2017年10月4日水曜日

「日記」 『国語の表現』学術図書出版社 

「日記」

 夏目漱石は『吾輩は猫である』の中で日記について猫にこう言わせている。

 第一日記などという無用のものは決してつけない。つける必要がないからである。主人の様に裏表のある人間は日記でも書いて世間に出されない自己の面目を暗室内に発揮する必要があるかも知れないが、我等猫属に至ると行住坐臥、行屎送尿悉く真正の日記であるから、別段そんな面倒な手数をして、己れの真面目を保存するには及ばぬと思ふ。日記をつけるひまがあるなら縁側に寝て居る迄の事さ。

 ここには、日記とは世間に出すことができない心中の真相を、日記という暗室の中で人知れずに吐き出すものであると言っている。また、猫とは違ってそれを書かざるをえない人間の因果な宿業を漱石はあばき出してもいる。魂を告白し自己を凝視する鏡のごときもの、それが日記であるということだ。

 日記をいかに書くか。漱石の日記のようにきわめて簡単に心覚えを箇条書にする書き方もあるが、青年期の日記というものは、自己表現欲にかられて書く思索的なものが多い。
 次のは、詩人中原中也の二十歳の日記。つけ始めた日からのものである。

 一月十二日(水曜) 向上するのは性格ではない、道徳だ。心懸けとしては道徳しかない。(質実であればよいのだ)
 一月十三日(木曜) 頭の悪いということだけが罪悪だ。(恐らく地上最後の言葉)
 一月十四日(金曜) 恵まれてゐるといふ。いかにも不公平なやうだ。だって恵まれた者は恵まれているだけ好いことをし、恵まれてない者は、恵まれてないだけのことしかしてはゐないではないか。
 一月十五日(土曜) 天才だけが好いのだ。あとは何といっても大同小異なのだ、それに過ぎないのだ。
 一月十六日(日曜) こんなにがちゃがちゃの時代に、專門的にばっかり勉強している、好い芸術家ってものはゐない。

 大岡昇平は中原の日記を「時々詩のようなリズムと区切りを持っているのが特徴である」と言う。

 次は朝日新聞の「天声人語」を執筆していた論説委員深代惇郞の大学時代の日記である。

 三月十八日 晴 十時起床  今日から彼岸の入り。何ものかを求める情熱を失ってはならない。或いは、何かもっと真実なるものを求めよというべきかも知れない。学ぶ情熱を失ってもよい。恋の情熱を失ってもよい。若しその人が自分の生命以上のものを見つけたのなら。全生命を投げ出しても守り抜くような価値を探す人、見いだした人に、僕は無条件に頭を下げる。その価値は愚かなものであるかも知れぬ。しかし、僕の問題とするのはすべての人格であって脳の重さではない。賢い人が如何唾棄すべき多くのものを持っているか。そんな例を幾度見てきたことか。「生きる」とは真剣に放浪し、探し、見つけることに外ならぬ。社会と馴れ合いにならぬ事。自分に又、忠実であること。これが<青春>の貴さであろう。それは決して年齢の問題ではない。
 四月二十六日 晴 寒し 十時起床  女は行動に論理を持たない。女は嘘つきである。女は虚栄が生来的に強い。女は残酷である。女に対する呪詛は数限りなくいわれて来た。しかし、彼等は男と女が違うという当然の事を忘れていたのではないだろうか。人を美しくさせているものは決して德だけではない。女を美しくさせているものは或る時は虚栄であり、或る時は嘘である。女の德は人生を楽しくさせる事にあり、それが女の德であるならば、女性の嘘や虚栄や非論理性は呪詛するに当たらない。女性にとって美ほど貴いものはない。丁度、男性にとって力ほど貴いものはないように。美と善とを結びつけようとする誤った考え方が多い。範疇が異なっている。誰が女性の、あの悪徳の美しさを否定し得るだろうか。

 中原のは毎日つけたものであり、深代のは随時つけたものだが、ともに青年期の思索の深まりを、抑え切れない自己表現欲にまかせて日記にぶつけた情熱が伝わってくる。
 日記の一番の効用は、悩みの解消に役立つことである。悩みを頭の中で考えるだけでは、同じことを何度も繰り返し思うばかりで、解消の糸口をつかめないまま、ますます不安になり不愉快になり困惑することになるが、日記につければ文字を書く速度は考えめぐらす速度よりはるかに遅いのが普通であるから、文字を書き連ねながら相手の立場、自己の感情、第三者の意見等、幾重にも思索を深めることができ、書いているうちに絡まった悩みが解きほぐされてくる。水中でもがく自分を水の中から引き上げてくれるのである。それはまた、事態を客観的に見つめる習慣を身につけ、精神生活を向上させることにもなるのである。
 ここで最近朝日新聞に掲載された廣島縣の高三女子の文章を紹介しよう。

 私には彼がいます。友人の紹介でつきあい始めてもう六カ月がたちました。彼は私と同じ高三です。彼とのつきあいは、三日に一度の電話で一時間ほどお話するのと、約一カ月に一回、私の家へ遊びに来るくらいでした。彼の友人も一緒に来て、ゲームをしたりして、わいわい騒ぐような関係でした。私は彼とのそんなつきあいに十分満足していました。とっても幸せで、彼の事が大好きでたまりませんでした。で、この間、彼が電話で「おれの家にも遊びに来い」と言ったので、ためらうことなく翌日、彼の家へ行きました。彼の家には、だれもいませんでした。私は緊張しましたが、いつもの様に話をしていると、そんな気もどこかへ行って、とても楽しい時間がすぎました。冗談を言ってる内に、じゃれあいになり、クッションでたたき合ったりしている内に、急に強い力で腕を引っ張られ、抱きしめられ、押し倒されました。
 私はびっくりして、半分泣きながら叫んでいました。彼もその声で我にかけったのか、私の体から手をはなしました。私は強い口調でののしり、けんかをして家に帰りました。つきあいだしてはじめてのけんかでした。彼が電話をしてきてくれて、長い間、話し合いました。彼は今まで思った事、考えた事、そして今思っている事を真剣に話してくれました。彼が言うには、彼は私と体の関係をもちたいのだそうです。今まで何度かそういうふうに思った事はあったけれど、我慢してきたと…。ショックでした。
 彼の家であった事は、彼が全面的に悪いとは言えません。私もあまりに無神経だったし、反省しています。でも私は、彼と体の関係はもちたくありません。そうなれば、いつかわお互いにあきが来て、別れてしまうのではないか、そして再びあう時に笑顔であえないような気がする。私は彼にそんな考えを伝えましたが、彼はあまり納得してくれませんでした。今では前のように話をしていますが、私の心の中で何かがかわってしまいました。
 彼から逃れようとする気持と、私だけが本気で彼は遊びでしかなかったんじゃないかという疑いが、毎日生じています。私はどうしたらいいのか、高三にもなって自分が判断できないのがなさけないけど、本当にわからないのです。彼が本当に好きなんです。こんなに人を好きになったのは初めてです。彼とわかれたくありません。でも体の関係をもつ事もいやです。男の子と女の子の心理は、ちがうとも思います。本当に悩んでしまいます。

 これは新聞への投稿だが、自発的に書かずにいられなくなって書いた、公開を意識した日記と言える。悩みと感情の正体は自身にもまだ把握されていない。だがその過程を伝える筆力があり、読者の共感を呼ぶだけの力ある文章となっている。

 日記は、また、文を書くおもしろ味を味わい、気軽に書く習慣をつけ、漢字、文字の筆記力と、用字用語の表現力を養うことができる。したがって文を書き慣れない人が日記をつける効用は大きい。
 日記を長く書き続けるにはどうすればよいか。森鷗外の日記を見てみよう。

 大正二年十二月十九日(水) 晴。 痢を病みて、午後退衙す。
        二十日(木) 雨。 休。
        二十一日(金) 雨。休。
        二十二日(土) 陰。時々雨ふる。 休。
        二十三日(日) 陰。
        二十四日(月) 陰。 小金井良精来訪す。休。
        二十五日(火) 晴。休。 本堂恒次郎来訪す。
        二十六日(水) 晴。休。

 「雨」「時々雨ふる」「休」の記述の中に、腹下しで体調を崩した鷗外が、午後を早退した後、陰うつな冬の空模様の中、一週間あまりもしっと静養している様子がうかがえる。このように、書くことがなければ天候や断片的な単語を並べるだけでよい。それだけでも日記は多くのことを物語るものなのである。

「随筆」 『国語の表現』学術図書出版社 

「随筆」

 随筆とは何か。中国宋代の人、洪邁はその著『容斎随筆』の中でこう書いている。

 私は生来なまけもので読んだ本も多くはない。気持のおもむく所に従ってそのまま書き記し、内容のあとさきも書いたままにして、改めて整理し直しはしない。だから名付けて随筆と呼ぼう。
(序)

 本当は全十六巻にも及ぶ大部な書を、謙遜してこう言ったのだが、随筆という言葉の概念がよく分かる。つまり、折にふれて心に感じたことを、そのまま素直に書き表したものが、随筆であるということだ。それだけに、書き手の感情や知性、個性的な物の見方や、独特の体験、といった人間味が強く表れる。だからまた、随筆とは、その底に書き手の人間性が流れているものとも言えよう。したがって、随筆を書く場合は、肩ひじ張らずに、心に浮かんだことを、そのまま素直に書く姿勢が大切で、自己の感想や感動を主とした主観的な筆致で書けばよい。
 次の例は、大学二年生の女子学生が授業中に書いた「テッセン」と題する四百字随筆である。

   テッセン
 私の家の庭に「テッセン」と呼ばれる花が咲いた。もっとも、私の親がそう呼んでいるのであって、正式の学名でどう呼ぶのか知らないし、知ろうともしない。春の陽の中でたくさんの光を浴びて、うす紫の花が咲き誇っていた。その中に、突然変異か花のきまぐれか、花びらの形の変わったものが三つあった。それは、とても変わっていて、虫にでも食べられたかと思わせるようなギザギザの形をしていた。そんな花たちが、さほど水も与えないし手入れもしない私の家に長く咲いている。よく生き延びているものだ。
 人間の中にも、他の人と少し毛色の変わった人がいる。「凡人」という人は本当は世の中にさほどいないと思う。人それぞれが独特の味を持っていて、それが、周りから見ると変だなとも思え、またおもしろくも思えるのだ。そして、なごんだ気持になりさえもする。そういう集まりであるから、人間というのはおもしろいのである。

 自分の主観をもとに素直に書いていて、女性らしい視点のこまやかさと優しさがよく表れており、思いを人間の個性に及ぼした点で文章を引き締めている。これは四百字という字数だが、一般に随筆は長くならないように短くまとめた方がよい。
 次は更に短く二百字ちょうどにまとめた大学二年男子学生の「みず」という習作である。

    みず」
 どんな形にもなじみ、嫌うことのないみず。もし、みずに心があるなら、どんな物でも包み込む大きな心であるにちがいない。たえまなく流れ、時には激流となり、また時には、静流となって、流れている。まるで人生ではないか。苦しみがあり、そしてまた楽しみもある。そうさ、私はどんな時にも、何事も包み込むことのできる人間、心の大きい広い人間となりたい。みずのような心。冷たいなんて感じるが、逆に温かいものである。

 むずかしい用語やひねくった言いまわしを使わず、書こうとする構想がはっきりしており、個性的な観点と表現が見られていい文章に仕上がっている。短く、平易に、個性的にというのが随筆の要点である。

 これらはやや真面目な雰囲気を持った例であるが、随筆は、深刻ではなく気軽に読めて、どこかにウイットやユーモアが感じられることがまた一つの特徴として歓迎される。次のは慶応大学教授であった池田弥三郎のことを書いた、国語学者金田一春彦の随筆「池田弥三郎とオウム」である。

    池田弥三郎とオウム
 この間亡くなった池田弥三郎君の話術は天賦のものだった。材料もいいが、扱いもいい。創作の部分もあるのだろうが、どこまでが事実なのか、継ぎ目を感じさせなかった。
 ある日私の知り合いの小鳥屋の主人が、私を訪ねて来た。聞けば自分の息子を慶応の幼稚舎に入れたいと言う。先生は慶応の池田先生とは別懇の間柄と承知している、ついては私の子どもをお願いして頂けないか、と言うのである。そうしてこれは御挨拶のしるしだと言って、立派な錦鶏鳥を一羽、かごに入れて持って来ていた。錦鶏鳥はかねがね私が欲しいと思っていた鳥である。小鳥屋の主人はそういう私の下心を見すかしたのだろう、これは雄鳥です。もし成功したら、雌も持って来てつがいにして上げましょうと言う。まだ入学情実のやかましくない時代のことである。私は紹介だけはしてあげようと約束した。小鳥屋さんは大いに喜び、それではあすにでも池田先生を訪問したい。何を持っていってお願いしましょう、と、揉み手をして待っている。私は、池田君はお金を受け取るような人ではない。しかし、鳥ならばあるいは受け取るかもしれない。と答えてから「そうだ、オウムでも持って行ったらどうだろう。池田君は忙しい人だから、オウムに“オネガイシマス”というセリフを教えこんでおいて、そのオウムが池田君の顔を見るたびに“オネガイシマス”と言うようにしておいたら、池田君も忘れないで努力してくれるかもしれない」と、これは半分冗談の気持で行って帰らせた。小鳥屋さんは私の言葉をそのまま受け取って、オウムをその翌々日ぐらいに池田君にとどけたという。
 ここからあとは、池田君から聞いたところであるが、そのオウムは正しく”オネガイシマス””オネガイシマス”というのだそうである。小鳥屋さん、真剣になって教えたものらしい。ところが残念ながら、小鳥屋の坊ちゃんは慶応幼稚舎に入学できなかった。そこで私の家には錦鶏の雄が一羽、池田君の家には白いオウムが一羽、貰い物として残ったことになったのである。
 話はここからである。池田君によると、そのオウムは、一日中”オネガイシマス””オネガイシマス”と繰り返し叫んでいる。だめになったあと、そういう言葉を聞くのは苦痛である。そこで、池田君はオウムに「もう結構です」という言葉を言わせようと思った。で、オウムの籠の前へ行っては、モーケッコーデス、モーケッコーデスと言ってみる。ところが、オウムに言葉を教えるということは意外に難しいもので、いくら池田君がオウムの前でケッコーデスと言ってみても、オウムはキョトンとして池田君の顔を見守っているばかりである。そうして口を開けば、相変わらず、オネガイシマスを繰り返す。
 ところで、池田君は時に大きな咳払いをする癖があるのだそうだ。原稿用紙をひろげ、万年筆で最初の一字を書こうとするようなとき、大きくオッホンとやる。そうすると、調子が出てすらすら文章が書けるので、それがいつか習い性となってしまった。ところが、オウムが池田君のその咳払いを覚えてやるようになってしまったのだそうだ。それを実に巧妙にやる。池田君の留守にもそれをやる。てい子夫人が奥で家事をしておられると、池田君の書斎の方で咳払いの音がする。今日は大学へ行っているはずなのに……と思って書斎へ来て見ると、池田君はおらず、オウムが、どうだうまいだろうというような顔付きでこっちを見ている。忙しい時はほんとうに困る、あの咳払いは何とかならないかしら、と、池田君は夫人から泣きつかれたのだそうだ。と言って、オウムに新しい言葉を覚えさせるのも難しいが、一度覚えたのをやめさせるのは、さらに難しいことは、“お願いします”で経験ずみである。そこで、池田君は考えて、池田君がオウムに「咳払い」と言った時だけ、オウムがオッホンと答える、と言うようにしこんでみよう、と思い立った。それ以来、オウムを見ていて、オウムがオッホンと言いそうな時には、すかさず「咳払い」と言ってみる。オウムはそのたびに妙な顔をして池田君の顔を見ていたそうであるが、今度は逆に池田君の「咳払い」と言う言葉の方を覚えてしまったのだそうだ。
 それ以来、池田君の顔を見ると、オウムは“セキバライ!”と言う。そうすると、思わず、池田君の方でオッホンとやるようになってしまったが、そこまで話してから彼はこう言った。「これではどっちがオウムでどっちが遊ばれているのかわからなくなってしまった」
   (『現代』1982年10月号)

 肩がこらず気軽に読める筆致で、最後まで軽妙なユーモアにあふれている。そして、作者にはある種の心の余裕が感じられ、読む方も心楽しくなる。これは経験を重ねたある年齢に達しないと生まれない余裕なのかも知れないが、大学生の中には若くしてこういう筆致の文章を得意とする人が必ずいるものである。いずれにせよ、池田弥三郎のしゃ脱な人柄のみならず書き手の金田一春彦の人間味までもがよく表れている。
 随筆は、テーマとして人の心、人の反応、人間らしさ、人間味等どこかに人間を感じさせることを中心として描けば成功することが多い。
 また、いい随筆を書くための心構えについて言えば、一社会人として話題を豊富に持っていることが必要である。そのためには自らが何でも体験してやろうと積極的に、あるいは旅をし、あるいはボランティアをし、あるいは雑多のアルバイトをする等の気概を持つことが必要である。そして人の体験や考えをよく聞く耳を持つこと。中学生、小学生、幼稚園児と年齢が下がるほど自分のことばかりを喋って、人の話が聞けないものであるように、人の話をよく聞くということは実は高度な知的作業であることをよく知っておくべきである。そして、実際に書く場合には、自己の主観や感動、経験や出来事をていねいに再現して文字を書き連ねる粘り強い根気がなければならない。いかにくつろいで自由に語るのが随筆であるとは言え、ていねいに表現しようとする根気が強ければ強いほどいい随筆になるものなのである。

2017年4月21日金曜日

内山完造 白浜 京大臨海研究所 内海所長 紀伊民報 昭和32年5月21日

紀伊民報 昭和32年5月21日 2面

【中国と資料交換へ 白浜の臨海研究所と 内山完造翁が乗出す】
中国問題の権威、日中友好協会理事長、内山完造翁は先般田辺で講演を行い、聴衆に多大の感銘を与えたが、和大須川寛文教授、同協会村上県連理事長、橋爪局長らと共に白浜にある京大臨海研究所を訪れ内海所長の説明をうけたが、近海漁業の参考に中国近海の状況を知りたいと思い中国に照会したが、未だ資料が入手出来ない―との話をきき、内山氏に中国の郭沫若科学院長や政府要人とも知己があるので早速中国に連絡、資料を交換する事を確約した。
 これで中国近海の状況が分かれば漁業協定を結び参考ともなる訳であり、
 プランクトン研究では世界に知られている同研究所のこの交換での成果は
 大きく同県連が積極的にあっせんを行う事となった

内山完造 講演 田辺商工会議所 紀伊民報 昭和32年5月15日

紀伊民報 昭和32年5月15日 2面

【内山完造氏講演 日中友好協会理事長】
【動物の世界には革命は存在しない 物と心の二面を忘れるな】
日中友好協会田辺支部準備会では十三日夜田辺商工会議所会議室で日中友好協会理事長であり中国研究家として有名な内山完造氏を招いて講演会を開いた。以下は内山氏の講演の一部である(文責F記者)

中共には法律が五つしかない。憲法、労働法、工場法、婚姻法、徴兵法の五つであるが結婚は自由、恋愛-自由結婚と一夫一婦制度を基調としたもので中国五千年の歴史の中で中共によって始めて一夫一婦制度が確立されたのである
△毛沢東主席は「唯物論を研究する者は唯心論を読め、唯心論を研究する者は唯物論を読め」と言ったが物と心の二面である。日本人は半分しか考えぬクセがある。
△日本人が人の価値を判断する場合は家柄や財産などで決めるが、中国人は「王、候、相、将いずくんぞあらんや」で正か邪か、善か悪か、直か曲かの三つのハカリで人を判断する。蒋介石の国民政府は米式装備の三十九個師団を持っていたが十カ月の間にこれらは戦わずして中共側に寝返った。共産軍は正しい道理で国府軍を説き伏せて、その結果、寝返ったのである。強者は力で守ることができるが、弱者を守るのは正しさのみである。
日本は負けて弱者になっている、米国から使い古しの大砲や軍艦をもつて来ても駄目である。
△経済の根底は「最小の努力で最大の利益」と言うのは英国人の発明した言葉だと思うが、この最小の努力の蔭には謀略、策略、計略、商略が秘んでいる。かつては中国もこれをやったが、この結果は、五億の農民のうち五%の地主が五十%から六十%の土地を持ち、九十五%の農民で残りの土地を持つようになり、都会でも貧富の差が激しくなってしまった。そこで革命が起こって来たのである。革命は人間の世間のみにあって動物の世界には無い。革命は進化の鍵である。乱闘国会は悪いが、多数横暴で社会党に乱闘をやらした原因も考えねばならぬ。人間はサルから進化したと言うが俺は明日から立って二本の足で歩くと一匹のサルが宣言した時に大多数のサルは「我々は金甌無欠ゆるぎなく皇統連綿として四つ足で這って来ている」と聞かなかった。立って二本の足で歩き始めたサルは人間に進化したが、這い続けたサルは今でもサルである。良い事に変わって行くのが革命である支那には易姓革命と言う言葉がある。

【中共は三民主義 共産国家ではない ボロもうけの無い国】
△ローマの亡ぶは一日にして成らずと言うが中国の革命も一日で成ったのでない。孫文が革命を始めてから完成まで三十年かかった。孫文がハワイから帰って来た当時(清朝の末期)は全てが賄賂の時代であった。孫文は三民主義をかかげて革命運動に入ったのであるが三民主義とは次のようなものである。
 一、民生=みんな働いてみんなが食える
 一、民権=一人ひとりが権利を持ち義務を持つ
 一、民族=侵略せず、侵略されぬ
今の中共は三民主義の段階であり共産主義まで行っていない。中共は「最小の努力は最小の利益、最大の努力は最大の利益」でやっていると言ったら「ボロ儲けがないのやな」と言われたが、その通りである。骨董品屋でも「これは本物でいくらこれは偽物でいくら」と正札をつけて売っている。

【毛主席の月給わずか六五〇円 最低賃金は月五十円】
中共も一時は一錢のマンジュウが五万円、靴一足が四百五十万円と言うインフレになったが、コウフン制による生活物資(米、油、塩、木綿、燃料)の確保、貯金の物価とのスライド(貯金よりも物価が上がればそれに正比例して多く払い戻す物価が下がっても貯金した時の額を払い戻して行く)制度でインフレを克服し、新札に切替えてしまった。現在中共には一錢から五円までの札しか無いが毛沢東主席の月給は六百五十円、労働者の最低賃金は月五十円であり、月二十円あれば一人が生活できる所まで来た。日本はこれから、一万円札を出すと言うが、インフレは既に中国で試験済みである。

【中共貿易 米が狙う】
△中共では政治とは国民の希望する所に応えることだと言われているが、中共の六億の民衆は平和を希望している。日本は今、戦争と平和の岐路に立っているが,我々の道はハッキリしている。日本は今、米ソの戦略的要所にあるので国際価値が高いが、これを活かした外交をして米一辺倒から脱し、中共とも手をつながねばならぬ。米国は日本の眼を東南アジアに向けさし、その間に香港を通して中共との貿易を拡大し、確保しようとしている。六億の中共は大きな市場であることは、米国が一番よく知っている。



コラム 『蛙の声』

内山完造氏の講演を聞いたが近来にない名講演であった。革命は人間社会にのみあって動物の社会にはないとの説にも同感である。但し筆者は赤色暴力革命は大嫌いで合法的な青色革命か桃色革命が大好きだが内山氏も筆者の意見には同感であろうと信ずるものである。
△最小の努力で最大の利益をとの語句についての内山氏の話は、その話としてはその通りであるが、産業革命の立場から見るとオートメイションも最小の努力で最大の利益をあげようとするもので、それはあながち排除すべきものではなく問題は利益の配分(資本家と労働者と消費者への)公正化の如何にあろう。「乏しきを憂えず等しからざるを憂う」は政治の要所であるが、「豊かな富を等しく分ける」ことはそれ以上に必要であるから正しい意味での最小の努力で最大の利益と言うことを忘れては産業の進歩は後れるであろう。△とは言っても人口過剰の日本では思い切ったオートメイション化はできぬから問題はややこしくなるが生産性向上運動を利益の三者への公正な配分を条件として受け入れるだけの雅量がなければ中共を巡る貿易戦で米国や西独に押されるかも知れぬ。

内山完造 講演会予告 田辺 紀伊民報 昭和32年5月14日

紀伊民報 昭和32年5月14日 2面

【新しい中国 内山氏講演会】
日中友好協会準備会では十三日夜七時より田辺商工会議所に中国研究家として有名な内山完造氏を招いて、新しい中国について話を聞く

内山完造 田辺に来る 紀伊民報 昭和32年5月11日

紀伊民報 昭和32年5月11日 2面

【日中友好協会 内山理事長 來田】
日中友好協会、東京本部理事長内山完造氏が十三日来田、同協会紀南支部を結成することになったが、この準備委員会が十日夜七時から田辺商工会議所で開かれる

2017年2月17日金曜日

赤門前で見た大逆事件の号外 周作人の『知堂回想録』 大逆事件の真実をあきらかにする会ニュース54 2015.1.24

周作人が 赤門前で見た 大逆事件を伝える号外






赤門前で見た大逆事件の号外 - 周作人の『知堂回想録』-

はじめに


 魯迅と周作人の周氏兄弟は、ともに日本に留学した清国からの留学生であった。
魯迅は明治三十五(一九〇二)年に来日して東京の弘文学院で二年間日本語を学んだ後、仙台医学専門学校に入学した。
その細菌学の授業中に、日露戦争で日本兵が中国人を殺害する場面と、それを「見物に来た連中」を幻灯で見た時深い衝撃を受け、「彼らの精神を改造」しようと医学から文芸に転じたことはよく知られている。
明治三十九(一九〇六)年三月、仙台を退学して東京に戻った魯迅は、ドイツ語を学び、ロシア、東欧文学を読み、「摩羅詩力説」「文化偏至論」などの文学論を書き、周作人との共訳書『域外小説集』を出版して、文学活動を実践した。
七年間の留学を終えて帰国したのは明治四十二(一九〇九)年八月であった。したがって、大逆事件が起こった時、魯迅は日本にいなかった。

 一方、周作人は明治三十九(一九〇六)年に来日した。
来日した時は兄の魯迅と一緒だった。魯迅は仙台を退学して東京に戻っていたが、母の命に従い朱安と結婚するために一時帰国し、留学する周作人を日本に連れて来たのだった。

魯迅が下宿する伏見館(湯島二丁目)に周作人も下宿した。
翌明治四十(一九〇七)年三月に周氏兄弟は伏見館から近くの中越館(本郷区東竹町)に移り、この秋周作人は法政大学清国留学生予科に入学した。
その翌明治四十一(一九〇八)年四月には中越館から本郷西片町十番地ろノ七号に転居した。
ここは夏目漱石が明治三十九(一九〇六)年十二月から九カ月間居住した家で、許寿裳と周氏兄弟、朱希祖、錢家治たちは五人で住んだことから「伍舍」と名付けた。
この年の七月、法政大学予科を修了した周作人は、翌明治四十二(一九〇九)年三月、本郷西片町の下宿に住み込みで働いていた羽太信子と結婚し、四月には立教大学商科予科に入学した。
同年八月に魯迅が帰国した後は、翌明治四十三(一九一〇)年十二月、本郷西片町から麻布区森元町へ転居して立教大学に通った。
周作人が立教大学を退学したのは明治四十四(一九一一)年四月で、日本での留学を終えて信子夫人と共に故郷の紹興に帰ったのは、この年の秋であった。

したがって、大逆事件が起こった時、周作人は立教大学の学生として東京にいた。
しかも、幸徳秋水、森近運平、大石誠之助等十一名が処刑された一月二十四日に、周作人は東京帝大の赤門前を歩いていた。
そして号外を叫ぶ声を聞いて一枚を買い求め、手にした号外を見て愕然として立ちすくんだ。
 その事は、周作人が最晩年に執筆した『知堂回想録』に書かれている。
この自伝を周作人は、北京の八道湾十一号の自宅で、一九六〇年十二月から一九六二年十一月の二年間で書いた。
その後、一九六二年十一月三十日の「後記」と一九六六年一月三日の「後序」の執筆を得て『知堂回想録』が香港から出版されたのは、周作人の死より三年後の一九七〇年五月であった。
 『知堂回想録』は周作人を評論する多くの著作に引用されているが、全篇を訳したものはまだない。したがって、ここに訳した「大逆事件」の章は初めてお目にかけることになろう。

周作人が『知堂回想録』で記す 大逆事件


 前の文(「俳諧」の章)は一九一〇年十月に書いたのだが、当時はまだ本郷の西片町に住んでいたことを思い出した。そこに出てくる鈴木亭は西片町のはじにあった。そこは私たちがよく落語を聞きに行った寄席だった。

 十一月に私たち(私と妻羽太信子)はまた引越をして、本郷区から留学生が少ない麻布に移った。そこは芝区に近く、慶応義塾に通ってこそ便利な所で、次に立教大学にも便利だった。
だがその時は慶応に通う留学生はあまり居ず、立教には羅象陶がいた。
とはいえ私が立教に入った時、彼はもうそこには居ず、まだ留学中のはずなのにどうしているのか分からなかった。彼は龔未生と陶冶公の友人で、彼も革命に参加していたが、中華民国成立後は不遇であったと聞く。
私は以前、彼のために手紙を書いて、哀惜の意を表したことがあった。その手紙は陶冶公が持っているが、その文は、

「光緒の末年、私が東京の本郷に寓居していた時、龔未生君がよく訪ねて来て、老和尚と羅象陶のことを話題にした。蘇曼珠は龔未生について来たことがあったが、つくねんと座るだけで短時間で帰って行った。羅象陶はその時築地の立教大学で学んでいたが、私が一九〇八年に入学した時、羅象陶は既に他校へ転学していて、とうとう会わず終いであった。たちまちのうちに二十年が経ち、三人とも相次いで亡くなった。今日、陶冶公所蔵の羅象陶の書簡を開けて見て、思わず撫でずにはいられず、今昔の感に打たれた。羅象陶は、革命に努力したけれども「鳥尽きて弓蔵(しま)わる」(事が成功すると尽力した人も用なしになる)の諺どおりに死んだ。まことに悲しい。兼愛の人陶冶公も、片時も忘れられないであろう。民国二十三(一九三四)年三月十日。周作人、北京にてしるす。」

というものだ。

 私たちが転居した所は麻布区森元町で、芝公園と赤羽橋に近かった。
賑やかな場所へ行くには、芝園橋まで歩いて、神田行きの電車に乗った。
ほかには赤羽橋まで直通の電車があったが、遠回りをするので倍の時間がかかり、あまりそれに乗らなかった。
夜に散歩して古本屋を見て回った後だけは、乗るとまっすぐに家の近くまで帰ることができた。時間がかかったが、歩くのを省けたのでよかった。
だから辺鄙な所に住んでいたとはいえ、街へ出かけるには便利で、午後は本郷の大学(東京帝国大学)の前に行き、夕食後は神田神保町一帯で本を見るのが常で、遊惰な生活を送っていた
 しかし、この期間に一つの出来事に逢い、私は大きな衝撃を受けた。
それは明治四十四(一九一一)年一月二十四日の事で、丁度大学の赤門の前を歩いていた時だった。
突然、新聞の号外の叫び声を聞いた。
すぐに一枚を買い、手にして見て愕然となって立ちすくんだ。
これこそまさに「大逆事件」の裁判と死刑執行であった。
これは五十年前の事で、その頃日本には共産党があったのかどうか定かではないが、しかし日本の官憲がいわゆる「社会主義者」と見なしたのは、それら無政府主義思想の人々と、急進的に社会改革を主張する人々だけであった。
この事件には各種各様の二十四人が含まれ、ただ当時の政府が危険と判断しただけで、関係が有ろうと無かろうと、無実の罪をでっち上げて一網打尽にした。
罪名は「大逆」であった。つまり、天皇の暗殺を画策したというわけだ。
官憲が首謀者とみなしたのは幸徳伝次郎(秋水)と彼の妻菅野須賀であった。
幸徳秋水は実は全く関係がないのに、彼が最も有名で文筆の指導的地位にあったゆえ、巻き添えを食らったのだ。
もともと、共謀者は四人だけで、その内の宮下太吉と管野須賀とは無政府主義者で、彼らは火薬を調合して明治天皇に対して炸裂させようとした。
目的は、天皇も死ぬ凡人であって決して神の化身ではないことを証明するためであった。
押収された証拠物は、ブリキ缶と数本の針金と火薬と少々の塩酸カリだけであった。
私が思うに、当時陶冶公が、長崎に行ってロシア人から爆弾を学ぶのだと言っていたことも、およそこの種の物のことであろう。
ほぼ同時期に、仏教徒の内山愚童が、単独で皇太子を刺そうと計画して発覚したことも仲間と見なされ、事件として処理された。
彼らは確かに幸徳秋水と付き合いがあり、宮下太吉は幸徳秋水と共に熊野川で舟遊びをしたことがあったが、それが密議とされた。
大石誠之助と松尾卯一太は平民社へ幸徳秋水を訪ねたことがあったが、それが反動勢力数人を引き連れて会に出席したとみなされた。

 これらはすべて検事小山松吉が作りあげた作品だが、実のところは日本政府の伝統的な手法で、近年の三鷹事件と松川事件(昭和二十四年)も同様の方法ででっちあげた。
彼ら(検事と政府)は、互いに支配と従属の関係にない二十数人をひとまとめにして、大逆を共謀したと主張し、主犯と共犯とを分けずに全員に死刑を言い渡した。そして翌日には天皇の特赦によって減刑して、半分を死刑、半分を無期懲役にして、皇恩の深さを示した。この手段は憎たらしいほど凶悪で、しかも憐れなほど稚拙である。
当時私が見た号外は、これら二十四人の人名簿であった。

 この時私は異国に住んでいて、道理からいえば異国の政治に関心をもつ必要はないのだが、これはまぎれもなく、政治の範囲を超え、人道の問題に関わる事件であった。
 日本の新聞が私を驚かせた事はこの他にもう一つある。それは、一九二三年九月一日の関東大震災の時、甘粕(正彦)憲兵太尉が無政府主義者の大杉栄夫妻を殺害し、六歳になる甥の橘宗一をも殺害した事件である。
日本の明治維新は、本来西洋の資本主義的民主主義を模倣したのだが、根は封建的な武断政治で、表面上はまだ少し民主的な自由の兆しはあったものの、だんだんとそれは消滅していった。

 この一大事は日本の思想界にも大きな影響与えた。注目すべきは、石川啄木、佐藤春夫、永井荷風、木下杢太郎である。
石川啄木は、積極的に革命的社会主義者に転じ、永井荷風は消極的に「戯作者」をもって任じ江戸時代の芸術に沈潜した。荷風は「浮世絵の鑑賞」で次のようにいう。

「今や時代は全く変革せられたりと称すれども、要するにそは外観のみ。一度(ひとたび)合理の眼(まなこ)を以て其の外皮を看破せば武断政治の精神は亳(ごう)も百年以前と異なることなし」

と。これが書かれたのは大正二(一九一三)年二月、「大逆事件」より一年後のことであった。

 以上が『知堂回想録』に載る「大逆事件」の全文である。周作人は戦争中日本に協力した漢奸(売国奴)として逮捕され、一九四五年十二月から二年余りにわたって獄中生活を送った。一九四九年一月に保釈されてからは、保釈されてからと言うべきだが、執筆と翻訳を精力的に続け、文筆家としての姿勢はついに終生変わらなかった。その姿勢とは、資料と事実にもとづいた事を書くという姿勢である。それはこの「大逆事件」の一文をみても分かる。


【注】
羅象陶 18881927
立教大学の学籍簿によると羅象陶は「明治二十一(一八八八)年二月十九日生れ。住所は小石川区大塚町五十。明治四十一(一九〇八)年三月支那青年英語学校修了後、四月一日立教大学選科入学。同年五月三十一日除籍」となっている。(波多野真矢「周作人と立教大学」『魯迅研究月刊』二〇〇一年〇二期による)筆名、羅黒子、黒芷。「無聊」「在談藹里」「牽牛花」「郷愁」などの作品がある。

龔未生 18861922
明治四十一(一九〇八)年、魯迅、周作人、銭玄同、朱希祖などの留学生とともに、日本に逃避中の章炳麟(太炎)の『説文解字』の講義を聞くために、牛込の民報社に通った。周氏兄弟が住んだ中越館には龔未生たちが「殆ど三日にあげず、必ず誰か一人はやって来て、何くれとなく一日話し込み、照ろうと降ろうと一切かまわなかった」と周作人は『魯迅の故家』でしるす。龔未生は、章炳麟の娘壻で、革命、哲学、仏教に強い関心を持っていた。

陶冶公 18861962
明治三十九(一九〇六)年日本に留学し、東京で中国革命同盟会を結成した孫文に会った。明治四十(一九〇七)年章炳麟に請われて『民報』の発行に携わり、明治四十二(一九〇九)年より長崎医学専門学校で二年間薬学を学んだ。明治四十四(一九一一)年辛亥革命が勃発すると、中国革命同盟会の指示で帰国し、大正元(一九一二)年再び長崎医学専門学校に来て学業を継続した。

蘇曼珠 18841918
中国清末の漂泊詩人。日本人を母として横浜に生まれ、早稲田大学予科に学ぶ。蘇州で教師をするかたわら、上海の国民日報に翻訳・論説を寄稿、後、僧となり、東南アジアを遊歴しつつ作詩し、バイロンなどを中国に紹介。自伝的幻想小説「断鴻零雁記」のほか、「蘇曼珠詩集」がある。(精選版日本国語大辞典による)



号外を見た頃の周作人(中)と妻羽太信子(左)
右は信子の弟羽太重久
国民新聞の号外(明治44118日) ←『大逆事件アルバム』より

東京朝日新聞の号外(明治44118日) ←『大逆事件アルバム』より
『知堂回想録』 
 

2017年2月16日木曜日

『日露戦争を伝える 牟婁新報号外』全185枚 あおい書店より刊行 2017.2.16

田辺の あおい書店から 貴重な資料の復刻本が出た。

紀州田辺の『牟婁新報』が発行した日露戦争に関する「号外」を復刻したもので

『牟婁新報』には、幸徳秋水とともに大逆事件で絞首刑になった管野須賀子と、同じく大逆事件に深く関わった荒畑寒村が、在職したことがあり、記事と論説を書いている。

『牟婁新報』の社主・毛利柴庵は、南方熊楠との親交があつく、熊楠の研究を支援し、政治・社会の悪の実態を糾弾した奇骨のジャーナリストだといえる。
表紙
牟婁新報社  毛利柴庵

日露戦争

提灯行列
「遅れて笑われな、慌ててうろたえな」

あおい書店(田辺市)発行
裏表紙


                     解 説


              『牟婁新報』号外出版のいきさつ


 「牟婁新報」号外は現在田辺市立図書館に所蔵されているが、なぜ田辺市立図書館に寄贈されたかについては次のような経緯がある。
 「紀伊民報」が第一面で「「牟婁新報」号外見つかる 田辺市内で 日露戦争伝える185枚 「記者曰く」主筆・毛利の論評か」と大きく報じたのは二〇〇三年五月十一日であった。記事は、

   田辺市で明治33(1900)年に創刊され、社会主義者らも論陣を張ったことなどで全国的に知られる「牟婁新報」の号外計185枚が、同市本町の多屋長書店(多屋正治さん経営)で見つかった。(略)
   号外は、縦が約20センチ、横が十数センチ~約30センチまでと幅がある。日本軍がロシア軍に宣戦布告する前日の朝鮮半島での交戦(仁川沖海戦)から、ロシア軍の拠点だった旅順を攻め落とす(旅順開城)までの期間の戦況が報じられている。(略)
   号外は、正治さん(82)のいとこにあたる多屋朋三さん(57)=同市下屋敷町=が、祖母の百回忌を迎えて持ち物を整理していて、長持の中から見つけた。祖父の長三郎さんのコレクションではないかという。

と伝える。
 記事には多屋長三郎、多屋正治(まさじ)、多屋朋三の三氏の名が見える。多屋長三郎は正治さんと朋三さんの祖父で、正治さんは長三郎の長男・多屋長一の娘・のぶの夫にあたり、朋三さんは長三郎の次男・多屋孫次郎の三男にあたる。
 多屋家は『和歌山縣田邊町誌』(昭和五年)の「名門人物誌」に載る旧家で、江戸時代は累代において町大年寄の家格であった。その多屋家に朝来村の十四歳の吉田長吉が奉公に入り、長じてその忠勤・忠節を賞せられて多屋の姓を許され分家したのが多屋孫八である。

 祖父の多屋長三郎は文久三年三月九日、その多屋孫八の長男として生まれた。長三郎の元来の名は長太郎で、孫八が出した出生届「長太郎」の「太」の筆跡を戸籍係が「三」と誤読しために戸籍上は長三郎と記されてきた。それが明るみになったのは明治五年の壬申戸籍の時で、以後は戸籍通りの長三郎と称した。
 多屋孫八は長三郎を商販(商売)の道に進むようにしむけたことから、長三郎は雑貨を扱い、人力車業と金融業を営むかたわら、大阪毎日新聞の販売店を兼ね、また本を販売する「多屋長書店」を創業した。その長男・多屋長一が「多屋長書店」を引き継ぎ、次男・孫次郎もまた本を販売する「多屋孫書店」を創業した。

 「多屋長書店」の多屋長一、「多屋孫書店」の多屋孫次郎兄弟は八人兄妹で、妹に美代(みよ)と寿枝(すえ)の二人がいて、美代と寿枝とは最晩年まで長兄・多屋長一の「多屋長書店」で住んだ。後に祖父・多屋長三郎の妻・志奈の百回忌を迎えた際、古い物を運び出して整理したことがあったが、この時出した多くの古文物の中に「牟婁新報」の号外があった。その存在に気が付いたのが、多屋孫次郎の三男で現在「あおい書店」を経営する多屋朋三氏であった。「あおい書店」は、多屋孫次郎の「多屋孫書店」が出した支店である「多屋孫書店あおい支店」を受け継いで「あおい書店」として独立・創業したものである。

 「牟婁新報」号外は、号外の一枚々々を長い紙に糊でつなぎ合わせた巻物の姿で保存されていた。巻物を解いて横に拡げていくと約四十mにもなる長さで、手で持ち上げると貼られている号外がぱらぱらと割れてくるような状態であった。約一〇〇年の間多屋長書店の筐底にあったことを物語っていた。
 その巻物を二人の叔母から譲られた朋三氏は、半月ほど手許に置いていたが、取扱い方を誤れば損壊してしまう状態であったことから、牟婁新報研究者の池田千尋氏の助言もあり、田辺市立図書館に寄贈して保存をはかることになった。「多屋長書店」から出てきた物であるため寄贈者の名は多屋正治さんとし、田辺市立図書館との交渉の労を取ったのが多屋朋三氏であった。

              ○ ○ ○

 多屋孫次郎の多屋孫書店の家は元は鳥山啓(ひらく)が住んでいた屋敷であった。鳥山啓(天保131842)~大正31914)年)は田辺藩士として長州征伐に従軍した後、維新後の明治2年藩校・修道館の英語教授を務め、和歌山師範学校、和歌山中学校で英語、理化学、博物、生理等を教え、明治十九年には東京に出て華族女学校教授を務めた。(『田邊町誌』「名門人物誌 教育家」)和歌山中学校では南方熊楠に動植物の観察採集を教えたことで知られ、また「軍艦マーチ」の作詞者としても知られる。その鳥山啓の屋敷を多屋長三郎が明治十九年に買い取り、弟の多屋孫次郎に分与したという経緯がある。

 ではなぜ多屋長三郎の多屋長書店が「牟婁新報」の号外をかくも大事に保存していたのかといえば、それは長三郎が大阪毎日新聞の販売店もしていたことから、誰よりも地元紙「牟婁新報」を気にかけおり、次々と出る号外を集め置いたからであろう。そしてまた、日露戦争の戦況を伝える号外が、紀南の地で発行されていたことを示すためにも、巻物にして残しておいたからであろう。
 
              ○ ○ ○

 この『牟婁新報』号外が一册の書として出版されることになったきっかけは二〇一六年八月、大逆事件の研究機関である「大逆事件の真実をあきらかにする会」の大岩川嫩(ふたば)氏が田辺を訪れたことにある。「牟婁新報」の社屋跡や管野須賀子と荒畑寒村の住居跡、そして毛利柴庵の墓所などを見るために、篠塚英子・お茶の水女子大学名誉教授、竹内栄美子・明治大学教授、竹内友章・コグニザントジャパン株式会社社長と共に来訪した。一行を案内したのが多屋朋三氏で私も同行した。

 「牟婁新報」に号外があることを朋三氏から聞いた一行は、是非にと閲覧を希望し田辺市立図書館に行った。別室には既に号外が運びこまれており、大机の上に一部だけが拡げられた巻物があった。一行は初めて原物を見た。私も初めてだった。

 大岩川嫩氏は、不二出版から出た「牟婁新報」の復刻版は値段が八十五万円もするがこの号外は収録されていないと、私達一行と図書館員に説明しながら、顔を近づけて具に見た。その嫩氏の説明と所作につられて、私達も感嘆の声をあげながら見た。目の前に拡げられた号外の巻物は、天下の「孤本」と称するに足るものだと評価された瞬間であった。多屋朋三氏はこの時、斯界に貢献するためにも号外一八五枚を一册の本として出版すべきだと考えた。横で見ていた私にはそう決断する多屋氏の胸のうちが伝わってきた。

              『牟婁新報』号外について


 「牟婁新報」号外にはいくつかの特徴がある。それを紹介しておく。

       一 「記者云く」


 号外の最大の特徴は大見出しの脇に「記者云く」の小見出しがあり、号外に対する記者の意見が書かれていることである。時には「註」「参照」の小見出しもあり、大見出しの不備を補っている。これらは僅か二行から二十行の長さに及ぶこともある。
 これを書いたのは「牟婁新報」の社主・主筆である毛利柴庵であることはよく知られたことだが、いかにも柴庵らしくて柴庵以外の余人には書けないと思われる記事がある。それは提灯行列を呼びかける文で、繰り返し五度も呼びかけている。

◎朝霧早鳥二艇 敵艦三隻を轟沈す 吾二艇は無事なり
今夜午後六時より提灯行列を催す同感の士は提灯と蠟燭とを携帯し新報社前小學校運動場に参集すべし                (明治37227日)

◎海戦は我軍の勝利に歸し捕虜四名ありし 旅順の火薬庫と砲臺とドックとを粉砕し大連にては市街全く破壊せり
右我軍の大捷利を祝し且つは出征軍人家族諸氏に對して慰問の意を表する爲め明十四日午後六時より提灯行列を催すべし同感の士は提灯と蠟燭とを用意し本社前の運動場に参集ありたし               (明治37313日)

◎旅順の敵は同地を捨て去りし様子にて船舶出入自由となれり
愈よ今晩は提灯行列を催すべし
注意(◎◎) 本隊は必ず出征軍人諸氏の宅毎に萬歳を参唱する事(明治37314日)

◎敵の主力殆んど全滅の事を確めたり
我軍の大捷利敵の大敗北一目瞭然たり。(略)提灯行列を催すは正に此時なり、苟くも帝國の男子たるものは今夜七時を期し各提灯を手にして吾社前に参集ありたし
注意 先夜の提灯行列は群衆甚しかりも、却つて活氣に乏しく隊伍も亦整はざりき 今夜の行列は大に男らし大に勇ましく各自大なる責任を帯びて進行ありたし、於くれて笑はれな、慌ててうろたへな、真面目にドシドシ遣りたまへ、子供ばかり出して、於やじ傍観のテイは頗るよろしからず、齋藤実盛ぢやねエがしらがあたまも皆な出て御座れ今夜うまく提灯行列のけいこをして置かんと、露軍全滅我軍凱旋の時になつて提灯の持ち方も知らずにまごつく事が起つたらドーする
                          (明治37417日)              

昨日ダルニーをも占領したり 萬歳。萬歳。大萬歳。
今晩は是非とも提灯行列の必要あり、諸君、曩の如く提灯と蠟燭とを用意して午後七時扇ケ濱公園に参集ありたし            (明治3758日)

 毛利柴庵の筆はまことに軽快で読んで面白い。行列の群集は多いが、隊列がばらばらでしまりがない、遅れてきて皆に笑われるな、子供ばかりよこしてオヤジが傍観とはなにごとだ、と書き飛ばしている。さぞかし田辺町民は号外を読むのが楽しかったであろう。

       二 「牟婁新報」復刻版が「原紙破損」とした欠落記事は、号外によって甦る


 「牟婁新報」本紙は復刻版(不二出版)で読むことができるが、原版の紙面が破損し欠落した部分は、「原紙破損」の四文字があるのみで白地のままである。その欠落した記事は号外で再現することができる。
 一例だけだが、明治三十七年五月九日の「牟婁新報」(復刻版)の欠落記事は、五月八日に発行された号外によって甦ってくる。

 それは「牟婁新報」本紙の「東京電報◎第一報五月八日午前七時四十分発同午前九時着 ◎昨七日ロンドン発の電報によれば左の如き快報あり(略)記者云く 文中日本軍とあるはいふ迄もなく我第二軍を指すものならん従つて前電遼東半島上陸とあるは金州上陸の事たるや想察するを得べし」に続く箇所で、本紙では白地に「原紙破損」として空白にしている部分である。

 その「原紙破損」の欠落記事を、五月八日の号外によって再現すると次のようになる。(以下▲表記は薄れて判読困難な字)

◎横川省三氏の葬式を執行し非常に盛大なりき
註に云く 横川省三氏は慶應元年に生れ岩手縣盛岡の人、性傲岸不羈、夙に身を政界に投じ勇名同志の間に嘖々たり明治十六年頃東京に於て自由黨志士等の設立せる有一館の牛耳を執れり、明治十八年加波山事件に關して入獄一年許、出獄の後ち東京に來り、明治二十年保安條例に触れて二年間退去を命ぜらる 明治二十七八年役の時は東京朝日新聞社の海軍従軍記者たり、黄海観戦記を作り、自ら請ふて水雷艇に乗組み 威海衛攻撃に從ひ 冒險家の名益々高し 後ち北京に赴き 露語を研究し 三十五年東蒙古地方より滿洲一帯の實況を視察せんとて、某士官と北征の途に就き、辛酸を嘗め、同年十月ハイラルにて露兵に捕へられ ハルビンに押送されしも、現地日本人倶楽部へ責付の身となり 十一月放免、一旦北京に皈り 則ち日露戦争開始の前に當り龍巖浦海面の敵雷を偵察し隠微の間に國家に貢献せる功績少からず、遂に二たび露軍に捕へられ奇傑沖禎介氏と共に銃殺せらる、君刑に臨んで顔色變ぜず 大音響に目的を自白し 露奴を罵倒して死す。日本男児の面目躍々たり▲▲容貌魁梧 巨體厚唇、雄材大略▲▲る 腹便々、一見其偉丈夫たるを知るべし、人と成り▲▲朴 内ち▲、摯實快語、膽勇絶倫 平生酒を好み醉へば則ち酣歌淋漓 本年一月の書信に云く「戦争が始まらば一世一代の事業を▲ると」▲謂一世一代の事業とは▲々電信鐵道の破壊に▲▲じ▲半途敵▲に殪る 遺憾知る可きなり、君二女あり 東京麻布簞笥町に住す故に東京に於て葬儀を執行さるるのか、其壮烈を仰望する人の豈に獨り会葬者のみならんや 幽魂以て瞑すべし
                          (明治3758日)
        
 横川省三の横死に対する毛利柴庵の悲憤の大きさが伝わる号外である。横川省三が銃殺された背景は東京朝日新聞と讀賣新聞が報じた記事を追えば明らかになる。ここでは見出しのみをあげておく。

 明治3754
東京朝日新聞      一面   「被捕獲勇士の最期」
                  二面   「哈爾濵遭難の志士横川省三氏」
讀賣新聞          五面   「露軍に銃殺されし快男児横川省三氏」
                         「故横川省三氏の母堂」
 明治3755
東京朝日新聞      二面   「志士横川省三氏の書翰」
                         「横川省三氏に就て(某海軍幕僚の談話)」
                  三面   「哈爾濵遭難の志士横川省三氏の手紙」
 明治3756
東京朝日新聞      二面   「横川省三氏の葬式」
                         「横川、沖兩氏遭難の地(地図)」
讀賣新聞          二面   「横川省三氏の葬儀」
 明治3757
東京朝日新聞      二面   「横川省三氏の母堂を訪ふ」
 明治3758
東京朝日新聞      二面   「横川省三氏の葬儀」
                         「横川省三氏墓誌銘」

 「牟婁新報」が号外を出した五月八日までの東京朝日新聞と讀賣新聞の報道は以上の如くであった。ロシア軍に銃殺された横川省三の死を国をあげて悼んだことが分かる。

 東京朝日新聞が五月四日から八日まで連日紙面に横川省三を取り上げたのは、横川省三が東京朝日新聞に入り五年間朝日新聞社の記者であったことによる。銃殺が執行されたのは四月二十一日であったが、その二カ月前の二月十日に日本はロシアに宣戦布告をして、日露戦争が始まったばかりの時であった。

 上に引いた号外の「註に云く」には、横川省三が国のために一世一代の事業をなそうとした事歴と東京での葬式と二人の娘のことまでつぶさに書かれているが、この十八行に及ぶ長文の註は他社の紙面から孫引きしたのではなく、毛利柴庵が自らの筆で構成して書いたものである。

 なぜにそう断定できるかといえば、明治・大正の紙面は現在では聞蔵(朝日新聞社)、ヨミダス(讀賣新聞社)、毎索(毎日新聞社)で見ることができ、今回は聞蔵とヨミダスを参照したのだが、二紙の紙面を見ると、毛利柴庵は東京朝日新聞と讀賣新聞に書かれた横川省三横死を伝える記事を参考にして、記事の関鍵語句を使いながらも自らの筆で構成しなおして書いていることが分かるからである。末尾の結び「其壮烈を仰望する人の豈獨り會葬者のみならんや 幽魂以て瞑すべし」は毛利柴庵の悲憤が田辺町民に向けて発した叫びである。

 横川省三の葬式が行われたことを伝える号外は、この牟婁新報の号外を除いてどの地方のどの新聞にも見当たらない。(羽島知之編集『「号外」明治史1868-1912』第2巻、大空社、1997年を参照)

 なお、横川省三の葬儀は五月八日午後三時東京、赤坂霊南坂の教会堂で行われ、遺品は同日青山墓地に埋葬された。

       三 号外に載せ、「牟婁新報」本紙に載せない記事


 前の一「記者云く」のところであげた提灯行列を呼びかける記事は「牟婁新報」本紙になく号外にのみある記事だが、そのような例は他にもある。一例だけあげてあげておく。

◎當町特報
◎只今聞く所によれば今回の町政一條に就き片山町長辭表を提出したり仍て本日午後三時より町會を開く筈なり              (明治37520日)

 ここに見える片山町長とは片山省三のことで、内閣総理大臣・片山哲はその長男である。嘉永五年二月の生まれである片山省三は、弁護士となって田辺に開業し、田辺町会議員、和歌山県会議員を経て、明治三十五年十一月から明治三十七年六月まで田辺町長を務めた。

 この号外は単独で発行したものではなく、日露戦争の東京来電「◎拾五日午前一時山東角北方にて濃霧に遭ひ春日艦吉野艦に衝突し吉野艦沈没したり」で始まる記事の末尾に「◎當町特報」として付けられたものである。

 なぜ五月二十日の号外にこの「當町特報」があるのか。それは明治三十七年当時牟婁新報が三日に一度発行する新聞であったことと関係する。牟婁新報本紙を繰ってみると五月二十一日が発行日であったことが分かる。従って二十日は既に紙面が組み上がっており、割り込ませることは出来なかった。かといって次の二十四日では遅すぎる。だから二十日発行の号外に付けて、町政の異変を伝える「當町特報」を載せたのであろう。

 それもその筈、毛利柴庵は「田辺町政の不始末」というゾッとする素っ破抜き記事を展開していた。五月九日の第一報は「モハヤ田邊町政の不始末は現に公然の秘密」とまで書き、十二日の第二報では「アゝ田邊町役場は一種の魔窟殿たらざるなき」と収入役の公金管理問題を衝き、十五日の第三報では「田邊町の財務が如何遣りツぱなしになり居れるか」「誰れ言ふともなく世上に流布し、ドウも役場が臭い、變な臭ひがすると言ひ出した」と二千何百円の行き先を疑い、十八日の第四報では「田邊町の伏魔殿とまで噂されつゝある田邊町役場の内部の紊乱」が田辺小学校の建築費をめぐる問題である以上「手當り次第に批評し論難し、彼等をして心飛び魂驚くの境界に立たしめ、以て一日も速に町政の一大刷新を擧げんと欲するのみ。目的はコゝなり」と追求を続けていたのである。しかもこの日の結びには「サテ次號には、ドウいふ事が出るのであらう(一寸一ッぷくぢや)」と予告の狼煙をあげていた。

 そこへもって来て翌十九日「片山省三町長が辞表を提出」、「二十日午後三時より町會を開く」という急展開が生じたのであるから、この号外は何としても出さねばならないと毛利柴庵は考えたのである。

 かように牟婁新報とその号外を出す牟婁新報社は、毛利柴庵の記者魂と発信欲とが熱く噴出し、田辺町民にぴったりと密着した新聞社であった。

 なお本書には、手書きの号外記事「今十七日大本營着 長門沖ノ島附近ニテ砲聲盛ニ聞ユ」「常陸丸戦死一千余名ノ見込」〈明治三十七年六月十七日)を収めているが、これは巻物の中に別紙として挟まれていたものである。

 また、巻物で発見された時の号外は一八五枚あったが、このたびの出版にあたり精査したところ、原紙の破損と活字のかすれが著しく、収載することが不可能になったものが十枚ほどあったことを、お詫び方々お断りしておく。

 巻末に最近見つかった同じ田辺の「紀伊新報」の大正三年九月一五日付けの第一次世界大戦開戦の号外も伏す。

 以上「解説」には似合わない長文となったために、最後まで目を通していただけないのではないかと恐懼するが、この稀有な書『牟婁新報号外』が皆様の座右に備えられんことを願う。

          二〇一七年一月二十一日(記)
                                久 保 卓 哉



2017年2月5日日曜日

紀州田辺藩版の仏書(下) 藤堂祐範 中外日報1932年6月15日

紀州田辺藩版の仏書(下) 藤堂祐範
中外日報 昭和七年六月十五日 一面
紀州田邊藩版の佛書(下) 藤堂祐範

 なほ管板の四寺の現状や、地蔵寺にこれ等の版木が所蔵せらるるわけは、
 管版の筆頭海蔵寺は妙心寺派の末寺で、現に田邊南新町にあり、元来は浅野氏(元和年間廣島へ轉封せらる)の開基なりしが、安藤氏の入城以来また菩提寺とした。併し安藤氏は和歌山城の城代として(紀州侯は親藩として江戸在勤多かりしゆへ〉多く彼の地にありしを以て寺▲の關係至て浅く、漸く奥方の墓二基あるのみと聞く、されど田邊では有力寺院であるから筆頭に第しものならん。

 松雲院は▲▲派に属し新熊野山と稱。元来田邊の地は古来熊野道の要路で、併も海辺の參路と大邊地と称する山中の參路との分岐点に近き都邑であるから口熊野と称し、附近に幾多の遺蹟を存せるほどで、早く平安朝に熊野権現を勧進し、新熊野十二所權現と称して名高く現今の闘鶏神社はそれで、その権現の執行寺として有力な寺であったが、明治維新の際当地内の地蔵寺(仁和寺末)に合併され、その時この版木も共に移管されたものらしいと聞く。

 湊福寺は海蔵寺開山天叔の隠棲寺で、田邊町大濱にありしを安藤氏▲の時、海蔵寺の▲に移したが、明治維新の時海蔵寺に併合しその跡地は現今田邊佛教総合會の昭和幼稚園となって児童に佛種子を植つけている。

 高山寺は仁和寺末で、▲町に近き稲荷村にあり、空海の開創と傳へ、当地方での古刹大山である。

 想ふに紀州の地、東は新宮に城主水野氏ありて、丹鶴叢書を出版したことは有名であり、和歌山では学習館等ありて、貞観政要や論語集解補解等十数部の印行あり、その他儒臣にも伊藤蘭嵎や祇園南海等ありて、藩臣の出版がかへって藩邸のものよりも多いと傳へられて居る。かほどに田邊の周囲には版行の擧さかんであって、その刺激は多少ともに受けたとは云へ、田邊の地は和歌山市を去る二十余里現今は海路汽船あり、陸路は近く鐵道開通せんとするの利便ありとは云へ、十数年前までは▲舟によって太平洋の浪を凌ぐか山岳海に迫て羊腸道なき山道を旅するかの不便の地で、城下とは云へ海辺の一小邑に過ぎない地に於て、敢て他藩の體にならはず、果然鬱奥の出版を▲し版型▲美な書が梓行されたことは、實に奇蹟とも見らるるほどで、如何に道紀觀妙公の求道の志勇猛にして、道心の堅固なりしかが窺はれるのである。この開版ありてより殆ど百二十年計らずもこの書籍を拜し合掌もって、道紀公の増保品位を向頭せんとす。道紀公は安藤氏十二代、曇一得軒、法▲觀妙院玄玄居士、文政七年十一月十三日没▲六十四歳 (昭和七年五月二十九日稿)


 この稿を草するに就いては海蔵寺上人、及び多屋謙吉、下村利一郎諸氏の▲▲を賜はりしを感謝す。

紀州田辺藩版の仏書(中) 藤堂祐範 中外日報1932年6月12日

紀州田辺藩版の仏書(中) 藤堂祐範
中外日報 昭和七年六月十二日 一面
紀州田邊藩版の佛書(中) 藤堂祐範

 圓覺經略疏は上下二巻、各巻上下に分れこの版本は句讀のみで訓點はない。唐の圭峰宗密禅師の撰である。扉は下に出す般若心経の扉の写真と同じ意匠で中央に「圓覺經略疏」と大書し、上部に「紀南田邊邸蔵板」と横書し、右側に管板(版木管理の意か)田邊海蔵寺、松雲院、湊福寺、高山寺の四寺を列挙し、また左側に「装釘若山書林青霞堂」とある。この扉は何故か海蔵寺の舊摺本にはない。巻頭には唐の裴休の序と、撰者の序とあり、巻末に
    新刻圓覺經跋
  蹤衆生具圓覺不能知圓覺矣。余久之得之。猶要令同志者知之。故▲梓以▲▲将来云爾
  文化丁丑春三月
     觀妙 藤原道紀  觀妙
の跋あり。これ田邊城主十二代安藤道紀五十六歳の時のものである。その次に同町の松雲院住持の密幢悚息の「記▲刊▲▲略▲後」と題した一文あり、中に「坊間之諸本多誤字、且旁譯副墨紛然紊真、我侯深憾之、乃命封内海蔵湊福高山三寺主及貧道、校讐諸本、使安養寺主写焉、點句附讀、毎行施系、以擬支那本為邸蔵」、これ本書出版の縁由を略叙して居る。文中に安養寺とあるは田邊の隣村南部村にある真言宗の寺ときく。最後に奥附は写真に示す如く「紀南田邊邸蔵板」とある上に、中央には「田邊珍寶」の朱印が捺してある。発行書林帯屋伊兵衛は帯伊と称し、扉にある青霞堂のことで、紀藩の御用書肆で現今も盛に営業している由、紀伊名所圖會三編十八巻は重にこの帯伊の主人なる高市志友の手になったもので、志友は青霞堂と号し、その前編六巻は文化九年に出版して居るから、同十四年に出版されたこれ等の藩版にも彼は預たことであらう。なお惜むべきはこの圓覺經の版木現今は一枚を紛失して居ることで、新摺本では上巻之一の第十六、十七の紙が缺脱して居る。


 次に般若心経注解一巻は興▲寺圓耳の著で、扉は写真に示す如くで本文は▲▲附である。巻頭に藩主安藤道紀の「心▲注解再刊序」あり、文中に「▲息明著、善美▲▲者、▲▲注解也、▲▲科文▲多、不便所▲故、今書▲去、唯▲其略再刊、以施衆生、欲令速断除妄心、頓顕発本性写是余願也」と、その志願を誌して居る。巻末には圓覺經と同じく密幢悚息の跋ありて「觀妙老侯、夙崇信我法、特篤讀、依圓覺經、既得玄珠焉、實可謂今世未曽有矣、頃新刊彼經略疏、旋又刻此經注解、乃手自作序、命貧道▲跋、侯序▲▲無餘▲、▲亦何言」と来歴を叙して居る。これ二書ともに道紀の道心の発露であることがわかる。奥附は圓覺經と同じ形式で、ただ出版の月が彼は三月、此は八月で約半年の間隔があるばかりである。

紀州田辺藩版の仏書(上) 藤堂祐範 中外日報1932年6月11日

紀州田辺藩版の仏書(上) 藤堂祐範
中外日報 昭和七年六月十一日 一面

紀州田邊藩版の佛書(上) 藤堂祐範

 余は今春三月初旬より病臥、四月下旬やや小康を得たので、南紀田邊に転地病を養ひ居る際知人下村氏よりこの地に版木があるとの話を聞き調査の結果計らずも藩版の佛書二種の版木なることを知り、洵に珍しき出版物としてここに紹介することにした。

 徳川時代の書籍出版社を類別すると、慶長元和の頃後陽成後水尾両帝の勅題により出版された勅版。徳川家康が伏見及び駿府に於て僧三要等に命じて出版せしめた木活本銅活本等より、降ては湯島聖堂及開成所等幕府若くはその支援の下に出版された官版(広義に見て)。全國各地の藩邸又はその藩校で出版された藩版。神社や佛閣で出版された社寺版。町屋その多くは書肆から出版された町版等。斯く幾多の種類はあるが、就中藩版は藩主の好学より諸侯直接の出版となりたるもの、または藩の学館或は儒臣等により印行されたもので、その書籍は可なりの多数で、東条琴臺の諸藩蔵板書目筆記によれば、出版の藩は八十藩に上り、その出版書は四百余部約六千巻に達して居る。また昭和三年十二月全國圖書館大會に際し、御即位大典奉祝のため京都帝國大學圖書館で會して書物を陳列した展覧目録によると、六十一藩、百五十七部、二千二百冊である、若し巻数にしたら恐らく五千巻にも達することであらう。かく記録された数字を見れば如何に各藩が學問の振興に盡したかが判る。然るにその出版された書物の種類は漢籍即ち経書より史書詩文集等が大部分で、国書は至て尠く、漸く水戸彰考館の大日本史、扶桑拾葉集、参考源平盛衰記等、下野黒羽藩の日本書紀、熊本藩の泯江入楚等二、三十部に過ぎない。更に佛典に至りては皆無と見らるるほどで、諸藩蔵版書目筆記には筑後佐伯藩の閲蔵知津三十巻、法華經通義十六巻、因幡の鳥取藩で護法漫筆二巻、法華經新點七卷、同校異一巻の五部が叙録されてあるくらゐで、その出版は實に寂寥たるものである。

 かく佛書の藩版の僅少なるにかかはらず、紀州田邊藩に於ては幕末に近き文化十四年に圓覺經略疏四巻、般若心経注解一巻が出版されて居ることは實に珍貴の現象を見ねばならない。この二版本は流布至て尠きものと見へ、京大、東大、谷大の各大学圖書館の目録にもなく、また駒澤大學圖の漢籍目録にも著録されてない。考ふるに幾分の発売は和歌山の書肆帯伊に許されたらんも、重に領内有縁の道俗のみに少数部が頒たれたのであらう。この版木の初めて気付かれたのは大正十三年郡誌編纂の資料を蒐集の際、多屋謙吉、毛利柴庵の両氏が同地の地蔵寺で之を発見し、二部を新刷し各自儲蔵せられた。その内多屋氏所蔵の本を余は眼福し得たのである。余は滞在中藩侯の菩提所であり、またこの版木に關係がある同町の海蔵寺を訪問したら、和尚は今更のやうにその珍版なることを知り、圓覺經だけは所蔵があるとて、虫害甚しき舊摺の本を見せられた。これ等新旧の摺本によって大略を記せん。