2013年5月6日月曜日

王枝忠 と 尾道 浄土寺、西国寺


 王枝忠と尾道浄土寺、西国寺 

 浄土寺の十二面観音像が安置された堂上にかかった額を見上げながら、王枝忠先生はしきりに首をかしげていた。幅二メートルほどもある木彫りの大きな額は、銅製の金網で大事に保護され、右横書きに「観聲殿」と読める。朱で色付けされた浮彫の文字は、やや色落ちて古色蒼然たるおもむきがあり、いかにも由緒深いものと推測されるが、はて「観聲殿」とは一体どういう意味なのか、にわかには解せないという表情であった。

 王枝忠先生は福州大学から岡山大学文学部に客員教授として招聘された中国の学者で、来日して一年余りになる。『三国志演義』や『聊斎志異』の明清小説の専門家だが、その該博な知識は先秦漢魏から唐宋明清の歴史、文学、哲学、民俗にまで及び、すべてに造詣が深い。その先生を尾道に案内したのは残暑厳しい九月中旬であった。
 拝観料を払って堂守りの説明をうけながら、充分に堂内と庭園を見てまわった後、これから履き物の所に降りようとしていた時のことであった。私は気づかなかったが、王先生は入るときすでにそれを見ていて、「観聲殿」(声を観る殿)というわりには、中にそれらしきものがなく、おやっと思って再び額を見上げたというわけであった。
 「ここに安置された仏像は何でしたかね。」
と私に聞くので、
  「十二面観音像ですよ。」
と答えると、
 「ああ、そうかそうか。」
と表情がやわらいだ。
 王先生によると、「観聲殿」と書かれているがこの額は「観音殿」という意味で、観音さまを収めた建物だと示しているという。しかし「観聲殿」がどうして「観音殿」を表すのかと首をかしげた私にむかって、次のように話した。
 「ひねりを加えて謎かけをしているようなものです。『聲』(sheng)は普通『聲音』(sheng yin)と熟した言葉でいいます。ですから、『聲』と書いて実は『聲音』の『音』を暗示しています。中国人の発想のようですね。ひょっとすれば、かつてここを訪れた中国僧が浄土寺の住職に頼まれて揮毫したものを、こうして額に彫り上げたものかも知れません。」
私は王先生の考証を聞いて、学問の真髄を教えられた思いがした。
 浄土寺のあと西国寺に向かった私たちは、また額を見上げて立ち止まった。それは、拝観料を払って入った畳敷きの部屋の前室に掲げられていた。やはり右横書きだが今度は墨書した絹布を錦で縁取りし、さらに金箔を張った額地のうえに麗々しく表装したものだった。「遍照室」と読めた。その部屋には遍照金剛である弘法大師空海がまつられていた。だから、「遍照室」は空海をまつった部屋という意味であることは明らかだった。王先生が注目したのは、その左に縦書きで書かれた年号と、揮毫した人物の名だった。しきりに何かを考えている。その達筆の文字は「大清乾隆三十二年秋月 古[門虫]游撲蕃書」と読めた。


 「『古[門虫]』は福建省のことで、游撲蕃の『游』は福州に多い姓です。とすると、福州からやってきて西国寺 を訪れた、游撲蕃という和尚が、この寺の住職に請われて揮毫したのが、この書なのでしょう。それは、乾隆三十二年の秋だったということなのでしょう。」
なかば独り言をいうように私に説明しながら、王先生はなおその書から目をはなさなかった。いかにも感慨深げであった。
 実は、王先生は福州出身で、北京大学を卒業後、寧夏回族自治区の社会科学院で研究生活をした後、ふるさとの福州大学にもどった人物である。福州からやってきた自分が、二百二十五年前に同じ福州からやってきた和尚の墨跡を見ている。その奇妙な偶然に、言葉を失っているようであった。
 揮毫の三文字は、游撲蕃が請われて筆をとり、その場で考えて書いたものであろう。だとすれば、この遍照室は二百二十五年前からそこにあったことになる。西国寺の長い歴史からすれば、それは当然のことなのだが、少なくとも二百二十五年前にさかのぼることができる証拠をそこに見て、改めて遍照室を見ると、描かれた空海の絵が時空を超えて近づいてくる気がした。

 その時、西国寺の住職はわざわざ絹布を用意して游撲蕃に揮毫を求めた。游撲蕃はよほど尊い人物であったとみえる。寺ではその絹布を錦で縁取りして、金箔を張った額地のうえに表装していることからもそれは分かる。私たち二人は、そのような額の下でたたずんでいたのであった。
 乾隆三十二年は江戸時代の明和四年にあたる。この時の住職は誰で、游撲蕃とどういうつながりがあったのか、その時残したその他の書画のゆくえはどこに、游撲蕃は西国寺以外では尾道のどの寺院を訪れたのか。この謎解きはこれから始まる。そもそも游撲蕃とはどういう人物なのか、なぜ尾道を訪れたのか、その足跡は鞆にも備前にもあるのか、そして福州ではどういう評価を受けた人物であったのか。この謎解きを求めて、いずれは福州に行かねばならない。
 王先生に尾道の魚と寿司と豆腐を味わってもらうべく、私のなじみの店に案内した。元来、生ものは口にしないのが中国の人の常だが、王先生は食および食材に関しても博識で、日本の寿司の味にも興味がつきないようであった。初めてだという雲丹のにぎりも、「これはみやげ話になります。」と雲丹の味覚と感触を味わっていた。尾道一と定評のある「寿司金」の大将は、「どうして寿司金というのですか。」という王先生の質問に、中国僧の書に劣らない達筆で、「欽爾」と書いて示してくれた。王先生とともに私も初めてその由来を知ることができた。
 浄土寺の「観聲殿」と西国寺の「遍照室」は、思わぬ収穫を私たちにもたらしてくれた。両寺院の悠久な歴史と日中交流の足跡は、尾道における両寺院の大きさを示していた。
 王先生は、二〇〇二年三月、二年間の滞在を終了して福州に帰る。
あとがき
 このような短文にあとがきはあるべくもないが、書き足りないことがあるのでここに書いておきたい。
 この文は、もともと「尾道はよくなったか」と題して、開発によって変貌した尾道の姿について書く予定であった。海岸通りの雁木、あさひ食堂、錠前専門の店、列車の窓から見えた駅前の海、開発後の暴走族の群れ。人々が一度は行ってみたいと思う尾道が、悪しく変貌した。開発は、破壊したもの以上のものをもたらすことはありえない。五時になるとシャッターを下ろさざるをえない商店街が、すべてをものがたっている。
 二〇〇二年二月末、私たちは再び西国寺を訪れて現住職からさまざまなことを教えていただくことになっている。また、昨年九月に両寺院を訪れた時、レポートを書くための調査に来たという広島商船高等専門学校の一人の学生と、浄土寺でも西国寺でも一緒になった。その学生は、私たち二人の会話に聞き耳を立てながら、すこしでもレポートの内容を充実させようと、ぴったりと後をついてきて、まるで二人を取材しているようでもあった。その学生にも、結果を報告したいと思っている。
 私は尾道短期大学に十五年間お世話になった。久山田の農家の牛小屋に一年間住んだこともある。国文科の先生、経済科の先生、職員の方々、日没のテニスコート、そして十五年の間に出会った約二千名の学生一人一人を思うと、感無量となって万感胸に迫る。歴史ある尾道短期大学に少しでも関わることができて光栄に思う。そして何よりもこの最後の号に文を寄せることができて、この上ない幸せを感じている。

(『国文学報』第45号 2002<終刊号> 尾道短期大学国文学会 2002年3月刊 113-116頁 )

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