書かれた年号と、揮毫した人物の名だった。しきりに何かを考えている。その達筆の文字は「大清乾隆三十二年秋月 古[門虫]游撲蕃書」と読めた。


 「『古[門虫]』は福建省のことで、游撲蕃の『游』は福州に多い姓です。とすると、福州からやってきて西国寺 を訪れた、游撲蕃という和尚が、この寺の住職に請われて揮毫したのが、この書なのでしょう。それは、乾隆三十二年の秋だったということなのでしょう。」
なかば独り言をいうように私に説明しながら、王先生はなおその書から目をはなさなかった。いかにも感慨深げであった。
 実は、王先生は福州出身で、北京大学を卒業後、寧夏回族自治区の社会科学院で研究生活をした後、ふるさとの福州大学にもどった人物である。福州からやってきた自分が、二百二十五年前に同じ福州からやってきた和尚の墨跡を見ている。その奇妙な偶然に、言葉を失っているようであった。
 揮毫の三文字は、游撲蕃が請われて筆をとり、その場で考えて書いたものであろう。だとすれば、この遍照室は二百二十五年前からそこにあったことになる。西国寺の長い歴史からすれば、それは当然のことなのだが、少なくとも二百二十五年前にさかのぼることができる証拠をそこに見て、改めて遍照室を見ると、描かれた空海の絵が時空を超えて近づいてくる気がした。

 その時、西国寺の住職はわざわざ絹布を用意して游撲蕃に揮毫を求めた。游撲蕃はよほど尊い人物であったとみえる。寺ではその絹布を錦で縁取りして、金箔を張った額地のうえに表装していることからもそれは分かる。私たち二人は、そのような額の下でたたずんでいたのであった。
 乾隆三十二年は江戸時代の明和四年にあたる。この時の住職は誰で、游撲蕃とどういうつながりがあったのか、その時残したその他の書画のゆくえはどこに、游撲蕃は西国寺以外では尾道のどの寺院を訪れたのか。この謎解きはこれから始まる。そもそも游撲蕃とはどういう人物なのか、なぜ尾道を訪れたのか、その足跡は鞆にも備前にもあるのか、そして福州ではどういう評価を受けた人物であったのか。この謎解きを求めて、いずれは福州に行かねばならない。
 王先生に尾道の魚と寿司と豆腐を味わってもらうべく、私のなじみの店に案内した。元来、生ものは口にしないのが中国の人の常だが、王先生は食および食材に関しても博識で、日本の寿司の味にも興味がつきないようであった。初めてだという雲丹のにぎりも、「これはみやげ話になります。」と雲丹の味覚と感触を味わっていた。尾道一と定評のある「寿司金」の大将は、「どうして寿司金というのですか。」という王先生の質問に、中国僧の書に劣らない達筆で、「欽爾」と書いて示してくれた。王先生とともに私も初めてその由来を知ることができた。
 浄土寺の「観聲殿」と西国寺の「遍照室」は、思わぬ収穫を私たちにもたらしてくれた。両寺院の悠久な歴史と日中交流の足跡は、尾道における両寺院の大きさを示していた。
 王先生は、二〇〇二年三月、二年間の滞在を終了して福州に帰る。
あとがき
 このような短文にあとがきはあるべくもないが、書き足りないことがあるのでここに書いておきたい。
 この文は、もともと「尾道はよくなったか」と題して、開発によって変貌した尾道の姿について書く予定であった。海岸通りの雁木、あさひ食堂、錠前専門の店、列車の窓から見えた駅前の海、開発後の暴走族の群れ。人々が一度は行ってみたいと思う尾道が、悪しく変貌した。開発は、破壊したもの以上のものをもたらすことはありえない。五時になるとシャッターを下ろさざるをえない商店街が、すべてをものがたっている。
 二〇〇二年二月末、私たちは再び西国寺を訪れて現住職からさまざまなことを教えていただくことになっている。また、昨年九月に両寺院を訪れた時、レポートを書くための調査に来たという広島商船高等専門学校の一人の学生と、浄土寺でも西国寺でも一緒になった。その学生は、私たち二人の会話に聞き耳を立てながら、すこしでもレポートの内容を充実させようと、ぴったりと後をついてきて、まるで二人を取材しているようでもあった。その学生にも、結果を報告したいと思っている。
 私は尾道短期大学に十五年間お世話になった。久山田の農家の牛小屋に一年間住んだこともある。国文科の先生、経済科の先生、職員の方々、日没のテニスコート、そして十五年の間に出会った約二千名の学生一人一人を思うと、感無量となって万感胸に迫る。歴史ある尾道短期大学に少しでも関わることができて光栄に思う。そして何よりもこの最後の号に文を寄せることができて、この上ない幸せを感じている。

(『国文学報』第45号 2002<終刊号> 尾道短期大学国文学会 2002年3月刊 113-116頁 )

韓国ソウル明洞ミョンドンの街



 社会のちから   韓国ソウル・明洞ミョンドンの街     (『国文学報』第44号 2001年3月 55-57頁 )




  地下鉄4号線明洞ミョンドン駅から地上に出ると、もうそこは、ブティックとレストランが林立する大繁華街。道は下り坂になっていて、川下りのカヌーよろしく、自然と流れに乗って露天の店を冷やかして歩く。
    それは午後5時頃だった。流れに逆らって立つ中年の男がいた。ぶつかりそうになったその男を見ると、なにやら喋りながら斜め後ろを見ていた。振り返ると大通りの端に一人の若い女性が正座して座っていた。しかも首をうなだれ、両手を膝の上において。暗~い、悲痛な表情をしていた。石の舗道に正座する姿は、心の中に固い決意が詰まっているように見えた。年齢は十代のようだった。
     男にはあと二人の連れがいた。その二人も正座する女性に気がついて、4,5m通り過ぎたところで立ち止まり、人の流れに逆らうようにこちらに顔を向けていた。  川を下る濁流のように押し寄せる人波は、三人の男によって自然の流れをさえぎられて、そこに渦ができていた。渦の原因が男たちだと気がつくと、今度はその男が見ている方向に目をやる。次から次へと下ってくる人の波は、このようにして女性の存在に気がつくのだった。
  私も立ち止まってその女性を見たが、女性は深くて重い傷を心に持っているみたいだった。周囲の目にさらすことによって、更に固く自分のなかに閉じこもろうとしているみたいだった。前のめりになって両腕を膝頭で突っ張る正座の姿勢がそう見えた。一点を見つめる表情は小刻みに震えていた。
   
  二〇〇〇年は十七歳の少年が様々な事件を起こした。五月には愛知豊川市で、人を殺してみたかったと主婦を刺し殺し、数日後に佐賀では牛刀を持った少年がバスを乗っ取って、女性の首を切り裂いて殺した。六月二一日には岡山邑久郡の十七歳が金属バットで部員を殴った後自分の母親をも殴殺。山口では新聞配達をする少年がやはり金属バットで母親を殴殺し、八月十六日には大分県野津町で十六歳の少年が近所の一家六人をサバイバルナイフで殺傷した。
  この事件を知って頭を抱え込んでしまったのは、いずれも、コンクリートで覆われた都会での出来事ではなく、自然が残り、人情に厚く、のんびりとした環境の土地で起こったことだった。
  自然豊かな土地には、進歩した人間社会が束になってかかってもかなわない、力がある。その力は、やすらぎや歓びを与えてくれるやさしさもあるが、意のままにならない手強さと厳しさも持っている。だから人々はそんな土地では、厳しさに一人では立ち向かえないからお互いに助け合い、やっと得た喜びを独り占めにせずにそれを分け合ってきた。簡単にいえば、人と人とがお互いに声をかけ合ってきたのだ。 だが今、自然が残る田舎の町でも、その声が聞こえなくなってきた。わたしたちは自転車ではなく自動車に乗って移動するようになった。  車は速くて便利だが、止めて窓を開けて人と話すのには向いていない。エアコンのきいた快適な個室は、人と挨拶する言葉と声を奪う。たとえ自転車に乗っていても、拡幅されたコンクリートの道路は、速くて快適に自転車を先へ先へとみちびく。
  いまやどこの町にも町内を真っ二つに切り裂く太い道路が出現した。これが人から、挨拶とゆずり合う気持ちと立ち話を奪った。だから今、車や自転車が通ったあとは驚くほど静かになる。人が住んでいるのに静まりかえっている。

  実は周りの木々や水の流れの豊かな自然は人にやすらぎや歓びを与えるべく昔と変わらずそこに存在しているのに、町の人は便利な太い道路に乗ってサッと通りすぎていく。豊かな自然があるからといって、それが人に何ももたらさなくなった。ビルと地下鉄とけばけばしい店舗で埋め尽くされた都会と少しも変わらなくなった。
  すれ違う人はもちろん、知っている人にも声をかけることはなくなり、だから自分が声をかけられることもない。ましてや、コラッと怒られることがないのはもちろん、大きなったのーと声をかけられることもない。  それをしてきたはずのおじさんやおばさんが黙ってしまったのだ。世代を越えて挨拶を交わし、見知らぬ人に声をかけることが日本の町から消えた。

  だが韓国は違った。明らかに異常な光景を見た三人の男は、人の流れに逆らって若い女性の所に戻った。両膝をついて女性の前にしゃがみ、下から顔をのぞき込むようにして話しかけた。どう話したのかその内容は分からなかったが、両肩の間に首を折り込んでうなだれる女性の小刻みな震えが止まった。
  女性はなおも顔を上げなかったが、男の言葉を聞くにつれ、正座の膝頭に突っ張った両腕の力が抜けていくのが分かった。
  ミョンドンの買い物通りはとてつもなく人が多い。みるみる人が集まり周りを取り囲みはじめた。その時点で私から女性の姿は見えなくなったが、人だかりが減らないところをみると中では男の説得が続いているようだった。
  その時である。連れの二人の男が大きな声と両手を広げる大きなしぐさで人だかりの輪の中から出てきたと思うと、人の好奇の目から女性を守ろうとするかのように人だかりを散らばらせ始めた。その騒ぎを見て更に集まってくる人をも、大きな声と両手を広げる大きなしぐさで追い返すのだ。

  女性はなぜあのように正座してうなだれていたのだろう。私に理由は分からない。ミョンドンの雑踏の中に身をおかざるをえない寂しさと、出口がみつからない絶望感におそわれたのだろう。都会の雑踏は時としてそのような心細い孤独感を癒してくれるものだ。だが韓国の雑踏は女性を孤立したまま見殺しにはしなかった。そこには今の日本の街角から消えた社会のちからがあった。とりわけ、おじさんの自信に満ちた頼もしさがあった。

稲の花 尾道の女友だち


 稲の花    (『国文学報』第41号 1998年3月 80-81頁 )

  稲の花 
  庭に水田を作って三年になる。たたみ一畳の田に水を引くと、いつの間にか
大きさの違う蛙が住み着く。昨年は蛍が一匹飛んできた。水田は生き物を呼び
寄せる宝庫。稲穂が稔ると雀の襲来が始まる。
 雀が田の稲を食べるには方法がある。飛び上がって穂の先を啄むと羽ばたき
をやめて地上に着地。稲の茎を途中で折っていく。一本また一本。食べ易いよう
に地面に引き寄せておくのだ。
 雀も飛ぶのはしんどいらしい。地面から稲穂を啄む方が樂ならしい。心ゆくまで
籾を啄んで白い米を食べていく。
 飛び去った後の稲穂は文字通り蛻の殻。「もぬけの殻」は「裳抜け」が語源らし
いがそれは誤りで「
籾抜け」が正しい、そう確信した。皆さんくれぐれもお間違えなく。
 刈り取った稲を米にする時、稲穂を落とす方法が分からない。結局、指で扱いて
籾米を収穫。今度は籾米を脱穀する手法が分からない。擂り鉢で擂っても木で叩
いても籾殼はビクともしない。稲は外面も強いが内面はもっと強い。
  稲の花の開花は数時間だけ。白い小さな花がひっそりと咲く。
  その白い花が咲いた後、うまく受粉して一粒でも多く秋に実るようにと願う昔の人は
 「雀が乳を吸いにくる」と言って雀を警戒していた。まだしっかりと実の入らない穂には、
 髄液とでもいう白いどろっとした柔らかいものが入っていて、其を雀が啄む。雀に吸
 われた稲穂は太らないでペシャンコの儘秋を迎えるからだ。こう教えてくれたのは尾道
 美の郷中野に住む私の七十八歳の女友達。
  彼女は、裸足で踵をつけて一回転しなさい、四、五粒籾殻が弾けて玄米が飛び出
 しているようなら、完璧に乾燥している目安となります、それを藁を叩く木槌で叩くと
 容易に籾殻と米とが分かれるのよ、とも教えてくれた。
  数千万年前から咲き続けてきた稲の白い花を見て、人と稲との長いつながりを思った。
 私は、その原始からの繋がりの輪に初めて入ることができたのだ。

クロアチア!クロアチア!


 クロアチア    (『国文学報』第42号 1999年3月 69-73頁)

 クロアチア ! クロアチア! 

 ザグレブの空港に着いたときヨニックはひとりで別の出口に並んでいた。あれ?と思った
が私は「乗り継ぎ」の出口から空港内に出て、次のルフトハンザ航空便まで四時間待った。
四時間たって出発便の列に並んでいると、弾んで左右に揺れる歩き方をするヨニックが近づ
いてきた。彼は、乗り継ぎの四時間の間に、ザグレブ市内まで行って激しい戦闘の跡を見て
きたという。その表情は暗く沈んでいた。空港内のベンチでひたすら時間が過ぎるのを待って
いた私はヨニックの目的意識とその実行力に度肝を抜かれた。
 ヨニックはベルギーチームのコーチで二十三才。SAKEとBONSAIが好きな飲んべえだ。
そういえば彼は、クロアチア南部のスプリト空港でも長い列の後ろに並ばず、誰もいないカウ
ンターの前に立ってクロアチア航空の女性を手招きするとさっさと手続きをすませて中に入っ
ていた。旅なれたツーリストとは彼みたいな人のことをいうのだろう。それにしても四時間の
過ごし方の違いは余りにも大きい。

 クロアチアを訪れたのはヨットレース「ヨーロッパ選手権」に参加するためだった。アドリア海
に面したローマ帝政期の美しい古都スプリトに二週間ほど滞在した。そこで私は先のヨニック
と三年ぶりに再会し、また新しい友人たちと出合った。

 ZlatkoとMirandaは私の新しい友人である。クロアチア行きが決まったときからE-mailで連絡
を取り合っていた私たちは、初めて出合ってお互いの背中に腕を回して挨拶を交わしたときに
は「ようやく会えたね」という懐かしさでいっぱいだった。E-mailは不思議なものだ。人種と言語
を越えて結ばれる。
 二人に会って初めて分かったことがいろいろとあった。肥った初老の人ではなくて、やせて背
が高い三十代の青年で、丸顔で背が高いミランダはその奥さんだった。気むずかしい人ではな
くて、いつも笑顔を見せる紳士淑女で、困った表情や驚いた表情の素朴さといったらなかった。
ひと目でウマが合いそうと直感した。Zlatkoの名を「ズラトコ」と英語よみで呼んでいたが、ミラン
ダや他の人が彼をザトコと呼んでいるのを聞いてクロアチア語では「ザトコ」というのだと知った。

 私はインターネットを利用してクロアチアから日本に向けてレースの模様をレポートするために、
ノートパソコンを持参していた。できるかどうか自信はなかった。ドイツやイギリスでならできるか
もしれないが一九九五年まで内戦が続いていたクロアチアだ。しかもヨット界でまだそれを試
みた日本人がいなかった。
 ザトコとミランダに、レース事務局の電話回線を使わせてくれませんか、とおそるおそる聞いて
みた。大会が始まるとレース事務局は戦場のようにごった返すのを承知の上である。宿舎となっ
た所はいわゆるホテルではなくて学生用のホステルで、電話が引かれていなかった。難色を示す
と思っていたのにザトコはいとも簡単に「ああいいよ」と言ってくれた。しかも電話代はいらない、使
うときは、事務局のコンピュータの回線を抜いて君のコンピュータにつなげばいいという。日本とク
ロアチアで交わしたE-mailが私たちを旧知の間がらにしていた。ザトコはプロバイダの電話番号と
大会事務局のID番号、そして大切なパスワードを教えてくれた。
 私は早速ダイヤルアップ接続を設定して接続名を「クロアチア」とつけ、リターンキーを押した。する
とどうだろう、私のパソコン画面の地球儀が回り始め日本のホームページが画面に出てきた。のぞ
き込んでいた人垣からは期せずして、オオッ、と歓声があがった。
 インターネットに入りこめば、国境もシステムの違いも越えて地球上のどことでも瞬時につながる。
これはえらい世の中になったものだ。
 日本を出発して以来自分宛のE-mailをチェックしていなかった私は、大学に届いた数通のE-mailを
読んでクロアチアからその返事を送っておいた。

 大会が始まるとザトコは私が持参したデジタルビデオカメラに目を付けて、レースの模様を撮影して
画像をインターネットに載せる仕事をしてくれないかと言ってきた。彼らはテレビ向けのビデオ取材班
と新聞向けのカメラマンを手配していたが、インターネットに載せる画像をどうするか決めていなかった
らしい。かくして私は急遽大会所属のプレスに変身し、アドリア海のレース会場をプレス専用ボートで走
り回ることになった。これは日本チームに大きな力となった。私はプレスの仕事の傍ら、一方ではちゃっ
かりと海域の風のデータを集計し、それを即座に無線でコーチに伝えたからだ。日本チームの選手たち
は刻々と変化する風の傾向をタイムリーに把握することができたことになる。ヨットは風を読むことで勝
負が決まる。おかげで日本チームは、ヨーロッパ選手権史上初めて銅メダルを獲得することができた。
 
 私たちが滞在したスプリトは、ユネスコの世界文化遺産に登録されている美しい古都で、英国の作家
アガサ・クリスティーは二度目のハネムーンにこの地を選び、世紀の大恋愛で世界中を驚かせた英国
国王エドワード八世とアメリカのシンプソン夫人は恋の逃避行の滞在先のひとつにこの地を選んでいる。
大会をホストしたモーナ・ヨットクラブには、オランダ、ドイツ、デンマークなどから航海してきたヨットが
もやい、デッキの上には洗濯物が干され自転車三台をしばりつけている船もあった。ヨーロッパの人々
にとっても一度は行ってみたいリゾート地なのである。九人乗りのルノーのバンをチャーターしていた私
たちはレースが終わるとよくドライブをしたが、驚いたことにモーナ・ヨットクラブのように美しいクラブハウ
スとハーバー、レストランをもつヨットクラブが至るところにあり、三十分のドライブの間に八つもあった。

 ボスニア・ヘルツェゴビナとの国境である石灰岩の岩肌が露出したディナラ山地はレース海面からすぐ
近くに見えた。スプリトからわずか四十キロしか離れていない。あのサラエボまでもわずか百六十キロで
あった。今なお二百万個以上の地雷が残るボスニア・ヘルツェゴビナにドライブして行くことはできなかっ
たが、ある日その山の向こうから白い煙が雲のようにわき上がったときは、ザトコとミランダのみならずク
ロアチアのスタッフは厳しい表情で煙の様子を見あげていた。いまわしい戦闘の恐怖がもたらした彼らの
表情だと私には見えた。(ザトコは海軍の軍人であると後に知った)

 クロアチアとスロベニアが旧ユーゴースラビアからの独立を宣言したのは一九九一年六月で、その時か
らクロアチアと旧ユーゴ連邦軍との戦闘が激化した。現在広島市立大学に付属する広島平和研究所の所
長をしている明石康氏が、国連事務総長特別代表兼国連保護隊代表としてクロアチアのザグレブに着任し
たのはその三年後の一九九四年一月だった。今から考えると私にも思い当たることがある。一九九三年の
夏、北アイルランド、ベルファーストの大会に参加した私は、パーティー会場へ移動するバスの座席でスロ
ベニアチームの監督、コーチと隣り合わせた。偶然にも彼らとはディナーの時もテーブルが同じで私たちは
名刺を交換したり小さなプレゼントを交換したりした。彼らは私に美しいカラー写真で紹介された「スロベニア」
という本をくれた。図鑑のように立派な本だった。そこには、山、渓谷、海岸、植物、動物などスロベニアの
美しい自然がいっぱい紹介されていた。中を見て、こんなに美しいの?スロベニアって、というと自慢げに
うなずいて名刺の裏に自宅のFAX番号を書き加えてくれた。あのとき彼らは戦闘が続く国情の先に明る
いものが見え始めた時だったのだ。だから「ヨーロッパ選手権」という国際大会に「スロベニア」として出場
してきていたのだ。彼らはその本を十数冊も持参して各国の代表にプレゼントしていた。しかもその時す
でにスロベニア政府は四年後の九七年に「ヨーロッパ選手権」をホストする準備を整えており、そのため
の印刷物も配ってアピールしていた。彼らとはその後、トルコのイスタンブル(九四年)でもフィンランド
(九五年)でもまたクロアチアでも再会した。

 外務省の外交青書を見ると一九九五年八月四日クロアチア政府軍はクライナを攻撃し二日後にクラ
イナ全域を制圧している。ちょうどこの時私はフィンランド、オーランド島マリエハムのバルト海の船上に
いた。木造ニス塗りのバイキング船にはイタリア、スウェーデン、ポーランド、チリ、アメリカ、ニュージー
ランド、南アフリカなどの国に混じってクロアチアの三人がいて熱心に選手のセーリングを双眼鏡で追っ
ていた。この年クロアチアは初めて「世界選手権」に参加してきていた。三人とも一九五センチの大男
だった。初出場とはいえクロアチアの選手のセーリングはすばらしく彼らはレースのたびに歓声を上げ
て順位をメモしていた。デッキ上の見やすい場所には全員が移動するからそこは大混雑するが彼らは
ひときわ背が高いのにいつもベストポジションに陣取っていた。ときたま振り返って済まなさそうな表情
で入れ替わってくれたが、そのときは日本選手の順位もチェックしていて私に教えてくれた。今から考え
ればこの時の彼らもクロアチア政府軍が攻撃をしかけたというニュースに心を痛める一方で、「世界選
手権」に選手団をつれてきたという明るい使命感に燃えていた時期だったのだ。その三年後には大会
を開催するホスト国として私たちを招待してくれたのだから、彼らの力には驚く。しかももっと驚くのは単
に国際舞台に登場したのではなく、その成績のすごさである。九五年の世界選手権では銅メダル、九八
年の世界選手権(ポルトガル)でも銅メダル、そして今回のヨーロッパ選手権では堂々と金メダルを獲得
してしまった。
 これはヨットの世界での話だが、サッカーワールドカップでも日本はクロアチアにかなうわけはなかった
なあと思う、底力の差は気が遠くなるほど大きい気がする。
 年末に嬉しいメールが舞いこんできた。
Happy new year !!!!!」「Merry Christmas, Happy new year and lot of nice and fun
sailing in 1999 !!」
差出人は「Zlatko, Miranda and Sailors and crew from JK"MORNAR" Split , Croatia」だった。

旅先のオッズandエンズ アルコール、インタビュー、お茶とティー


 旅先のオッズ&エンズ    (『国文学報』第43号 2000年3月 71-72頁)

 旅先のオッズ&エンズ
             

      アルコール 

 カラチの十月は三十四度の猛暑だった。アルコールが禁止されたイスラム世界で、
お酒は禁断の木の実だ。帰国の前夜、宿泊先のやどや全体に緊張が走った。ある部
屋のテレビが壊され、床のジュータンの下からビールの空き缶をつぶした残骸が何十
個も発見された。その部屋にいたのは同じイスラム世界のマレーシアからの青年四人
だった。
 別の部屋にいた年輩のマレーシア女性ワサナは、事態の深刻さを興奮して話した。
マレーシアではお酒の甁に触れることも許されない、タッチしてもダメ、酔った勢いでテ
レビも壊したんだわ。ぞくぞくとその部屋の前に集まったパキスタンの従業員の男たち
は、不思議なことにマレーシア女性と当の四人よりも青ざめた顔をしていたのはなぜな
んだろう。

      インタビュー

 地元のプレスからインタビューを受けたときだ。優しい目をした二十代の新聞記者
ラジャさんは、パキスタンに来るのは初めてか、どんな選抜を経て日本から来たのか、
パキスタンに着いたときの印象は、気候はずいぶん違うのか、滞在してみてどうか、
パキスタン料理は好きか、パキスタン国内をフリーチケットで行けるとしたらどこへ行
きたいか、日本に持って帰るとしたら何を持って帰りたいか、などと聞いた。とびきり辛
いカレーが好き、ラクダがいい乗って日本まで帰りたい、民族衣装を着てみたい、こん
な答えはとくにラジャさんを喜ばした。
 写真入りで出た翌日の新聞を見て思わずうなった。どんなことが好きか、と聞かれた
とき、一行のKeikoは、学校から帰って家で寝るのがいちばん、と答え、Yasushiは、
友だちと一緒に遊んでる、と答えた。
 翌日の新聞には、
 Keiko: I like to sweep the house.
Yasushi: I like to pray with friends.
と書かれていた。とくに目的をもたず、なにかと茶化すことが常となった日本の若者の
答えは、「ねる」「あそぶ」だったが、それが家をほうきで掃き、友だちと一緒にお祈りを
することに化けていたのだ。ラジャさんはどうりであのとき、うれしそうな顔をしてメモをし
ていたわけだ。期待どうりの答えを引きだした自分のインタビューにニンマリしていたの
だ。イスラムの世界の若者と日本の若者の世界がすれ違ったまま交わることがなかっ
た瞬間だった。わたしの英語のせいじゃないぞっと。

      お茶とティー

 アジアではお茶のことをみんな同じような呼び方をする。中国と日本はもちろん「茶」
といい、インドやパキスタンでは「チャイ」だし、トルコでも「シャイ」という。ややとんで
ポルトガルも「チャイ」だ。中国語の「茶」ということばが茶の葉とともにアジア全域と
ヨーロッパに伝わったことがわかる。だのに英語でティーというのはなぜだろう。
 福建省のアモイ廈門や広東省のスワトウ汕頭では「テー(te)」といい、福建省のザ
ンピン(さんずい偏・章平)では「ティア(tia)」永春では「ティエ(tie)」という。英語のtea
は実は中国語だったのだ。どうやらお茶のことをいう呼び方で、中国語の「茶」とい
うことば以外の呼び方は、この地球上に存在しないらしい。

2013年3月17日日曜日

たいのさこ薪割り 2013.2.3

薪割り


今から山へ 巣を作るとき左人差し指を大型カッターでざっくり
ヒビノで6針

温泉津温泉 沖泊海岸 モモ 2013.3.16

温泉津温泉は 土曜日でも ゆったり
温泉街の通りには 遊ぶこどもたちが 走り回っています
モモを見つけて ワッと 取り囲む

温泉津温泉の子供たち モモもこどもずき

2012年12月31日月曜日

【忘年会案内】ヨット部41歳のつどい

【忘年会案内】 ヨット部41歳のつどい

12月4日はションと恐羅漢スキー。25日はA助、ション、ひろしんハタチgalsと
官能スキードライブ。
とどまるところを知らぬ遊び好き。
ひたすら世間と家族の顰蹙をかっていますが、
  人生は悟るのが目的ではないです。
  生きるのです。
  人間は動物ですから。(岡本かの子)
だし、
もうこの先
  さしあたりたる目の前の事にのみまぎれて月日を送れば、
  事々なす事なくして、
  身は老いぬ。(徒然草)
の様子が見えて来ているし、
  死して花さく身にてもなし。
  命だに長らへば、
  又おもしろき事もあらん。(古浄瑠璃)
なんですから、
  常に未知のものへの漂白たる人生(三木清)
を積極的に生きている結果なのです。
いや実を言うと
  四十過ぎると、容易に友達はできない。(吉川英治)
というのが本音なのかも。

12月30日夕6:30 「浦島」(流川、新天地劇場横、シズラー裏、
新天地近Pから天満屋寄り)Tel:243-5768に決定。
21日現在参加者
  ウス、ダイ太、チン太、タビ、ション、円、
不参加者
  ボケ、ガニ松、A助、ノンちゃん、おから
未定者
  チョンボ、巨泉、アヲ、ベッティちゃん

告知板:A助、ボトルたのむ

1988.12.22 通信No.3


2012年9月30日日曜日

天中九組 与志 同窓会 50年  2012.9.17

堀口さんは 遅れるので直接与志へ行くと聞いてるから と 幹事のつじもと
じゃぁ ぼちぼち 行こか と 幹事のときだ
ほんの10分ほどで 十五の面影を ぷんぷん発揮しだした面々
全日空を出て 与志にむかって歩き出したのだけれど
ドアを通って出ていることに気付かないほど 話に夢中 
だれかの後をついて歩いたら いつのまにか北新地の道路を歩いていた

横にはありもとさん なんてはなしやすいんだろう
えぇ なに ほんま  と 相づちを打ちずめなほど 初めて知る事実
天中のときは 学校から帰ったら 自分がごはんを 作っていた
と ありもとさん

エレベータに乗り込んで3階へ



  * 日時  九月一七日(月祝)一四時より貸切   放歌高吟OK!


* 場所  与志   06-6345-2478


      大阪市北区曽根崎新地1-8―6   北新地山忠ビル3階

      (永楽町通り、御堂筋寄りの北側のビル)


* てっちりコース: てっさ・湯引き・唐揚げなど。早松茸も。

           ビール、ひれ酒、焼酎ほか。


* 会費  六千円(税込)


エレベータの中で かぶっていた帽子をとると 
や あるやないか
と みやい 帽子をかぶっているから 髪の毛がないと思っていたらしい
 う~ん ほんとは けぇ ないんや と 胸の内

与志は 若い夫婦の店だった
くちぐちに どこへ座ろ どう座ったらええんや と いうものだから
そんなもん 出席番号順や と ときだ
そのひと言で あっというまに あいうえお順の席が決まった

ビールがつぎからつぎへと 回って来て コップに注ぎ合い さあ 乾杯の準備OK
じゃあ 今日は一番遠くの東京から来た みやいさんに 乾杯の音頭をとってもらいましょう

つじもと 辻本は全員に電話をかけて 集合をよびかけた人だから みんなが賛同して
よっしゃ みやい いけ

乾杯まえのひとことは 50年振りのみやいのことば だから しーんと 聞き入る

インドネシアへ出張があったので 来るまいと思って北村に相談したら 北村は行くというので
予定をやりくりして 今日来た 
  おぉ~ と みんなのどよめき
つじもとくんには 御世話になった ほんとにありがとう
  おぉ~ そうや おれもや と 同意の声
それでは 乾杯っ
  かんぱいっ カチン カチャ チン の 音が 与志に響く




有本さんの演説に聴き入る 男子

堀口さんのアイサツに興味津々の 男子

2012年9月20日木曜日

天中九組 北新地「与志」 2012.9.17 同窓会

 ついに 春まだ浅く を 合唱する日が来た。
時田が書いた呼びかけ文は 格調高い 明治文語文


昭和三七年名門大阪市立天王寺中学を卒業してはや半世紀

恩師すでに亡く馬齢を重ね六十有余歳


ここに久闊を叙すべく下記の要領にて、


新地の酒亭に有志集まらんと欲す

往時茫茫、春まだ浅きを絶唱すれば青春未だ我にあり

敬老の佳き日、紳士淑女諸君萬難を排してのご参集を衷心より願ふべし。


飲み食ひ且大いに語りたく・・・




 呼びかけに応じて 東京から来たのは 北村 宮井 万喜ちゃん 大阪、奈良、京都、兵庫の近畿から集まったのは、有本さん、堀口さん、小林さん、清川、別所、末政、金井、上場、辻 そして、村田、岡、久保、そして幹事の時田と辻本。
 待ち合わせ場所は北新地に近い全日空ホテル。この日私は 広島から神戸に出て 古座の昔を語り合う家で一泊後 新快速で 梅田に到着。大阪の堂島を 歩いたことがなかったので 堂島の
適塾、公会堂 、市役所、北浜を 散歩してから 全日空へ行った。適塾は 建物が残っていて びっくり。撮影禁止と言われて がっかり。複製品が多いのに ええやないか。
 川向かいの堂島に 華岡青洲の医塾 合水堂 があったと思うので 行こうと思ったけど 緑の公園に なっていたので 行っても無駄 と思い 北浜向いて 橋を渡った。
 
 辻本と全日空で待ち合わせ、まだ早いので、近くのめしやに入って、二人で定食。おでん定食とウナギ定食。600円。
 ホテルにいると、村田が到着。ここまでは愛妻といっしょだったらしい。しかも有馬温泉の帰りという。ほんまにもう。
 すると、万喜ちゃんが かわいさいっぱいのまま 来て 合流。ロビーに 大声炸裂し始めて、他の客が どっかへ逃げ出した。
 誰が集まるかは 名簿で分かっているので 次来た奴は どいつや と 顔当てゲームに夢中になった。なんせ 15の春から 見た事もない やつ ばっかりやもん。
 小林さんが 堂堂の入場を 果たすと 有本さんが 中学のときのふんいき いっぱいに登場。
末政は 顔当てゲームで 即答といかなかった。眼鏡かけてるし、どっかですれちがう おっちゃんに似ていたから しばらく顔をみていたら、破顔した笑顔で 分かった。
 辻が登場した時は びっくりした。大きなってるし、体がごっついし、表情が高級紳士だったもんね。
 清川が 来た時は 末政と話をしていて 末政の背中ごしに 見たんだけれど すぐに 名前が出て来た。
 宮井が登場。みんなが わっと 宮井を囲んだけど 私は誰か 分からず 何度も 顔を見た。
 上場が登場。ぜんぜん変わってないので 直ぐ分かった。体の頑丈さも イメージ通り。
 北村が来た時は もうロビーが 大騒ぎになっていて 近づいて行けず。噂通り 巨漢になっていて 遠くから ちらちらと見た。
 自分の口に手をあてて 息を嗅ぐと どうも臭い。なんせ 前の晩 ニンニク効かしたビフテキ おごってもらったし。こりゃ あかん と思って、外のコンビニへ 歯ブラシ 買いに行こうと 座を離れると 時田が 入って来たのと すれ違った。時田がくると 猛烈に 皆のテンションが 上がって コンビニに行くの止めよか と思うも 口臭が気になって 歯ブラシに直行。


2012年8月5日日曜日

白浜 紀伊民報 白良浜にウミガメ 2012.8.1

【観光客見守る中で産卵 白良浜でウミガメ】

 白浜町の白良浜海水浴場で1日夜、ウミガメが産卵しているところを観光客が見つけた。
照明が明々とともる遊歩道やホテルのすぐ近くで感動的なシーンが繰り広げられた。
同海水浴場では昨年7月にも似た環境下で産卵が確認されており、專門家は「昨年と同じ
ウミガメの可能性もある」と話している。
 近くのホテルや旅館の宿泊客が、海水浴場北端の階段護岸に近い所で見つけた。
同海水浴場での上陸、産卵の確認は今シーズンでは初めて。
 甲羅の大きさは約90センチ。午後8時ごろ上陸したという。約2時間後に海に戻った。
 同海水浴場では昨年7月に4回、上陸と産卵が確認されている。このうち2回は観光客
らがはなびを楽しんでいる最中に上陸し、多くの人が産卵シーンを見守った。
 母親と産卵を見守った大阪市の金子真理奈さん(10)と龍一郎君(4)は「砂浜に
産卵するのは知っていたけど、どんな様子で産むのか知らなかった。間近で見る
ことができた」と声を弾ませた。
 ウミガメを飼育している串本海中公園センター(串本町)は「明るく騒がしい場所
に上陸、産卵するのは珍しい。昨年と同じ個体とも考えられる」と驚いている。

白浜 紀伊民報 読者の欄 「白浜町のゴミケアーはすばらしい」

紀伊民報 2012年8月4日 声 読者の欄
紀伊民報のweb投稿から 800字以内で文章を投稿したところ 翌日 紀伊民報の編集氏から 電話が入り 明後日の夕方の新聞に載せます と
掲載されたのは 声 読者の欄

【白浜町のゴミケアーはすばらしい】

 白良浜、権現崎、瀬戸、臨海浦、田尻、江津良を回ってゴミを拾い始めたのは、まだ梅雨が明けない6月下旬だった。朝6時、火ばさみとレジ袋を持って、高速歩行を始める。散歩の目的は、メタボ解消のためなのだが、白浜温泉が世界にほこるこの美景スポットには、訪れた人の余韻が必ず残る。その余韻を片付けるのが、もう一つの目的だ。余韻とは、ほかでもない、タバコの吸いがら、あめの包み紙、ストローのことだ。
 梅雨が明けると、白良浜、臨海浦、江津良浜には、海水浴を楽しむ人がどっと来た。白浜温泉の住民としては、これが一番うれしい。よくいらっしゃいました、あのね、ここはデビューしたての勝新太郎と中村玉緒がロケをした場所ですよ、と遠来の客に言いたくなる。
 人が増えると、ゴミも増える。そう思ってレジ袋を大きくしたが、意外なことに、ゴミは少しも増えない。それどころか、前の日拾い残した大きなゴミが、今日はなくなっている。つまり、美景スポットのゴミは、せいぜいタバコの吸いがらかあめの包み紙くらいなのだ。
 なぜなのだろう。不思議に思いつつ、白いフィルターを見つけては、ストレッチをかねた前屈姿勢で拾っていた。そんなある日の朝、大きなナイロン袋を手に、しゃがみこんではゴミをかき集めている二人の男性を見た。江津良の浜でである。道路には軽トラックが駐まっていたから、白浜町が委託した人たちだとすぐに分った。
 白良浜と臨海と江津良が受け持ちの二人は、毎日ゴミを集めて回り、浜辺の小さなゴミは手で拾うという。道路には道路の担当者がいて、椿から白浜までを巡回してゴミを拾っているという。だからなのか。私が拾い残したゴミが翌日には消えているのは。
 けど、見落としがあって小さいゴミはなかなか片付けられないと、いかにも申し訳なさそうに言う二人のアゴからは、滝のように汗が流れていた。
 大丈夫です。小さいゴミは任せなさい。
(久保卓哉)

2012年7月19日木曜日

白浜 臨海浦にアオウミガメ 50年ぶり テント野宿のドイツ青年 Mathias Kirf 2012.7.17


記事を書いたのは紀伊民報の沖本真孝氏

紀伊民報
写真説明

ウミガメが産卵したとみられる場所を指差すマティアス・キルフさん(右)と久保卓哉さん=白浜町、臨海浦海水浴場で

写真説明

海に戻るウミガメ。後ろのテントはキルフさんが寝ていたテント(17日午前3時半ごろ、臨海浦海水浴場で)

<臨海浦にウミガメ テント泊のドイツ人目撃 白浜>

白浜町の臨海浦海水浴場で17日未明、ウミガメが上陸しているのを砂浜でテント泊していたドイツ人のマティアス・キルフさん(33)が見つけた。町は砂浜を掘らず、産卵したとみられる場所にロープを張って保護している。キルフさんは「自然との素晴らしい触れ合いができ、感激した」と笑顔で話した。

キルフさんはチューリッヒ工科大学(スイス)の博士課程で海洋環境科学を専攻。8~13日に大津市であった先進陸水海洋学会に参加した後、白浜町に来ていた。

ウミガメを見つけたのは17日午前2時ごろ。「ハァー」「フー」と聞き慣れない音で目が覚めた。ウミガメが上陸しているのを見つけ、明かりをつけずに観察を続けた。約1時間半後、海に戻ろうとした時に写真に撮った。

キルフさんは白浜町を訪れたのは初めてで、4日間で潮岬や熊野の各地を自転車で回る予定だった。途中で無理と判断し、白浜に戻った夜にウミガメに出合ったという。

「ウミガメを見たのは初めて。辺りが暗く、初めは怖かったが、産卵場所を探していると分かり、静かに見守った。各地を回れなかったのは残念だが、ウミガメと出合えたので満足」と話した。

同日早朝、浜でごみ拾いをしていた久保卓哉さん(65)=同町瀬戸=にたまたま出会い、英語が堪能な久保さんに一部始終を伝え、久保さんの知り合いが町に連絡した。

同町ではここ数年、白良浜海水浴場や同町中の浜などでウミガメの上陸、産卵が確認されているが「臨海浦海水浴場での上陸確認は記録がない」と町観光課。臨海浦海水浴場のそばで50年以上住んでいる雑賀信也さん(86)は「かつてはよく上陸、産卵していたが、ここ40、50年は見たことがない」と話している。(沖本真孝 記者)
紀伊民報がニュースとして報道
2012.7.19夕方届いた 紀伊民報の第一面

2012年7月15日日曜日

天中九組 榎原慎之助先生 殴られた思い出 岡の語り

天中九組 1年 遠足 この場所はどこ? 
いよいよ、半世紀ぶりに再会する宴会をもつことがきまった。その日は9月17日。
参加人数は15名。 上場、岡、金井、川口、北本、久保、辻、辻本、時田、別所、村田、有本、小森、堀口、松村 (2012.7.16)

榎原慎之助先生の写真は 遠足、修学旅行のクラス写真のなかにあった。
この写真の中で、頭ひとつ出た人が 榎原先生。
榎原先生の前に立つ三人は、中原、井上、名合。
若くてかわいい 金銅先生は前列右から2人め。
金銅先生がいっしょだから、1年生の遠足だとおもう。

しかし、ここは、どこだろう。場所は、もう忘れた。

一年生に入学した最初の日に なぐられた岡に 順番がまわった。

こんどは おれか。繊維会社をやってて、いまは繊維から手を引いたけど、息子に会社をやらせてる。クラボウの社長とか、ユニクロの柳井とか、取引あった。
今は、のんびりと、飛鳥で世界一周。来年もまた、飛鳥で行くで。

ええ?飛鳥って、ダンスせなあかん、タキシード着なアカンのんと ちゃうか。

そうや。ダンスするがな。途中でガラパゴスへ行ったりしたけど、そのオプション一人、120万やで。そんなん、日本から行ったって そんなにせえへん。ぼったくりや。

ええ?ほなら 飛鳥は一人なんぼ。

一人、680万や。二人で行ったさかい、なんやかんやで、二千万つこたわ。

ええ? ほなら おもろい話あるやろ。船のなかで。

ありまっせ。航海中に、三組の夫婦が別れて、二組のカップルができた。

ええ? どっちも あたらしい女や男ができたんかいな。

そういうこっちゃ。80過ぎたおばちゃんなんか、ダンスのインストラクタとできて、船内で問題になったんで、そのダンスの先生規則違反やから、船からおろされてん。そのとき、これもって いき いうて、さらさらと1000万の小切手書いて、その男にやりよった。

ええ? 楽しんでるなあ。


2012年7月12日木曜日

天中九組 榎原慎之助先生 殴られた思い出 ED

榎原慎之助はこんな人 という すべてが映っている写真

白浜温泉 臨海裏の浜辺 波に向かって石を投げる少女 午前6:30
おいちょっと まて 
どや 
卒業後のこと たがいに知らん
順番に半世紀のことを しゃべれへんか
と 岡
よっしゃ だれから いく
すわってる順番や

ほなら おれからか

おまえどこで仕事しとってん と 岡

電通や

えっ でんつうかいな

でんつうのクリエイティブやさかい 番組作ったり コマーシャル作ったり タレントつこうたり タレント連れて行ったり こわい筋の相手したり そりゃもう おもろい話なんぼでもあるわ

この おもろい話のさわりの話も聞く暇がないほど あれこれ刺激豊富な話題で 半時間

つぎ 

おれか おれはまじめを絵にかいたようなもんや ときた と ちごうて
小田和正のおっかけやってて 女房 むすめ と 一緒に 日本全国 あっちこちいってる
このまえも 北九州へいってきた
なんせ なんの経験もあれへん


  あのな 医者はいろいろあるねん あれへんわけないやろ


ほんま 中学時代は声変わりもまだやったし 140センチ代やったし


  そや おれも声変わりしてなかった


この まじめ絵一枚のなかで おおとり高校時代の 進路の迷いもかたられて やっぱり 半時間


つぎ


つぎは おれや おれは ふせ高でブラバンばっかりやってて アメリカにいってん ことば全然わからへんのに むこうで 綿摘みなんか 黒人と一ショにやったで


  そうか 苦労してんな


英語分からんかったけど 物理が役に立ったわ アメリカの奴ら 物理の初歩が分かってへんねん
黒板に先生が書く 物理の式は いっしょやから 分かる
問題をすらすら 解いたら みんなから一目おかれた


むらたに入ってからは アメリカに行くときは ファーストクラスや 向こうへ行ってたときは
女房と一緒に ゴルフ ゴルフ や


中学時代の思い出から 最後の勤めまでの 豊かな人生が 語られて やっぱり 半時間




  

2012年7月8日日曜日

大逆事件は生きている  ドキュメンタリ映画 90分 完成する











































 大逆事件で幸徳秋水、管野須賀子、森近運平、そして新宮の大石誠之介、成石平四郎らが、各地から東京に連行されて、処刑されたのは、今から、101年前の1911年(明治44年)1月であった。

この100年のあいだに、つぎからつぎへと、埋もれた資料が見つかり、大逆事件の真相が明らかになった。

まさに、大逆事件は生きている、といわざるをえない。
投獄された彼等は、今や墓石と土になっているが、事件そのものは、今も生き続けている。

映画がついに完成した。全国に残る大逆事件の影を、ひとつひとつ映してまわり、厖大なフィルムを、それでも、90分もの長編に編集した映画が、ついに完成した。

そのしらせが 演出家の、田中啓女士からとどいた。


映画が完成したのでお知らせします。
ヒッチコックの映画のように、チラチラッと姿を見せています。
ワンちゃんとの後ろ姿は、知ってる方でないと気が付かない
貴重なシーンです。

高知県幡多郡中村の生地にある幸徳秋水の墓石にぬかづいて、両手を合わせたのは、2011年9月24日であった。
その時、すでに墓石のまわりには、映画カメラをかまえた男性数名と、一人の女性がいた。
その女性が田中啓氏で、撮影の対象や構図を、指示していた。

撮影の邪魔になってはいけないと思い、墓石の前から立ち去ろうとすると、ワンちゃんもいてちょうどいいかも、
お参りの樣子を撮らせてくださいますか、普通にしていていただいてでいいですから。

そのシーンが 映画に出ているというわけだ。

2012年7月5日木曜日

天中九組 榎原慎之助先生 なぐられた思い出 吉井 金山 名合

榎原慎之助先生 36歳 美術 二科展出品 入選多数
坂田俊一郎は 榎原先生を彷彿とさせる
梅ちゃん先生(NHK)の さむらい開業医だ
世良公則が 好演
権威や力が 嫌いで 自分を飾り立てず 許しがたいことには
身体を張って 行動する
こんなにいい役者だとは 知らなかった

榎原先生に入学初日に殴られた 名合は 明るく円満な人間だった
高校になると 与太歩き、ワルぶり、が 名合そのものになったらしい

この頃にワルになったやつ だれとだれがいるんやろ
ワルぶったやつの 列伝を 作るとおもしろい
中高生のときに ワルぶった経験を 持つやつこそ 好ましい人物となる

吉井は なんでも暗算で あっというまに計算しとった
あいつ 大倉高校へ行って 先生からも友だちからも一目おかれた
職業の時間かに 貸借対照表の時間あったけど 計算はいっつも吉井が ○○です というたら 先生は 吉井が言うのやったらまちがいない と いっつも そのままにしとった

高校のとき 友だちとボーリングへ行ったら 一緒に行った友だちが レーンの向こうで かつあげに おうとってん
そっちみたら かつあげしとんの 金山や

ええっ あいつ 順調に ワルになってたんやな

そんでな 金山のとこへ行って かなやまこいつらおれの友だちや かんにんしたってや て中にはいってん

ほんで かんにんしてくれたんかいな

かんにんしてくれよった

2012年7月4日水曜日

天中九組 榎原慎之助先生 なぐられた思い出  万喜ちゃん 吉井 名合

榎原慎之助先生 時田 上場 板井 田中 小山 北村
梶本さん 林さん
天中に入学した最初の日に おれ 榎原先生になぐられた
腕時計していったらあかんかったのに おれと
名合がしとってん
名合は赤目の瀧から通いで おれは和泉やから 腕時計いるねん
そしたら 榎原先生に 二人とも バンっ て殴られた
手加減なしやった

おれがいちばん 殴られたやろ
なんかあったら 殴られた
あの 地下の部屋へ呼び出されたとおもたら
殴られた

おれも殴られたで
美術部やったし しょっちゅう榎原先生の部屋へ 行ってた

おれも殴られた

おまえ はどうや

おれは一遍も殴られてないで

あのな 殴られてへんていうのは 相手にしてもらえんかったちゅーことや

一番印象にのこってるのは 万喜ちゃんや
おまえら覚えてないか げぇ吐いたやつおったやろ
あのときな あのこすごいとおもた

覚えてる
榎原先生のホームルームかなんかのとき 中原が 机の上に ドバ-て吐いてん
その時 榎原先生が だれかなんとかせえ て いうた

あのとき榎原先生 おれらを試してたんやと思う

万喜ちゃんが 私やります ていうて 保健室へ行って
十能に灰をもらってきて 吐いた上にまいて それを集めて捨てて
机の上を 雑巾でふいた

あのこ へいきで やってた

榎原先生も 万喜ちゃんならやると しってはって だれかやれ と いうたんやろと 思う

あのこ 好きやってん おれ

おれも 好きやった あの子の家の前 いったり来たり したことあったで


2012年7月3日火曜日

天中九組 榎原慎之助先生 なぐられた思い出  半世紀の飲み会

醉心に入ると一番奥まで案内された
通路両側の部屋仕切りがあるだけなので どんなグループが
飲んでいるか 見える
おどろいた
まだ6時なのに 仲間同士で怒鳴りあい 酒が入って 大騒ぎ
自分達 半世紀ぐみは 負けてはおれん
もっと 騒いでやる

席には 一番奥から辻本、村田、時田 向かい合った奥から岡、久保
奥まで案内のアルバイトの女子学生が メニューを配る
  まずは 生 5つ
これは即断
料理の注文は 時間がかかった
  なんでもええ 適当にいこ
  あかん 野菜や
  ほな まず 「ジャコおろし」 これ ふたついこか
  「サラダ」 この盛り合わせ これ ふたついこか
  刺し身 の盛り合わせ 刺し身食いたい

お刺身は「豪華」「お楽しみ」「そこそこ」の三種類がございます と女子学生
 
             一瞬頭の中で熟慮がめぐって 全員沈黙 「そこそこ」ははずして
「豪華」と「お楽しみ」がぐるぐる回る
   ほんなら「お楽しみ」でいこ
と 時田の決断 みなの顔に安堵の表情
   おれは ローストビーフ 食いたい
辻本が 肉を食うという
   あほか まだ肉食いたいんか辻本は しゃあない ローストビーフ ひとつ

半世紀は 全員を健康志向にしていたのだ 
この半世紀に 何があったのか 
聞くのがたのしみ

「ジャコおろし」は 耳に聞くと 酒のさかなの洒落た名前
しかし、出て来たのをみて びっくり
小鉢の器に 大根おろし その上に 干物のジャコが ぱらぱら
このジャコおろしが 来ると 一斉に箸が集まった