2013年5月6日月曜日

もものえだ たいぎい 広島弁


 ことばは思わぬ結果を生むことが多い。五歳まで田辺市八幡町で育ち、小学校は白浜、中学、高校を大阪、大学からは広島で生活したわたしは、行く先々でことばというものを強く感じた。

これは最近の話だが、「たいぎいけえ、しんさんな」という近所の老人のことばを、「しんどいから、しなさんな」と文字通りに受け取り、えらい目にあった。

 今や全国の里山に竹林がはびこり、在来の雑木林を死滅させているが、わたしの住居の裏山も例外ではなく、この十年の間にすっかり竹林に変貌した。竹の根は土中の浅い所をはうため、大雨が降ると山は土砂崩れの危険が増す。

だからわたしは竹の拡大を阻止すべく、筍が出るころ山に入っては、二メートルほどに伸びた筍をけっ飛ばしていた。そんなある日、先ほどのことばを聞いたのだ。
「わざわざ山に入って汗をかくと疲れるだけだから、そんなことはおやめなさい」わたしはそう受けとった。

 だが、そうではなかった。
「たいぎい」には、疲れてしんどいという意味のほかに、地元の古老の思わくを刺激して、面倒なことが起こり、もつれた糸がほどけないような深刻なことになる、という意味がこめられていた。
そうなると、散歩するにも道順を変えなければならず、地域の集いにも出られなくなる。それでもやるのか、という意味だった。

 結局、後日それが現実となり、わたしは地元の古老二人に頭をさげてまわった。
同じ山で筍をとっていた古老たちが、数年前から反感をもってわたしを見ていたと知ったからだ。それは「たいぎい」ことが起こる寸前だった。
ことばは思わぬ結果を生むことが多い。五歳まで田辺市八幡町で育ち、小学校は白浜、中学、高校を大阪、大学からは広島で生活したわたしは、行く先々でことばというものを強く感じた。

これは最近の話だが、「たいぎいけえ、しんさんな」という近所の老人のことばを、「しんどいから、しなさんな」と文字通りに受け取り、えらい目にあった。

 今や全国の里山に竹林がはびこり、在来の雑木林を死滅させているが、わたしの住居の裏山も例外ではなく、この十年の間にすっかり竹林に変貌した。竹の根は土中の浅い所をはうため、大雨が降ると山は土砂崩れの危険が増す。

だからわたしは竹の拡大を阻止すべく、筍が出るころ山に入っては、二メートルほどに伸びた筍をけっ飛ばしていた。そんなある日、先ほどのことばを聞いたのだ。
「わざわざ山に入って汗をかくと疲れるだけだから、そんなことはおやめなさい」わたしはそう受けとった。

 だが、そうではなかった。
「たいぎい」には、疲れてしんどいという意味のほかに、地元の古老の思わくを刺激して、面倒なことが起こり、もつれた糸がほどけないような深刻なことになる、という意味がこめられていた。
そうなると、散歩するにも道順を変えなければならず、地域の集いにも出られなくなる。それでもやるのか、という意味だった。

 結局、後日それが現実となり、わたしは地元の古老二人に頭をさげてまわった。
同じ山で筍をとっていた古老たちが、数年前から反感をもってわたしを見ていたと知ったからだ。それは「たいぎい」ことが起こる寸前だった。


『もものえだ 古座田辺白浜と四季』収

もものえだ 不登校


  わたしは幼稚園を途中でやめた。
なんとなくではなくて、行くのはやめよう、という明確な意識があった。
近所の友達はみな、幼稚園か小学校に行っていて、昼間はだれも遊び相手がいなかったが、さびしくなかったし、落伍感もなかった。
だが、親は気が気ではなかったろうと思う。周りの子供は元気よく「いってきまーす」と出かけているのに、自分の子供は幼稚園に行かずに一人で遊んでいるのだから。

 今もはっきりと覚えているが、幼稚園はおもしろくないと思ったことが二つある。
昭和二十七年当時、幼稚園は、瀬戸にあった第一小学校の奥に併設されていた。奥がすぼまった三角地で、園舎の両側には山が迫り、奥の笹薮の斜面を駆け上がると池があった。

 園庭には、動物の置物と、鉄パイプでできた四角いジャングルジムがあり、三輪車がおかれていた。
休み時間だったのか、授業の一こまだったのか定かではないが、そこでは顔見知りの男の子、女の子が、またがったり、よじ上ったりして大はしゃぎで遊んでいた。
橫には女の先生がいて、はしゃぐ子供たちを
 「いいあそびをしているね」
という表情をして見、子供が
 「せんせー、ここまで登ったよー」
と声をかけると先生も一緒になってはしゃいだ声をあげていた。
わたしは、それを遠くから見ながら、すこしも楽しい気持ちになれなかった。

 動かない置物の動物にまたがって、何がおもしろいんだろう。
組合わさった四角い鉄棒に登っていばった声をあげて、何がおもしろいんだろう。
あんなものひょいひょいとあがれる。
二三回ペダルをこげばすぐにハンドルを切って曲がらなければならないせせこましい所で三輪車に乗って、何がおもしろいんだろう。
遊具のすべてが単純で子供っぽくて、つまらなかった。
その遊具に夢中になって遊んでいる子供が、いかにもガキっぽく見えた。
これが幼稚園なのか、だったらわざわざ来なくてもいい、と思った。
子供用に造られたもので、子供が夢中になって遊ぶ、先生もそうする子供をほめている、という単相構造に違和感を覚えたのである。

 二つ目は、先生が嫌(いや)だった。まとわりついてくる子供は受け入れてかわいがるが、わたしのようにまとわりついていかない子供を無視する態度が許せなかった。
さびしかったからではない。やっかみからではない。そういう態度をする大人がいることが許せなかった。
嫌になると、服装から顔、張ったあごとつり上がった目までが嫌になった。
その先生はいつもしゃれたワンピースを着ていて、汚れるのを極端にきらっていた。四角い顔に鋭い目、角張ったあごが、好きになれなかった。

 そんなことを知るよしもない母にわたしは
 「幼稚園へいかん」
と言ってその翌日から行かなかった。
母によると、
 「なんでいかんの」
と聞いたら、わたしは
 「先生嫌い」
と答えたという。

 母はそれっきりわたしに何も言わなかった。幼稚園へ行きなさいとも、向かいの子は行っているのにとも言わなかった。今思えば、気が気ではなかったろうと思う。
 だが、何も言われなくて、わたしは助かった。

『もものえだ 古座田辺白浜と四季』収

児島亨と魯迅


児島亨と静子夫人 令息 ①

魯迅は「老板(ローペー)」と言いながら入ってくると、籐の椅子に腰掛けて内山と話していた。私はよく魯迅に映画を見に連れて行ってもらった。ターザン映画が好きで、危険が迫っていたのに、映画館では大きな声をあげて見ていた。横に居る私の方が心配であたりをうかがった。

 魯迅とは『阿Q正伝』『狂人日記』等の小説と『中国小説史略』『古小説鉤沈』等の学術書で知られる魯迅(1881~1936)で、内山とは上海に内山書店を開いた内山完造(1885~1959)、私とは、1933年6月に上海に渡り1945年に帰国するまで内山書店を支え、帰国後は福山市元町で児島書店を開いた児島亨(こじまとおる)(1913~2001)である。(敬称略、以下同じ)

 魯迅が1936年10月19日に逝去するまでの三年間、魯迅と親しく接し、その間、夫人許広平(『暗い夜の記録』岩波新書1955年)からの日常の伝言を受けつぎ、幼児周海嬰(『わが父魯迅』集英社2003年)を居宅で遊ばせたことがあった児島亨が語る魯迅は、どの資料にも未見で、しかも、その観点と表現は、聞く者の心を揺さぶる真実と意外性に満ちている。

 写真は、令夫人静子と令息とともに上海で住んだ当時のもので、上海魯迅紀念館編『中日友好の先駆者魯迅と内山完造写真集』(1995年刊)に掲載されており、児島亨と児島静子は中国においてこそその姿と名は広く知られている。

 研究室では、備後が生んだ文化人児島亨の生涯を研究すべく

1 児島亨の生涯

2 魯迅と児島亨

3 内山完造と児島亨

4 児島亨の著作

5 児島書店の出版事業

の題目のもと基礎資料の収集と調査とを開始した。

 現児島書店店主である佐藤明久氏は、研究室の四年生3名と筆者を温かく迎え、数々の逸話を惜しみなく披露してくれた(2005年5月17日)。旧制中学、上海渡航、結婚、内山書店の商道、日本人と中国人、魯迅の葬儀、上海魯迅紀念館と児島書店、周海嬰と児島書店、紹興魯迅紀念館と児島書店。父児島亨が語っていた日頃の話、みずからの中国での政府高官と文化人との交流の話。言葉にならない嘆息を吐きながら相づちを打つよりほかしかたがないほどに、新しく、かつ意外性に富む内容であった。

 魯迅が病床で筆を執って医師の往診を内山完造に依頼した手紙を書き、それを持って内山書店に駆け込んだ許広平が渡したのは、児島亨であった。後年、上海魯迅紀念館が魯迅と内山完造の写真集を出版するとき、児島書店に藏する、魯迅贈児島亨唐詩七言絶句(銭起「帰雁」詩)の掲載要請を受けて、それを撮影して送付したのは、佐藤明久氏であったという。
魯迅 贈児島亨 銭起「歸雁」詩 ②
『日中友好の先駆者 魯迅と内山完造写真集』上海魯迅紀念館編 ③

周海嬰『わが父魯迅』集英社
 

(画像①②は ③の資料第58頁による)

小尾郊一先生の思い出


「此中有真意 丙辰三月 小尾郊一」
この意味をまだ理解しかねている。小尾先生は退官の際、私にこの言葉を記念に残してくれた。だが、静か荘の四畳半ひと間に戻って一人になったとき、私は色紙に書かれた言葉に押しつぶされそうになった。
お好きな言葉を書いたのだと思った。だが、学生一人ひとりの能力を正確に見通す先生が、おざなりのことをするはずはない。陶淵明の句である。私は、おまえの「此」を見つけよ、「中」でもがけ、「真意」といえるものを突き止めよ、と言われているのだと思った。そう思うとこの五文字が見るみる鉄の重さに変わって私にのしかかった。
暑暇の合間に白浜に帰ると、人は何学部に行っているのかを知りたがった。聞かれるたびに私はヨット部と答えた。どうやらそういう学部で学んでいるらしい。私の黒い顔を見れば誰もが納得した。
河相豊や名越鈴江が言うのなら分かる。しかし私が言うのを聞いて小尾先生はホォと驚いた表情を見せた。大学院に進みたいとは。それを許してくれたのは同じ高津高から来ている山本先輩(故人)の優秀さに重ねて、必ずやと期待したからだと思う。
先生の授業は講義でも演習でも楽しかった。内容が豊かな上に進行中の研究に裏付けられた新しさがあったからだ。私に意味が分かるはずもなかったが、研究の場にいる臨場感が腹の底に伝わってきた。
中国の古典文学のどこに新しさがあるのかと言う人がいるかも知れないが、それを学ぶ者にとっては全てが新しい。だから日夜研究をしていると、枯れることのない泉のように次から次へと新しい発見が出てくるのだ。昨夜研究して得た確信が、翌朝私たち前で語られる。小尾先生の授業はまさにその連続であった。
今から考えると、とてつもなく難しいものを勉強していた。文選の賦を読み、表を読み、啓を読み、李善注の客観性に驚き、音決の科学性に驚いていた。しかし少しも難しいとは感じなかった。それは六朝文学が私たちの生活そのものだったからだと思う。呼吸をするとき酸素を意識しないのと同じだ。私たちは文選を吸って李善注を吐いていた。
黒板に「文學」という字が書かれた。先生の字は黒板でも斜めに傾き撥ねや垂れが細い。白墨はいつも長く新しかった。文学とは何だと思いますか。みなさんは文学部に入って中国文学を研究しています。文学研究とは何を研究することですか。私たちは電子の反復運動のように想をめぐらしたがだれも答えられなかった。文学とは人間です。文学研究とは人間を研究することです。そう聞いたとき、宙を浮いていた視線が吸いよせられて、私たちは雷電に打たれたようになった。ものすごいことを教えてもらった、と思った。
手にしたものを思わず落としそうになるほど感動したのは先生の「六朝に於ける賞といふ字の用例」(支那学研究十)だった。研究室の助手席の橫の書棚の下から二番目に支那学研究が並んでいた。それを借り出して静か荘で読んだように思う。賞が漢代の賞賜から六朝では賞識に移って、鑑賞賞愛等多くの語が生まれたことが論証されていた。論文は渓谷を流れ下る清流のように見えた。水に惹かれて渓流をたどるうちにいつの間にか桃源郷にまぎれ込んだ気がした。論文で感動するとは思いもよらなかった。後に吉川幸次郎が特にこれをとり挙げて小尾先生の研究をたたえているのを知って別の意味でも感動したのだが、これを発表したとき先生は四十歳であった。
似たような経験を南京大学でもした。西苑の部屋で周勛初の「梁代文論三派述要」を読んだときだ。梁武帝と裴子野、簡文帝と徐ゆ、昭明太子と王いん・劉きょう三派の主張が的確な用例をもとに分析されていた。こんぐらかっていた糸がみるみるほぐれて行くようで私は感動した。と、丁度そのときであった。扉をノックする物音に気がついて開けてみると、そこに周勛初が立っていたのである。私は腰を抜かさんばかりに驚いた。勉強のため南大に滞在していた私を宿舎に訪ねてくれたのだった。話のなかでいつ頃書いた論文ですかと尋ねたところ、即座に三十五歳だと周勛初は答えた。
後にも先にも私が感動して読んだ論文は小尾先生の「賞といふ字」と周勛初の「梁代文論」だけである。小尾先生の論文は一九五三年の発表で、周勛初の論文は一九六四年の発表だから小尾先生の方が十一年早い。もしも二人が早い時期に邂逅していたとしたら、例えば小尾先生五十一歳、周勛初三十五歳の一九六四年の早い時期にである。もはや斯界にもたらされる天啓は想像を絶するものであったろうと思われる。お二人が邂逅するのは二十年後の一九八四年、上海復旦大学で開催された日中学者文心雕龍学会であった。そのときどのようなことを話して互いの研究を確認しあったのかお聞きしておくべきだった。
随筆「瀬戸の花嫁」が中国新聞に発表されたのは一九七三年だった。そこに書かれている、イヤホンを耳にあて録音を聞きながら歌いまくって、先生をあぜんとさせぶぜんとさせたのは私であった。名うての文章家である先生の表現の妙であるとはいえ、あぜんぶぜんはこたえた。三十年ほども経った二〇〇二年の頃差し上げた手紙の中で軽く「瀬戸の花嫁」にふれたことがあったが、そのとき先生からあれは表現のあやですからと書かれた返事が届いた。思えば先生はどのような私信にも必ず返事をくれた。これは確かめてはいないが他の先輩や後輩はなおさらそうだと思う。その恕のこころは孔子よりも深い。
随筆が発表されてまもなくの研究室の宴席の乱れた座の中、口べたな私はぎこちない間(ま)で「先生の文章には、思想がありますね」と言ったことがあった。すると先生は赤い顔をした私に目をむけて「ありがたいことを言ってくれます。文章にはそれが一番大事なのです」と真顔で言った。短文の中にも骨となる思想がなければならない、文章を書くときは常にそれを心がけている、と極意を耳打ちされた気がした。私には先生の言葉の中でさきほどの「文學」とこの「思想」が最も深く心に残る。これはひとに伝えて行かなければならないことだとさえ思う。
ところで私はこの二十七年のあいだに「此」を見つけたであろうか。「真意」といえるものを突き止めたであろうか。残念ながら、まだ何一つとして見つけてはいない。だが「中」で、もがいてはいると言えるかもしれない。いつ果てるともしれないこのもがきは先生のせいなのだから、実は苦しくはない。得難い薫陶を受けた幸せに心の底から感謝している。

『中國中世文學研究』第45・46合併号 小尾郊一博士追悼集

杭州の旅 まだ裸電球の中国 

裸電球 杭州の旅     マキとエミとわたし
                                 
  
 その時マキはソファから立ち上がろうとした。目は真剣だった。
私はその反応に戸惑った。マキが立てば私も立たなければならない。
立てばそれを実行に移すことになる。私はまだ迷っていた。

 夜の杭州駅に着いたときからその前兆はあった。沢山の人力車が並び、シャツのボタンをはずした裸の男たちが次から次へと客引きにきた。裸電球の赤い光で照らされた男の胸は汗と埃でべとついていた。

 男たちの口車に乗るのが癪で、わざと無視しつつ人力車の列を突ききって駅前の広場に出た。
 グリーン車にあたる軟座車で、上海から同室だったフランス人の若い夫婦は、最初に声をかけてきた人力車に乗ったのか、いつのまにか姿が見えなくなっていた。

 広場のバス停にはバスを待つ行列ができていた。
 マキとEの二人を同行したこの旅で、値をふっかけてくる人力車に乗るのは避けたかった。中国ではバスが安くて便利なのだということを見せたかった。

 と、急に辺りが騒然とし始めた。人の視線を追うとその先にトラックが見えた。ゆっくりと広場に近づいてくるトラックの荷台は、強烈な明るさのライトに照らされていた。群衆もそのトラックと共に移動してくる。荷台には四人の男が後ろ手に手を縛られて立っていた。ライトはその四人を照らしていた。それが一体何なのか、すぐには分からなかった。だが男たちが四人とも首をうなだれているのを見て察しがついた。

 男たちは犯罪者で今から見せしめための糾弾がこの広場で行われるのだ。話には聞いていたがその光景を目にするのは初めてだった。うなだれて荷台に立つ男たちと、それを見ようと集まる群衆の熱気。夏の暗闇の中で、何もかもが沸き立つようにうごめいていた。すべてがもの哀しかった。魯迅の「阿Q正伝」の世界だった。

 マキとEは杭州の暑さにへばって無口になっていた。私達は夜の十時になろうとするのにまだ宿を決めていなかった。
 これを見ていたらバスがなくなる。バスをあきらめて人力車を拾おうにも、人力車の男たちはこぞって犯罪者見物に出かけて、空の車が並んでいるだけだった。
 私は二人に広場で行われる見せしめとその社会的意義のようなものを説明し、それよりも宿を見つけることが先決であることを告げ、さらにバスに乗るときの心構えをいって聞かせた。

 バスに乗るときは体力がいる。並んで居てもバスが近づくと列はなくなり、止まる前から人はドアに殺到する。殺到した人の群れは車の動きに合わせ、ドアの前から決して離れない。ドアが開くと前から順に入るのではなく、後ろからも横からもわれ先に入ろうとドアに殺到する。ドアに手をかけた最前列の三、四人も決して譲り合わないから、いつまでたっても誰も乗り込めない。その時渦の中にいると猛烈に押されるが、弱気になるとうしろへうしろへとはじき出されて、結局バスに乗れない。覚悟しておけ、私に続け、といった。

 ものすごい圧力と戦ってようやく乗り込むと、二人は「ふーっ」と大きく息を吐いた。隣に立つ人の腕がニチャニチャと肌に触れる満員のバスが動きだした。二つ目のバス停を過ぎたとき、突然出入り口で喧嘩が始まった。乗客の若い男と車掌の若い女が激しく言い争っている。切符のことで男が咎められた風だった。男は次第に反撃する声と言葉のトーンが下がり、車内の雰囲気で男に非があることが分かった。と、その時である。「バチーン」とにぶい音がした。車掌が男の横っ面を張り倒したのである。それを間近に見た二人はまた、「ふーっ」と大きく息を吐いて顔を見合わせた。

 目指す宿は『地球の歩き方』に出ていた。私は降りるバス停を間違えたらしい。一つ手前で降りてしまった。

 西湖畔を北上する道路を歩くと、暑さを避けて散歩する大勢の人とすれ違った。歩きながら西湖の美しさや歴史を説明する私の言葉に二人は「ふーっ」と大きく息を吐き、「はーっ」と相槌をうつだけだった。荷物を持つ手を何度も持ち変えていた。

 ようやくたどり着いた宿には明かりがついていなかった。私はガラス戸をドン、ドンとたたき続けた。
 
  早く出てきてくれ。頼む。もうくたくただ。引率する私のメンツがつぶれる。学生を連れているのだ。
 
すると電気がついて、寝入りばなを起こされたとおぼしき女性が出てきた。私は大きな声で 
 「今夜はここで宿泊したい。部屋は空いているか」
といった。私は耳を疑った。
 「もう営業をしていない。やめて二年になる」
中国ではよくあることだ。その言葉を二人に伝えると、マキとEは倒れるように古びたソファに座り込んだ。錆びたバネが鳴り、埃が舞い上がった。『地球の歩き方』の情報は古かったのだ。

 停留所を二つほど戻るとそこには、安い「旅社」があるという。私たちはまた元の道を戻り始めた。バスはもう無かった。涼を求めて散歩する人もまばらになっていた。靴の中で二倍に腫れ上がった足はズキズキと疼いていた。マキのリュックは肩に食い込んで腰までずり下がっていた。Eの手提げバッグは、右に左にと、頻繁に持ち替えられていた。体格のいいマキはまだ足どりがしっかりしていたが、清楚なEには体力の限界がきていた。歩きながら睡魔に襲われてこくりと居眠りをしていた。何度も、突然立ち止まり、よろけてはマキの腕に掴まっていた。そのたびにマキに傾くEの長い首は汗で青白く光っていた。

 路地をいくつか曲がった所にある「旅社」にたどり着いたときは午前零時に近かった。裸電球が一つ下がっただけの受付に人は居ず、土の床と土の壁とのでこぼこが作り出す影が不気味に長く奥へつづいていた。その先には木と竹で組んだベッドがあった。上下二段になったベッドで、敷かれたワラむしろが薄明かりに浮かんで見えた。泊まり客はいないのか、ベッドに人影はなかった。

 物音を聞いて薄いワンピースを着た女が出てきた。女は客向けのわざとらしい笑みを作って、私たち三人を見た。深夜にやってきた思いがけない泊り客にほくそ笑んでいるみたいだった。笑みは「旅社」の客の少なさを表していた。
 「ベッドは空いている。別棟に案内する」
といった。だが、その笑みが私の心を殺いだ。私は泊まる気を失っていた。

 私一人ならいい。だがマキとEがいる。他人の汗がしみついたベッドと、もぞもぞと這い回る虫を肌に感じ、壁のカビと湿気がもたらす土くさい所で眠る。それに耐えられるだろうか。
 今考えれば耐えられなかったのは私だった。二人は
  「いいですよ、ここで。泊まりましょう」
と口を揃えていった。どこでもいい、早く眠りたい、といっていた。
 
 私達はまた歩き始めた。向かう所は杭州駅に近いホテルだった。深夜でも受付には制服をきたホテルマンがいる。そこにはきれいなシーツとシャワーがある。たとえ部屋がないといわれてもロビーのソファに横になればいい。しかしこれからまた歩かなければならなかった。しかも必死の形相でバスに乗り込んだあの駅まで。この悪魔の泥沼に引きずり込んだのは、明らかに私だった。マキとEはもはや全く喋らなかった。相槌をうつ声は出なかった。
 
 ホテルでは二泊した。快適な部屋と杭州の美しさを満喫した私達は、上海に戻る日の朝、荷物をまとめてロビーのソファに座っていた。
 私は低い声で、料金を払わずこのままホテルから出ることを口にした。ロビーのソファには西洋人の旅行者があふれていた。このまま黙ってホテルを出ても気づかない。
         
 強く反応したのはマキだった。目とひたいが光った。おもしろい、やろうという反応だった。Eは驚きもせず私の顔を静かに見た。純真なEには、私特有の冗談だと映ったらしかった。
 しばらくの沈黙の後、
  「行くぞ」
といった。マキは肘掛けの上の両手に力を入れて立ち上がった。マキの目は真剣だった。

 私はその力強さに戸惑った。マキが立てば私も立たなければならない。立てばそれを実行に移すことになる。しかしもはや後には引けなかった。リュックを持ち上げる動作がゆっくりだったのは私に迷いがあったからだ。私達は立ち上がった。

袁清林『中国環境保護史話』との出会い


 ほん




「私は震撼するほど驚いた。そして、この中国古代の優れた環境保護の伝統を掘り起こして、世の人に知らせなければならないと思った」とは『中国環境保護史話』の著者袁清林のことばだ。
北京からFAXが届いたのは2003730日だった。その880字の文面の中にこう書かれていた。それを見て私は瞑目して天を仰いだ。
実は私が袁清林の『史話』に出会った時も同じように「震撼するほど驚いた」からだ。
袁清林が驚いたのは、中国科学院で環境問題を研究する過程で、中国の古代に環境保護の思想が存在しその制度と法律があったことを知ったからだった。
私が驚いたのは、彼の『史話』を手にして、「虞衡」と呼ばれる古代の環境保護機構の実態が明らかにされているだけでなく、返す刀で現中国の砂漠化、干拓化、森林破壊の悪の実態を鮮やかに切り捨てているからだった。そこには真実を追究する科学者の強い魂があった。
袁清林は古代の環境保護に驚き、私は袁清林の驚きをぶつけて著した書物に驚いたことになる。二つの驚きを串刺しした根源には、中国古代に確立された環境保護の思想とそれを実行した制度があった。
「世の人に知らせなければならないと思った」のは私も同じであった。この書の存在を広く日本に知らせるために、早速翻訳にとりかかった。
袁清林は厖大な古文献を引用していた。その文句に出会うたびに出典をたどりその文献に目を通す。その作業は楽しいものであった。古典文献への知識が増えてくるのが分ったし、国内で入手できない資料は中国旅行をかねて捜しに行ったからだ。とはいえ、難解な文献の場合は何ヶ月もそこで足踏みした。日本語に訳せないからだった。
2003319日。私と袁清林は北京で酒を酌み交わした。酒は沢山飲めないと言った袁清林が顔を真っ赤にして「京酒」をあおる姿に、お前を歓迎するという心が見えて嬉しかった。私は翻訳書を日本で出版したいと言い、袁清林は、それは良い、著作権は要求しないと言った。
冒頭の袁清林のことばは日本で出版する書のために送られてきた序文の中にあった。そこにはまた「文明と野蛮とを分ける分岐点は、地球を愛するかどうか、環境を大事にするかどうかにある」とも書かれていた。この書には袁清林の中国への愛と歴史への敬愛と、私自身の自然への愛と著者への敬愛が詰まっている。

袁清林と初めて会う 『中国の環境保護とその歴史』(研文出版)の 出版にむけて



袁清林氏

中国の環境保護とその歴史』の原著者である袁清林氏と著作権の問題について話し合ってきたところ、原著者と出版社の中国環境科学出版社の二者が倶に、著作権を要求しないとの回答を伝えてきてくれた。これはありがたかった。私は袁清林に謝意を表すために、二〇〇三年三月北京に赴いた。ここにその時の事を記しておく。


 がっしりした体躯に黒のスーツと赤いネクタイを付けた袁清林氏が、ドアの外に立っていた。私は声を挙げて初めて面会する喜びを伝えた。

その日私は北京に着いたばかりだった。氏と会うために十五時間夜行列車に揺られ、十四年ぶりの北京に降り立っていた。タクシーに乗ったものの車が道路に溢れ、北京大学勺園の宿舎に着いたのは一時間後の午後二時だった。今にも雨が降りそうな曇り空だった。携帯に電話をして上京したことを伝えた。

春になれば北京で会いたいと送ったファックスに返事が来たのは、二月のことだった。そこには、「知nin三月将到中国来訪問、熱烈歓迎nin。有朋自遠方来、不亦悅乎?我期待着在北京与nin会面、以便請教和交流。関于拙著的著作権問題、経与出版社聯係、出版社表示不提出要求。根拠?介紹的情況、我本人亦不提出要求。我的移動電話是○○、到達北京前後請告知。」とあり、この時も私は声を挙げて繰り返し読んだ。

部屋に入った氏は持参したものを袋から出し、説明しながら私に渡した。電話を受けて二十分後にはドアの前に立っていた氏に、品物を準備する時間は五分もなかった筈だが、紙袋の中から次から次へと品が出てきた。自ら揮毫した書、近著の本『行草毛澤東詩詞一百首』、北京の銘酒「二鍋頭酒」、海南省特製の珈琲一缶「興隆珈琲」。圧巻は氏の手になる草書体の書一幅であった。縦七十㌢㍍横百四十㌢㍍の画仙紙に、李白の楽府詩「行路難」の一節「長風破浪会有時 直挂雲帆済滄海」が墨痕鮮やか躍動していた。私はその時まで書家袁清林のことは知らなかったが、これはあなたに差し上げていなかったかな、と出した近著『行草毛澤東詩詞一百首』(台海出版社二〇〇〇年)は、書においても第一人者であることを示していた。これはすこし濃い味ですが、という「興隆珈琲」は帰国後試飲してその美味さに驚いた。口に含んだときの、香り、色、嚥下した後に広がる苦味の濃さが絶妙だった。何故珈琲を持参したのかその時は分からなかったが、後に中国熱帯農業科学院熱帯香料飲料作物研究所で作られた製品であることを知って納得が行った。氏の多くの農業科学の著作と、現在の職責、中国老科学技術工作者協会副秘書長とを考えると、熱帯の地海南省の珈琲が氏の手元にあったとしても不思議は無かったからだ。

勺園の部屋の寝台と寝台の間の狭い空間に向き合って腰掛けて話し込んでいると、いつの間にか二時間近く経っていた。腕時計を見た氏は、夕食を一緒にしましょう、下に車があります、と立ち上がった。階下に降りると、黒塗りの大型車に品のいい紳士がいた。私たちが来るまで待っていてくれたのだ。着いた先は中国農業科学院で、院内にある外賓招待所が会食場所であった。そこには氏の要請を受けて集まった男女二人が待っていて、にこやかに迎えてくれた。運転してくれたのは、中国老科学技術工作者協会秘書処辨公室主任の李国慶氏で、女性はその夫人、男性は副主任だと紹介された。

中国の会食は、客人の嗜好に合わせて魚肉の種類と調理法を決めると、当地の名物料理と季節の野菜の検討に入り、その後は点心(包子、餃子、ごま餅等)と果物が決まる。生来質素な食事で事足りてきた純日本人の私などは、満腹さえすればそれでいいのだが、あれが好き、これは嫌いと注文を付ければ付けるほど、熱心に食材と調理法を選んでくれる中国人の優しさに負けて、ついついわがままを言ってしまう。この時は、魚は余り好きではないがエビならいい、包子、餃子が好き、野菜は何でも食べる、と言ってしまった。すると、それを聞いた袁清林は、独自の料理哲学を私に講釈しながら、「日本人」向けに微修正する調理法が確実に厨房に届くようにと念を押して注文してくれた。しばらくすると大きな円卓に並べきれないほどの料理が次から次へと運ばれてきたのはいうまでもない。

「美味しいですね」「食べきれないほどですよ」「もうお腹がぱんぱんに張ってきました」「ほんとに美味しい」と言いながらお箸を動かしていると、「美味しい食事を食べると家に帰りたくなくなるでしょう。それを『喫飽不想家』というのですよ。」と袁清林。「中華料理は色と香りと味の良さが特徴です。それを『色香味美』といいます。」「これは筍ですよ。」と私の皿に運びながら、「蘇東坡の詩に、肉が無くても食事ができるが、筍無しで居ることはできない、というのがありますね。『寧不食無肉、不可居無竹』というのが。食べて見て下さい。今が旬ですからね。」

このように中国では、食事の時に、料理だけではなくて、中国の故事、ことわざ、古典の名句が次から次へと出てくるのが常である。それは年齢が高く学識も高いからだと思われがちだが、私の経験では、小さな子供や若い学生でも、四言、五言の古語名句が、歌を歌うように出てくる。これには感心する。中国では、何かにつけて名言警句を口にし、それをリズム良く朗唱する伝統がある。本来身につけているべき教養が、一定の水準以上保たれているのだ。日本だとこうはいかない。日本にも五七調の小気味よいリズムと古来の名句があるが、それが素養となって身につき、何かにつけて口に出てくるという、小さな子供や若い学生はいない。これは、花や草木の名を知らず、小鳥や昆虫の名を知らない日本人の空っぽさと、根は同じであろう。醜い形や、異常な色をした虫に悲鳴を上げて逃げまどい、悪臭や汚れに、全身で嫌悪感を表す今どきの日本人の軽さとも、根はつながっている。言葉と自然にまつわる体験の貧弱さがそうさせるのだ。わが国で、素養をはぐくむ伝統がなくなったのは痛い。

酒は普段から飲まないという袁清林は、一本の白酒、「京酒」を注文して私に勧めてくれた。私も普段から酒は飲まないので、沢山は飲めませんよといったが、自分も飲むから一緒に飲もうと、杯と杯を合わせて乾杯した。二人ともほぼ同時に顔が赤くなった様子は、見ていてほほえましかったのだろう、瓶を手に注ぎに来る女性の目元が笑っていた。酒に弱くてもアルコールが回れば気分が高揚する。私は、著作権を要求しないという著者への謝意をこめて、次のように言った。「この『中国環境保護史話』を読むと、日本の人々が持つ中国観が覆ります。現在の中国は、経済優先の開放政策のもと、環境破壊が深刻に進んでいるという印象があります。しかし中国では、環境保護を目的とする保護システムが、古代から確立していました。こうした歴史的事実は、日本では、一部の研究者を除いて、一般には知られていません。この本にはそれが詳述されているだけでなく、極めて現代的で切実な環境問題への提言があり、その解決策が示されています。例えば、人間が生きるために山林を開発して耕田を作り、干潟湖沼を埋め立てて耕田を作ったことが、生態の均衡を崩して環境に悪影響を与えたと書かれています。人間が豊かになるための経済活動が環境破壊を招き、その結果、却って経済に損失を与えて人間を貧しくしていると警告しています。日本でも現在進行中のものとして、諫早湾の干拓や、宍道湖の干拓、熊本川辺川のダム建設などがあり、環境破壊とそれに伴う経済と人間生活への悪影響が懸念されています。その意味でも、この本を日本に紹介して、広く読まれるようにしたいと思います。」袁清林は、私の拙い中国語を辛抱強く聞いた後、大きくうなずきながら更に一杯の酒を私に勧めた。
(『中国の環境保護とその歴史』研文出版 あとがき)


石川啄木の生家常光寺に伝わる物




  啄木の生家・常光寺に伝わる物
                     
                                 
 

常光寺御住職に宛てて 
6月15日は記念すべき日でした。私が13歳の頃より親しんだ啄木の歌にうたわれた、北上川、岩手山、姫神山、愛宕の森、そして生家常光寺を訪れることができたのですから。貴寺を訪問した際には御住職御自ら説明をして下さり、感激は一入でした。
啄木誕生の部屋 ②
「石川啄木生誕之地 昭和三十年秋 金田一京助書」の軸と米櫃(中央)
啄木生誕の部屋、およびその庭を見、金田一京助の書を見、宝物が入った桐の箱を見、立て屏風を見て、わずかの時間に啄木生前の時空に入り込んで、眩暈に立ち眩んでおりました。


屏風
米びつの箱書き


屏風




カメラに収めさせて頂いた屏風の書を、こちらに帰って国文学の先生に見せたところ、紀貫之とよみ人しらずの歌であることが分かりました。紀貫之の歌は、

徒ら遊支             つらゆき
桜ちる木能下風の寒可らで             桜ちるこのした風のさむからで
そら尓志ら連怒雪ぞふ里介利             そらにしられぬ雪ぞふりけ
          (屏風の書)                          (読み下し)

よみ人しらずの歌は、

                          よみ人志ら数                                       よみ人しらず
             足引の山路尓ちれる桜花                あしひきの山ぢにちれる桜ばな
             消せ怒春能雪可とぞ見る                きえせぬ春の雪かとぞ見る
          (屏風の書)                          (読み下し)

でした。
この二首は『拾遺和歌集』巻第一春のところに収められた歌で、それと比べてみますと、異同が三個所あります。

一 屏風の紀貫之の歌は一首ですが、『拾遺和歌集』には二首あり、続いてよみ人しらずの歌一首が集録されています。貫之の歌の後に続いてよみ人しらずの歌があるという順序は、『拾遺和歌集』と同じですから、屏風の歌は『拾遺和歌集』を手本として書かれたものでしょう。なぜ貫之の歌一首のみを書いたのか不明ですが、元来は二首有り、それが切り取られた状態で屏風に表装されたのかも知れません。
二 屏風の歌には題がついていませんが、『拾遺和歌集』ではそれぞれの歌に題がついています。紀貫之の二首の題は、「きたの宮のもぎの屏風に」と「亭子院歌合に」で、屏風の貫之の歌は「亭子院歌合に」という題です。ちなみに貫之のもう一首、「きたの宮のもぎの屏風に」の題の歌は「春ふかくなりぬと思ふをさくら花ちるこのもとはまだ雪ぞふる」という歌です。題が書かれていないのは、これを書いた人がわざと書かなかったのか、或いは、手本とした資料に無かったのか、よく分からない所です。
三 『拾遺和歌集』の紀貫之の歌は、「さくらちるこのした風はさむからでそらにしられぬゆきぞふりけ」ですが、屏風の歌は最後が「ふりけ」となっています。これを書いた人が、このように書き違えたのか、或いは、手本とした資料がそうなっていたのか、いずれかだと思われますがよく分からない所です。  
また、米櫃の箱に裏書きされていた言葉を活字に直すと、次のようになります。

       明治維新ノ後當寺維持經營頗ル困難ニ陷リ往々住職ヲ欠キ
       明治廿五年ニ到リテ檀家将サニ離散セントス此ノ際ニ當リ
       本寺報恩寺谷中老師七十餘歳ノ老齢ヲ以テ四里餘ノ山路ヲ跋渉シ當
       寺ニ來往シテ檀務ヲ鞅掌セラル此ノ櫃ハ當時米噌ヲ入レテ持參セラレタルモノ
       ナリ 永ク保存シテ当寺ノ什寶トス
                     明治廿六年四月十七日
       一 金八拾圓也 報恩寺廿七世谷中老師ノ御寄附
                      為常光寺永續基本金
一 田三反四畝五歩 右ハ谷中老師寄附金ノ一部ヲ以テ購入セルモノニシテ常光寺常什ノ飯米ヲ補フ為ナリ
                       報恩寺卅四世大絳叟誌
昭和十三年十月廿一日
         當寺廿四世石成老和尚本葬之日

  この箱書きから推量すると、昭和十三年十月二十一日に常光寺の二十四世石成老和尚の葬儀があり、そこに本寺報恩寺から三十四世の大絳叟(だいこうそう)と称される和尚が参列し、その際に大絳叟和尚が常光寺の二十五世の和尚の求めに応じて、この櫃の由来を書き記したものと思われます。昭和十三年に逝去された常光寺の和尚は、御住職様の祖父に当たるお方でしょうか。昭和十三年の大葬儀に関する記録があれば、当時のことが更に明らかになることと思います。 
  長々と贅言を弄して申し訳ございません。啄木を訪ねて貴寺を訪問したことによって、このような貴寺の宝物に接することができました。職業柄文献を漁っては意味不明の資料に頭をかかえる日々を送っている身にとって、このたびの体験は心躍るものでした。しかもそれが、啄木を通してのことですから、感激も一入でした。
   求めに応じて快くシャッターを押して下さった令夫人によろしくお伝え下さいませ。
常光寺
曹洞宗常光寺の碑
  画像参考文献
①②『石川啄木入門』 監修 岩城之徳 編集 遊座昭吾・近藤典彦 思文閣出版 平成4年11月1日発行

王枝忠 と 尾道 浄土寺、西国寺


 王枝忠と尾道浄土寺、西国寺 

 浄土寺の十二面観音像が安置された堂上にかかった額を見上げながら、王枝忠先生はしきりに首をかしげていた。幅二メートルほどもある木彫りの大きな額は、銅製の金網で大事に保護され、右横書きに「観聲殿」と読める。朱で色付けされた浮彫の文字は、やや色落ちて古色蒼然たるおもむきがあり、いかにも由緒深いものと推測されるが、はて「観聲殿」とは一体どういう意味なのか、にわかには解せないという表情であった。

 王枝忠先生は福州大学から岡山大学文学部に客員教授として招聘された中国の学者で、来日して一年余りになる。『三国志演義』や『聊斎志異』の明清小説の専門家だが、その該博な知識は先秦漢魏から唐宋明清の歴史、文学、哲学、民俗にまで及び、すべてに造詣が深い。その先生を尾道に案内したのは残暑厳しい九月中旬であった。
 拝観料を払って堂守りの説明をうけながら、充分に堂内と庭園を見てまわった後、これから履き物の所に降りようとしていた時のことであった。私は気づかなかったが、王先生は入るときすでにそれを見ていて、「観聲殿」(声を観る殿)というわりには、中にそれらしきものがなく、おやっと思って再び額を見上げたというわけであった。
 「ここに安置された仏像は何でしたかね。」
と私に聞くので、
  「十二面観音像ですよ。」
と答えると、
 「ああ、そうかそうか。」
と表情がやわらいだ。
 王先生によると、「観聲殿」と書かれているがこの額は「観音殿」という意味で、観音さまを収めた建物だと示しているという。しかし「観聲殿」がどうして「観音殿」を表すのかと首をかしげた私にむかって、次のように話した。
 「ひねりを加えて謎かけをしているようなものです。『聲』(sheng)は普通『聲音』(sheng yin)と熟した言葉でいいます。ですから、『聲』と書いて実は『聲音』の『音』を暗示しています。中国人の発想のようですね。ひょっとすれば、かつてここを訪れた中国僧が浄土寺の住職に頼まれて揮毫したものを、こうして額に彫り上げたものかも知れません。」
私は王先生の考証を聞いて、学問の真髄を教えられた思いがした。
 浄土寺のあと西国寺に向かった私たちは、また額を見上げて立ち止まった。それは、拝観料を払って入った畳敷きの部屋の前室に掲げられていた。やはり右横書きだが今度は墨書した絹布を錦で縁取りし、さらに金箔を張った額地のうえに麗々しく表装したものだった。「遍照室」と読めた。その部屋には遍照金剛である弘法大師空海がまつられていた。だから、「遍照室」は空海をまつった部屋という意味であることは明らかだった。王先生が注目したのは、その左に縦書きで書かれた年号と、揮毫した人物の名だった。しきりに何かを考えている。その達筆の文字は「大清乾隆三十二年秋月 古[門虫]游撲蕃書」と読めた。


 「『古[門虫]』は福建省のことで、游撲蕃の『游』は福州に多い姓です。とすると、福州からやってきて西国寺 を訪れた、游撲蕃という和尚が、この寺の住職に請われて揮毫したのが、この書なのでしょう。それは、乾隆三十二年の秋だったということなのでしょう。」
なかば独り言をいうように私に説明しながら、王先生はなおその書から目をはなさなかった。いかにも感慨深げであった。
 実は、王先生は福州出身で、北京大学を卒業後、寧夏回族自治区の社会科学院で研究生活をした後、ふるさとの福州大学にもどった人物である。福州からやってきた自分が、二百二十五年前に同じ福州からやってきた和尚の墨跡を見ている。その奇妙な偶然に、言葉を失っているようであった。
 揮毫の三文字は、游撲蕃が請われて筆をとり、その場で考えて書いたものであろう。だとすれば、この遍照室は二百二十五年前からそこにあったことになる。西国寺の長い歴史からすれば、それは当然のことなのだが、少なくとも二百二十五年前にさかのぼることができる証拠をそこに見て、改めて遍照室を見ると、描かれた空海の絵が時空を超えて近づいてくる気がした。

 その時、西国寺の住職はわざわざ絹布を用意して游撲蕃に揮毫を求めた。游撲蕃はよほど尊い人物であったとみえる。寺ではその絹布を錦で縁取りして、金箔を張った額地のうえに表装していることからもそれは分かる。私たち二人は、そのような額の下でたたずんでいたのであった。
 乾隆三十二年は江戸時代の明和四年にあたる。この時の住職は誰で、游撲蕃とどういうつながりがあったのか、その時残したその他の書画のゆくえはどこに、游撲蕃は西国寺以外では尾道のどの寺院を訪れたのか。この謎解きはこれから始まる。そもそも游撲蕃とはどういう人物なのか、なぜ尾道を訪れたのか、その足跡は鞆にも備前にもあるのか、そして福州ではどういう評価を受けた人物であったのか。この謎解きを求めて、いずれは福州に行かねばならない。
 王先生に尾道の魚と寿司と豆腐を味わってもらうべく、私のなじみの店に案内した。元来、生ものは口にしないのが中国の人の常だが、王先生は食および食材に関しても博識で、日本の寿司の味にも興味がつきないようであった。初めてだという雲丹のにぎりも、「これはみやげ話になります。」と雲丹の味覚と感触を味わっていた。尾道一と定評のある「寿司金」の大将は、「どうして寿司金というのですか。」という王先生の質問に、中国僧の書に劣らない達筆で、「欽爾」と書いて示してくれた。王先生とともに私も初めてその由来を知ることができた。
 浄土寺の「観聲殿」と西国寺の「遍照室」は、思わぬ収穫を私たちにもたらしてくれた。両寺院の悠久な歴史と日中交流の足跡は、尾道における両寺院の大きさを示していた。
 王先生は、二〇〇二年三月、二年間の滞在を終了して福州に帰る。
あとがき
 このような短文にあとがきはあるべくもないが、書き足りないことがあるのでここに書いておきたい。
 この文は、もともと「尾道はよくなったか」と題して、開発によって変貌した尾道の姿について書く予定であった。海岸通りの雁木、あさひ食堂、錠前専門の店、列車の窓から見えた駅前の海、開発後の暴走族の群れ。人々が一度は行ってみたいと思う尾道が、悪しく変貌した。開発は、破壊したもの以上のものをもたらすことはありえない。五時になるとシャッターを下ろさざるをえない商店街が、すべてをものがたっている。
 二〇〇二年二月末、私たちは再び西国寺を訪れて現住職からさまざまなことを教えていただくことになっている。また、昨年九月に両寺院を訪れた時、レポートを書くための調査に来たという広島商船高等専門学校の一人の学生と、浄土寺でも西国寺でも一緒になった。その学生は、私たち二人の会話に聞き耳を立てながら、すこしでもレポートの内容を充実させようと、ぴったりと後をついてきて、まるで二人を取材しているようでもあった。その学生にも、結果を報告したいと思っている。
 私は尾道短期大学に十五年間お世話になった。久山田の農家の牛小屋に一年間住んだこともある。国文科の先生、経済科の先生、職員の方々、日没のテニスコート、そして十五年の間に出会った約二千名の学生一人一人を思うと、感無量となって万感胸に迫る。歴史ある尾道短期大学に少しでも関わることができて光栄に思う。そして何よりもこの最後の号に文を寄せることができて、この上ない幸せを感じている。

(『国文学報』第45号 2002<終刊号> 尾道短期大学国文学会 2002年3月刊 113-116頁 )

韓国ソウル明洞ミョンドンの街



 社会のちから   韓国ソウル・明洞ミョンドンの街     (『国文学報』第44号 2001年3月 55-57頁 )




  地下鉄4号線明洞ミョンドン駅から地上に出ると、もうそこは、ブティックとレストランが林立する大繁華街。道は下り坂になっていて、川下りのカヌーよろしく、自然と流れに乗って露天の店を冷やかして歩く。
    それは午後5時頃だった。流れに逆らって立つ中年の男がいた。ぶつかりそうになったその男を見ると、なにやら喋りながら斜め後ろを見ていた。振り返ると大通りの端に一人の若い女性が正座して座っていた。しかも首をうなだれ、両手を膝の上において。暗~い、悲痛な表情をしていた。石の舗道に正座する姿は、心の中に固い決意が詰まっているように見えた。年齢は十代のようだった。
     男にはあと二人の連れがいた。その二人も正座する女性に気がついて、4,5m通り過ぎたところで立ち止まり、人の流れに逆らうようにこちらに顔を向けていた。  川を下る濁流のように押し寄せる人波は、三人の男によって自然の流れをさえぎられて、そこに渦ができていた。渦の原因が男たちだと気がつくと、今度はその男が見ている方向に目をやる。次から次へと下ってくる人の波は、このようにして女性の存在に気がつくのだった。
  私も立ち止まってその女性を見たが、女性は深くて重い傷を心に持っているみたいだった。周囲の目にさらすことによって、更に固く自分のなかに閉じこもろうとしているみたいだった。前のめりになって両腕を膝頭で突っ張る正座の姿勢がそう見えた。一点を見つめる表情は小刻みに震えていた。
   
  二〇〇〇年は十七歳の少年が様々な事件を起こした。五月には愛知豊川市で、人を殺してみたかったと主婦を刺し殺し、数日後に佐賀では牛刀を持った少年がバスを乗っ取って、女性の首を切り裂いて殺した。六月二一日には岡山邑久郡の十七歳が金属バットで部員を殴った後自分の母親をも殴殺。山口では新聞配達をする少年がやはり金属バットで母親を殴殺し、八月十六日には大分県野津町で十六歳の少年が近所の一家六人をサバイバルナイフで殺傷した。
  この事件を知って頭を抱え込んでしまったのは、いずれも、コンクリートで覆われた都会での出来事ではなく、自然が残り、人情に厚く、のんびりとした環境の土地で起こったことだった。
  自然豊かな土地には、進歩した人間社会が束になってかかってもかなわない、力がある。その力は、やすらぎや歓びを与えてくれるやさしさもあるが、意のままにならない手強さと厳しさも持っている。だから人々はそんな土地では、厳しさに一人では立ち向かえないからお互いに助け合い、やっと得た喜びを独り占めにせずにそれを分け合ってきた。簡単にいえば、人と人とがお互いに声をかけ合ってきたのだ。 だが今、自然が残る田舎の町でも、その声が聞こえなくなってきた。わたしたちは自転車ではなく自動車に乗って移動するようになった。  車は速くて便利だが、止めて窓を開けて人と話すのには向いていない。エアコンのきいた快適な個室は、人と挨拶する言葉と声を奪う。たとえ自転車に乗っていても、拡幅されたコンクリートの道路は、速くて快適に自転車を先へ先へとみちびく。
  いまやどこの町にも町内を真っ二つに切り裂く太い道路が出現した。これが人から、挨拶とゆずり合う気持ちと立ち話を奪った。だから今、車や自転車が通ったあとは驚くほど静かになる。人が住んでいるのに静まりかえっている。

  実は周りの木々や水の流れの豊かな自然は人にやすらぎや歓びを与えるべく昔と変わらずそこに存在しているのに、町の人は便利な太い道路に乗ってサッと通りすぎていく。豊かな自然があるからといって、それが人に何ももたらさなくなった。ビルと地下鉄とけばけばしい店舗で埋め尽くされた都会と少しも変わらなくなった。
  すれ違う人はもちろん、知っている人にも声をかけることはなくなり、だから自分が声をかけられることもない。ましてや、コラッと怒られることがないのはもちろん、大きなったのーと声をかけられることもない。  それをしてきたはずのおじさんやおばさんが黙ってしまったのだ。世代を越えて挨拶を交わし、見知らぬ人に声をかけることが日本の町から消えた。

  だが韓国は違った。明らかに異常な光景を見た三人の男は、人の流れに逆らって若い女性の所に戻った。両膝をついて女性の前にしゃがみ、下から顔をのぞき込むようにして話しかけた。どう話したのかその内容は分からなかったが、両肩の間に首を折り込んでうなだれる女性の小刻みな震えが止まった。
  女性はなおも顔を上げなかったが、男の言葉を聞くにつれ、正座の膝頭に突っ張った両腕の力が抜けていくのが分かった。
  ミョンドンの買い物通りはとてつもなく人が多い。みるみる人が集まり周りを取り囲みはじめた。その時点で私から女性の姿は見えなくなったが、人だかりが減らないところをみると中では男の説得が続いているようだった。
  その時である。連れの二人の男が大きな声と両手を広げる大きなしぐさで人だかりの輪の中から出てきたと思うと、人の好奇の目から女性を守ろうとするかのように人だかりを散らばらせ始めた。その騒ぎを見て更に集まってくる人をも、大きな声と両手を広げる大きなしぐさで追い返すのだ。

  女性はなぜあのように正座してうなだれていたのだろう。私に理由は分からない。ミョンドンの雑踏の中に身をおかざるをえない寂しさと、出口がみつからない絶望感におそわれたのだろう。都会の雑踏は時としてそのような心細い孤独感を癒してくれるものだ。だが韓国の雑踏は女性を孤立したまま見殺しにはしなかった。そこには今の日本の街角から消えた社会のちからがあった。とりわけ、おじさんの自信に満ちた頼もしさがあった。

稲の花 尾道の女友だち


 稲の花    (『国文学報』第41号 1998年3月 80-81頁 )

  稲の花 
  庭に水田を作って三年になる。たたみ一畳の田に水を引くと、いつの間にか
大きさの違う蛙が住み着く。昨年は蛍が一匹飛んできた。水田は生き物を呼び
寄せる宝庫。稲穂が稔ると雀の襲来が始まる。
 雀が田の稲を食べるには方法がある。飛び上がって穂の先を啄むと羽ばたき
をやめて地上に着地。稲の茎を途中で折っていく。一本また一本。食べ易いよう
に地面に引き寄せておくのだ。
 雀も飛ぶのはしんどいらしい。地面から稲穂を啄む方が樂ならしい。心ゆくまで
籾を啄んで白い米を食べていく。
 飛び去った後の稲穂は文字通り蛻の殻。「もぬけの殻」は「裳抜け」が語源らし
いがそれは誤りで「
籾抜け」が正しい、そう確信した。皆さんくれぐれもお間違えなく。
 刈り取った稲を米にする時、稲穂を落とす方法が分からない。結局、指で扱いて
籾米を収穫。今度は籾米を脱穀する手法が分からない。擂り鉢で擂っても木で叩
いても籾殼はビクともしない。稲は外面も強いが内面はもっと強い。
  稲の花の開花は数時間だけ。白い小さな花がひっそりと咲く。
  その白い花が咲いた後、うまく受粉して一粒でも多く秋に実るようにと願う昔の人は
 「雀が乳を吸いにくる」と言って雀を警戒していた。まだしっかりと実の入らない穂には、
 髄液とでもいう白いどろっとした柔らかいものが入っていて、其を雀が啄む。雀に吸
 われた稲穂は太らないでペシャンコの儘秋を迎えるからだ。こう教えてくれたのは尾道
 美の郷中野に住む私の七十八歳の女友達。
  彼女は、裸足で踵をつけて一回転しなさい、四、五粒籾殻が弾けて玄米が飛び出
 しているようなら、完璧に乾燥している目安となります、それを藁を叩く木槌で叩くと
 容易に籾殻と米とが分かれるのよ、とも教えてくれた。
  数千万年前から咲き続けてきた稲の白い花を見て、人と稲との長いつながりを思った。
 私は、その原始からの繋がりの輪に初めて入ることができたのだ。

クロアチア!クロアチア!


 クロアチア    (『国文学報』第42号 1999年3月 69-73頁)

 クロアチア ! クロアチア! 

 ザグレブの空港に着いたときヨニックはひとりで別の出口に並んでいた。あれ?と思った
が私は「乗り継ぎ」の出口から空港内に出て、次のルフトハンザ航空便まで四時間待った。
四時間たって出発便の列に並んでいると、弾んで左右に揺れる歩き方をするヨニックが近づ
いてきた。彼は、乗り継ぎの四時間の間に、ザグレブ市内まで行って激しい戦闘の跡を見て
きたという。その表情は暗く沈んでいた。空港内のベンチでひたすら時間が過ぎるのを待って
いた私はヨニックの目的意識とその実行力に度肝を抜かれた。
 ヨニックはベルギーチームのコーチで二十三才。SAKEとBONSAIが好きな飲んべえだ。
そういえば彼は、クロアチア南部のスプリト空港でも長い列の後ろに並ばず、誰もいないカウ
ンターの前に立ってクロアチア航空の女性を手招きするとさっさと手続きをすませて中に入っ
ていた。旅なれたツーリストとは彼みたいな人のことをいうのだろう。それにしても四時間の
過ごし方の違いは余りにも大きい。

 クロアチアを訪れたのはヨットレース「ヨーロッパ選手権」に参加するためだった。アドリア海
に面したローマ帝政期の美しい古都スプリトに二週間ほど滞在した。そこで私は先のヨニック
と三年ぶりに再会し、また新しい友人たちと出合った。

 ZlatkoとMirandaは私の新しい友人である。クロアチア行きが決まったときからE-mailで連絡
を取り合っていた私たちは、初めて出合ってお互いの背中に腕を回して挨拶を交わしたときに
は「ようやく会えたね」という懐かしさでいっぱいだった。E-mailは不思議なものだ。人種と言語
を越えて結ばれる。
 二人に会って初めて分かったことがいろいろとあった。肥った初老の人ではなくて、やせて背
が高い三十代の青年で、丸顔で背が高いミランダはその奥さんだった。気むずかしい人ではな
くて、いつも笑顔を見せる紳士淑女で、困った表情や驚いた表情の素朴さといったらなかった。
ひと目でウマが合いそうと直感した。Zlatkoの名を「ズラトコ」と英語よみで呼んでいたが、ミラン
ダや他の人が彼をザトコと呼んでいるのを聞いてクロアチア語では「ザトコ」というのだと知った。

 私はインターネットを利用してクロアチアから日本に向けてレースの模様をレポートするために、
ノートパソコンを持参していた。できるかどうか自信はなかった。ドイツやイギリスでならできるか
もしれないが一九九五年まで内戦が続いていたクロアチアだ。しかもヨット界でまだそれを試
みた日本人がいなかった。
 ザトコとミランダに、レース事務局の電話回線を使わせてくれませんか、とおそるおそる聞いて
みた。大会が始まるとレース事務局は戦場のようにごった返すのを承知の上である。宿舎となっ
た所はいわゆるホテルではなくて学生用のホステルで、電話が引かれていなかった。難色を示す
と思っていたのにザトコはいとも簡単に「ああいいよ」と言ってくれた。しかも電話代はいらない、使
うときは、事務局のコンピュータの回線を抜いて君のコンピュータにつなげばいいという。日本とク
ロアチアで交わしたE-mailが私たちを旧知の間がらにしていた。ザトコはプロバイダの電話番号と
大会事務局のID番号、そして大切なパスワードを教えてくれた。
 私は早速ダイヤルアップ接続を設定して接続名を「クロアチア」とつけ、リターンキーを押した。する
とどうだろう、私のパソコン画面の地球儀が回り始め日本のホームページが画面に出てきた。のぞ
き込んでいた人垣からは期せずして、オオッ、と歓声があがった。
 インターネットに入りこめば、国境もシステムの違いも越えて地球上のどことでも瞬時につながる。
これはえらい世の中になったものだ。
 日本を出発して以来自分宛のE-mailをチェックしていなかった私は、大学に届いた数通のE-mailを
読んでクロアチアからその返事を送っておいた。

 大会が始まるとザトコは私が持参したデジタルビデオカメラに目を付けて、レースの模様を撮影して
画像をインターネットに載せる仕事をしてくれないかと言ってきた。彼らはテレビ向けのビデオ取材班
と新聞向けのカメラマンを手配していたが、インターネットに載せる画像をどうするか決めていなかった
らしい。かくして私は急遽大会所属のプレスに変身し、アドリア海のレース会場をプレス専用ボートで走
り回ることになった。これは日本チームに大きな力となった。私はプレスの仕事の傍ら、一方ではちゃっ
かりと海域の風のデータを集計し、それを即座に無線でコーチに伝えたからだ。日本チームの選手たち
は刻々と変化する風の傾向をタイムリーに把握することができたことになる。ヨットは風を読むことで勝
負が決まる。おかげで日本チームは、ヨーロッパ選手権史上初めて銅メダルを獲得することができた。
 
 私たちが滞在したスプリトは、ユネスコの世界文化遺産に登録されている美しい古都で、英国の作家
アガサ・クリスティーは二度目のハネムーンにこの地を選び、世紀の大恋愛で世界中を驚かせた英国
国王エドワード八世とアメリカのシンプソン夫人は恋の逃避行の滞在先のひとつにこの地を選んでいる。
大会をホストしたモーナ・ヨットクラブには、オランダ、ドイツ、デンマークなどから航海してきたヨットが
もやい、デッキの上には洗濯物が干され自転車三台をしばりつけている船もあった。ヨーロッパの人々
にとっても一度は行ってみたいリゾート地なのである。九人乗りのルノーのバンをチャーターしていた私
たちはレースが終わるとよくドライブをしたが、驚いたことにモーナ・ヨットクラブのように美しいクラブハウ
スとハーバー、レストランをもつヨットクラブが至るところにあり、三十分のドライブの間に八つもあった。

 ボスニア・ヘルツェゴビナとの国境である石灰岩の岩肌が露出したディナラ山地はレース海面からすぐ
近くに見えた。スプリトからわずか四十キロしか離れていない。あのサラエボまでもわずか百六十キロで
あった。今なお二百万個以上の地雷が残るボスニア・ヘルツェゴビナにドライブして行くことはできなかっ
たが、ある日その山の向こうから白い煙が雲のようにわき上がったときは、ザトコとミランダのみならずク
ロアチアのスタッフは厳しい表情で煙の様子を見あげていた。いまわしい戦闘の恐怖がもたらした彼らの
表情だと私には見えた。(ザトコは海軍の軍人であると後に知った)

 クロアチアとスロベニアが旧ユーゴースラビアからの独立を宣言したのは一九九一年六月で、その時か
らクロアチアと旧ユーゴ連邦軍との戦闘が激化した。現在広島市立大学に付属する広島平和研究所の所
長をしている明石康氏が、国連事務総長特別代表兼国連保護隊代表としてクロアチアのザグレブに着任し
たのはその三年後の一九九四年一月だった。今から考えると私にも思い当たることがある。一九九三年の
夏、北アイルランド、ベルファーストの大会に参加した私は、パーティー会場へ移動するバスの座席でスロ
ベニアチームの監督、コーチと隣り合わせた。偶然にも彼らとはディナーの時もテーブルが同じで私たちは
名刺を交換したり小さなプレゼントを交換したりした。彼らは私に美しいカラー写真で紹介された「スロベニア」
という本をくれた。図鑑のように立派な本だった。そこには、山、渓谷、海岸、植物、動物などスロベニアの
美しい自然がいっぱい紹介されていた。中を見て、こんなに美しいの?スロベニアって、というと自慢げに
うなずいて名刺の裏に自宅のFAX番号を書き加えてくれた。あのとき彼らは戦闘が続く国情の先に明る
いものが見え始めた時だったのだ。だから「ヨーロッパ選手権」という国際大会に「スロベニア」として出場
してきていたのだ。彼らはその本を十数冊も持参して各国の代表にプレゼントしていた。しかもその時す
でにスロベニア政府は四年後の九七年に「ヨーロッパ選手権」をホストする準備を整えており、そのため
の印刷物も配ってアピールしていた。彼らとはその後、トルコのイスタンブル(九四年)でもフィンランド
(九五年)でもまたクロアチアでも再会した。

 外務省の外交青書を見ると一九九五年八月四日クロアチア政府軍はクライナを攻撃し二日後にクラ
イナ全域を制圧している。ちょうどこの時私はフィンランド、オーランド島マリエハムのバルト海の船上に
いた。木造ニス塗りのバイキング船にはイタリア、スウェーデン、ポーランド、チリ、アメリカ、ニュージー
ランド、南アフリカなどの国に混じってクロアチアの三人がいて熱心に選手のセーリングを双眼鏡で追っ
ていた。この年クロアチアは初めて「世界選手権」に参加してきていた。三人とも一九五センチの大男
だった。初出場とはいえクロアチアの選手のセーリングはすばらしく彼らはレースのたびに歓声を上げ
て順位をメモしていた。デッキ上の見やすい場所には全員が移動するからそこは大混雑するが彼らは
ひときわ背が高いのにいつもベストポジションに陣取っていた。ときたま振り返って済まなさそうな表情
で入れ替わってくれたが、そのときは日本選手の順位もチェックしていて私に教えてくれた。今から考え
ればこの時の彼らもクロアチア政府軍が攻撃をしかけたというニュースに心を痛める一方で、「世界選
手権」に選手団をつれてきたという明るい使命感に燃えていた時期だったのだ。その三年後には大会
を開催するホスト国として私たちを招待してくれたのだから、彼らの力には驚く。しかももっと驚くのは単
に国際舞台に登場したのではなく、その成績のすごさである。九五年の世界選手権では銅メダル、九八
年の世界選手権(ポルトガル)でも銅メダル、そして今回のヨーロッパ選手権では堂々と金メダルを獲得
してしまった。
 これはヨットの世界での話だが、サッカーワールドカップでも日本はクロアチアにかなうわけはなかった
なあと思う、底力の差は気が遠くなるほど大きい気がする。
 年末に嬉しいメールが舞いこんできた。
Happy new year !!!!!」「Merry Christmas, Happy new year and lot of nice and fun
sailing in 1999 !!」
差出人は「Zlatko, Miranda and Sailors and crew from JK"MORNAR" Split , Croatia」だった。

旅先のオッズandエンズ アルコール、インタビュー、お茶とティー


 旅先のオッズ&エンズ    (『国文学報』第43号 2000年3月 71-72頁)

 旅先のオッズ&エンズ
             

      アルコール 

 カラチの十月は三十四度の猛暑だった。アルコールが禁止されたイスラム世界で、
お酒は禁断の木の実だ。帰国の前夜、宿泊先のやどや全体に緊張が走った。ある部
屋のテレビが壊され、床のジュータンの下からビールの空き缶をつぶした残骸が何十
個も発見された。その部屋にいたのは同じイスラム世界のマレーシアからの青年四人
だった。
 別の部屋にいた年輩のマレーシア女性ワサナは、事態の深刻さを興奮して話した。
マレーシアではお酒の甁に触れることも許されない、タッチしてもダメ、酔った勢いでテ
レビも壊したんだわ。ぞくぞくとその部屋の前に集まったパキスタンの従業員の男たち
は、不思議なことにマレーシア女性と当の四人よりも青ざめた顔をしていたのはなぜな
んだろう。

      インタビュー

 地元のプレスからインタビューを受けたときだ。優しい目をした二十代の新聞記者
ラジャさんは、パキスタンに来るのは初めてか、どんな選抜を経て日本から来たのか、
パキスタンに着いたときの印象は、気候はずいぶん違うのか、滞在してみてどうか、
パキスタン料理は好きか、パキスタン国内をフリーチケットで行けるとしたらどこへ行
きたいか、日本に持って帰るとしたら何を持って帰りたいか、などと聞いた。とびきり辛
いカレーが好き、ラクダがいい乗って日本まで帰りたい、民族衣装を着てみたい、こん
な答えはとくにラジャさんを喜ばした。
 写真入りで出た翌日の新聞を見て思わずうなった。どんなことが好きか、と聞かれた
とき、一行のKeikoは、学校から帰って家で寝るのがいちばん、と答え、Yasushiは、
友だちと一緒に遊んでる、と答えた。
 翌日の新聞には、
 Keiko: I like to sweep the house.
Yasushi: I like to pray with friends.
と書かれていた。とくに目的をもたず、なにかと茶化すことが常となった日本の若者の
答えは、「ねる」「あそぶ」だったが、それが家をほうきで掃き、友だちと一緒にお祈りを
することに化けていたのだ。ラジャさんはどうりであのとき、うれしそうな顔をしてメモをし
ていたわけだ。期待どうりの答えを引きだした自分のインタビューにニンマリしていたの
だ。イスラムの世界の若者と日本の若者の世界がすれ違ったまま交わることがなかっ
た瞬間だった。わたしの英語のせいじゃないぞっと。

      お茶とティー

 アジアではお茶のことをみんな同じような呼び方をする。中国と日本はもちろん「茶」
といい、インドやパキスタンでは「チャイ」だし、トルコでも「シャイ」という。ややとんで
ポルトガルも「チャイ」だ。中国語の「茶」ということばが茶の葉とともにアジア全域と
ヨーロッパに伝わったことがわかる。だのに英語でティーというのはなぜだろう。
 福建省のアモイ廈門や広東省のスワトウ汕頭では「テー(te)」といい、福建省のザ
ンピン(さんずい偏・章平)では「ティア(tia)」永春では「ティエ(tie)」という。英語のtea
は実は中国語だったのだ。どうやらお茶のことをいう呼び方で、中国語の「茶」とい
うことば以外の呼び方は、この地球上に存在しないらしい。

2013年3月17日日曜日

たいのさこ薪割り 2013.2.3

薪割り


今から山へ 巣を作るとき左人差し指を大型カッターでざっくり
ヒビノで6針

温泉津温泉 沖泊海岸 モモ 2013.3.16

温泉津温泉は 土曜日でも ゆったり
温泉街の通りには 遊ぶこどもたちが 走り回っています
モモを見つけて ワッと 取り囲む

温泉津温泉の子供たち モモもこどもずき