2007年11月26日月曜日

鞆の浦 埋立架橋計画への意見書

対潮樓
鞆の浦 埋立架橋計画への意見書を作成送付 『鞆の世界遺産実現と活力あるまちづくりをめざす住民の会』を支援する会(横浜市青葉区 http://tomonoura-net.jp)への支援活動(2007.11.26)

意見書
 鞆の浦は江戸時代の漢学者にとって一度は訪れなければならない重要な土地でした。朝鮮通信使の寄港地であるこの地を訪れた主な漢学者に、菅茶山、北条霞亭、頼山陽、広瀬旭荘、篠崎小竹、中島棕隠などがおり、鞆の浦の美しさと鞆の浦で集う楽しさや鯛網のにぎやかさを漢詩文に残しています。
 たとえば、菅茶山は「対潮樓」「靹の津より還りて途中にて作る」「白石島にて鯛網を觀るの記」「十七夜同じく対潮樓に登り分ちて仍の字を得る」「鞆繪」「鞆浦石塘記」の詩と文を残し、北条霞亭には「対潮樓にて立敬を寄懐す」「鯛網行」「舟にて阿伏兎の巖下を過ぎ風浪にて岸に上る能はず忽ちにして憶ふ去年三月弟立敬と此に遊び名を石壁に題して去りしを」があり、頼山陽には「対仙醉樓記」「対潮樓」「鞆の津」「鞆を発し菅徴卿の諸人送りて仙醉山に至りて別る」「鞆より陸に上る」があり、広瀬旭荘には「鞆の浦」「鞆を発す」「晩に泉水寺に登る」などがあります。
 また森鴎外の名著『北条霞亭』に登場する鞆の浦には、
「僧月江の文政己卯(二年)五月八日に鞆の浦に来たと云ふ事も亦六月朔の霞亭の書に見えてゐる。『先月(五月)八日月江長老対州より帰帆順風の処、鞆浦へつけられ、人被遣候故、昼後より小生も竹輿にて罷越、其夜は舟中にて饗応にあづかり、翌日(九日)は対潮楼の隣寺をかり受置酒終日談話仕候。釣首座、承芸など、其外僧徒五六人居申候。対馬より送船、三百石位の人附来候。医者なども被添候。以上舟四艘ほどにて、おもきとりあつかいなるものに候。足下(碧山)御噂等もいたし候。長老随分壮健に候。色々朝鮮の品土宜にもらゐ候。十日は弘道館出席日故、其夜福山迄帰申候。定而長老は最早帰山と被察候。』」(その百二十四)
とあります。対馬からの僧月江を迎えた北条霞亭が、神辺より鞆に出向いて、鞆の港に停泊する舟の中の宴席に連なり、翌日は対潮樓の鄰の寺で終日置酒談笑し、朝鮮の品をもらったというわけです。
 江戸時代の文化は世界で最も高いレベルにあります。その文化は鞆の浦の水面に、天空の月が倒影するように映っています。
 海岸が埋め立てられて、人工公園が作られ、整備された道路が通って、海上に橋が架かり、コンクリートの壁が海を横切る。このどこに、江戸の文化が倒影する場所があるでしょうか。埋立架橋計画は、江戸の文化と鞆の商人町人のすべてを、コンクリートの下に薄い紙一枚のように押しつぶしてしまう計画です。
        (久保たくや)