2022年6月13日月曜日

 書評 『父上は怒り給いぬ 大逆事件 森近運平』あまつかつ著



あまつかつ著『父上は怒り給いぬ』                                        久保卓哉

  1972年(昭和47315日初版発行のこの書はどれくらいの人に読まれたのかと気にかかる。1200円の定価がamazonでは3800円、古書店によっては5500円の値を付けている事から今や貴重な書であるといえる。それにしても「父上は怒り給いぬ」という書名と「あまつかつ」という筆名は謎めいていて惹かれる。

 その謎は吉岡金市がこの書に寄せた「序」が明らかにしてくれる。この書名は、森近運平の獄中の歌「父上は怒り給いぬ我は泣きぬ」からとったもので、「あまつかつ」は歌人・天津克子であり、しかもあまつかつは、資料読みに十年を費やした後、校正刷りができた時は吉岡金市と吉実誠一(森山誠一)に誤りの直しを請うたという。何故二人に史実との照査を依頼したかというと、吉岡金市は『森近運平―大逆事件の最もいたましい犠牲者の思想と行動―』(日本文教社1961年)の著者であり、吉実誠一は「森近運平年譜」を作成し、且つ埋もれた「伝記資料」を精査している研究者であったからだ。あまつかつの二人への崇敬は如何程であったか容易に想像がつく。

 あまつかつは『大逆事件の真実を明らかにする会ニュース』に十度登場する。その一つは第25号(1986年)の「ある手紙」で、森近運平生家と石碑の荒果てた現状を訴えたものである。京都市伏見区に住むあまつかつが、何故遠く離れた岡山県後月郡の生家と石碑の窮状を憂えたのか。それは再び吉岡金市の「序」が明らかにしてくれる。あまつかつの夫・天津日来は毎日新聞笠岡支局の記者で、1961年(昭和36124日生家に石碑が建てられた時、多くの記者の中で最も熱心に取材し最も適切な質問をしたのが夫君だったという。しかもその前夜23日の晩、夫は妻のあまつかつに「明日大逆事件で刑死した人の(略)獄中で書いた歌碑が建つ」と涙と怒りを交えて熱く語ったと、あまつ自身が書いている(同上『ニュース』第201973年)。

 あまつかつの『父上は怒り給いぬ』が出版された時、大原慧と塩田庄兵衛はそれぞれ『日本読書新聞』と『週刊読書人』に書評を発表した。そのうち大原慧は「あえて一言するならば(略)歌人としてのするどい感性を自由に駆使し、森近の内面的世界に踏み込んで<森近の人間像>を描いてほしかった」と評したが、これには賛成できない。何故なら、あまつ歌人は資料を深く読んだ後に、森近の話す言葉を作り出し、また思考と内面の揺ぎを見事にこの書で描き出しているからだ。森近生前の活き活きとした風貌が浮かんでくる。

 例えば、この描写はどうだろう。上京した24歳の運平が福田英子と会った時の事だ。

「つい一と月前まで、岡山県下の各地を農事指導のため駆け廻って、土の匂を肌に沁み込ませ冬陽に灼けた浅黒い顔にボサボサの天神髭を貯え、赤茶けたインパネスを着て田舎紳士然とした飾らぬ風貌部厚い唇からとび出す歯切れのよい能弁の運平を、同郷の先輩福田英子は弟の上京のように喜んで・・・」

ここからは運平の風貌のみならず、汗臭い体臭までが匂ってくる。特に、「田舎紳士然とした」という表現がいい。田舎臭いのに、どこかに気品を備えている青年の匂いである。

 又例えば、この場面はどうだろう。妹森近栄子が語る、死刑判決を知らせに来た新聞記者とそれを聞いた父嘉三郎、母ちか、妻繁子が、驚いて色を失う場面である。ここにその一頁分の描写を再録しないが、

ランプを消して床についた森近家の戸をドンドンと叩く音と「森近さん」と呼ぶ声に、妻繁子が寝間着を直しながら戸を開ける。戸を叩いた記者の声を寝床で聞いた父母は、大急ぎで身繕いをして土間に出る。記者が悲しそうに告げようとするその声を、引たくるように父が、「三年ですか。五年ですか」「無期でしょうか」と聞く。しかし記者から聞いたのは「死刑です!」の言葉であった。

「三年ですか。五年ですか」「無期でしょうか」。「死刑です」という会話の底に淀む悲惨。それを描いたこの場面は際立って優れている。

 次に、小寺全志の事に言及しておきたい。吉岡金市の同上書『森近運平』は、資料を博捜して小寺全志と森近との関係を詳述する。けれども一方で、あまつかつは吉岡の博引資料の論理の隙間を埋めるかのように、小寺全志を生き返らせている。小寺全志とは、運平の『回顧三十年』には「郡からの補助生は私の外に県主村の小寺全志君で」と登場する県立農事講習所の同級生であり、また「井原市門田町旧県主村長を長くつとめた人格者として郷党の尊敬を集めていた小寺全志」(吉岡金市同上書)の事である。

 後月郡に一つだけだった精研高等小学校で、運平は「殆んど毎日の様に大きい奴に苛められて泣いておった」(『回顧三十年』)と述懐しているが、その苛めのシーンをあまつは次のように描く。

「下校時に数人で山裾に運平を待伏せをしていて、むずかしい算術の問題や漢字などをつきつけ『昨日、おめェ休んだけェ解るまァがやァ。この問題は小寺しかできんかったむつかしいのんじゃ。おめェ、して見ィ』『できァすまァ。できたら道あけてやるけんどが、できねば拳骨三つじゃゾ』と、脅迫したり通せんぼうをしたりする。いくら長く休んでいても算術や漢字は怖くはないが、腕力には勝てない運平であった」と。

苛めの切掛けに小寺を登場させたあまつかつは、小寺全志を「運平より二つ年下であったが、ともすると年上かと錯覚するばかりに、温和で落ちついた性格の持主」として描く。(運平と小寺の年齢差は、森山誠一先生から年令差は四歳あり小寺の方が年長と、史実との違いを教えて頂いた)

又大阪平民社期の運平が母の病気を見舞うために夜行列車で帰省した時の夜、の事である。

「その夜(略)小寺全志がやって来た。運平の帰宅を知った小寺は、夜陰も嫌わず隣村からひた歩きに歩いて、運平の顔を見に来たのである。久方ぶりに見る小寺は、百姓ひとすじに生きている若者らしく、陽灼けした顔にははち切れんばかりの健康と逞しさをみなぎらせていた。小寺もまた高見と同様、運平に主義を捨てさせるべく助言に来た模様であったが、若い彼は、その事はよく切り出さず雑談をして『こげな田舎で百姓ばァしよったら天下泰平で井の中の蛙で何も分らんけどが、町ではえらい不景気じゃと言う事じゃが、ほんまかのう』・・・と、話す小寺と運平は、学生時代にかえり本当に楽しそうであった」

と小寺を描く。まるで映画の中で見るように小寺全志が動く姿が見える。この小寺とはいうまでもなく、処刑の三日前、獄中より弟森近良平に托して運平が届けた小寺への遺書の中で、

「最も親愛なりし旧友小寺全志君、御承知の如く小弟は死なねばならぬ事となつた」

「十余年前御母堂が、全志には兄弟がないから、森近さんあなたを全志の弟と思う、その積りで懇意にして・・・と仰せられた言葉が、今日耳に残って居る」

と悲しくも告げた小寺全志である。

 最後に実は、この書によって最もすんなりと理解できたのが、平民新聞、週刊平民新聞、直言、日刊平民新聞、大阪平民新聞、日本平民新聞等の紙名の推移と背景とであった。大逆事件資料を通してこれら発行紙の名称とその記事に接してはいても、本当のところは、繋がりがよく分らなかったし、考えてもいなかった。だがあまつかつは、結社と新聞の実情とその経緯とを、流れるように分かりやすく描いて、私に呑み込ませてくれた。

 まさしくこの書には、著者十年の成果が存分に表れていると言えよう。


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