2013年5月6日月曜日

小尾郊一先生の思い出


「此中有真意 丙辰三月 小尾郊一」
この意味をまだ理解しかねている。小尾先生は退官の際、私にこの言葉を記念に残してくれた。だが、静か荘の四畳半ひと間に戻って一人になったとき、私は色紙に書かれた言葉に押しつぶされそうになった。
お好きな言葉を書いたのだと思った。だが、学生一人ひとりの能力を正確に見通す先生が、おざなりのことをするはずはない。陶淵明の句である。私は、おまえの「此」を見つけよ、「中」でもがけ、「真意」といえるものを突き止めよ、と言われているのだと思った。そう思うとこの五文字が見るみる鉄の重さに変わって私にのしかかった。
暑暇の合間に白浜に帰ると、人は何学部に行っているのかを知りたがった。聞かれるたびに私はヨット部と答えた。どうやらそういう学部で学んでいるらしい。私の黒い顔を見れば誰もが納得した。
河相豊や名越鈴江が言うのなら分かる。しかし私が言うのを聞いて小尾先生はホォと驚いた表情を見せた。大学院に進みたいとは。それを許してくれたのは同じ高津高から来ている山本先輩(故人)の優秀さに重ねて、必ずやと期待したからだと思う。
先生の授業は講義でも演習でも楽しかった。内容が豊かな上に進行中の研究に裏付けられた新しさがあったからだ。私に意味が分かるはずもなかったが、研究の場にいる臨場感が腹の底に伝わってきた。
中国の古典文学のどこに新しさがあるのかと言う人がいるかも知れないが、それを学ぶ者にとっては全てが新しい。だから日夜研究をしていると、枯れることのない泉のように次から次へと新しい発見が出てくるのだ。昨夜研究して得た確信が、翌朝私たち前で語られる。小尾先生の授業はまさにその連続であった。
今から考えると、とてつもなく難しいものを勉強していた。文選の賦を読み、表を読み、啓を読み、李善注の客観性に驚き、音決の科学性に驚いていた。しかし少しも難しいとは感じなかった。それは六朝文学が私たちの生活そのものだったからだと思う。呼吸をするとき酸素を意識しないのと同じだ。私たちは文選を吸って李善注を吐いていた。
黒板に「文學」という字が書かれた。先生の字は黒板でも斜めに傾き撥ねや垂れが細い。白墨はいつも長く新しかった。文学とは何だと思いますか。みなさんは文学部に入って中国文学を研究しています。文学研究とは何を研究することですか。私たちは電子の反復運動のように想をめぐらしたがだれも答えられなかった。文学とは人間です。文学研究とは人間を研究することです。そう聞いたとき、宙を浮いていた視線が吸いよせられて、私たちは雷電に打たれたようになった。ものすごいことを教えてもらった、と思った。
手にしたものを思わず落としそうになるほど感動したのは先生の「六朝に於ける賞といふ字の用例」(支那学研究十)だった。研究室の助手席の橫の書棚の下から二番目に支那学研究が並んでいた。それを借り出して静か荘で読んだように思う。賞が漢代の賞賜から六朝では賞識に移って、鑑賞賞愛等多くの語が生まれたことが論証されていた。論文は渓谷を流れ下る清流のように見えた。水に惹かれて渓流をたどるうちにいつの間にか桃源郷にまぎれ込んだ気がした。論文で感動するとは思いもよらなかった。後に吉川幸次郎が特にこれをとり挙げて小尾先生の研究をたたえているのを知って別の意味でも感動したのだが、これを発表したとき先生は四十歳であった。
似たような経験を南京大学でもした。西苑の部屋で周勛初の「梁代文論三派述要」を読んだときだ。梁武帝と裴子野、簡文帝と徐ゆ、昭明太子と王いん・劉きょう三派の主張が的確な用例をもとに分析されていた。こんぐらかっていた糸がみるみるほぐれて行くようで私は感動した。と、丁度そのときであった。扉をノックする物音に気がついて開けてみると、そこに周勛初が立っていたのである。私は腰を抜かさんばかりに驚いた。勉強のため南大に滞在していた私を宿舎に訪ねてくれたのだった。話のなかでいつ頃書いた論文ですかと尋ねたところ、即座に三十五歳だと周勛初は答えた。
後にも先にも私が感動して読んだ論文は小尾先生の「賞といふ字」と周勛初の「梁代文論」だけである。小尾先生の論文は一九五三年の発表で、周勛初の論文は一九六四年の発表だから小尾先生の方が十一年早い。もしも二人が早い時期に邂逅していたとしたら、例えば小尾先生五十一歳、周勛初三十五歳の一九六四年の早い時期にである。もはや斯界にもたらされる天啓は想像を絶するものであったろうと思われる。お二人が邂逅するのは二十年後の一九八四年、上海復旦大学で開催された日中学者文心雕龍学会であった。そのときどのようなことを話して互いの研究を確認しあったのかお聞きしておくべきだった。
随筆「瀬戸の花嫁」が中国新聞に発表されたのは一九七三年だった。そこに書かれている、イヤホンを耳にあて録音を聞きながら歌いまくって、先生をあぜんとさせぶぜんとさせたのは私であった。名うての文章家である先生の表現の妙であるとはいえ、あぜんぶぜんはこたえた。三十年ほども経った二〇〇二年の頃差し上げた手紙の中で軽く「瀬戸の花嫁」にふれたことがあったが、そのとき先生からあれは表現のあやですからと書かれた返事が届いた。思えば先生はどのような私信にも必ず返事をくれた。これは確かめてはいないが他の先輩や後輩はなおさらそうだと思う。その恕のこころは孔子よりも深い。
随筆が発表されてまもなくの研究室の宴席の乱れた座の中、口べたな私はぎこちない間(ま)で「先生の文章には、思想がありますね」と言ったことがあった。すると先生は赤い顔をした私に目をむけて「ありがたいことを言ってくれます。文章にはそれが一番大事なのです」と真顔で言った。短文の中にも骨となる思想がなければならない、文章を書くときは常にそれを心がけている、と極意を耳打ちされた気がした。私には先生の言葉の中でさきほどの「文學」とこの「思想」が最も深く心に残る。これはひとに伝えて行かなければならないことだとさえ思う。
ところで私はこの二十七年のあいだに「此」を見つけたであろうか。「真意」といえるものを突き止めたであろうか。残念ながら、まだ何一つとして見つけてはいない。だが「中」で、もがいてはいると言えるかもしれない。いつ果てるともしれないこのもがきは先生のせいなのだから、実は苦しくはない。得難い薫陶を受けた幸せに心の底から感謝している。

『中國中世文學研究』第45・46合併号 小尾郊一博士追悼集

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