2022年6月14日火曜日

鈴木梅仙 漢詩軸 七言絶句「自笑此身爲墨癡」







  自笑此身爲墨癡  自(みずか)ら此の身を笑う 墨痴為(た)りと

    半生日月老天涯  半生日月 天涯に老ゆ

    坡仙去後無相識  坡仙(はせん)去りて後 相識(そうしき)無く

    海内知音定是誰  海内の知音 定めて是れ誰かあらん

    

    梅仙墨史左書 梅仙墨史 左書

   【関防印】

    「无言而言」(無言而言)(時計回り、反時計回りに読んでも「無言而言」となる)

   【落款印】 

    「明治墨狂」 「槑仙之印」(梅仙之印))


   【口語訳】

    わたしは墨狂いの「墨痴」だとわが身を笑う

    生涯の大部分をそのように生き、今故郷を遠く離れた異郷で老いようとしている

    蘇東坡亡きあと、わたしには知人がなく

    天下に心の底を打ち明けて話すことができる友が果たしているだろうか


  【語注】

墨痴 墨造りに夢中になっている人。「痴」は、ある事に極度に夢中になっている人。

半生 一生涯の大部分。大人になってからの生涯の大部分。

日月 つきひ。としつき。歳月。

天涯 空のはて。きわめて遠いところ。故郷を遠く離れた土地。異郷。

相識 互いに知り合っていること。知人。

坡仙 蘇東坡。坡老。坡公。

坡仙去後 蘇東坡と出合ってからのちは。 蘇東坡との出合い以来。

海内 天下。世界。国内。

知音 心の底をうちあけて話すことのできる友。心の通じ合った親友。無二の友。知人。

定 さだめて。結局。つまりは。はたして。

左書 左手で文字を書く。


  【鈴木梅仙と蘇東坡】

     宋を代表する文人蘇軾(蘇東坡)は、詩文のみならず書画にも多くの作品を残す。その中には、墨の製法、墨の素材、墨の品質について論じているものがある。

     鈴木梅仙は、日本の墨よりも中国の古墨がもてはやされた当時、中国の墨を調べ上げた上でみずからの梅仙墨を、中国に勝るものにした。その際、蘇東坡の筆、墨、硯、紙に言及する詩文と書画作品を研究したと思われる。

     梅仙は、日本の文人墨客は、支那趣味の先生が言う「書画は唐墨に限る」との説を迷信していると批判し(鈴木梅仙「用墨問答」)、日本は美術の国であるのに、墨は海外に仰ぎ自国の墨を用いないのは国家の恥辱であると残念がり、更に、今の唐墨は「価を安くして粘りを除き、需用者の好みに投じたる一種の新墨法に」過ぎない、と不満を述べ、それだからこそ私は「余が一身を投げうち、一家を顧みず、畢生の力をここに用いた」(同「用墨瑣言」)、と墨造りに賭けた人生を語っている。

     梅仙は、学を好み漢学詩文を善(よ)くしたことが知られるが(貴志康親『紀州郷土藝術家小傳續篇』)、梅仙にとって漢籍を読み漢詩文を作ることは、尋常茶飯のことであった。

    『墨苑清賞』

     造墨研究の対象を中国に求めて、その子細を漢文で書いた梅仙の著『墨苑清賞』がある。その著には、墨を論ずる漢籍文献を、ひろく調べた結果が記されている。例えば、宋・葉夢得(しょうぼうとく)の『避暑録話』を挙げて、「世の中には、墨に留意しない人が多い。留意しても墨は黒いと言うだけである。しかし本当は墨の黒は得難いもので、単にまだ細かく区別したことがないだけである」と、墨を論じていることを紹介し、

 明・屠隆(とりゅう)の『考槃餘事(こうはんよじ)』には、 「古人が墨を使う時は、必ず精品を選ぶが、それは美を今に行きわたらせるだけでなく、美を更に後まで伝えるためである。晋唐の書や宋元の画は、みな数百年たっても、墨の色は漆のように光沢があり、神気が充溢している」   と論じていることを紹介している。梅仙は、この実例として蘇東坡を挙げ、        「東坡の真蹟は、漆の光沢が紙の上に立っているが如し」   という。

     梅仙の蘇東坡への言及はもう二つある。一つは、東坡の言葉を伝えて、  「東坡が言うには、余は数百挺(ちょう)の墨を蓄え、暇な日に取り出しては試しているが、墨が黒いといえる物はほとんど無く、せいぜい一つか二つだけである、と」  二つめは、墨の光沢について述べた「試墨法」の章で、明・王道貫の「墨書」には、「紫光が上で、黒光がその次、青光がその次、白光がその下、黯淡(あんたん)として光らない墨が下の下」 とあるが、私の考えでは、と自説を論じる。  「愚侒(あん)ずるに、青光の下と、白光の上に、赤光の二字を加えるべきである。紫光は赤色ではない。紫光は薄暗くて浮き出ず、艶やかでないが、しかし濁りがない。つまり東坡翁が言う「湛湛たること小児の目晴の如し(深く澄んでいること小児の瞳のよう)」ということである」   と。これら二つの蘇東坡の言葉については、梅仙はその典拠を示していないが、わたくしが調べたところ蘇東坡の『東坡題跋』にある「書墨」(墨を書す)と「書懐民所遺墨」(懐民の遺る所の墨を書す)から引用している。梅仙がいかに蘇東坡を研究していたかが分かる。

     また、『墨苑清賞』には墨を磨(す)る際の力について、中国の法を紹介した上でそれを批判している。 中国の「磨墨法」を論じたものに、「墨を磨るときは少女を使う。又、病人のうち重い者を使う」 と、磨墨がいかに精微なものであるかと言っているが、絶佳の墨であれば、たとえ勇壮な男が磨っても、色つやは光彩を放つものだ。昔の人は佳(よ)い墨を手に入れることが難しかったから、磨り方に用心したまでで、ここまで来るとまことに嘆かわしい。

     また、墨の寿命についても、「およそ墨の適度は、五年十年から五十年までが最も佳く、百年を過ぎるとその度を越える」 と明確に論じている。

  書物として全十七葉に著述された『墨苑清賞』の全文をここに紹介することができないが、鈴木梅仙の造墨に対する研究心と熱意と学識の深さがよく分かる。

 

   【 鈴木梅仙と勝海舟】

         鈴木梅仙が勝海舟を訪問した時、玄関払いを喰って追い返されたことが郷土資料にあり、勝海舟の言葉が記録されている(貴志康親『紀州郷土藝術家小傳續篇』)。勝海舟が梅仙に向かって言った言葉は、まことに辛辣である。

            「由来名墨は本元の支那ですら最も難しい。蘇東坡の如き学者でさえ墨を造って成功しなかった。それなのに、紀州田辺の片田舎で墨を造るなんぞは、鵜の真似をする烏と同じく(身の程を知らずに人のまねをして失敗する者)、墨らしい物すら出来るわけがない」

        梅仙は、支那を持ち出し蘇東坡を持ち出し、紀州の片田舎を持ち出してまで、自分を見下げた海舟に、猛烈に反発したであろう。

         だから「幸い持合せる自作品を」、つまり梅仙が懷に入れていたこの七絶「自笑此身爲墨癡」詩を取り出して、玄関に置いて去ったという行為は、まさに士大夫の風がある。

         だが、この七絶詩は、「幸い持合わせ」ていたのではなく、玄関払いの憂き目に遭って帰った後に、仕返しをすべく、墨・紙をおろしてこの七絶詩を作ったと考える方が、因果的に必然のことであろう。

         その眼目となる語は、海舟の「蘇東坡」と梅仙の「坡仙」である。

        梅仙の旧作に「坡仙」を詠みこんであって、海舟が偶然にも「蘇東坡」に言及したのではなく、その逆で、海舟が「蘇東坡」を持ち出して難じたのを受けて、わが身の「坡仙」への知見の深さを表現し、更に返す刀で、結句(第四句)で「海舟さんあなたもか。私を理解してくれる知音はどこにもいない」と慨嘆したのであろう。

         詩を梅仙墨で書き上げた梅仙は、再び海舟を訪れて詩を示し、併せて墨の黒さと光沢を見せつけたに違いない。詩と墨を見て打たれた海舟は、改めて梅仙を招いて墨談義をし、同志の高橋泥舟、山岡鉄舟にもこんな男がいると伝えたのであろう。

 鈴木梅仙の扇面詩


渡水復渡水  水を渡り 復(ま)た水を渡る
 看花還看花   花を看て 還(ま)た花を看る
春風江上路  春風 江上の路
不覺到君家 覚えず 君の家に到る

八十貳翁梅仙墨史左書 八十二翁 梅仙墨史 左書す



関防印

  「无言而言」(無言而言)

落款印

  「槑仙之印」 「明治墨狂」


    明・高啓 詩 「尋胡隠君」(胡隠君を尋ぬ)
    渡水復渡水
    看花還看花
    春風江上路
    不覺到君家
    
    鈴木梅仙が、高啓の詩を扇面に揮毫したもの。



2022年6月13日月曜日

 書評 『父上は怒り給いぬ 大逆事件 森近運平』あまつかつ著



あまつかつ著『父上は怒り給いぬ』                                        久保卓哉

  1972年(昭和47315日初版発行のこの書はどれくらいの人に読まれたのかと気にかかる。1200円の定価がamazonでは3800円、古書店によっては5500円の値を付けている事から今や貴重な書であるといえる。それにしても「父上は怒り給いぬ」という書名と「あまつかつ」という筆名は謎めいていて惹かれる。

 その謎は吉岡金市がこの書に寄せた「序」が明らかにしてくれる。この書名は、森近運平の獄中の歌「父上は怒り給いぬ我は泣きぬ」からとったもので、「あまつかつ」は歌人・天津克子であり、しかもあまつかつは、資料読みに十年を費やした後、校正刷りができた時は吉岡金市と吉実誠一(森山誠一)に誤りの直しを請うたという。何故二人に史実との照査を依頼したかというと、吉岡金市は『森近運平―大逆事件の最もいたましい犠牲者の思想と行動―』(日本文教社1961年)の著者であり、吉実誠一は「森近運平年譜」を作成し、且つ埋もれた「伝記資料」を精査している研究者であったからだ。あまつかつの二人への崇敬は如何程であったか容易に想像がつく。

 あまつかつは『大逆事件の真実を明らかにする会ニュース』に十度登場する。その一つは第25号(1986年)の「ある手紙」で、森近運平生家と石碑の荒果てた現状を訴えたものである。京都市伏見区に住むあまつかつが、何故遠く離れた岡山県後月郡の生家と石碑の窮状を憂えたのか。それは再び吉岡金市の「序」が明らかにしてくれる。あまつかつの夫・天津日来は毎日新聞笠岡支局の記者で、1961年(昭和36124日生家に石碑が建てられた時、多くの記者の中で最も熱心に取材し最も適切な質問をしたのが夫君だったという。しかもその前夜23日の晩、夫は妻のあまつかつに「明日大逆事件で刑死した人の(略)獄中で書いた歌碑が建つ」と涙と怒りを交えて熱く語ったと、あまつ自身が書いている(同上『ニュース』第201973年)。

 あまつかつの『父上は怒り給いぬ』が出版された時、大原慧と塩田庄兵衛はそれぞれ『日本読書新聞』と『週刊読書人』に書評を発表した。そのうち大原慧は「あえて一言するならば(略)歌人としてのするどい感性を自由に駆使し、森近の内面的世界に踏み込んで<森近の人間像>を描いてほしかった」と評したが、これには賛成できない。何故なら、あまつ歌人は資料を深く読んだ後に、森近の話す言葉を作り出し、また思考と内面の揺ぎを見事にこの書で描き出しているからだ。森近生前の活き活きとした風貌が浮かんでくる。

 例えば、この描写はどうだろう。上京した24歳の運平が福田英子と会った時の事だ。

「つい一と月前まで、岡山県下の各地を農事指導のため駆け廻って、土の匂を肌に沁み込ませ冬陽に灼けた浅黒い顔にボサボサの天神髭を貯え、赤茶けたインパネスを着て田舎紳士然とした飾らぬ風貌部厚い唇からとび出す歯切れのよい能弁の運平を、同郷の先輩福田英子は弟の上京のように喜んで・・・」

ここからは運平の風貌のみならず、汗臭い体臭までが匂ってくる。特に、「田舎紳士然とした」という表現がいい。田舎臭いのに、どこかに気品を備えている青年の匂いである。

 又例えば、この場面はどうだろう。妹森近栄子が語る、死刑判決を知らせに来た新聞記者とそれを聞いた父嘉三郎、母ちか、妻繁子が、驚いて色を失う場面である。ここにその一頁分の描写を再録しないが、

ランプを消して床についた森近家の戸をドンドンと叩く音と「森近さん」と呼ぶ声に、妻繁子が寝間着を直しながら戸を開ける。戸を叩いた記者の声を寝床で聞いた父母は、大急ぎで身繕いをして土間に出る。記者が悲しそうに告げようとするその声を、引たくるように父が、「三年ですか。五年ですか」「無期でしょうか」と聞く。しかし記者から聞いたのは「死刑です!」の言葉であった。

「三年ですか。五年ですか」「無期でしょうか」。「死刑です」という会話の底に淀む悲惨。それを描いたこの場面は際立って優れている。

 次に、小寺全志の事に言及しておきたい。吉岡金市の同上書『森近運平』は、資料を博捜して小寺全志と森近との関係を詳述する。けれども一方で、あまつかつは吉岡の博引資料の論理の隙間を埋めるかのように、小寺全志を生き返らせている。小寺全志とは、運平の『回顧三十年』には「郡からの補助生は私の外に県主村の小寺全志君で」と登場する県立農事講習所の同級生であり、また「井原市門田町旧県主村長を長くつとめた人格者として郷党の尊敬を集めていた小寺全志」(吉岡金市同上書)の事である。

 後月郡に一つだけだった精研高等小学校で、運平は「殆んど毎日の様に大きい奴に苛められて泣いておった」(『回顧三十年』)と述懐しているが、その苛めのシーンをあまつは次のように描く。

「下校時に数人で山裾に運平を待伏せをしていて、むずかしい算術の問題や漢字などをつきつけ『昨日、おめェ休んだけェ解るまァがやァ。この問題は小寺しかできんかったむつかしいのんじゃ。おめェ、して見ィ』『できァすまァ。できたら道あけてやるけんどが、できねば拳骨三つじゃゾ』と、脅迫したり通せんぼうをしたりする。いくら長く休んでいても算術や漢字は怖くはないが、腕力には勝てない運平であった」と。

苛めの切掛けに小寺を登場させたあまつかつは、小寺全志を「運平より二つ年下であったが、ともすると年上かと錯覚するばかりに、温和で落ちついた性格の持主」として描く。(運平と小寺の年齢差は、森山誠一先生から年令差は四歳あり小寺の方が年長と、史実との違いを教えて頂いた)

又大阪平民社期の運平が母の病気を見舞うために夜行列車で帰省した時の夜、の事である。

「その夜(略)小寺全志がやって来た。運平の帰宅を知った小寺は、夜陰も嫌わず隣村からひた歩きに歩いて、運平の顔を見に来たのである。久方ぶりに見る小寺は、百姓ひとすじに生きている若者らしく、陽灼けした顔にははち切れんばかりの健康と逞しさをみなぎらせていた。小寺もまた高見と同様、運平に主義を捨てさせるべく助言に来た模様であったが、若い彼は、その事はよく切り出さず雑談をして『こげな田舎で百姓ばァしよったら天下泰平で井の中の蛙で何も分らんけどが、町ではえらい不景気じゃと言う事じゃが、ほんまかのう』・・・と、話す小寺と運平は、学生時代にかえり本当に楽しそうであった」

と小寺を描く。まるで映画の中で見るように小寺全志が動く姿が見える。この小寺とはいうまでもなく、処刑の三日前、獄中より弟森近良平に托して運平が届けた小寺への遺書の中で、

「最も親愛なりし旧友小寺全志君、御承知の如く小弟は死なねばならぬ事となつた」

「十余年前御母堂が、全志には兄弟がないから、森近さんあなたを全志の弟と思う、その積りで懇意にして・・・と仰せられた言葉が、今日耳に残って居る」

と悲しくも告げた小寺全志である。

 最後に実は、この書によって最もすんなりと理解できたのが、平民新聞、週刊平民新聞、直言、日刊平民新聞、大阪平民新聞、日本平民新聞等の紙名の推移と背景とであった。大逆事件資料を通してこれら発行紙の名称とその記事に接してはいても、本当のところは、繋がりがよく分らなかったし、考えてもいなかった。だがあまつかつは、結社と新聞の実情とその経緯とを、流れるように分かりやすく描いて、私に呑み込ませてくれた。

 まさしくこの書には、著者十年の成果が存分に表れていると言えよう。