啄木の生家・常光寺に伝わる物
常光寺御住職に宛てて
6月15日は記念すべき日でした。私が13歳の頃より親しんだ啄木の歌にうたわれた、北上川、岩手山、姫神山、愛宕の森、そして生家常光寺を訪れることができたのですから。貴寺を訪問した際には御住職御自ら説明をして下さり、感激は一入でした。
啄木誕生の部屋 ② | 「石川啄木生誕之地 昭和三十年秋 金田一京助書」の軸と米櫃(中央) |
啄木生誕の部屋、およびその庭を見、金田一京助の書を見、宝物が入った桐の箱を見、立て屏風を見て、わずかの時間に啄木生前の時空に入り込んで、眩暈に立ち眩んでおりました。
屏風 |
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カメラに収めさせて頂いた屏風の書を、こちらに帰って国文学の先生に見せたところ、紀貫之とよみ人しらずの歌であることが分かりました。紀貫之の歌は、
徒ら遊支 つらゆき
桜ちる木能下風の寒可らで 桜ちるこのした風のさむからで
そら尓志ら連怒雪ぞふ里介利 そらにしられぬ雪ぞふりけり
(屏風の書) (読み下し)
よみ人しらずの歌は、
よみ人志ら数 よみ人しらず
足引の山路尓ちれる桜花 あしひきの山ぢにちれる桜ばな
消せ怒春能雪可とぞ見る きえせぬ春の雪かとぞ見る
(屏風の書) (読み下し)
でした。
この二首は『拾遺和歌集』巻第一春のところに収められた歌で、それと比べてみますと、異同が三個所あります。
一 屏風の紀貫之の歌は一首ですが、『拾遺和歌集』には二首あり、続いてよみ人しらずの歌一首が集録されています。貫之の歌の後に続いてよみ人しらずの歌があるという順序は、『拾遺和歌集』と同じですから、屏風の歌は『拾遺和歌集』を手本として書かれたものでしょう。なぜ貫之の歌一首のみを書いたのか不明ですが、元来は二首有り、それが切り取られた状態で屏風に表装されたのかも知れません。
二 屏風の歌には題がついていませんが、『拾遺和歌集』ではそれぞれの歌に題がついています。紀貫之の二首の題は、「きたの宮のもぎの屏風に」と「亭子院歌合に」で、屏風の貫之の歌は「亭子院歌合に」という題です。ちなみに貫之のもう一首、「きたの宮のもぎの屏風に」の題の歌は「春ふかくなりぬと思ふをさくら花ちるこのもとはまだ雪ぞふる」という歌です。題が書かれていないのは、これを書いた人がわざと書かなかったのか、或いは、手本とした資料に無かったのか、よく分からない所です。
三 『拾遺和歌集』の紀貫之の歌は、「さくらちるこのした風はさむからでそらにしられぬゆきぞふりける」ですが、屏風の歌は最後が「ふりけり」となっています。これを書いた人が、このように書き違えたのか、或いは、手本とした資料がそうなっていたのか、いずれかだと思われますがよく分からない所です。
また、米櫃の箱に裏書きされていた言葉を活字に直すと、次のようになります。
明治維新ノ後當寺維持經營頗ル困難ニ陷リ往々住職ヲ欠キ
明治廿五年ニ到リテ檀家将サニ離散セントス此ノ際ニ當リ
本寺報恩寺谷中老師七十餘歳ノ老齢ヲ以テ四里餘ノ山路ヲ跋渉シ當
寺ニ來往シテ檀務ヲ鞅掌セラル此ノ櫃ハ當時米噌ヲ入レテ持參セラレタルモノ
ナリ 永ク保存シテ当寺ノ什寶トス
明治廿六年四月十七日
一 金八拾圓也 報恩寺廿七世谷中老師ノ御寄附
為常光寺永續基本金
一 田三反四畝五歩 右ハ谷中老師寄附金ノ一部ヲ以テ購入セルモノニシテ常光寺常什ノ飯米ヲ補フ為ナリ
報恩寺卅四世大絳叟誌
昭和十三年十月廿一日
當寺廿四世石成老和尚本葬之日
この箱書きから推量すると、昭和十三年十月二十一日に常光寺の二十四世石成老和尚の葬儀があり、そこに本寺報恩寺から三十四世の大絳叟(だいこうそう)と称される和尚が参列し、その際に大絳叟和尚が常光寺の二十五世の和尚の求めに応じて、この櫃の由来を書き記したものと思われます。昭和十三年に逝去された常光寺の和尚は、御住職様の祖父に当たるお方でしょうか。昭和十三年の大葬儀に関する記録があれば、当時のことが更に明らかになることと思います。
長々と贅言を弄して申し訳ございません。啄木を訪ねて貴寺を訪問したことによって、このような貴寺の宝物に接することができました。職業柄文献を漁っては意味不明の資料に頭をかかえる日々を送っている身にとって、このたびの体験は心躍るものでした。しかもそれが、啄木を通してのことですから、感激も一入でした。
求めに応じて快くシャッターを押して下さった令夫人によろしくお伝え下さいませ。
求めに応じて快くシャッターを押して下さった令夫人によろしくお伝え下さいませ。
常光寺 | 曹洞宗常光寺の碑 |
画像参考文献
①②『石川啄木入門』 監修 岩城之徳 編集 遊座昭吾・近藤典彦 思文閣出版 平成4年11月1日発行
①②『石川啄木入門』 監修 岩城之徳 編集 遊座昭吾・近藤典彦 思文閣出版 平成4年11月1日発行
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