2016年2月19日金曜日

現代女性文化研究所ニュース42「周作人が林芙美子に宛てた書簡」2016.2.18



「周作人が林芙美子に宛てた書簡」

 二〇一五年は周作人に関する重要な発表が二件あった。一つは周作人の孫の家に日本人から届いた書簡約千四百通があったということであり、もう一つは周作人が林芙美子に宛てた書簡があったということである。この周作人の書簡については全文を紹介した論考が画像とともに公開された。
 日本人書簡千四百通の報道は三月二十五日で、朝日、毎日、東京、東奥日報等全国紙と地方紙とが一斉に伝えた。三百六十八名の日本人のなかには、島崎藤村、相馬御風、谷崎潤一郎、武者小路実篤、志賀直哉、里見弴、梅原龍三郎、秋田雨雀、長与善郎、倉田百三、草野心平、田村俊子、福田恒存、豊田穣等の作家、詩人があり、狩野直喜、宇野哲人、塩谷温、服部宇之吉、青木正児、倉石武四郎、実藤恵秀、奥野信太郎、吉川幸次郎、目加田誠、松枝茂夫、小野忍、小川環樹、竹内好、長澤規矩也、小竹武夫、仁井田陞、沢潟久孝等の学者があり、山本實彦、内山完造、神崎清、そして望月百合()等のいずれも書簡の内容を知りたく思う日本人の名がある。(顧偉良「日本の各界人士による周作人あての書簡人名リスト」www.hirogaku-u.ac.jp/pdf/list3.pdf)弘前学院大学の顧偉良氏からは、著作法などにより現時点では提供できない、遺族との間でも共通の認識がある、との回答が寄せられた。内容を知るためには顧偉良氏の今後の研究成果の発表を待つよりほかはないようだ。その日が早く来ることを願ってやまない。

 周作人が林芙美子に書いた書簡があるという発表は驚愕と衝撃に満ちたものであった。そのような書簡があるとは夢にも思わなかった。木山英雄先生が『周作人研究通信』第3号(六月八日発行)に発表された「[資料紹介]林芙美子遺品中の周作人書簡」がそれである。そこには東京「新宿歴史博物館」の二〇〇三年当時の学芸員がゼロックスで複写してくれたという書簡の画像が封筒の裏表を含めて紹介されていた。書簡の文面の解読と年次の考証及びその背景を分析した論考は、周作人研究の泰斗である木山先生以外の他の誰にもできないもので、文章は示唆に富んで奥深いものであった。
 中国語で書かれた周作人の全文は次のようなものである。「拝啓 先ごろ和田さんが見えて、御状拝誦、併せて尊著も有難く頂戴しました。この前北京でお目にかかってから慌ただしくも数年、世事はたいそうな変わりようで、おそらく感慨は御同様でしょう。小生いまだに当地に留まってはいますが、さりとていつまで居れそうにもなく、離れるとなれば、やはりほかへ往くしかないでしょう。まずは取り急ぎお礼まで。 林芙美子様 周作人啓上 四月十一日」(木山英雄先生訳)
 木山先生は、「和田さんが見えて」、「尊著を頂戴」、「この前北京でお目にかかって」という表現の林芙美子にまつわる事柄への考証と、「世事はたいそうな変わりよう」、「いまだに当地に留まる」、「いつまで居れそうにもない」、「離れるとなれば、ほかへ往くしかない」という周作人自身の感懐表現を捉えた上で、抗日期の周作人が「いちいち身の振り方に苦しまねばならぬ局面に満ちていた」と分析し、その年次を追った事例を具体的にあげて考証しておられる。
 だがこれで終るのではない。先生の論考は驚くべき事実を明らかにする。周作人の書簡が、現在は所蔵元の新宿区立新宿歴史博物館に存在しないというのだ。なんだと?どういうことだこれは。
 「林芙美子展」が同館で開かれた二〇〇三年十月の記念展より少し前、業を同じくする士と共に同館を訪れた先生は周作人の書簡を確認し、当時の学芸員が作ってくれた書簡のコピーを持っているという。だがどういうわけか同館が二〇〇四年三月に作成した『林芙美子資料目録』には記載がない上に、二〇一五年六月の執筆にあたり事前に同館に問い合わせたところでも、当時の学芸員はもう離職していて、現在の学芸員もまた周作人の書簡について要領を得なかったという。つまり書簡の所蔵を同館は認識していないということになる。紛失したのかもしれないし、書庫の奥に眠ったままなのかもしれない。いずれにせよ同館のこのような実態に愕然としたのである。
 木山先生は言葉を選びつつ「新宿区民でもない身で騒ぎ立てるつもりはないけれど、このままでは事実そのものが抹消されることになる」、「物件の保管機関がどう扱ってくれるかは不明ながら、林芙美子遺品の内に証拠の写しだけでも遺しておくのが筋だろうと思っている」と自らの忿恚を抑える表現を用いて書いておられる。
 この論考の掲載誌はウエブサイトで公開され、以下のURLからダウンロードすることができる。(http://home.netyou.jp/88/iton/zhouzuoren3.pdf