2012年6月28日木曜日

天中九組 榎原慎之助先生 なぐられた思い出     昭二、卓哉、勇二、泰士、宏 半世紀の飲み会 2012 6 24



  2012624日(日)天中九組の男子5名が卒業以来初めて京都タワー一階スターバックスで待ち合わせ。
昭和37年以来だから五十年ぶり。半世紀もの年月が経っている。

きっかけは卓が出した2通の絵はがきだった。「退職して白浜に引き揚げる。途中で京都に寄るから、京都で会えないか」年賀状で住所が分かっているものの、電話が分からず、分かってもかける勇気がない卓が、遠慮ぎみに出したはがきに、勇から電話があった。


「何回お前が書いたアドレスに送っても返ってくる。どないなっとんねん」半世紀はふっとんだ。「ktktあっとマークで、マイルドオシエンドットエヌイドットジェピやろ」
「ちがうtktkやで。ktktとちがう」
「お前ktktてかいたあったやないか」
「はっはははは、すまん、すまん。おっかしいなもうぅ」ますます半世紀はふっとんだ。
半世紀
左より 宏、勇二、泰士、昭二、卓哉

<すいしん>のカメラマン

芋焼酎 2本
 はがきが届いたのに連絡しない泰は、もしかしたら今海外かと思いながら、泰に電話。
「はがき見てないか」
「なんのことや、下へおりてないから郵便受け見てない」半世紀はふっとんだ。
「あのな、京都であいたいんや」
「ええで、京都のどこにしよ・・。あそこにしよか、京都タワー一階のスタバ。あそこなら、座って待ち合わせできるで」ますます半世紀はふっとんだ。

 京都で会うなら、宏にも声をと、賀状の束から宏の電話をさがすも、やっぱり住所だけ。和泉、医院、むらた、で 検索すると、二件ヒット。「もしもし、そちらの先生はむらた宏せんせいですか」
「いいえ違いますけど、どんなご用件ですか」
「天中の同級生なんですけど、むらた宏せんせいを探しています」
「ちょっと待ってください。聞いてみます。・・・・もしもし、弟さんです。ここはお兄さんの医院です」
「えぇっ! 番号わかりますか」
 聞いた番号にかけると、診察中なので、こちらからかけなおすそうです、と女性。
電話を切ってしばらくすると
「もしもしどないしたん。えらいひさしぶりや」
「おぉ、ときたとつじもととあうんや。お前時間ないか」
「いつや。行くで」半世紀はふっとんだ。
「京都や、遠いで」
「行くで。おかも呼ぼか。あいつとはちょいちょいおうてんねん」またもや半世紀はふっとんだ。

 18時が待ち合わせ時刻。
17時、勇からTel
「乗り換えで10分に着くから、そっちへ行くのは15分頃になるわ」


  17:50、泰からTel
「もう来て待ってるよ」
今向かいの横断歩道で信号待ちや、すぐ行くで。

 信号が変わってスタバに向かうと泰が手を上げて待つていた。
おォ、と話しながら、周囲を見ると、立っている一人が眼に飛び込んで来た。
おォ、むらた。
「もうだいぶ前から来て待っててん」


三人で話していると、ビルの中から近づいてきたのは昭二。
「地下で風呂入っててん、早めにきたさか、風呂でも入ったろ思て。今日は誰がくるねん」

 スタバから信号近くに移って待っていると、勇が後ろに来た。すぐに泰が考えていた<すいしん>へ移動。

2012年6月20日水曜日

ホタル産卵 成虫終る 産卵の苔を野外に 2012年6月20日

ホタルの産卵とふ化で これからの時期は 水分が欠かせない
霧吹きで 水分補給
ところが うっかりすると カラカラに乾燥させてしまう

だから今年の夏は 苔を ネットに入れて 3つに 分け
水が流れる水路の上に ネットを置く
ネットには 如雨露で 水をかけ
ふ化が 始まると ふ化した幼虫は 水路の中に
水路の中では カワニナが 増殖しているから
ふ化した幼虫は 水路の中の カワニナ稚貝を 食することができる

こういう方法で 一年間の飼育を行う予定
生存していた♂一匹 水路の岩で光っている

ネットの中に産卵した苔1

ネットの中に産卵した苔2

ネットの中に産卵した苔3

鉄のメッシュかごを 水路に置いて 中に 産卵苔のネット

二日に一度如雨露で水をかける

一番奥に 水路

水路手前のホースは鯛の迫川から引いた水



2012年6月17日日曜日

ホタルのポスター わたし林芙美子のポスター



ホタルのポスター と 林芙美子のポスター

鯛の迫川は 山あいの谷を流れる 小さな川

急坂を下る 高校生の自転車が 曲がりきれずに 転倒

急坂を下る 川の水も 曲がりきれずに 川からあふれて 梅雨どきは たいへん

飛んでいたホタルが 護岸工事のたびに 少なくなって とうとう 全滅

ところが 人の手で カワニナと 幼虫を 川に入れると ホタルが 復活

活躍したのは 川で遊ぶ こどもたち
川に入りたい こどもたち
ホタルのポスター3枚は 安東小4年生 作
「わたし林芙美子」は志賀高原ロマン美術館の
すずきゆきの さん 作

いつのまにか 600人の行列ができるほど 

人づてに ホタルが飛ぶ川 知れわたる

こどもたち が 描く 絵は 楽しい
ホタル、岩、水、草、

ゴミを捨てないで の 警告もあって おとなはタジタジ

「わたし林芙美子」のポスターは 全国博物館美術館ポスター展 の 本年度最優秀賞 に選ばれた(?) ポスター

志賀高原ロマン美術館の すずきゆきの さん作

2012年6月14日木曜日

石川啄木の母校 渋民小学校 への 手紙


石川啄木  ①
初めてお便りをする非礼をお許し下さい。
  去る六月十五日(土)、石川啄木の足跡を求めて貴校を訪問いたしました。鶴飼橋から校庭に入ると、校歌が刻まれた石碑がありました。石碑を前に佇んで、<春まだ浅く月若き 生命の森夜の香に>と刻まれた文字をたどりながら、いつのまにかメロディをつけて歌っていました。啄木の詩が渋民小学校の校歌となっていることを初めて知ったのですが、私にとってもこの歌は、四十年もの間口にしてきた歌でした。
  校舎を見ると、男の子の姿が見えました。植木の茂みをかき分けて、かの啄木の遙かなる後輩である男の子に声を掛けました。
 「おじさんは遠くから来たのだけど、啄木の校歌の碑を見て歌ってしまった。
  今もこの校歌を歌っているの? だったら歌ってみてよ」

石碑 渋民小学校校歌
3年生の女の子
5年生の男の子


















  五年生ですといった明るい表情の彼は、恥ずかしそうにですが、しっかりと<春まだ浅く月若き 生命の森の夜の香に>と歌ってくれました。
  その声を聞いて、教室の窓から女の子が顔を出しました。教室の中にはもう一人、机で絵を描いている女の子がいました。顔を出した女の子は、校歌を歌ってくれた男の子の妹でした。土曜日は学校が休みだから、今からお母さん達と活動をするのだと、説明してくれました。

雲は天才である 原稿 ②
  今となっては不思議な話ですが、大阪の天王寺中学校で学んだ私は、中学時代の三年間、啄木のこの歌を歌ってきました。三年間クラス替えもなく、担任も替わらなかった私達は、「これがわがクラスの歌だ、覚えろ」と半ば強制的に、覚えさせられたのでした。

   春まだ浅く月若き
   生命の森の夜の香に
   あくがれ出でて我が魂の
   夢むともなく夢むれば
   さ霧の彼方そのかみの

   希望は遠くたゆたいぬ

   「自主」の剣を右手めてに持ち
   左手ゆんでに翳す「愛」の旗
   「自由」の駒に跨がりて
   進む理想の路すがら
   今宵生命の森の蔭

   水のほとりに宿かりぬ

榎原慎之助 先生
天王寺中学
  担任の榎原慎之助先生は、野性的な美術の先生で、校長や同僚への気兼ねを一切しない、自由の気概にあふれた人でした。当時その先生は、なぜこの歌を歌わせるのか、その意義を説明してくれたはずなのですが、いま覚えていないということは、歌う意義よりも、ことばの美しさと語調のよさに心を奪われていたからだと思います。
  しかし、石川啄木が初めて書いた小説は「雲は天才である」だ、お前読んだか、などとクラスで言い合っていたことからすると、榎原先生は、石川啄木の「雲は天才である」の中に出てくる詩だと、説明してくれたに違いありません。
  なぜ、啄木の歌を私達に覚えさせたのか、昭和41年に、まだ41歳の若さで死んでしまった先生に、ぜひとも聞いてみたいものですが、おそらく先生は、啄木の詩に現れた、燃える希望と、遙かな未来と、強者にひるまずに進む気概と、山よりも大きい情熱とを、私達に持たせたかったからだと思います。 
  これらは渋民小学校の石碑の前で、突然わき上がってきた感情でした。私は天からの雷光に刺し貫かれたように、石碑の前に立ちつくしていました。
  高校に入って、岩波文庫の「一握の砂」を持ち歩き、岩波書店の「啄木全集」を買い、ローマ字日記までも読んだ私は、自分では気づかないまま、中学時代の榎原先生にそうなるように仕向けられていたのでしょう。今55歳となった私は、首を垂れて先生に感謝しています。

    やはらかに柳あをめる 北上の岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに

北上川を見るのが私の願いでした。

    故郷の山に向ひて いふ事なし 故郷の山は有がたきかな

岩手山を見るのが私の願いでした。

    石をもて追はるるごとく ふるさとを出でしかなしみ 消ゆる時なし
    かにかくに渋民村は恋しかり おもひでの山 おもひでの川

渋民村に行ってみたい、それが私の願いでした。そして、

    その昔 小学校の柾屋根に我が投げし鞠 いかにかなりけむ
代用教員を務めた二十歳の啄木の渋民尋常高等小学校を訪れることは、もはや叶うまい、と半ば諦めながらも、いつかその時が来るはずだ、と渋民への思いを燃やし続けていた私でした。

常光寺 
啄木誕生の部屋に伝わる立て屏風
  盛岡大学での全国漢文教育学会に参加した私は、一度も盛岡大学で降りずに渋民村に通いました。ようやくその時が来たのですから、学会どころではありません。啄木が生命の森だと言った愛宕山を歩き、鶴飼橋の下に降りて北上川の水と川原石に触れ、生誕の地、常光寺を訪ねました。
  常光寺では思わぬ収穫がありました。それは、啄木誕生の部屋とされるところに鎮座する桐の櫃(ひつ)と立て屏風でした。櫃には墨書の箱書きがあり、屏風には変体仮名の書が表装されています。ご住職にお尋ねすると、屏風の書は何が書いてあるのか分からないというので、写真をとって持ち帰り、拡大して解読したところ、変体仮名の書は、紀貫之と、よみ人しらずの和歌二首であることが判明しました。

      徒ら遊支                                              つらゆき
桜ちる木能下風の寒可らで                   桜ちるこのした風のさむからで
    そら尓志ら連怒雪ぞふ里介利      そらにしられぬ雪ぞふりけ

               よみ人志ら数                                       よみ人しらず
              足引の山路尓ちれる桜花                      あしひきの山ぢにちれる桜ばな
              消せ怒春能雪可とぞ見る                      きえせぬ春の雪かとぞ見る


いずれも桜の花を歌っています。櫃の墨書とともに、楷書に直して、常光寺のご住職にお送りしました。

  しかし良いことばかりではありません。心が痛んで茫然となり、空を仰いで嘆息したことがあります。愛宕神社の麓にある、啄木代用教員時代の尋常小学校の跡地を訪ね、愛宕の森に入った時です。
  宝徳寺に続く山道の樹木が伐採されて無惨な姿を見せていました。国道からもそれは見えて、荒涼としていました。啄木が愛した渋民の山容を、いとも簡単に変えてしまう無神経さに愕然としました。
  暗澹たる思いで山道を降りていると、山道を清掃する人々と会いました。いずれも地元の方で、一線を退いて渋民に戻り、故郷を守るために奉仕している人々でした。
  私は、やや憤慨して森林伐採を抗議しました。すると、愛宕の森の下に住居を構えた住民が、樹木の落葉が家に降りかかる上、日当たりが悪いと山の持ち主に訴え、やむなく森林を伐採した、ということでした。
  なんと住民の人々は、樹木を伐らせて落葉の減少と日差しの増加を獲得した代りに、動物と鳥たちのすみかを奪い、森林の生態系を破壊し、景観を醜くし、なによりも渋民村の歴史と文化を抹殺したことになるのです。
  私が住む家のまわりよりも、遙かに日当たりが良い所でした。住宅に近い山林の樹木は、放置しておくと危険ですが、十年ごとに大木を間伐すれば、すばらしい里山として共存できます。
  
  もうひとつ、暗澹たる気持になったことがありました。
  渋民村のバス停の横に立てられた、開発整備事業を宣言する計画図です。その図で塗りつぶされた区画には、広い道路が通り、商店や住宅が整然と建ち並ぶのでしょう。コンクリートと、整備された歩道と、作られた公園と、道路わきに作られた花壇。見た目がきれいになるに違いありません。
  全国どこへ行っても、同じ街が出現しています。県や市の整備計画は、全国一律の図面で引かれていると思えるほどです。
  渋民よ、お前もそうなるのか、と思わずそのトタン板をバンバン叩きました。広い道路が貫けば、その途端、住民のつながりが稀薄になります。車がスピードを落とさずに走り抜け、騒音と埃だけが残つて、住民は扉を閉めて家に籠もるようになります。これは日本全国で発生している現象です。
  尋常小学校の子供にストライキをさせ、課外授業で小学生の子供に英語を教えた啄木の精神を継ぐ人は、今、渋民村にいないのでしょうか。

    ふるさとに入りて先づ心傷むかな 道広くなり 橋も新らし

  啄木の心の傷を さらに痛みつけていると気付く人は、今、渋民村にいないのでしょうか。
  渋民小学校の校歌の石碑の前で熱く感動して落涙した私は、同時にまた、渋民を離れるバスの中で、失望と憤怒に拳を握りしめる私でもありました。

  贅言を弄して、申し訳ありません。貴校の生徒さんに写真を渡して下さいとお願い申し上げることが、敝札の目的でした。わたくしを温かく迎えてくれたあの子たちの笑顔に接して、渋民が生んだ若き世代の健全さに嬉しくなり、ああ渋民の風土はいい、と思ったことをお伝え下さい。
  久保卓哉画像引用文献
①②③④『石川啄木入門』 監修 岩城之徳 編集 遊座昭吾・近藤典彦 思文閣出版 平成4111日発行

⑤『啄木写真帖』 吉田孤羊 著 乾元社 昭和二十七年八月三十日発行

北上川 鶴飼橋 姫神山 啄木歌碑 
川下側から川上を見る
 ⑤
 
現在の鶴飼橋 北上川 
正面の丘に啄木歌碑 
川上側から川下を見る (2002.6.15)
 
17歳の啄木 ④
啄木生誕の常光寺
啄木処女詩集『あこがれ』 ③

2012年6月13日水曜日

えじそん食べなくなって5日め 18歳 2012.6.13

えじそん18歳 今年も6月になると 食べなくなった 今日で5日目   2011年も 2010年も 2009年も 同じように 6月になると 食べなくなる
牛乳も少し鼻を近づけるだけ
柔らかい魚の缶詰も 鼻でかぐだけ
モモの方が 魚の缶詰に 興味津々
けれども 7月になると 食べるようになる
去年もそうだった 一昨年もそうだった
だから 今年も 同じにちがいない



















2012年6月10日日曜日

横山大観の書簡 角間温泉高島屋旅館 高相芳之助 昭和5年

信州 角間温泉 高島屋旅館に泊まったとき (2012年5月26日)
女将さんの部屋にかかっている 横山大観の書簡を見せてもらいました
旅館の創立者は女将の祖父で この祖父高相芳之助が 旅館経営とともに
角間温泉の振興をはかる活動をしていたようです

横山大観を角間温泉にゆかりのある文化人とするため
角間温泉に「嶽心荘」という大観の別荘を建設し 角間に住んでもらおうと
したことがあったようです
その際に交流があった横山大観から 高相芳之助に宛てた書簡が
この扁額でした
以下に 解読した例を示しておきます



啓上
寒気嚴敷候處愈ゝ
御機嫌克久大慶之至ニ存候
扨て来る四月伊太利國ニ於テ
現代日本畫展覧会開会ハ多
され候ニ付て者野生も之ニ携は
りて渡歐致候事尓相成来る

二十七日午前十時東京驛出発
三十日神戸解纜白山丸尓
乗船旅程ニ上り候筈二御座候
隨つて此處半年程自然御
無沙汰申上候事ニ相成申上べ久
何卒不悪御諒承願上候
実者拝趨之上親し久御暇乞も
申上べき筈之處ニ候得共出発
前何角多用ニ取紛れ居候間
乍失礼書中越以而右御
挨拶申上度如此ニ御座候
          草々
昭和五年一月廿日
        横山大観
高相芳之助様

高島屋旅館創業者 高相芳之助 に宛てた 横山大観の書簡 (高島屋旅館蔵)

角間温泉バス停 便数は湯田中駅行き6:23一本だけ
湯田中から到着するバスは 9:22 13:22 17:22 三本だけ
左の坂を行くと 嶽心荘 すぐそこ

嶽心荘

横山大観揮毫の扁額




『興隆寺隠寮の歩み』 角間温泉の歴史
横山大観と嶽心荘 について詳しい

2012年6月9日土曜日

鯛の迫川 安東ホタルまつり 695人(こどもたち645人 スタッフ50人) 2012年6月9日

あつまった子どもたち 手前の背中はこれから発表する5年生
ホタルまつりには 夕方6時ころからぞくぞくと人が集まり おおさわぎ
7時でもまだ明るいのに こどもたちはおおはしゃぎ

昨年は600人があつまったというから 今年も約700人

ベビーカーの赤ちゃん 保育園の子 小学生は一年生から六年生まで
なかには 手をにぎりあった高校生のカップルも



じゃんけん グー で勝ったで~
この日いちばんの顔の男の子

勝ち残りの景品 取ったで~

あき ギブスのはるな

クイズ大会

クイズ大会 6年生たち

買って 賞品 もらったで

賞品 もらったで~


ひろな おかあさん 

ホタルたくさんいたよ

はなびのうちわ

2012年6月8日金曜日

ホタルを見にいこう ペティア 張彧彧 楊柳 2012.6.9


手の中に ほたる 煜彧(いくいく) 左 ペテァ 右

ペテァさんは、ブルガリアの名門ソフィア大学からの留学生。
初めての外国、初めての日本だのに、「そうですねぇそこのところは
 びみょうにちがいます」 とか 「そうともいわれますが」 とか 「それは
それこれはこれ」とかの、日本感覚の表現がバンバン飛び出す、日本語を話す。
四月に来日してまだ二カ月なのに、日本的言い回しがドンドン上達。



ブルガリアにはホタルが無いけれど、日本に行くとホタルが見られると
分かっていたので、ぜひとも見たいと思つていた、と、ペテァさん。



趙建紅さんの日本語の授業でホタルが教科書にあり、ホタルのことを

趙さんが話すと、ペテァさんが、見に行きたいと言ったことが、きっかけ。
左が川 右が山

趙さんは、拍案驚奇の研究会で、わたしからホタル情報を聞いていたので、
それならわたしに聞いてみれば、となったらしい。



ペテァさんは早速やってきて、ホタルのことを聞きました、と。
わたしも御調のホタルを観察に行く予定だったので、日程を即座に決定。
5月31日(火)の夜に行きましょう、となった。
ペテァさんが、友だちに声をかけたところ、一緒に行きたいという友だちが
8人かそれくらいいるようだったので、一台の車では行けないとわかり、
たんとう先生の応援をあおぐ。



せっかくだから、群れ飛ぶホタルを見せてあげたいと思い、
ホタルの数が多いか少ないかを見るために、5月30日(月)の夜
大塔川の現場へ。 行ってみると、ホタルは30匹くらいの少なさだった。

そこで早速、見に行くのは次週がいい、とペテァさんに電話。
煜彧(いくいく)のへんがお その1


多人数で行動する時、日や時間が変わると、その調整がむずかしく、
しかも連絡が煩雑なもの。
ところがペテァさんは、次週への変更をすぐに伝えて、すこしも苦にしていない。



6月8日(水)頃だとホタルの数が増えていると見て、この日に決める。
やって来たペテァさんにそれを伝えると、う~ん、と一息おいて、
「わたしアルバイトを始めました。一週間に二回だけですけれど、
水曜日と金曜日。8日は最初のアルバイトの日ですが、でも、だいじょうぶと
思います。相談してみます」 と。

煜彧(いくいく)のへんがお その2


ところがアルバイトの日は変えられなかったらしい。そこで、8日の
翌日の9日木曜日に行くことになった。
集合場所は松永のバス停、集合時間は午後六時。
ペテァさんは、日にちの変更と、待ち合わせ場所と時間を、友だちに
連絡することを完璧にこなした。
この名コーディネイターぶりに、感服。

18時 松永バス停 集合
声が あたりに 響いて やかましー

定刻どおりに、ペテァさんが友だち3人とやって来た。(この3人は合原藍、
佐藤加奈子、武市真季) 残りの友だちはバスでもうすぐ着くという。
やがて、バスが到着し、たくさんの学生が降りてくる。その中に、留学生
の二人(楊柳、趙煜彧)と人文科の二年生(冠沙知、菅原麻衣)がいて、
笑顔で合流。二台に分乗して、三成の仁屋へ移動。
18時半 とんかつ仁屋 到着 予約していたイス席を変更して、
疊の座卓をかこむ

おすすめの「ヒレカツ丼」を9人。ペテァさんは、肉を食べないように
している、というので、一人だけ「エビ天丼」を注文。仁屋のいつもの
おじさんが、誠実な笑顔で「ヒレカツ丼」からでき次第運びます」
と恐縮しながら説明。やはり、ペテァさんの「エビ天丼」は最後に

運ばれて来た。

外が薄暗くなる19時半まで、談笑。談笑してわかったこと 
楊柳さん:天津科技大から来て、まだ1年と三カ月の四年生。
大学院は、早稲田大学をねらっている。
趙煜彧さん:3年生。上海師範大から留学。家は上海の「普陀」。
pu tuoが分らないので聞いていると、横でペテァさんが携帯を
出して、なんと、googleearth でその「普陀」を表示してくれた。

恐怖のお堂 も へいき
 ペテァさん:ブルガリアは肉食。一日に三度肉を食べる。食べるとき肉がないと、

どうして肉ないの、と言う。肉は、鷄と豚。ブルガリアのパンは柔らかい両手で握ると
小さくなるくらいふわふわ。とてもおいしい。
でも私だけ、お米を食べる。私は日本食が大好き。お肉を食べなくなったのは、3年
前くらいから。
アルバイトは、english cafe。そこでは、英語しか話さない。お客さんはそれを
目的に来て、私と 他に二人の外国人がアルバイト。

19時55分 仁屋から出発。御調の大塔川へ。暫く走ると暗やみが訪れた。
20時半到着。遠くに見えるホタルの光に、みんな歓声。 おじさんが一人、
カメラの三脚を構えていた。
ホタルを手の中に止まらせたり、携帯で撮影したり、メスはどれですか、
これはどうですかと、あちこちのホタルめがけて歩きまわり、歓声。

山側は真っ暗でその先には、小さな社が建っている。暗やみにぼんやりと建物が見えると

その中から誰かが出て来そう、誰かが見ていそうで、背筋がぞっとする。
ペテァさんに、恐いものがある、一人で行ってみて、というと、「わたし平気」
真っ暗な道を歩き出す。しばらくすると、「どっち、何もないよ」と声。
もっと先 もっと先 というと、「もっと先ね」
「全然こわくないよ」と声が聞こえるので、じゃあ 行ってみよう、と立って待っている
みんなで ペテァさんの所へ。 その時の写真あり。


21時半まで 大騒ぎ

♀2♂2 採卵用
松永駅に帰着したのは、22時すこし前。

 カムリ車は道に迷ったのか 帰着せず。明王台のかのじょは 

 みんなと出会えたのだろうか。 

元気いっぱい 楽しさいっぱい の ホタル観察でした。