2022年6月14日火曜日

鈴木梅仙 漢詩軸 七言絶句「自笑此身爲墨癡」







  自笑此身爲墨癡  自(みずか)ら此の身を笑う 墨痴為(た)りと

    半生日月老天涯  半生日月 天涯に老ゆ

    坡仙去後無相識  坡仙(はせん)去りて後 相識(そうしき)無く

    海内知音定是誰  海内の知音 定めて是れ誰かあらん

    

    梅仙墨史左書 梅仙墨史 左書

   【関防印】

    「无言而言」(無言而言)(時計回り、反時計回りに読んでも「無言而言」となる)

   【落款印】 

    「明治墨狂」 「槑仙之印」(梅仙之印))


   【口語訳】

    わたしは墨狂いの「墨痴」だとわが身を笑う

    生涯の大部分をそのように生き、今故郷を遠く離れた異郷で老いようとしている

    蘇東坡亡きあと、わたしには知人がなく

    天下に心の底を打ち明けて話すことができる友が果たしているだろうか


  【語注】

墨痴 墨造りに夢中になっている人。「痴」は、ある事に極度に夢中になっている人。

半生 一生涯の大部分。大人になってからの生涯の大部分。

日月 つきひ。としつき。歳月。

天涯 空のはて。きわめて遠いところ。故郷を遠く離れた土地。異郷。

相識 互いに知り合っていること。知人。

坡仙 蘇東坡。坡老。坡公。

坡仙去後 蘇東坡と出合ってからのちは。 蘇東坡との出合い以来。

海内 天下。世界。国内。

知音 心の底をうちあけて話すことのできる友。心の通じ合った親友。無二の友。知人。

定 さだめて。結局。つまりは。はたして。

左書 左手で文字を書く。


  【鈴木梅仙と蘇東坡】

     宋を代表する文人蘇軾(蘇東坡)は、詩文のみならず書画にも多くの作品を残す。その中には、墨の製法、墨の素材、墨の品質について論じているものがある。

     鈴木梅仙は、日本の墨よりも中国の古墨がもてはやされた当時、中国の墨を調べ上げた上でみずからの梅仙墨を、中国に勝るものにした。その際、蘇東坡の筆、墨、硯、紙に言及する詩文と書画作品を研究したと思われる。

     梅仙は、日本の文人墨客は、支那趣味の先生が言う「書画は唐墨に限る」との説を迷信していると批判し(鈴木梅仙「用墨問答」)、日本は美術の国であるのに、墨は海外に仰ぎ自国の墨を用いないのは国家の恥辱であると残念がり、更に、今の唐墨は「価を安くして粘りを除き、需用者の好みに投じたる一種の新墨法に」過ぎない、と不満を述べ、それだからこそ私は「余が一身を投げうち、一家を顧みず、畢生の力をここに用いた」(同「用墨瑣言」)、と墨造りに賭けた人生を語っている。

     梅仙は、学を好み漢学詩文を善(よ)くしたことが知られるが(貴志康親『紀州郷土藝術家小傳續篇』)、梅仙にとって漢籍を読み漢詩文を作ることは、尋常茶飯のことであった。

    『墨苑清賞』

     造墨研究の対象を中国に求めて、その子細を漢文で書いた梅仙の著『墨苑清賞』がある。その著には、墨を論ずる漢籍文献を、ひろく調べた結果が記されている。例えば、宋・葉夢得(しょうぼうとく)の『避暑録話』を挙げて、「世の中には、墨に留意しない人が多い。留意しても墨は黒いと言うだけである。しかし本当は墨の黒は得難いもので、単にまだ細かく区別したことがないだけである」と、墨を論じていることを紹介し、

 明・屠隆(とりゅう)の『考槃餘事(こうはんよじ)』には、 「古人が墨を使う時は、必ず精品を選ぶが、それは美を今に行きわたらせるだけでなく、美を更に後まで伝えるためである。晋唐の書や宋元の画は、みな数百年たっても、墨の色は漆のように光沢があり、神気が充溢している」   と論じていることを紹介している。梅仙は、この実例として蘇東坡を挙げ、        「東坡の真蹟は、漆の光沢が紙の上に立っているが如し」   という。

     梅仙の蘇東坡への言及はもう二つある。一つは、東坡の言葉を伝えて、  「東坡が言うには、余は数百挺(ちょう)の墨を蓄え、暇な日に取り出しては試しているが、墨が黒いといえる物はほとんど無く、せいぜい一つか二つだけである、と」  二つめは、墨の光沢について述べた「試墨法」の章で、明・王道貫の「墨書」には、「紫光が上で、黒光がその次、青光がその次、白光がその下、黯淡(あんたん)として光らない墨が下の下」 とあるが、私の考えでは、と自説を論じる。  「愚侒(あん)ずるに、青光の下と、白光の上に、赤光の二字を加えるべきである。紫光は赤色ではない。紫光は薄暗くて浮き出ず、艶やかでないが、しかし濁りがない。つまり東坡翁が言う「湛湛たること小児の目晴の如し(深く澄んでいること小児の瞳のよう)」ということである」   と。これら二つの蘇東坡の言葉については、梅仙はその典拠を示していないが、わたくしが調べたところ蘇東坡の『東坡題跋』にある「書墨」(墨を書す)と「書懐民所遺墨」(懐民の遺る所の墨を書す)から引用している。梅仙がいかに蘇東坡を研究していたかが分かる。

     また、『墨苑清賞』には墨を磨(す)る際の力について、中国の法を紹介した上でそれを批判している。 中国の「磨墨法」を論じたものに、「墨を磨るときは少女を使う。又、病人のうち重い者を使う」 と、磨墨がいかに精微なものであるかと言っているが、絶佳の墨であれば、たとえ勇壮な男が磨っても、色つやは光彩を放つものだ。昔の人は佳(よ)い墨を手に入れることが難しかったから、磨り方に用心したまでで、ここまで来るとまことに嘆かわしい。

     また、墨の寿命についても、「およそ墨の適度は、五年十年から五十年までが最も佳く、百年を過ぎるとその度を越える」 と明確に論じている。

  書物として全十七葉に著述された『墨苑清賞』の全文をここに紹介することができないが、鈴木梅仙の造墨に対する研究心と熱意と学識の深さがよく分かる。

 

   【 鈴木梅仙と勝海舟】

         鈴木梅仙が勝海舟を訪問した時、玄関払いを喰って追い返されたことが郷土資料にあり、勝海舟の言葉が記録されている(貴志康親『紀州郷土藝術家小傳續篇』)。勝海舟が梅仙に向かって言った言葉は、まことに辛辣である。

            「由来名墨は本元の支那ですら最も難しい。蘇東坡の如き学者でさえ墨を造って成功しなかった。それなのに、紀州田辺の片田舎で墨を造るなんぞは、鵜の真似をする烏と同じく(身の程を知らずに人のまねをして失敗する者)、墨らしい物すら出来るわけがない」

        梅仙は、支那を持ち出し蘇東坡を持ち出し、紀州の片田舎を持ち出してまで、自分を見下げた海舟に、猛烈に反発したであろう。

         だから「幸い持合せる自作品を」、つまり梅仙が懷に入れていたこの七絶「自笑此身爲墨癡」詩を取り出して、玄関に置いて去ったという行為は、まさに士大夫の風がある。

         だが、この七絶詩は、「幸い持合わせ」ていたのではなく、玄関払いの憂き目に遭って帰った後に、仕返しをすべく、墨・紙をおろしてこの七絶詩を作ったと考える方が、因果的に必然のことであろう。

         その眼目となる語は、海舟の「蘇東坡」と梅仙の「坡仙」である。

        梅仙の旧作に「坡仙」を詠みこんであって、海舟が偶然にも「蘇東坡」に言及したのではなく、その逆で、海舟が「蘇東坡」を持ち出して難じたのを受けて、わが身の「坡仙」への知見の深さを表現し、更に返す刀で、結句(第四句)で「海舟さんあなたもか。私を理解してくれる知音はどこにもいない」と慨嘆したのであろう。

         詩を梅仙墨で書き上げた梅仙は、再び海舟を訪れて詩を示し、併せて墨の黒さと光沢を見せつけたに違いない。詩と墨を見て打たれた海舟は、改めて梅仙を招いて墨談義をし、同志の高橋泥舟、山岡鉄舟にもこんな男がいると伝えたのであろう。

 鈴木梅仙の扇面詩


渡水復渡水  水を渡り 復(ま)た水を渡る
 看花還看花   花を看て 還(ま)た花を看る
春風江上路  春風 江上の路
不覺到君家 覚えず 君の家に到る

八十貳翁梅仙墨史左書 八十二翁 梅仙墨史 左書す



関防印

  「无言而言」(無言而言)

落款印

  「槑仙之印」 「明治墨狂」


    明・高啓 詩 「尋胡隠君」(胡隠君を尋ぬ)
    渡水復渡水
    看花還看花
    春風江上路
    不覺到君家
    
    鈴木梅仙が、高啓の詩を扇面に揮毫したもの。



2022年6月13日月曜日

 書評 『父上は怒り給いぬ 大逆事件 森近運平』あまつかつ著



あまつかつ著『父上は怒り給いぬ』                                        久保卓哉

  1972年(昭和47315日初版発行のこの書はどれくらいの人に読まれたのかと気にかかる。1200円の定価がamazonでは3800円、古書店によっては5500円の値を付けている事から今や貴重な書であるといえる。それにしても「父上は怒り給いぬ」という書名と「あまつかつ」という筆名は謎めいていて惹かれる。

 その謎は吉岡金市がこの書に寄せた「序」が明らかにしてくれる。この書名は、森近運平の獄中の歌「父上は怒り給いぬ我は泣きぬ」からとったもので、「あまつかつ」は歌人・天津克子であり、しかもあまつかつは、資料読みに十年を費やした後、校正刷りができた時は吉岡金市と吉実誠一(森山誠一)に誤りの直しを請うたという。何故二人に史実との照査を依頼したかというと、吉岡金市は『森近運平―大逆事件の最もいたましい犠牲者の思想と行動―』(日本文教社1961年)の著者であり、吉実誠一は「森近運平年譜」を作成し、且つ埋もれた「伝記資料」を精査している研究者であったからだ。あまつかつの二人への崇敬は如何程であったか容易に想像がつく。

 あまつかつは『大逆事件の真実を明らかにする会ニュース』に十度登場する。その一つは第25号(1986年)の「ある手紙」で、森近運平生家と石碑の荒果てた現状を訴えたものである。京都市伏見区に住むあまつかつが、何故遠く離れた岡山県後月郡の生家と石碑の窮状を憂えたのか。それは再び吉岡金市の「序」が明らかにしてくれる。あまつかつの夫・天津日来は毎日新聞笠岡支局の記者で、1961年(昭和36124日生家に石碑が建てられた時、多くの記者の中で最も熱心に取材し最も適切な質問をしたのが夫君だったという。しかもその前夜23日の晩、夫は妻のあまつかつに「明日大逆事件で刑死した人の(略)獄中で書いた歌碑が建つ」と涙と怒りを交えて熱く語ったと、あまつ自身が書いている(同上『ニュース』第201973年)。

 あまつかつの『父上は怒り給いぬ』が出版された時、大原慧と塩田庄兵衛はそれぞれ『日本読書新聞』と『週刊読書人』に書評を発表した。そのうち大原慧は「あえて一言するならば(略)歌人としてのするどい感性を自由に駆使し、森近の内面的世界に踏み込んで<森近の人間像>を描いてほしかった」と評したが、これには賛成できない。何故なら、あまつ歌人は資料を深く読んだ後に、森近の話す言葉を作り出し、また思考と内面の揺ぎを見事にこの書で描き出しているからだ。森近生前の活き活きとした風貌が浮かんでくる。

 例えば、この描写はどうだろう。上京した24歳の運平が福田英子と会った時の事だ。

「つい一と月前まで、岡山県下の各地を農事指導のため駆け廻って、土の匂を肌に沁み込ませ冬陽に灼けた浅黒い顔にボサボサの天神髭を貯え、赤茶けたインパネスを着て田舎紳士然とした飾らぬ風貌部厚い唇からとび出す歯切れのよい能弁の運平を、同郷の先輩福田英子は弟の上京のように喜んで・・・」

ここからは運平の風貌のみならず、汗臭い体臭までが匂ってくる。特に、「田舎紳士然とした」という表現がいい。田舎臭いのに、どこかに気品を備えている青年の匂いである。

 又例えば、この場面はどうだろう。妹森近栄子が語る、死刑判決を知らせに来た新聞記者とそれを聞いた父嘉三郎、母ちか、妻繁子が、驚いて色を失う場面である。ここにその一頁分の描写を再録しないが、

ランプを消して床についた森近家の戸をドンドンと叩く音と「森近さん」と呼ぶ声に、妻繁子が寝間着を直しながら戸を開ける。戸を叩いた記者の声を寝床で聞いた父母は、大急ぎで身繕いをして土間に出る。記者が悲しそうに告げようとするその声を、引たくるように父が、「三年ですか。五年ですか」「無期でしょうか」と聞く。しかし記者から聞いたのは「死刑です!」の言葉であった。

「三年ですか。五年ですか」「無期でしょうか」。「死刑です」という会話の底に淀む悲惨。それを描いたこの場面は際立って優れている。

 次に、小寺全志の事に言及しておきたい。吉岡金市の同上書『森近運平』は、資料を博捜して小寺全志と森近との関係を詳述する。けれども一方で、あまつかつは吉岡の博引資料の論理の隙間を埋めるかのように、小寺全志を生き返らせている。小寺全志とは、運平の『回顧三十年』には「郡からの補助生は私の外に県主村の小寺全志君で」と登場する県立農事講習所の同級生であり、また「井原市門田町旧県主村長を長くつとめた人格者として郷党の尊敬を集めていた小寺全志」(吉岡金市同上書)の事である。

 後月郡に一つだけだった精研高等小学校で、運平は「殆んど毎日の様に大きい奴に苛められて泣いておった」(『回顧三十年』)と述懐しているが、その苛めのシーンをあまつは次のように描く。

「下校時に数人で山裾に運平を待伏せをしていて、むずかしい算術の問題や漢字などをつきつけ『昨日、おめェ休んだけェ解るまァがやァ。この問題は小寺しかできんかったむつかしいのんじゃ。おめェ、して見ィ』『できァすまァ。できたら道あけてやるけんどが、できねば拳骨三つじゃゾ』と、脅迫したり通せんぼうをしたりする。いくら長く休んでいても算術や漢字は怖くはないが、腕力には勝てない運平であった」と。

苛めの切掛けに小寺を登場させたあまつかつは、小寺全志を「運平より二つ年下であったが、ともすると年上かと錯覚するばかりに、温和で落ちついた性格の持主」として描く。(運平と小寺の年齢差は、森山誠一先生から年令差は四歳あり小寺の方が年長と、史実との違いを教えて頂いた)

又大阪平民社期の運平が母の病気を見舞うために夜行列車で帰省した時の夜、の事である。

「その夜(略)小寺全志がやって来た。運平の帰宅を知った小寺は、夜陰も嫌わず隣村からひた歩きに歩いて、運平の顔を見に来たのである。久方ぶりに見る小寺は、百姓ひとすじに生きている若者らしく、陽灼けした顔にははち切れんばかりの健康と逞しさをみなぎらせていた。小寺もまた高見と同様、運平に主義を捨てさせるべく助言に来た模様であったが、若い彼は、その事はよく切り出さず雑談をして『こげな田舎で百姓ばァしよったら天下泰平で井の中の蛙で何も分らんけどが、町ではえらい不景気じゃと言う事じゃが、ほんまかのう』・・・と、話す小寺と運平は、学生時代にかえり本当に楽しそうであった」

と小寺を描く。まるで映画の中で見るように小寺全志が動く姿が見える。この小寺とはいうまでもなく、処刑の三日前、獄中より弟森近良平に托して運平が届けた小寺への遺書の中で、

「最も親愛なりし旧友小寺全志君、御承知の如く小弟は死なねばならぬ事となつた」

「十余年前御母堂が、全志には兄弟がないから、森近さんあなたを全志の弟と思う、その積りで懇意にして・・・と仰せられた言葉が、今日耳に残って居る」

と悲しくも告げた小寺全志である。

 最後に実は、この書によって最もすんなりと理解できたのが、平民新聞、週刊平民新聞、直言、日刊平民新聞、大阪平民新聞、日本平民新聞等の紙名の推移と背景とであった。大逆事件資料を通してこれら発行紙の名称とその記事に接してはいても、本当のところは、繋がりがよく分らなかったし、考えてもいなかった。だがあまつかつは、結社と新聞の実情とその経緯とを、流れるように分かりやすく描いて、私に呑み込ませてくれた。

 まさしくこの書には、著者十年の成果が存分に表れていると言えよう。


2020年9月12日土曜日

森近運平 生地のキリスト教 中村九郎と内村鑑三 大逆事件ニュース59

 



森近運平 生地のキリスト教 ― 中村九郎と内村鑑三 ―

 

森近運平のキリスト教批判

 

森近運平にとってキリスト教は社会主義とは絶対に相容れないものであった。その主張は痛烈で明快きわまりない。自著『社会主義綱要』で森近は次のようにいう。

世の宗教家は常に霊の事を唱え、人の衣食問題を論ずる者を見下げている。彼らは、「人には霊肉両面があって、霊は最も高尚(注:けだかい)であり、肉はその次であるから、人を救うにはまず霊を救わねばならない。しかし社会主義者は衣食問題を先にして、霊魂の救済を説かない」と主張するが、それなら宗教家は、自分の衣食の問題を軽んずべきで、まずは教会の給料を断り、衣服を焼いて食を絶ってはどうか。それでも悶え苦しまないなら、吾等の所に来てキリスト教を説いてもよい。

さらに、

牧師や僧侶は、その収入を、神より賜る糧食であるというが、つまりは神を資本的、営利的な物とみなしているということだ。(『大阪平民新聞』20号、明治四一、三、二〇)

またさらに、

釈迦、キリスト、パウロ以後、宗教は当時の権力者と抱き合い、僧侶は俗化している。本来は弱者のために教えを説くはずであるのに、今や、権力者の圧制(注:権威や暴力により人に強制)をほめたたえ、弱者に対しては服従の道徳を説く始末となり果てた。(『活殺』覓牛「宗教の堕落」)(覓牛べきぎゅうは、森近運平の号)①

と、容赦なく批判する。

 このようなキリスト教観は、『基督抹殺論』を著した幸徳秋水も同様である。

 

幸徳秋水のキリスト教批判

 

 「是れ予が最後の文章にして生前の遺稿なり」と『基督抹殺論』の自序でいうごとく、大逆事件の獄中で脱稿した秋水最後の著書であるにもかかわらず、その論の展開に引用する古今東西の宗教文献の博捜ぶりは驚嘆にあたいし、学術論文そのものといえる。その論旨は「キリストなる者は真に一度でもこの世界に存在したことがあるのか」とキリストの存在そのものに疑問を呈し、「聖書は神話で小説であって、キリストの伝記としては半文銭(注:わずかの金銭)の価値もない」「キリストは史的に実在した人物ではない」「今の降誕祭(注:クリスマス)は、キリスト教に始まったのではなく、上古より諸国民が、冬至の節に太陽の復活を祝うために行ってきた祭礼である」等のことを論じて、文字通りキリストを抹殺している。抹殺とは完全に葬り去ることだからこの書名にこめた秋水の意志は激烈極まりない。

幸徳秋水は社会主義の同志に対しても、キリスト教的思考があればそれを糾弾している。

木下尚江はいう。

何時か僕(木下尚江)と幸徳と片山君に伴はれて横須賀の演説会へ行つた時、途中の汽車の中で、突然、幸徳が僕に「神を捨てよ」と迫ったことがある。「君が神を捨てさへすれば、僕は甘んじて君の靴の紐を解く」といふのです。(木下尚江「片山潜君と僕」)

石川三四郎もいう。

殊に幸徳氏は真向から私のキリスト教を打破しようと攻撃の鉾を向けるのでありました。(石川三四郎『青春の遍歴』「悩みはつづく」)

かように幸徳秋水は辛辣にクリスチャンを攻撃し冷笑した。

 

当時の日本の思想界はキリスト教が進歩思想

 

 だが、当時の日本の思想界ではキリスト教が進歩思想であった。

大杉栄がいう。

平民社は幸徳と堺と西川光二郎と石川三四郎との四人で、石川を除くほかはみなだいの宗教嫌いだった。もっともそとから社を後援していた安部磯雄や木下尚江は石川とともに熱心なクリスチャンだった。そしてそこに集まってきた青年の大半もやはりクリスチャンだった。当時の思想界ではキリスト教が一番進歩思想だったのだ。(大杉栄『自叙伝』)

石川三四郎もいう。

『平民新聞』の読者にはクリスチャンが多く、平和運動に共鳴して、非常に熱心に応援してくれました。(石川三四郎『青春の遍歴』「悩みはつづく」)

また、石川三四郎によれば、田中正造翁は決してみずから宗教や道徳を説かなかったけれども、何度目かの官吏侮辱罪で栃木の監獄に入った時、その田中翁を、木下尚江と石川が面会に行くと、最初に要求されたのが『聖書』であったという。(同上書)

 かようにキリスト教と聖書は人を惹きつけて放さなかったという事実がある。

 

中村九郎と内村鑑三

 

 森近運平の少年時代の友人に中村登がいる。森近運平が住む高屋村田口と中村登が住む高屋村丹生とは直線距離にして千米の近さで、道は曲がりくねった登りだが、少年の脚でも約四十分で互いの家に着く。

 森近運平が大逆事件の獄中で書いた「回顧三十年」の遺稿にその中村登が登場する。二人が一里半ほど歩いて通った精研高等小学校時代の思い出のなかで、

此頃の事で私の忘る事の出来ぬのは、余り弱虫であったもんだから、殆んど毎日の様に大きい奴に苛められて泣いて居った事である。

愈々堪へ難いと云ふので、父が学校へ行って校長先生に事情を訴へた。其結果私を苛める張本人の山成敬一と云ふ奴が非常に譴(とがめ)られ、私は泣かずに済む事になった。

それから敬一はいたずらの目的物を変更した。此度の犠牲は中村登と云ふ少年である。併しこれは私に比べると少し抵抗力があった。

と書いている。どうやら中村登はいじめられても泣かず、何くそという反骨心があったようだ。

 このたび取り上げる中村九郎は、中村登の甥にあたり、登と同じ高屋村丹生の家で生れ育った。中村九郎の生年と学歴を記しておく。

明治三〇年十月十五日 中村喜久太の長男として生まれる 祖父中村文太郎 叔父中村登

明治四三年三月    後月郡高屋村尋常高等小学校卒業

明治四四年四月十五日 岡山県立矢掛中学校入学

大正五年四月     第六高等学校入学

大正八年九月     東京帝国大学農学部入学

大正十二年九月三〇日 同大学卒業

 中村九郎は明治三〇年の生れだから、森近運平が処刑されたときは十三歳で、同居している祖父中村文太郎が高屋村村長として東京に拘引されて行く森近運平を送り出した事実は知っていたし、叔父の中村登が森近運平の同級生であることも知っていた。そういう成長歴をもつ。

 だが九郎は、森近運平のように社会主義思想に向かわず、キリスト教と聖書に惹かれていった。

 私は中村九郎が遺した、第六高等学校と東京帝大時代の日記帳②を読んで翻刻したが、六高時代の日記に早くも「内村鑑三先生」の名が登場する。

 九郎が六高から東京帝大に進むことを決めたのは、三年生の大正七年五月十五日で、

 志望届提出す。即ち農学科東京帝国大学農科大学と書き、出す。

と日記にある。これよりひと月前の四月三日には、ダンテの『神曲』を全部読み終えていて、「実に神曲は人生の理想的理想化を説きたる大詩なるを知る」と感想を書きしるし、雑誌『雄辯』に載る「河合栄治郎氏の「戦と愛と」を読んで感動す」、「井原へ行き「ロミヲとジュリエット」を注文」と書いているように、知的関心を高めていた。そのような折の十月十一日から十三日まで、岡山県会議事堂で開催された内村鑑三による聖書講演会を聞いた三日間で九郎は、「急劇に思想が或る一定の方向に走り出した」としるす。

[十月十一日、金]

夜は七時から県会議事堂で内村鑑三先生の講演を聞いた。「世界問題としての基督再臨」と云ふ演題だ。自分はこれで始めて本当の基督教に近い物に接した様な気がして嬉しかった。

[十月十二日、土]

昨日の講演の続きを聞くべく県会議事堂に行った。本日は「聖書問題と再臨問題」と云ふのだ。演述愈々出でゝ、愈々共鳴する処があった。

[十月十三日、日]

「聖書の大意」を聞きに行く。本日の講演は三日中最も重要な部と聞く。詳細は別紙に記して置いた。

[補遺欄]に追記

短時日の内に急劇に思想が或一定の方向に走り出した。

その直接の導火線は何と云ってもあの忘るゝことの出来ぬ十月十一日午後七時よりの岡山県議会議事堂に於て開催の内村鑑三先生の「基督再臨問題」の講演であった。

内村先生の著書を片端から読み始めた。読めば読む程、而して読みて吟味する程、我が内在の本性に深き感動を与へて止めなかった。余は告白す。余はこれ迄この位余の全性に深き共鳴を喚起せし著作に接せしことなきを。

而して深く入れば入る程、愈々出でゝ尽きざる書である。再読、三読した。あゝ余は以後迷はざるべし。

 日記の補遺欄に、内村先生の著書を片端から読み始めた、と記しているように、九郎は四日後に『感想十年』(聖書研究社刊)を六高図書館で借りて読み、ひと月の内に『愛吟』(警醒社書店刊)、『基督信者の慰め』、『基督再臨問題講演集』(岩波書店刊)を買って読んだと記している。

 六高図書館には『万朝報』があり九郎はよく読んでいた。その新聞で内村鑑三の講演が東京神田基督青年会館であったことを知り、九郎は、さぞかし興味深い話であったろうなと、焦がれる思いをつづっている。

[大正八年二月十七日]

本日萬朝報を見たらば昨日東京神田基督青年会館で内村鑑三氏の「イエスの終末観」なる講演のあった由を伝へてゐた。嘸(注:さぞ)興味あったろうと思った。

と。六高を三月で卒業する九郎にとって、東京に行けば内村先生に会えるという思いが強かった。

 

東京帝国大学の中村九郎

 

 九月が学年始期の大学に入学するために、高屋村丹生の家を出たのは大正八年九月七日であった。この日九郎は午前三時に起床し、四時に出発。一時間半歩いて五時三十分高屋の町に着き、井笠鉄道の七日市駅から笠岡駅に午前十時四十分に着いた。その後、山陽本線に乗り換え岡山を経て神戸に着いたのは午後四時二十五分であった。神戸で一泊し、午後七時三十分神戸発東京行き急行に乗った九郎は、五時半頃富士の勇姿を初めて見、東京駅に朝十時に着いた。

 農学部寄宿舎に入舍の手続きをした後、従兄の三吉氏の下宿(千駄ヶ谷)に泊まり、雨に降られて困りながら一人で入舍したのは九月十一日午後四時であった。九郎は日記に「古くきたなき寄宿舎である。生れて始めて寝台の上に寝た」と記している。

 九郎は初めて上京し、初めて富士山を見、そして生まれて初めてベッドの上に寝たのだが、九郎の日記にはそのような初めての経験がほかにも書かれている。

 授業が始まり二週間ほど経った十月二日、初めて日本橋に行き丸善で洋書を見たこと、丸善を出て三越呉服店に入り、初めてエレベーターに乗ったこと。そして西洋料理を食べた時の失敗を次のように書いている。

[十月六日、月]

六高歓迎會に出席すべく寶亭と称する西洋料理屋に行く。思はぬ堂々たる(風采等の)紳士諸君の来会に聊か面喰った。西洋料理を本式に食は余にとっては今回が始めてである。一向様子が解らない。とうとうしくじった。

と云ふのは白きハンカチの如きもの(余はその名称さへ知らない)を前に立てゝあるのをそのまゝにしておいて食事の済むまで動かさなかったのは數十人中余一人であったから知れたのだ。これが東京に来て大失敗をやった第二度目である。

第一回は即ち神保町で渋谷に帰るのを反対行の電車に乗ったことである。

九郎は自分の前に立ててある白いナプキンの使い方が分らずそのままにしておいたようだ。食事を終えて回りのテーブルを見渡すと、自分のナプキンだけがに立っていて、大いに恥ずかしかったという。

 

聖書研究会

 

 東京では内村鑑三の聖書研究会に出て講演を聴くと決めていた九郎は、入学して迎えた最初の日曜日に早くも出席している。

[九月二十一日、日]

午後予て待ち望みたる聖書講演会に出席聴講した。第一に藤井武氏の黙示録第一章に関する講演あり詳しくは別帳「東京聖書講演筆記帳」に記すべければ茲に詳言せず。たゞこの會の豫期以上に静粛なりしには驚かされたり、従って未だ曾て見たることなき気持よき會合なりき。余の霊魂の糧は之をおきて他にあらざるべし。

この聖書研究会に来て内村先生の話を聴くこと以外に、自分の精神をささえてくれるものはない、と思ったという。

 聖書研究会の会場は、時により大手町私立衛生講堂(大日本私立衛生会講堂)であったり、東京聖書学院、そして柏木今井館であったようだが、九郎は毎週日曜日一度も欠かすことなく出席している。その内容と感想の典型的なものをあげて、講演の様子を示す。

[十一月二十三日、日]

午後、例の如く衛生講堂に聖書講演聴講に出た。モーゼ十誡第十條。本日でモーゼ十誡の講演は終りを告げた。この次はローマ書の七章と八章とを順次話すとのことであった。

本日の祈祷は益々熱誠を加へた。そは内村氏により特に現今の時勢から鑑みて現今程世界歴史初つて以来悲惨なる時はない、との話をされたためであった。

「汝貪る勿れ」は十誡第十條で意志の誡めである。「むさぼる」は「むざむさ欲(ほ)る」の意である。「汝等心して貪心を慎めよ」「(路加傳十二章)である。

[十一月三十日、日]

十二時三十分出で衛生講堂に行く。本日は殊によい事を多く学んだ。内村先生の「律法と福音」に関する話あり。蓋し先生に全心全力を傾注されし話なりし事を確信す。自分も又全心全力を傾けて聴いた。最も恵まれた會なりしことを思ふ。

また「東京聖書講演会出席者氏名」を記すべき筆書形の紙片を渡された。これまた自分にとっては天来の恩恵であった。之により更によき事を考へられる手づるとなることである。神は我が願ふ祈りのもとを遂に知りて之を与へ給ふ。

九郎の聖書とキリスト教への思いは内村鑑三によってだんだんと深められ、「余は感極まって感謝の涙を落した」と書く日もあった。

 

クリスマス会

 

 内村鑑三のクリスマス会は明治から続く祝賀会で、九郎よりも十八年早く内村鑑三の話を聞いていた志賀直哉も出席した一人である。(後述)

クリスマスが近づいた十二月十四日の聖書研究会の終わりに内村鑑三は「講演は本日で本年の打ち切りとし、二十一日は柏木の自宅に先ず婦人を、次に筋肉労働者と学生とを、次の土曜及びその次の土曜に招く」と話した。その二十一日のことである。

[十二月二十一日、日]

クリスマス晩餐會兼親睦会が階下の室にて催された。余は先週出ることを申出でゝゐたのだが、急に氣がすすまなくなった。しかして少しためらうた。しかし乍ら遂に意を決して出ることにした。思ったよりもずっと打ち解けたのでびっくりした會合であった。

野菜の入りたる白きパンとコーヒーと蜜柑とセンベイ二種とであった。食終りて閑話(或は感話乎)があった。先づ内村先生によって四,五人指名され次いで有志の話があった。余は最初より最後まで沈黙を守った。

 この記述はまことに色々なことを教えてくれる。階上でのクリスマス講演が終ると、階下におりて親睦会を兼ねた食事会に招待される。学生に出される食事はパンとコーヒーとみかんとセンベイで、食べ終わると「感話」があり、出席した者は何かを話さなければならない。「感話」とは人を感化する目的で行う話のことであるから、指名された者は重荷を背負うことになる。内気で繊細な九郎は、指名されまいとうつむいて、だまりこみに徹したようだ。

 志賀直哉にも同様の経験がある。志賀直哉は学習院中等科の明治三四年から東京帝国大学の明治四一年まで、年齢でいえば十八歳から二十五歳までの多感なときに内村鑑三の話を聴きにいっている。「内村鑑三先生の憶ひ出」「内村鑑三先生のことなど」があり、また日記にも書かれている。

角筈、会、いゝ会だった、内村先生人間の子供としての先生を知る事が出来て、涙が浮むだ、先生は情に厚い方である、(日記、明治四〇年四月二十一日、日)

とにかく内村先生に接していることが非常に気持がいい。内村先生の言われたことでどうというよりも、内村さんの人間性―日常の行動とか、聖書の話でない話とか、いうことのほうが、感銘を受けていました。(「内村鑑三先生のことなど」)

クリスマス会の「感話」については九郎と同じ思いをしていたらしく、

クリスマスの会が夕方からあつた時、皆、三分間の感話をする筈で、私は何をいつていいか分らず、自家を出る時からそれを苦にしていた。(「内村鑑三先生の憶ひ出」)

と述懐している。

 九郎は卒業までの間にクリスマス会に三度出席して「感話」に直面し、またクリスマス会以外でも「聖書講演会出席者中学生労働者親睦会」などの会に出て、「一人づつ立って自己紹介及び聖書講演会感想を述べさせられた」ようで、いやがうえにも内村鑑三との親密度は高くなっていた。

 

内村鑑三の自筆原稿

 

 中村九郎の旧屋(高屋村丹生)に遺された資料の中に、内村鑑三の自筆原稿十五枚があることが分ったのは二〇一〇年六月であった。資料を搬出し、ほこりを払いシワを伸ばして整理していた私は、内村鑑三の名がある封筒と自筆原稿の束を見て驚いた。すぐにはそれが何の原稿で、なぜ九郎が持っているのか分らなかったが、次第にそれは内村鑑三が発行していた『聖書之研究』の原稿であることが分り、その自筆原稿は国際基督教大学内村鑑三記念文庫にも所蔵され公開されていることが分り、それほどに貴重な資料であることを知った。それが高屋村丹生の旧屋から出て来たのである。山陽新聞(岡山)に連絡を取るとすぐに記者(小泉潮氏)が来られたが、記事が掲載されたのはおよそ一年後の二〇一一年五月十日であった。(後述)

原稿は「原稿在中」の印がある封筒に入っていて「岡山縣後月郡高屋町字丹生 中村九郎様」の宛名書きがあり、封筒裏には「東京府下淀橋町柏木九一九 内村鑑三」の印がおされていた。この封筒の消印は薄れて判読できなかったが、もう一つの洋形封筒には大正十四年五月二十八日の消印があり、中に『聖書之研究』第三百号記念の幸福増進費への寄金として「金五圓 御寄附下され誠に有難く存じ奉ります」「御申越に由り小生自筆原稿別封を以て差上げましたから御受取を願ひます」と記した活字の挨拶状があり、末尾には青インクで書かれた内村鑑三自筆の署名と五月二十七日の日付が書きこまれていた。

 九郎は自筆原稿とひきかえに五円を寄附したようだった。当時の五円はどれくらいかというと、小学校教員の給料が五十円、巡査の初任給が四十五円であったことからすると、現在の二万円にあたる。九郎は東京帝大を卒業(大正十二年)すると郷里に戻ったのだが、二年目の春に二万円を寄附したことになる。

山陽新聞の小泉氏は確かな記事を書くために、内村鑑三研究の大家大山綱夫先生に取材をし、大山綱夫先生は丁寧に関係資料七点のコピーを添えて応じ、東京聖書研究会会員名簿にも、聖書之研究購読者名簿にも中村九郎の名があると証明してくれた。その資料七点は、『内村鑑三研究』第二十号、第二十一号、『内村鑑三全集』282935、『内村鑑三日録10 1918-1919 再臨運動』『内村鑑三日録12 1925-1930 万物の復興』である。

これにより、自筆原稿は『聖書之研究』二九六号に掲載された「邪曲の人」(大正十四年三月発行)の原稿であることが分った。九郎の家に届いたのは同年五月であったから、まさに執筆直後の原稿が送られてきたことになる。

森近運平の生地には以上のように東京帝国大学に学び内村鑑三に接した人物が存在し、その詳細な記録が存在し、そして文物ともいえる貴重な資料が保存されている。現在は岡山県井原市高屋町である森近運平の生地は、涸れるれることのない知性の泉であるといえる。青々とした木陰で人は思わず深呼吸をする。そのような生地である。

 

余滴

 

 中村九郎の日記にしるされた内村鑑三の講演内容を読むと、冒頭で引用した森近運平のキリスト教批判を意識したものと思わざるをえないくだりがある。内村は大正七年十月十二日岡山県会議事堂で六高生の九郎たち聴衆を前に次のように講演したと九郎は日記に記録している。

先づ現代の所謂基督教なるものは腐敗しきってをる。教会も腐敗してゐる。牧師が大臣に頭を下げてへつらひを言ふ世の中だ。これではいかん。どうしても聖書の数ヶ所に散見する如く基督はこの世に再臨してこの腐敗した社會を救はねばならぬ。自分はこれを信じて疑はぬ。

尚ほこのことは外國の眞似をした訳ではないが、偶然にも自分がこのことを思ひ立って研究中諸外國の方方にこの説を立てるものが出て来た。中には非常の学者も多い。就中和蘭の醫学者某は世界髓一の醫学者だが、その人がこの説の率先者の一人であることは注目すべきことだと思ふ。この説を諸君は全々は信ぜぬ迄も少くも尊敬すべきものとして相當の注意を拂って戴きたい。(中村九郎「日記」大正七年十月補遺欄)

この記録の後半部はキリスト再臨についての医学者の説だが、前半部はまさしく冒頭で引用した森近運平の「宗教の堕落」の内容と符合する。

内村鑑三が大正七年から展開した再臨運動は、社会主義者からの宗教批判が念頭にあったと考えざるをえない。

 

あとがき

 

 本文冒頭部の森近運平と幸徳秋水の引用文は文語体を口語体に直した。

井原村、高屋村のキリスト教伝道の歴史と、高屋村にキリスト教会が建てられた大正二年の資料については、森山誠一氏から提供を受けたにもかかわらず本文で言及することができなかった、ここに謝辞を表したい。

 内村鑑三の自筆原稿に関する資料は、大山綱夫氏から山陽新聞小泉潮氏に提供があり、その複写資料を小泉氏から提供を受けた。ここに謝意を表したい。

 中村九郎の父喜久太は、東京帝国大学で学ぶ長男から信仰の思いを告げられ、「今は宗教を深く研究する時でないと思ふ」と忠告し諫(いさ)めている。尊敬する厳格な父の言葉であるだけに九郎には葛藤があり、本来は三年制の帝国大学を四年で卒業したという経緯がある。卒業後は東京から郷里に戻って農業に従事し、昭和十七年から昭和四十年まで興譲館中学(旧制)高校(新制)で社会科教諭を勤め、学生から慕われた。旧屋にはこの期間の教育資料がたくさん遺されている。杜鵑と号し、俳句、短歌を詠み、画をよくする教養人であった。

 

 

 

覓牛は、『碧巌録』「騎牛覓牛(牛に騎りて牛を覓もとむ)」に出典がある。牛に乗っているのに外に牛を捜し求めること。自分の外に捜し求めても得られない、自分自身に立ち返れということ。『碧巌録』は幸徳秋水、石川三四郎、木下尚江等にも読まれている。

 

中村九郎の旧屋(高屋村丹生)には、祖父中村文太郎の日記、中村登からの手紙をはじめ、父中村喜久太の資料、内山完造、内山嘉吉からの手紙、矢内原忠雄から送られた『通信』、内村鑑三から送られた『聖書之研究』自筆原稿などとともに、江戸、明治、大正、昭和にかけての種々の資料が豊富にある。

 

 

参考文献

吉岡金市、木村武夫、森山誠一、木村壽編『森近運平研究基本文献』上下、同朋社

幸徳秋水『基督抹殺論』岩波文庫

『幸徳秋水全集』日本図書センター

『内村鑑三全集』岩波書店

『石川三四郎著作集』青土社

大杉栄『自叙伝』岩波文庫

森戸辰男『日本におけるキリスト教と社會運動』潮書房、昭和二十五年五月二十五日発行

『近代日本キリスト教文学全集』6、教文館、昭和五十一年九月二十日発行

『内村鑑三研究』第二十号、第二十一号、

鈴木範久『内村鑑三日録10 1918-1919 再臨運動』教文館

鈴木範久『内村鑑三日録12 1925-1930 万物の復興』教文館

『値段の明治大正昭和風俗史』上下、朝日文庫、昭和六十二年発行





2020年3月6日金曜日

魯迅研究月刊 北京魯迅博物館出版

研究資料
 弘一法師 致 内山完造 書信三封 及『華厳経疏論纂要』夾 弘一法師 文稿一篇
   [日]久保卓哉 作  白海君 訳














2019年9月26日木曜日

昭和天皇 行幸日程 昭和4年6月4日~6月9日 大阪神戸横須賀

串本御出航後 行幸記録    昭和4(1929)年
6月4日 7:30 御召艦長門、供奉艦那智、灘風、大阪築港沖合3900mに投錨
  8:40 陛下、灘風に御移乗。湾内を御巡覧
  9:10 大桟橋に横付け。御召艇つる丸に御移乗
    安治川を遡上
  10:10 住友伸銅鋼管株式会社前桟橋に着御 (大阪行幸の御一歩を印せらる)
    同会社工場を御巡覧
  11:21 浮き桟橋より、つる丸にて築港大桟橋に御上陸
  12:00 御召自動車で、大阪城紀州御殿の行在所に着御
  13:55 行在所御出門
  14:00 大阪市民奉迎場に御着
  14:20 大阪医科大学を御巡覧
  15:20 大阪市庁に臨幸
  16:20 大阪府庁に臨幸
  17:30 行在所に還御
6月5日 奉迎謁(大手門前)
    大阪医科大学、大阪市役所、大阪府庁へ行幸
    大阪市立都島工業学校、大阪市立北市民館、大阪控訴院へ行幸
  13:55 大阪城東練兵場に於て11万2500余名を御親閲遊ばさる
6月6日 14:00 (軍楽隊の行進曲奏楽裡に学生隊を初め分列行進を開始)
  15:25 陸軍造幣廠、大阪工廠へ行幸
    大阪高等学校、大日本紡績株式会社平野工場
6月7日   観兵式場(城東練兵場)
    商品陳列所へ行幸
  9:20 御召自動車に乗御、紀州御殿の行在所を御出門
  9:50 大阪築港桟橋に着御
  10:00 駆逐艦灘風に乗御。大阪御出港
  11:20 神戸港第三突堤御着
  11:30 兵庫県庁で県政一般を聞こし召す
    御昼餐
  13:30 発御。第一神戸高等女学校に臨幸。列立拝謁
  13:45 海洋気象台に臨幸
  14:35 神戸市役所に臨幸
  14:40 発御。別格官幣神社湊川神社に臨御
  15:13 神戸港に着御。御巡覧
  16:00 第三突堤より駆逐艦灘風に乗御
  17:00 御召艦長門に御移乗
  18:00 文武大官等に賜餐あらせらる
  神戸港頭の御召艦長門に御仮泊
6月8日 早晨 御起床
    艦内を御散策。神戸市中、六甲連峰、湾内を御眺めあらせらる
  8:55 皇礼砲殷殷として轟く
  9:00 大井、那智、灘風以下駆逐艦5隻を従え、神戸港を御出港
  16:30 潮岬沖2マイルを御通過
  17:10 樫野崎東方洋上において、伊勢湾より四国に向かう第二艦隊の比叡、
                                                                      古鷹と出合う
6月9日 10:00 東京湾口で第一航空飛行戦隊、赤城、鳳翔が行う空中攻防演習を
                                                               長門艦上から天覧
  13:37 横須賀軍港に御入港
  15:25 横須賀駅御発輦
  16:50 東京駅に御着車
    (『紀伊新報』 和歌山県田辺市 紀伊新報社 による)

昭和天皇 行幸日程 昭和4年6月3日 串本

和歌山県串本町
行幸記録 
昭和4(1929)年

6月3日

早朝

御目覚め
  (7:30) (御召艦長門、供奉艦那智、警備艦大井の選手の挺櫓のボート御召艦付近に集合)
  8:00 海軍余興ボートレース御覧 
  (コースは大井より御召艦までとし距離1200m)(出走艇は計8隻)
    陛下は御微笑を湛え給い御熱心に御覧
  9:30 ボートレース全部終了
    御小憩
  10:00 御召艦に御移乗
    樫野崎へ発御
  10:15 樫野築港桟橋に御着 (御召艇は2隻の供奉艇を隨う)
    桟橋に降り立たせ給う
    御歩行にて新設の御幸道を進ませ給う
    島民の跪坐奉迎する間を、御挙手の御会釈を賜う
    御上陸地点より凡そ15町、蝉時雨の降りしきる中を凡そ20分進ませ給う
  10:35 トルコ軍艦遭難紀念碑の前に着御
    陛下は御挙手の御会釈を賜う
    四辺の光景を御眺め
    樫野崎燈台に御臨幸 (紀念碑より2町)
    燈室に入御。入口に掲げたる懸額を天覧に供す
    (懸額には和英両様あり。英文「西暦1870年7月9日始めて点火」
                                            和文「明治3年6月10日点火」)
  10:55 樫野崎燈台を御後にす
    樫野桟橋に着御
    樫野桟橋より艦載水雷艇に召され、勇壮なる大謀網を天覧
    (6艘の漁船に囲まれた網の中は一間もあらんかと思わるる
                                    大マグロ60尾-紀伊新報-もあり)
    陛下は終始御興深げに立御のまま御覧。
                          御親ら両方の御手を以て魚の大さを形容遊ばさる
  12:10 御機嫌麗わしく還御の途に就かせ給い、御召艦に還御
  14:30 大島村須江白野海岸で御採集遊ばさる
  17:20 御召艦長門へ還御
  19:00 御出航
    (街の灯、島の灯、奉祝のイルミネーション点々として、
                             桟橋浜辺も無数の人々を以て埋められ、
    学校生徒児童は小旗を打振り、御海路の御平安を祈り奉る)
    那智、大井の諸艦より皇礼砲を打出し、御召艦長門は檣頭高く天皇旗を翻し、
    串本湾を離る、大島の沖を廻りて一路大阪に向かい御発航
    (『和歌山県行幸記録』和歌山県 昭和4年12月20日発行 による)