児島亨と静子夫人 令息 ① |
魯迅は「老板(ローペー)」と言いながら入ってくると、籐の椅子に腰掛けて内山と話していた。私はよく魯迅に映画を見に連れて行ってもらった。ターザン映画が好きで、危険が迫っていたのに、映画館では大きな声をあげて見ていた。横に居る私の方が心配であたりをうかがった。
魯迅とは『阿Q正伝』『狂人日記』等の小説と『中国小説史略』『古小説鉤沈』等の学術書で知られる魯迅(1881~1936)で、内山とは上海に内山書店を開いた内山完造(1885~1959)、私とは、1933年6月に上海に渡り1945年に帰国するまで内山書店を支え、帰国後は福山市元町で児島書店を開いた児島亨(こじまとおる)(1913~2001)である。(敬称略、以下同じ)
魯迅が1936年10月19日に逝去するまでの三年間、魯迅と親しく接し、その間、夫人許広平(『暗い夜の記録』岩波新書1955年)からの日常の伝言を受けつぎ、幼児周海嬰(『わが父魯迅』集英社2003年)を居宅で遊ばせたことがあった児島亨が語る魯迅は、どの資料にも未見で、しかも、その観点と表現は、聞く者の心を揺さぶる真実と意外性に満ちている。
写真は、令夫人静子と令息とともに上海で住んだ当時のもので、上海魯迅紀念館編『中日友好の先駆者魯迅と内山完造写真集』(1995年刊)に掲載されており、児島亨と児島静子は中国においてこそその姿と名は広く知られている。
研究室では、備後が生んだ文化人児島亨の生涯を研究すべく
1 児島亨の生涯
2 魯迅と児島亨
3 内山完造と児島亨
4 児島亨の著作
5 児島書店の出版事業
の題目のもと基礎資料の収集と調査とを開始した。
現児島書店店主である佐藤明久氏は、研究室の四年生3名と筆者を温かく迎え、数々の逸話を惜しみなく披露してくれた(2005年5月17日)。旧制中学、上海渡航、結婚、内山書店の商道、日本人と中国人、魯迅の葬儀、上海魯迅紀念館と児島書店、周海嬰と児島書店、紹興魯迅紀念館と児島書店。父児島亨が語っていた日頃の話、みずからの中国での政府高官と文化人との交流の話。言葉にならない嘆息を吐きながら相づちを打つよりほかしかたがないほどに、新しく、かつ意外性に富む内容であった。
魯迅が病床で筆を執って医師の往診を内山完造に依頼した手紙を書き、それを持って内山書店に駆け込んだ許広平が渡したのは、児島亨であった。後年、上海魯迅紀念館が魯迅と内山完造の写真集を出版するとき、児島書店に藏する、魯迅贈児島亨唐詩七言絶句(銭起「帰雁」詩)の掲載要請を受けて、それを撮影して送付したのは、佐藤明久氏であったという。
魯迅 贈児島亨 銭起「歸雁」詩 ② |
『日中友好の先駆者 魯迅と内山完造写真集』上海魯迅紀念館編 ③ |
周海嬰『わが父魯迅』集英社 |
(画像①②は ③の資料第58頁による)
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