2017年1月24日火曜日

中外日報1931年2月17日「福州鼓山で夥しき古版木を発見し 印刷して日本へ寄贈」

中外日報にこの記事があると教えてくれたのは内山完造である。
その著『上海霖語』と『上海夜話』に、『華厳経疏論纂要』について

  後に中外日報紙上でこの事を読んで知ったのだが

  當時の中外日報にはその模様が報じられて居った

と記している。

中外日報社は京都にある新聞社で、120年の歴史をもつ

宗教文化専門紙として120年の紙齢を重ねる。タブロイド判12頁の新聞を毎週2回(水、金)と月2回、8頁の土曜版を発行している。宗教を中心として、政治、文学、芸術、産業その他内外の諸方面にわたる幅広い報道・論評と話題の提供で躍動している。
紙面内容は、日本宗教界の政治(各教団の運営、教団連合機関の運営)、教学(宗学、仏教学、宗教学)、教育、布教、宗教関連産業(社寺建築、法衣、仏具等)、出版、芸術・文化、スポーツ、健康、行事(式典や催しもの)、また海外宗教界、宗教界と関係の深い国政、内外の宗教ニュース、解説、評論、学術論文、随想、詩歌、投稿(読者の声)等の掲載。(中外日報社HP)

内山完造が読んだ 「當時の中外日報」の記事


中外日報 昭和6217日 第二面
「福州鼓山で夥しき 古版木を發見し 印刷して日本へ寄贈」

支那福建省福州の弘一法師は數年前には「四分律比丘戒相表記」なる著述を
石版にて印刷して知友の間に頒布した篤學な人であるが、此頃はまた道霈禅師の著書「華嚴經疏論纂要」(信解行燈四部各十二冊宛)計四十八冊一百三十卷の板木を福州鼓山湧泉寺の法藏より發見したので、之を福建特の紙を以て印刷し最近上海内山書店の手を通して日本の東京帝大、京都帝大、大正大學、東洋大學、駒澤大學、立正大學、高野山、比叡山延暦寺、法隆寺、上野寛永寺、大谷大學、龍谷大學の十二ヶ所へそれぞれビール箱に詰めて發送した。此の板木は昨年三月弘一法師が蘇慧純居士といふ東京の美術學校卒業の書家と二人で鼓山に詣でた際に偶然に發見したものであつて、前清康煕十八年西暦紀元一六七九年己未の九月刋刻せられたもので、今日迄に二百五十一年を經過し支那現存の古經版中最古のものであるといふ。從來は北京清室の龍藏の雍正年製の版木を最古としてゐたのであるが、茲に更に之を抜いて古いものが出て來た譯である。そこで一寸本書の著者の經歷を調べてみると、

道霈禪師に就て

道霈禪師は清初の曺洞宗鼓山派の大學者で天台華嚴の兩學に通達しその著述に富める事、清代の詞宗随一と稱されてゐる。道霈は字は爲霖、建安の丁氏の子、年十四にて出家し、十八には諸方に參じ諸講肆を歷して後に鼓山の元賢に參じて庭前柏樹子を看たが三年間は悟入する所が無かつた、そこで辭別して兩浙に出遊し、復た鼓山に歸つて維那に充てられた、ある日師と回答し呵せられて出で、一夜不安、四鼓に至つて簾を巻いて門を出でて忽然大▲したといふことである。此れより玄真を▲▲し▲合せざるなきに至つた。元賢年八十に及んで大法を彼に附属したので寂後は共の法席を継承した。それより鼓山に住すること二十餘年海内の▲▲となり東南の一大法窟として認められた。著書に「佛語録」「餐香録」「聖箭堂述古」等があつて世に行はれてゐるが、此外に▲疏方面の述作が又澤山あり、「仁王般若經合疏」を始めとして、年七十歳の時に此の「華嚴經疏論纂要」一百二十卷を編纂し、年八十歳に及ばんとして復た「法華經文句纂要」七卷を著してゐるが、其序文中に、「少年にて行脚し、嘗て講肆に歷し、台賢性相之旨は其綱領を得、後に禪に入つて専ら參究を事とした」が晩年再び研鑚を加ヘ「首として華嚴を事とし、次で法華を事とす」と自ら言ふてゐるから、道霈は華嚴が最も得意であつたことが分る譯である。此外「心經請益記」「四十二章經指南」「佛道教經指南」「潙山警策指南」各一卷を著してゐる。而して今回新發見の版木によつて印刷されたる華嚴の纂要は五台山清涼國師澄観の疏鈔と太原方山長者李通玄の論との精要を採り意義の合致せざる處は之を折衷して本書を成就したものである。本書は久しく流布せず遇々一昨年北京の書肆に舊印本一部が現はれるや學者競ひて之を獲得せんとしたが、遂に徐文蔚居士が巨金を以て購得して、之を視ること拱璧の如く珍蔵してゐるといふことである。
(▲表記は判読困難の字)