2017年2月17日金曜日

赤門前で見た大逆事件の号外 周作人の『知堂回想録』 大逆事件の真実をあきらかにする会ニュース54 2015.1.24

周作人が 赤門前で見た 大逆事件を伝える号外






赤門前で見た大逆事件の号外 - 周作人の『知堂回想録』-

はじめに


 魯迅と周作人の周氏兄弟は、ともに日本に留学した清国からの留学生であった。
魯迅は明治三十五(一九〇二)年に来日して東京の弘文学院で二年間日本語を学んだ後、仙台医学専門学校に入学した。
その細菌学の授業中に、日露戦争で日本兵が中国人を殺害する場面と、それを「見物に来た連中」を幻灯で見た時深い衝撃を受け、「彼らの精神を改造」しようと医学から文芸に転じたことはよく知られている。
明治三十九(一九〇六)年三月、仙台を退学して東京に戻った魯迅は、ドイツ語を学び、ロシア、東欧文学を読み、「摩羅詩力説」「文化偏至論」などの文学論を書き、周作人との共訳書『域外小説集』を出版して、文学活動を実践した。
七年間の留学を終えて帰国したのは明治四十二(一九〇九)年八月であった。したがって、大逆事件が起こった時、魯迅は日本にいなかった。

 一方、周作人は明治三十九(一九〇六)年に来日した。
来日した時は兄の魯迅と一緒だった。魯迅は仙台を退学して東京に戻っていたが、母の命に従い朱安と結婚するために一時帰国し、留学する周作人を日本に連れて来たのだった。

魯迅が下宿する伏見館(湯島二丁目)に周作人も下宿した。
翌明治四十(一九〇七)年三月に周氏兄弟は伏見館から近くの中越館(本郷区東竹町)に移り、この秋周作人は法政大学清国留学生予科に入学した。
その翌明治四十一(一九〇八)年四月には中越館から本郷西片町十番地ろノ七号に転居した。
ここは夏目漱石が明治三十九(一九〇六)年十二月から九カ月間居住した家で、許寿裳と周氏兄弟、朱希祖、錢家治たちは五人で住んだことから「伍舍」と名付けた。
この年の七月、法政大学予科を修了した周作人は、翌明治四十二(一九〇九)年三月、本郷西片町の下宿に住み込みで働いていた羽太信子と結婚し、四月には立教大学商科予科に入学した。
同年八月に魯迅が帰国した後は、翌明治四十三(一九一〇)年十二月、本郷西片町から麻布区森元町へ転居して立教大学に通った。
周作人が立教大学を退学したのは明治四十四(一九一一)年四月で、日本での留学を終えて信子夫人と共に故郷の紹興に帰ったのは、この年の秋であった。

したがって、大逆事件が起こった時、周作人は立教大学の学生として東京にいた。
しかも、幸徳秋水、森近運平、大石誠之助等十一名が処刑された一月二十四日に、周作人は東京帝大の赤門前を歩いていた。
そして号外を叫ぶ声を聞いて一枚を買い求め、手にした号外を見て愕然として立ちすくんだ。
 その事は、周作人が最晩年に執筆した『知堂回想録』に書かれている。
この自伝を周作人は、北京の八道湾十一号の自宅で、一九六〇年十二月から一九六二年十一月の二年間で書いた。
その後、一九六二年十一月三十日の「後記」と一九六六年一月三日の「後序」の執筆を得て『知堂回想録』が香港から出版されたのは、周作人の死より三年後の一九七〇年五月であった。
 『知堂回想録』は周作人を評論する多くの著作に引用されているが、全篇を訳したものはまだない。したがって、ここに訳した「大逆事件」の章は初めてお目にかけることになろう。

周作人が『知堂回想録』で記す 大逆事件


 前の文(「俳諧」の章)は一九一〇年十月に書いたのだが、当時はまだ本郷の西片町に住んでいたことを思い出した。そこに出てくる鈴木亭は西片町のはじにあった。そこは私たちがよく落語を聞きに行った寄席だった。

 十一月に私たち(私と妻羽太信子)はまた引越をして、本郷区から留学生が少ない麻布に移った。そこは芝区に近く、慶応義塾に通ってこそ便利な所で、次に立教大学にも便利だった。
だがその時は慶応に通う留学生はあまり居ず、立教には羅象陶がいた。
とはいえ私が立教に入った時、彼はもうそこには居ず、まだ留学中のはずなのにどうしているのか分からなかった。彼は龔未生と陶冶公の友人で、彼も革命に参加していたが、中華民国成立後は不遇であったと聞く。
私は以前、彼のために手紙を書いて、哀惜の意を表したことがあった。その手紙は陶冶公が持っているが、その文は、

「光緒の末年、私が東京の本郷に寓居していた時、龔未生君がよく訪ねて来て、老和尚と羅象陶のことを話題にした。蘇曼珠は龔未生について来たことがあったが、つくねんと座るだけで短時間で帰って行った。羅象陶はその時築地の立教大学で学んでいたが、私が一九〇八年に入学した時、羅象陶は既に他校へ転学していて、とうとう会わず終いであった。たちまちのうちに二十年が経ち、三人とも相次いで亡くなった。今日、陶冶公所蔵の羅象陶の書簡を開けて見て、思わず撫でずにはいられず、今昔の感に打たれた。羅象陶は、革命に努力したけれども「鳥尽きて弓蔵(しま)わる」(事が成功すると尽力した人も用なしになる)の諺どおりに死んだ。まことに悲しい。兼愛の人陶冶公も、片時も忘れられないであろう。民国二十三(一九三四)年三月十日。周作人、北京にてしるす。」

というものだ。

 私たちが転居した所は麻布区森元町で、芝公園と赤羽橋に近かった。
賑やかな場所へ行くには、芝園橋まで歩いて、神田行きの電車に乗った。
ほかには赤羽橋まで直通の電車があったが、遠回りをするので倍の時間がかかり、あまりそれに乗らなかった。
夜に散歩して古本屋を見て回った後だけは、乗るとまっすぐに家の近くまで帰ることができた。時間がかかったが、歩くのを省けたのでよかった。
だから辺鄙な所に住んでいたとはいえ、街へ出かけるには便利で、午後は本郷の大学(東京帝国大学)の前に行き、夕食後は神田神保町一帯で本を見るのが常で、遊惰な生活を送っていた
 しかし、この期間に一つの出来事に逢い、私は大きな衝撃を受けた。
それは明治四十四(一九一一)年一月二十四日の事で、丁度大学の赤門の前を歩いていた時だった。
突然、新聞の号外の叫び声を聞いた。
すぐに一枚を買い、手にして見て愕然となって立ちすくんだ。
これこそまさに「大逆事件」の裁判と死刑執行であった。
これは五十年前の事で、その頃日本には共産党があったのかどうか定かではないが、しかし日本の官憲がいわゆる「社会主義者」と見なしたのは、それら無政府主義思想の人々と、急進的に社会改革を主張する人々だけであった。
この事件には各種各様の二十四人が含まれ、ただ当時の政府が危険と判断しただけで、関係が有ろうと無かろうと、無実の罪をでっち上げて一網打尽にした。
罪名は「大逆」であった。つまり、天皇の暗殺を画策したというわけだ。
官憲が首謀者とみなしたのは幸徳伝次郎(秋水)と彼の妻菅野須賀であった。
幸徳秋水は実は全く関係がないのに、彼が最も有名で文筆の指導的地位にあったゆえ、巻き添えを食らったのだ。
もともと、共謀者は四人だけで、その内の宮下太吉と管野須賀とは無政府主義者で、彼らは火薬を調合して明治天皇に対して炸裂させようとした。
目的は、天皇も死ぬ凡人であって決して神の化身ではないことを証明するためであった。
押収された証拠物は、ブリキ缶と数本の針金と火薬と少々の塩酸カリだけであった。
私が思うに、当時陶冶公が、長崎に行ってロシア人から爆弾を学ぶのだと言っていたことも、およそこの種の物のことであろう。
ほぼ同時期に、仏教徒の内山愚童が、単独で皇太子を刺そうと計画して発覚したことも仲間と見なされ、事件として処理された。
彼らは確かに幸徳秋水と付き合いがあり、宮下太吉は幸徳秋水と共に熊野川で舟遊びをしたことがあったが、それが密議とされた。
大石誠之助と松尾卯一太は平民社へ幸徳秋水を訪ねたことがあったが、それが反動勢力数人を引き連れて会に出席したとみなされた。

 これらはすべて検事小山松吉が作りあげた作品だが、実のところは日本政府の伝統的な手法で、近年の三鷹事件と松川事件(昭和二十四年)も同様の方法ででっちあげた。
彼ら(検事と政府)は、互いに支配と従属の関係にない二十数人をひとまとめにして、大逆を共謀したと主張し、主犯と共犯とを分けずに全員に死刑を言い渡した。そして翌日には天皇の特赦によって減刑して、半分を死刑、半分を無期懲役にして、皇恩の深さを示した。この手段は憎たらしいほど凶悪で、しかも憐れなほど稚拙である。
当時私が見た号外は、これら二十四人の人名簿であった。

 この時私は異国に住んでいて、道理からいえば異国の政治に関心をもつ必要はないのだが、これはまぎれもなく、政治の範囲を超え、人道の問題に関わる事件であった。
 日本の新聞が私を驚かせた事はこの他にもう一つある。それは、一九二三年九月一日の関東大震災の時、甘粕(正彦)憲兵太尉が無政府主義者の大杉栄夫妻を殺害し、六歳になる甥の橘宗一をも殺害した事件である。
日本の明治維新は、本来西洋の資本主義的民主主義を模倣したのだが、根は封建的な武断政治で、表面上はまだ少し民主的な自由の兆しはあったものの、だんだんとそれは消滅していった。

 この一大事は日本の思想界にも大きな影響与えた。注目すべきは、石川啄木、佐藤春夫、永井荷風、木下杢太郎である。
石川啄木は、積極的に革命的社会主義者に転じ、永井荷風は消極的に「戯作者」をもって任じ江戸時代の芸術に沈潜した。荷風は「浮世絵の鑑賞」で次のようにいう。

「今や時代は全く変革せられたりと称すれども、要するにそは外観のみ。一度(ひとたび)合理の眼(まなこ)を以て其の外皮を看破せば武断政治の精神は亳(ごう)も百年以前と異なることなし」

と。これが書かれたのは大正二(一九一三)年二月、「大逆事件」より一年後のことであった。

 以上が『知堂回想録』に載る「大逆事件」の全文である。周作人は戦争中日本に協力した漢奸(売国奴)として逮捕され、一九四五年十二月から二年余りにわたって獄中生活を送った。一九四九年一月に保釈されてからは、保釈されてからと言うべきだが、執筆と翻訳を精力的に続け、文筆家としての姿勢はついに終生変わらなかった。その姿勢とは、資料と事実にもとづいた事を書くという姿勢である。それはこの「大逆事件」の一文をみても分かる。


【注】
羅象陶 18881927
立教大学の学籍簿によると羅象陶は「明治二十一(一八八八)年二月十九日生れ。住所は小石川区大塚町五十。明治四十一(一九〇八)年三月支那青年英語学校修了後、四月一日立教大学選科入学。同年五月三十一日除籍」となっている。(波多野真矢「周作人と立教大学」『魯迅研究月刊』二〇〇一年〇二期による)筆名、羅黒子、黒芷。「無聊」「在談藹里」「牽牛花」「郷愁」などの作品がある。

龔未生 18861922
明治四十一(一九〇八)年、魯迅、周作人、銭玄同、朱希祖などの留学生とともに、日本に逃避中の章炳麟(太炎)の『説文解字』の講義を聞くために、牛込の民報社に通った。周氏兄弟が住んだ中越館には龔未生たちが「殆ど三日にあげず、必ず誰か一人はやって来て、何くれとなく一日話し込み、照ろうと降ろうと一切かまわなかった」と周作人は『魯迅の故家』でしるす。龔未生は、章炳麟の娘壻で、革命、哲学、仏教に強い関心を持っていた。

陶冶公 18861962
明治三十九(一九〇六)年日本に留学し、東京で中国革命同盟会を結成した孫文に会った。明治四十(一九〇七)年章炳麟に請われて『民報』の発行に携わり、明治四十二(一九〇九)年より長崎医学専門学校で二年間薬学を学んだ。明治四十四(一九一一)年辛亥革命が勃発すると、中国革命同盟会の指示で帰国し、大正元(一九一二)年再び長崎医学専門学校に来て学業を継続した。

蘇曼珠 18841918
中国清末の漂泊詩人。日本人を母として横浜に生まれ、早稲田大学予科に学ぶ。蘇州で教師をするかたわら、上海の国民日報に翻訳・論説を寄稿、後、僧となり、東南アジアを遊歴しつつ作詩し、バイロンなどを中国に紹介。自伝的幻想小説「断鴻零雁記」のほか、「蘇曼珠詩集」がある。(精選版日本国語大辞典による)



号外を見た頃の周作人(中)と妻羽太信子(左)
右は信子の弟羽太重久
国民新聞の号外(明治44118日) ←『大逆事件アルバム』より

東京朝日新聞の号外(明治44118日) ←『大逆事件アルバム』より
『知堂回想録』 
 

2017年2月16日木曜日

『日露戦争を伝える 牟婁新報号外』全185枚 あおい書店より刊行 2017.2.16

田辺の あおい書店から 貴重な資料の復刻本が出た。

紀州田辺の『牟婁新報』が発行した日露戦争に関する「号外」を復刻したもので

『牟婁新報』には、幸徳秋水とともに大逆事件で絞首刑になった管野須賀子と、同じく大逆事件に深く関わった荒畑寒村が、在職したことがあり、記事と論説を書いている。

『牟婁新報』の社主・毛利柴庵は、南方熊楠との親交があつく、熊楠の研究を支援し、政治・社会の悪の実態を糾弾した奇骨のジャーナリストだといえる。
表紙
牟婁新報社  毛利柴庵

日露戦争

提灯行列
「遅れて笑われな、慌ててうろたえな」

あおい書店(田辺市)発行
裏表紙


                     解 説


              『牟婁新報』号外出版のいきさつ


 「牟婁新報」号外は現在田辺市立図書館に所蔵されているが、なぜ田辺市立図書館に寄贈されたかについては次のような経緯がある。
 「紀伊民報」が第一面で「「牟婁新報」号外見つかる 田辺市内で 日露戦争伝える185枚 「記者曰く」主筆・毛利の論評か」と大きく報じたのは二〇〇三年五月十一日であった。記事は、

   田辺市で明治33(1900)年に創刊され、社会主義者らも論陣を張ったことなどで全国的に知られる「牟婁新報」の号外計185枚が、同市本町の多屋長書店(多屋正治さん経営)で見つかった。(略)
   号外は、縦が約20センチ、横が十数センチ~約30センチまでと幅がある。日本軍がロシア軍に宣戦布告する前日の朝鮮半島での交戦(仁川沖海戦)から、ロシア軍の拠点だった旅順を攻め落とす(旅順開城)までの期間の戦況が報じられている。(略)
   号外は、正治さん(82)のいとこにあたる多屋朋三さん(57)=同市下屋敷町=が、祖母の百回忌を迎えて持ち物を整理していて、長持の中から見つけた。祖父の長三郎さんのコレクションではないかという。

と伝える。
 記事には多屋長三郎、多屋正治(まさじ)、多屋朋三の三氏の名が見える。多屋長三郎は正治さんと朋三さんの祖父で、正治さんは長三郎の長男・多屋長一の娘・のぶの夫にあたり、朋三さんは長三郎の次男・多屋孫次郎の三男にあたる。
 多屋家は『和歌山縣田邊町誌』(昭和五年)の「名門人物誌」に載る旧家で、江戸時代は累代において町大年寄の家格であった。その多屋家に朝来村の十四歳の吉田長吉が奉公に入り、長じてその忠勤・忠節を賞せられて多屋の姓を許され分家したのが多屋孫八である。

 祖父の多屋長三郎は文久三年三月九日、その多屋孫八の長男として生まれた。長三郎の元来の名は長太郎で、孫八が出した出生届「長太郎」の「太」の筆跡を戸籍係が「三」と誤読しために戸籍上は長三郎と記されてきた。それが明るみになったのは明治五年の壬申戸籍の時で、以後は戸籍通りの長三郎と称した。
 多屋孫八は長三郎を商販(商売)の道に進むようにしむけたことから、長三郎は雑貨を扱い、人力車業と金融業を営むかたわら、大阪毎日新聞の販売店を兼ね、また本を販売する「多屋長書店」を創業した。その長男・多屋長一が「多屋長書店」を引き継ぎ、次男・孫次郎もまた本を販売する「多屋孫書店」を創業した。

 「多屋長書店」の多屋長一、「多屋孫書店」の多屋孫次郎兄弟は八人兄妹で、妹に美代(みよ)と寿枝(すえ)の二人がいて、美代と寿枝とは最晩年まで長兄・多屋長一の「多屋長書店」で住んだ。後に祖父・多屋長三郎の妻・志奈の百回忌を迎えた際、古い物を運び出して整理したことがあったが、この時出した多くの古文物の中に「牟婁新報」の号外があった。その存在に気が付いたのが、多屋孫次郎の三男で現在「あおい書店」を経営する多屋朋三氏であった。「あおい書店」は、多屋孫次郎の「多屋孫書店」が出した支店である「多屋孫書店あおい支店」を受け継いで「あおい書店」として独立・創業したものである。

 「牟婁新報」号外は、号外の一枚々々を長い紙に糊でつなぎ合わせた巻物の姿で保存されていた。巻物を解いて横に拡げていくと約四十mにもなる長さで、手で持ち上げると貼られている号外がぱらぱらと割れてくるような状態であった。約一〇〇年の間多屋長書店の筐底にあったことを物語っていた。
 その巻物を二人の叔母から譲られた朋三氏は、半月ほど手許に置いていたが、取扱い方を誤れば損壊してしまう状態であったことから、牟婁新報研究者の池田千尋氏の助言もあり、田辺市立図書館に寄贈して保存をはかることになった。「多屋長書店」から出てきた物であるため寄贈者の名は多屋正治さんとし、田辺市立図書館との交渉の労を取ったのが多屋朋三氏であった。

              ○ ○ ○

 多屋孫次郎の多屋孫書店の家は元は鳥山啓(ひらく)が住んでいた屋敷であった。鳥山啓(天保131842)~大正31914)年)は田辺藩士として長州征伐に従軍した後、維新後の明治2年藩校・修道館の英語教授を務め、和歌山師範学校、和歌山中学校で英語、理化学、博物、生理等を教え、明治十九年には東京に出て華族女学校教授を務めた。(『田邊町誌』「名門人物誌 教育家」)和歌山中学校では南方熊楠に動植物の観察採集を教えたことで知られ、また「軍艦マーチ」の作詞者としても知られる。その鳥山啓の屋敷を多屋長三郎が明治十九年に買い取り、弟の多屋孫次郎に分与したという経緯がある。

 ではなぜ多屋長三郎の多屋長書店が「牟婁新報」の号外をかくも大事に保存していたのかといえば、それは長三郎が大阪毎日新聞の販売店もしていたことから、誰よりも地元紙「牟婁新報」を気にかけおり、次々と出る号外を集め置いたからであろう。そしてまた、日露戦争の戦況を伝える号外が、紀南の地で発行されていたことを示すためにも、巻物にして残しておいたからであろう。
 
              ○ ○ ○

 この『牟婁新報』号外が一册の書として出版されることになったきっかけは二〇一六年八月、大逆事件の研究機関である「大逆事件の真実をあきらかにする会」の大岩川嫩(ふたば)氏が田辺を訪れたことにある。「牟婁新報」の社屋跡や管野須賀子と荒畑寒村の住居跡、そして毛利柴庵の墓所などを見るために、篠塚英子・お茶の水女子大学名誉教授、竹内栄美子・明治大学教授、竹内友章・コグニザントジャパン株式会社社長と共に来訪した。一行を案内したのが多屋朋三氏で私も同行した。

 「牟婁新報」に号外があることを朋三氏から聞いた一行は、是非にと閲覧を希望し田辺市立図書館に行った。別室には既に号外が運びこまれており、大机の上に一部だけが拡げられた巻物があった。一行は初めて原物を見た。私も初めてだった。

 大岩川嫩氏は、不二出版から出た「牟婁新報」の復刻版は値段が八十五万円もするがこの号外は収録されていないと、私達一行と図書館員に説明しながら、顔を近づけて具に見た。その嫩氏の説明と所作につられて、私達も感嘆の声をあげながら見た。目の前に拡げられた号外の巻物は、天下の「孤本」と称するに足るものだと評価された瞬間であった。多屋朋三氏はこの時、斯界に貢献するためにも号外一八五枚を一册の本として出版すべきだと考えた。横で見ていた私にはそう決断する多屋氏の胸のうちが伝わってきた。

              『牟婁新報』号外について


 「牟婁新報」号外にはいくつかの特徴がある。それを紹介しておく。

       一 「記者云く」


 号外の最大の特徴は大見出しの脇に「記者云く」の小見出しがあり、号外に対する記者の意見が書かれていることである。時には「註」「参照」の小見出しもあり、大見出しの不備を補っている。これらは僅か二行から二十行の長さに及ぶこともある。
 これを書いたのは「牟婁新報」の社主・主筆である毛利柴庵であることはよく知られたことだが、いかにも柴庵らしくて柴庵以外の余人には書けないと思われる記事がある。それは提灯行列を呼びかける文で、繰り返し五度も呼びかけている。

◎朝霧早鳥二艇 敵艦三隻を轟沈す 吾二艇は無事なり
今夜午後六時より提灯行列を催す同感の士は提灯と蠟燭とを携帯し新報社前小學校運動場に参集すべし                (明治37227日)

◎海戦は我軍の勝利に歸し捕虜四名ありし 旅順の火薬庫と砲臺とドックとを粉砕し大連にては市街全く破壊せり
右我軍の大捷利を祝し且つは出征軍人家族諸氏に對して慰問の意を表する爲め明十四日午後六時より提灯行列を催すべし同感の士は提灯と蠟燭とを用意し本社前の運動場に参集ありたし               (明治37313日)

◎旅順の敵は同地を捨て去りし様子にて船舶出入自由となれり
愈よ今晩は提灯行列を催すべし
注意(◎◎) 本隊は必ず出征軍人諸氏の宅毎に萬歳を参唱する事(明治37314日)

◎敵の主力殆んど全滅の事を確めたり
我軍の大捷利敵の大敗北一目瞭然たり。(略)提灯行列を催すは正に此時なり、苟くも帝國の男子たるものは今夜七時を期し各提灯を手にして吾社前に参集ありたし
注意 先夜の提灯行列は群衆甚しかりも、却つて活氣に乏しく隊伍も亦整はざりき 今夜の行列は大に男らし大に勇ましく各自大なる責任を帯びて進行ありたし、於くれて笑はれな、慌ててうろたへな、真面目にドシドシ遣りたまへ、子供ばかり出して、於やじ傍観のテイは頗るよろしからず、齋藤実盛ぢやねエがしらがあたまも皆な出て御座れ今夜うまく提灯行列のけいこをして置かんと、露軍全滅我軍凱旋の時になつて提灯の持ち方も知らずにまごつく事が起つたらドーする
                          (明治37417日)              

昨日ダルニーをも占領したり 萬歳。萬歳。大萬歳。
今晩は是非とも提灯行列の必要あり、諸君、曩の如く提灯と蠟燭とを用意して午後七時扇ケ濱公園に参集ありたし            (明治3758日)

 毛利柴庵の筆はまことに軽快で読んで面白い。行列の群集は多いが、隊列がばらばらでしまりがない、遅れてきて皆に笑われるな、子供ばかりよこしてオヤジが傍観とはなにごとだ、と書き飛ばしている。さぞかし田辺町民は号外を読むのが楽しかったであろう。

       二 「牟婁新報」復刻版が「原紙破損」とした欠落記事は、号外によって甦る


 「牟婁新報」本紙は復刻版(不二出版)で読むことができるが、原版の紙面が破損し欠落した部分は、「原紙破損」の四文字があるのみで白地のままである。その欠落した記事は号外で再現することができる。
 一例だけだが、明治三十七年五月九日の「牟婁新報」(復刻版)の欠落記事は、五月八日に発行された号外によって甦ってくる。

 それは「牟婁新報」本紙の「東京電報◎第一報五月八日午前七時四十分発同午前九時着 ◎昨七日ロンドン発の電報によれば左の如き快報あり(略)記者云く 文中日本軍とあるはいふ迄もなく我第二軍を指すものならん従つて前電遼東半島上陸とあるは金州上陸の事たるや想察するを得べし」に続く箇所で、本紙では白地に「原紙破損」として空白にしている部分である。

 その「原紙破損」の欠落記事を、五月八日の号外によって再現すると次のようになる。(以下▲表記は薄れて判読困難な字)

◎横川省三氏の葬式を執行し非常に盛大なりき
註に云く 横川省三氏は慶應元年に生れ岩手縣盛岡の人、性傲岸不羈、夙に身を政界に投じ勇名同志の間に嘖々たり明治十六年頃東京に於て自由黨志士等の設立せる有一館の牛耳を執れり、明治十八年加波山事件に關して入獄一年許、出獄の後ち東京に來り、明治二十年保安條例に触れて二年間退去を命ぜらる 明治二十七八年役の時は東京朝日新聞社の海軍従軍記者たり、黄海観戦記を作り、自ら請ふて水雷艇に乗組み 威海衛攻撃に從ひ 冒險家の名益々高し 後ち北京に赴き 露語を研究し 三十五年東蒙古地方より滿洲一帯の實況を視察せんとて、某士官と北征の途に就き、辛酸を嘗め、同年十月ハイラルにて露兵に捕へられ ハルビンに押送されしも、現地日本人倶楽部へ責付の身となり 十一月放免、一旦北京に皈り 則ち日露戦争開始の前に當り龍巖浦海面の敵雷を偵察し隠微の間に國家に貢献せる功績少からず、遂に二たび露軍に捕へられ奇傑沖禎介氏と共に銃殺せらる、君刑に臨んで顔色變ぜず 大音響に目的を自白し 露奴を罵倒して死す。日本男児の面目躍々たり▲▲容貌魁梧 巨體厚唇、雄材大略▲▲る 腹便々、一見其偉丈夫たるを知るべし、人と成り▲▲朴 内ち▲、摯實快語、膽勇絶倫 平生酒を好み醉へば則ち酣歌淋漓 本年一月の書信に云く「戦争が始まらば一世一代の事業を▲ると」▲謂一世一代の事業とは▲々電信鐵道の破壊に▲▲じ▲半途敵▲に殪る 遺憾知る可きなり、君二女あり 東京麻布簞笥町に住す故に東京に於て葬儀を執行さるるのか、其壮烈を仰望する人の豈に獨り会葬者のみならんや 幽魂以て瞑すべし
                          (明治3758日)
        
 横川省三の横死に対する毛利柴庵の悲憤の大きさが伝わる号外である。横川省三が銃殺された背景は東京朝日新聞と讀賣新聞が報じた記事を追えば明らかになる。ここでは見出しのみをあげておく。

 明治3754
東京朝日新聞      一面   「被捕獲勇士の最期」
                  二面   「哈爾濵遭難の志士横川省三氏」
讀賣新聞          五面   「露軍に銃殺されし快男児横川省三氏」
                         「故横川省三氏の母堂」
 明治3755
東京朝日新聞      二面   「志士横川省三氏の書翰」
                         「横川省三氏に就て(某海軍幕僚の談話)」
                  三面   「哈爾濵遭難の志士横川省三氏の手紙」
 明治3756
東京朝日新聞      二面   「横川省三氏の葬式」
                         「横川、沖兩氏遭難の地(地図)」
讀賣新聞          二面   「横川省三氏の葬儀」
 明治3757
東京朝日新聞      二面   「横川省三氏の母堂を訪ふ」
 明治3758
東京朝日新聞      二面   「横川省三氏の葬儀」
                         「横川省三氏墓誌銘」

 「牟婁新報」が号外を出した五月八日までの東京朝日新聞と讀賣新聞の報道は以上の如くであった。ロシア軍に銃殺された横川省三の死を国をあげて悼んだことが分かる。

 東京朝日新聞が五月四日から八日まで連日紙面に横川省三を取り上げたのは、横川省三が東京朝日新聞に入り五年間朝日新聞社の記者であったことによる。銃殺が執行されたのは四月二十一日であったが、その二カ月前の二月十日に日本はロシアに宣戦布告をして、日露戦争が始まったばかりの時であった。

 上に引いた号外の「註に云く」には、横川省三が国のために一世一代の事業をなそうとした事歴と東京での葬式と二人の娘のことまでつぶさに書かれているが、この十八行に及ぶ長文の註は他社の紙面から孫引きしたのではなく、毛利柴庵が自らの筆で構成して書いたものである。

 なぜにそう断定できるかといえば、明治・大正の紙面は現在では聞蔵(朝日新聞社)、ヨミダス(讀賣新聞社)、毎索(毎日新聞社)で見ることができ、今回は聞蔵とヨミダスを参照したのだが、二紙の紙面を見ると、毛利柴庵は東京朝日新聞と讀賣新聞に書かれた横川省三横死を伝える記事を参考にして、記事の関鍵語句を使いながらも自らの筆で構成しなおして書いていることが分かるからである。末尾の結び「其壮烈を仰望する人の豈獨り會葬者のみならんや 幽魂以て瞑すべし」は毛利柴庵の悲憤が田辺町民に向けて発した叫びである。

 横川省三の葬式が行われたことを伝える号外は、この牟婁新報の号外を除いてどの地方のどの新聞にも見当たらない。(羽島知之編集『「号外」明治史1868-1912』第2巻、大空社、1997年を参照)

 なお、横川省三の葬儀は五月八日午後三時東京、赤坂霊南坂の教会堂で行われ、遺品は同日青山墓地に埋葬された。

       三 号外に載せ、「牟婁新報」本紙に載せない記事


 前の一「記者云く」のところであげた提灯行列を呼びかける記事は「牟婁新報」本紙になく号外にのみある記事だが、そのような例は他にもある。一例だけあげてあげておく。

◎當町特報
◎只今聞く所によれば今回の町政一條に就き片山町長辭表を提出したり仍て本日午後三時より町會を開く筈なり              (明治37520日)

 ここに見える片山町長とは片山省三のことで、内閣総理大臣・片山哲はその長男である。嘉永五年二月の生まれである片山省三は、弁護士となって田辺に開業し、田辺町会議員、和歌山県会議員を経て、明治三十五年十一月から明治三十七年六月まで田辺町長を務めた。

 この号外は単独で発行したものではなく、日露戦争の東京来電「◎拾五日午前一時山東角北方にて濃霧に遭ひ春日艦吉野艦に衝突し吉野艦沈没したり」で始まる記事の末尾に「◎當町特報」として付けられたものである。

 なぜ五月二十日の号外にこの「當町特報」があるのか。それは明治三十七年当時牟婁新報が三日に一度発行する新聞であったことと関係する。牟婁新報本紙を繰ってみると五月二十一日が発行日であったことが分かる。従って二十日は既に紙面が組み上がっており、割り込ませることは出来なかった。かといって次の二十四日では遅すぎる。だから二十日発行の号外に付けて、町政の異変を伝える「當町特報」を載せたのであろう。

 それもその筈、毛利柴庵は「田辺町政の不始末」というゾッとする素っ破抜き記事を展開していた。五月九日の第一報は「モハヤ田邊町政の不始末は現に公然の秘密」とまで書き、十二日の第二報では「アゝ田邊町役場は一種の魔窟殿たらざるなき」と収入役の公金管理問題を衝き、十五日の第三報では「田邊町の財務が如何遣りツぱなしになり居れるか」「誰れ言ふともなく世上に流布し、ドウも役場が臭い、變な臭ひがすると言ひ出した」と二千何百円の行き先を疑い、十八日の第四報では「田邊町の伏魔殿とまで噂されつゝある田邊町役場の内部の紊乱」が田辺小学校の建築費をめぐる問題である以上「手當り次第に批評し論難し、彼等をして心飛び魂驚くの境界に立たしめ、以て一日も速に町政の一大刷新を擧げんと欲するのみ。目的はコゝなり」と追求を続けていたのである。しかもこの日の結びには「サテ次號には、ドウいふ事が出るのであらう(一寸一ッぷくぢや)」と予告の狼煙をあげていた。

 そこへもって来て翌十九日「片山省三町長が辞表を提出」、「二十日午後三時より町會を開く」という急展開が生じたのであるから、この号外は何としても出さねばならないと毛利柴庵は考えたのである。

 かように牟婁新報とその号外を出す牟婁新報社は、毛利柴庵の記者魂と発信欲とが熱く噴出し、田辺町民にぴったりと密着した新聞社であった。

 なお本書には、手書きの号外記事「今十七日大本營着 長門沖ノ島附近ニテ砲聲盛ニ聞ユ」「常陸丸戦死一千余名ノ見込」〈明治三十七年六月十七日)を収めているが、これは巻物の中に別紙として挟まれていたものである。

 また、巻物で発見された時の号外は一八五枚あったが、このたびの出版にあたり精査したところ、原紙の破損と活字のかすれが著しく、収載することが不可能になったものが十枚ほどあったことを、お詫び方々お断りしておく。

 巻末に最近見つかった同じ田辺の「紀伊新報」の大正三年九月一五日付けの第一次世界大戦開戦の号外も伏す。

 以上「解説」には似合わない長文となったために、最後まで目を通していただけないのではないかと恐懼するが、この稀有な書『牟婁新報号外』が皆様の座右に備えられんことを願う。

          二〇一七年一月二十一日(記)
                                久 保 卓 哉



2017年2月5日日曜日

紀州田辺藩版の仏書(下) 藤堂祐範 中外日報1932年6月15日

紀州田辺藩版の仏書(下) 藤堂祐範
中外日報 昭和七年六月十五日 一面
紀州田邊藩版の佛書(下) 藤堂祐範

 なほ管板の四寺の現状や、地蔵寺にこれ等の版木が所蔵せらるるわけは、
 管版の筆頭海蔵寺は妙心寺派の末寺で、現に田邊南新町にあり、元来は浅野氏(元和年間廣島へ轉封せらる)の開基なりしが、安藤氏の入城以来また菩提寺とした。併し安藤氏は和歌山城の城代として(紀州侯は親藩として江戸在勤多かりしゆへ〉多く彼の地にありしを以て寺▲の關係至て浅く、漸く奥方の墓二基あるのみと聞く、されど田邊では有力寺院であるから筆頭に第しものならん。

 松雲院は▲▲派に属し新熊野山と稱。元来田邊の地は古来熊野道の要路で、併も海辺の參路と大邊地と称する山中の參路との分岐点に近き都邑であるから口熊野と称し、附近に幾多の遺蹟を存せるほどで、早く平安朝に熊野権現を勧進し、新熊野十二所權現と称して名高く現今の闘鶏神社はそれで、その権現の執行寺として有力な寺であったが、明治維新の際当地内の地蔵寺(仁和寺末)に合併され、その時この版木も共に移管されたものらしいと聞く。

 湊福寺は海蔵寺開山天叔の隠棲寺で、田邊町大濱にありしを安藤氏▲の時、海蔵寺の▲に移したが、明治維新の時海蔵寺に併合しその跡地は現今田邊佛教総合會の昭和幼稚園となって児童に佛種子を植つけている。

 高山寺は仁和寺末で、▲町に近き稲荷村にあり、空海の開創と傳へ、当地方での古刹大山である。

 想ふに紀州の地、東は新宮に城主水野氏ありて、丹鶴叢書を出版したことは有名であり、和歌山では学習館等ありて、貞観政要や論語集解補解等十数部の印行あり、その他儒臣にも伊藤蘭嵎や祇園南海等ありて、藩臣の出版がかへって藩邸のものよりも多いと傳へられて居る。かほどに田邊の周囲には版行の擧さかんであって、その刺激は多少ともに受けたとは云へ、田邊の地は和歌山市を去る二十余里現今は海路汽船あり、陸路は近く鐵道開通せんとするの利便ありとは云へ、十数年前までは▲舟によって太平洋の浪を凌ぐか山岳海に迫て羊腸道なき山道を旅するかの不便の地で、城下とは云へ海辺の一小邑に過ぎない地に於て、敢て他藩の體にならはず、果然鬱奥の出版を▲し版型▲美な書が梓行されたことは、實に奇蹟とも見らるるほどで、如何に道紀觀妙公の求道の志勇猛にして、道心の堅固なりしかが窺はれるのである。この開版ありてより殆ど百二十年計らずもこの書籍を拜し合掌もって、道紀公の増保品位を向頭せんとす。道紀公は安藤氏十二代、曇一得軒、法▲觀妙院玄玄居士、文政七年十一月十三日没▲六十四歳 (昭和七年五月二十九日稿)


 この稿を草するに就いては海蔵寺上人、及び多屋謙吉、下村利一郎諸氏の▲▲を賜はりしを感謝す。

紀州田辺藩版の仏書(中) 藤堂祐範 中外日報1932年6月12日

紀州田辺藩版の仏書(中) 藤堂祐範
中外日報 昭和七年六月十二日 一面
紀州田邊藩版の佛書(中) 藤堂祐範

 圓覺經略疏は上下二巻、各巻上下に分れこの版本は句讀のみで訓點はない。唐の圭峰宗密禅師の撰である。扉は下に出す般若心経の扉の写真と同じ意匠で中央に「圓覺經略疏」と大書し、上部に「紀南田邊邸蔵板」と横書し、右側に管板(版木管理の意か)田邊海蔵寺、松雲院、湊福寺、高山寺の四寺を列挙し、また左側に「装釘若山書林青霞堂」とある。この扉は何故か海蔵寺の舊摺本にはない。巻頭には唐の裴休の序と、撰者の序とあり、巻末に
    新刻圓覺經跋
  蹤衆生具圓覺不能知圓覺矣。余久之得之。猶要令同志者知之。故▲梓以▲▲将来云爾
  文化丁丑春三月
     觀妙 藤原道紀  觀妙
の跋あり。これ田邊城主十二代安藤道紀五十六歳の時のものである。その次に同町の松雲院住持の密幢悚息の「記▲刊▲▲略▲後」と題した一文あり、中に「坊間之諸本多誤字、且旁譯副墨紛然紊真、我侯深憾之、乃命封内海蔵湊福高山三寺主及貧道、校讐諸本、使安養寺主写焉、點句附讀、毎行施系、以擬支那本為邸蔵」、これ本書出版の縁由を略叙して居る。文中に安養寺とあるは田邊の隣村南部村にある真言宗の寺ときく。最後に奥附は写真に示す如く「紀南田邊邸蔵板」とある上に、中央には「田邊珍寶」の朱印が捺してある。発行書林帯屋伊兵衛は帯伊と称し、扉にある青霞堂のことで、紀藩の御用書肆で現今も盛に営業している由、紀伊名所圖會三編十八巻は重にこの帯伊の主人なる高市志友の手になったもので、志友は青霞堂と号し、その前編六巻は文化九年に出版して居るから、同十四年に出版されたこれ等の藩版にも彼は預たことであらう。なお惜むべきはこの圓覺經の版木現今は一枚を紛失して居ることで、新摺本では上巻之一の第十六、十七の紙が缺脱して居る。


 次に般若心経注解一巻は興▲寺圓耳の著で、扉は写真に示す如くで本文は▲▲附である。巻頭に藩主安藤道紀の「心▲注解再刊序」あり、文中に「▲息明著、善美▲▲者、▲▲注解也、▲▲科文▲多、不便所▲故、今書▲去、唯▲其略再刊、以施衆生、欲令速断除妄心、頓顕発本性写是余願也」と、その志願を誌して居る。巻末には圓覺經と同じく密幢悚息の跋ありて「觀妙老侯、夙崇信我法、特篤讀、依圓覺經、既得玄珠焉、實可謂今世未曽有矣、頃新刊彼經略疏、旋又刻此經注解、乃手自作序、命貧道▲跋、侯序▲▲無餘▲、▲亦何言」と来歴を叙して居る。これ二書ともに道紀の道心の発露であることがわかる。奥附は圓覺經と同じ形式で、ただ出版の月が彼は三月、此は八月で約半年の間隔があるばかりである。

紀州田辺藩版の仏書(上) 藤堂祐範 中外日報1932年6月11日

紀州田辺藩版の仏書(上) 藤堂祐範
中外日報 昭和七年六月十一日 一面

紀州田邊藩版の佛書(上) 藤堂祐範

 余は今春三月初旬より病臥、四月下旬やや小康を得たので、南紀田邊に転地病を養ひ居る際知人下村氏よりこの地に版木があるとの話を聞き調査の結果計らずも藩版の佛書二種の版木なることを知り、洵に珍しき出版物としてここに紹介することにした。

 徳川時代の書籍出版社を類別すると、慶長元和の頃後陽成後水尾両帝の勅題により出版された勅版。徳川家康が伏見及び駿府に於て僧三要等に命じて出版せしめた木活本銅活本等より、降ては湯島聖堂及開成所等幕府若くはその支援の下に出版された官版(広義に見て)。全國各地の藩邸又はその藩校で出版された藩版。神社や佛閣で出版された社寺版。町屋その多くは書肆から出版された町版等。斯く幾多の種類はあるが、就中藩版は藩主の好学より諸侯直接の出版となりたるもの、または藩の学館或は儒臣等により印行されたもので、その書籍は可なりの多数で、東条琴臺の諸藩蔵板書目筆記によれば、出版の藩は八十藩に上り、その出版書は四百余部約六千巻に達して居る。また昭和三年十二月全國圖書館大會に際し、御即位大典奉祝のため京都帝國大學圖書館で會して書物を陳列した展覧目録によると、六十一藩、百五十七部、二千二百冊である、若し巻数にしたら恐らく五千巻にも達することであらう。かく記録された数字を見れば如何に各藩が學問の振興に盡したかが判る。然るにその出版された書物の種類は漢籍即ち経書より史書詩文集等が大部分で、国書は至て尠く、漸く水戸彰考館の大日本史、扶桑拾葉集、参考源平盛衰記等、下野黒羽藩の日本書紀、熊本藩の泯江入楚等二、三十部に過ぎない。更に佛典に至りては皆無と見らるるほどで、諸藩蔵版書目筆記には筑後佐伯藩の閲蔵知津三十巻、法華經通義十六巻、因幡の鳥取藩で護法漫筆二巻、法華經新點七卷、同校異一巻の五部が叙録されてあるくらゐで、その出版は實に寂寥たるものである。

 かく佛書の藩版の僅少なるにかかはらず、紀州田邊藩に於ては幕末に近き文化十四年に圓覺經略疏四巻、般若心経注解一巻が出版されて居ることは實に珍貴の現象を見ねばならない。この二版本は流布至て尠きものと見へ、京大、東大、谷大の各大学圖書館の目録にもなく、また駒澤大學圖の漢籍目録にも著録されてない。考ふるに幾分の発売は和歌山の書肆帯伊に許されたらんも、重に領内有縁の道俗のみに少数部が頒たれたのであらう。この版木の初めて気付かれたのは大正十三年郡誌編纂の資料を蒐集の際、多屋謙吉、毛利柴庵の両氏が同地の地蔵寺で之を発見し、二部を新刷し各自儲蔵せられた。その内多屋氏所蔵の本を余は眼福し得たのである。余は滞在中藩侯の菩提所であり、またこの版木に關係がある同町の海蔵寺を訪問したら、和尚は今更のやうにその珍版なることを知り、圓覺經だけは所蔵があるとて、虫害甚しき舊摺の本を見せられた。これ等新旧の摺本によって大略を記せん。

熊野詣の新史料(四) 中村直勝 中外日報1932年3月20日

熊野詣の新史料(四)中村直勝
中外日報 昭和七年三月二十日 第一面
熊野詣の新史料(四)中村直勝

 七
彼等参詣者が熊野に於ける宿泊所としては、御師の坊を求め得たとしても、そこに達するまでの途中に於てはどうして一夜一夜の夢を結んだであらうか。勿論、野伏せ山伏せの事もあったであらうし、また幸にして神社寺院に一宿を乞うて許さるる事もあったらうし、また布施屋の如きものもあって、それに雨露を凌ぐ夜もあったであらうがそれよりも最も多くの場合に、途中の在所々々に止住する先達の家を、宿泊所とした事があったらうと思ふ。言ひ換へれば、一地方々々に居った所の先達なるものは、参詣道者の先達として入峰する時は、先達としての本格的な職務を果すのであらうが、平素その在所にある時にはその住宅が自ら道者等の宿泊所に当てられたのではないかと思ふ。而してその場合にも、前掲の如き願文があれば、その人の生国から熊野における御師までが判明するのであるから、この先達の宿泊所に宿る事も容易であったらうし、泊める先達の方からも安心が出来るわけであるまいか。

 八
   但馬國美合庄大乗寺自僧
   越前公觀俊(花押)
   備後公學俊(花押)
  右件人者、入峰時參候也
   元武元年甲戌八月十日
 例の紹介状であり過書であるが、年號の所に注意すると元武元年とある、元武といふ年號は無いのであるが、年號の下に「武」があって元年が甲戌である年は建武元年しかないから、これは建武元年の間違である。また中には「延文」とあるべきを「正文」と書いたものもあった。それらの事柄は、要するに此種願文に筆を染めた人々の教育程度を暗示するものであって、一体に通じて文字は拙劣であり、花押には気品がなく、如何にも教養の低いものであるを思はしめる。
 乍併、熊野道者に教育を求めるのは、求める方が無理であって、彼等が重んずる所は、教育ではない信心なのである。「行」なのである。そしてそれであればこそ、あの難路を踏み越え踏み越えして参詣したのであった。

  九

 更に此程願文の日付が、二三月と七八九月が大部分であることは、中世に於ける熊野詣の時季を知ることが出来るのではないかと思ふ。且つこれが今日に於ても首肯し得べき季節であることは、(不思議でないと言はばそれまでであるが)興味のある事象だと思ふ。(終)

熊野詣の新史料(三) 中村直勝 中外日報1932年3月19日

熊野詣の新史料(三)中村直勝
中外日報 昭和七年三月十九日 第一面
熊野詣の新史料(三)
 
 旦那の事を、先達から申すと引旦那と言ったのは普通であるが、「男友」といふ呼び方もあったと身へる。
  あうみの國箕浦庄松尾寺
   先達筑後公ひき友
  しんくわん御坊(花押)
             ドウ荅法房
  さぬきとの      むませう
  同くま一女      式部公
  ひめ若女       藤三郎
  日向殿分
  善阿弥陀佛      戒法御公
    正平二十三年三月二十七日
    日光寺 先達行快(花押)
 茲にいふ「しんくわん御房」以下は前の文書と同じく熊野の御師と師壇の契約をした人々なのである。また歴史家の方から言へば、珍しくも正平二十三年といふ南朝の年號を使用して居る事は、この文書が近江箕浦庄で書かれたものか或は熊野山で書かれたものかに就いて、何か一説が出し得るものではないか。
 右の外引友と言ふ言葉で表された旦那に関して四五通の史料があったけれども、省略して次の問題に移らう。

  五
 次のやうな文書がある。
 山▲落陽廣覺寺僧熊野本宮參▲朝文事
     智桂(花押)
     林叟(花押)
     正雪(花押)
   延文六年三月十一日記之
    ×  ×
 石見國葛野修道場   
 光台寺住持相阿
 宇津郷和田方(花押)
 波彌萬屋方(花押)
 先立 都野宮證忍
  応永十一年八月二十三日
         少貳(花押)
 本宮吉田殿
 此の初の方の文書は廣覺寺の僧侶である智桂等三人の紹介状とでも申すべきであらうか。これがその本人であることの證として自分の名の下に花押を加ヘて熊野の御師の所に持参するのであらう。言はば身分證明書とでも言ふべきに相當しようか。後の方の文書で更にさうした關係は明らかにし得ようと思ふ。即ち石見國葛野郷にあった道場を中心として、その同行である光台寺や宇津郷の和田某の引旦那、浪彌萬屋の引旦那、それの先達として都野宮の社僧(とでも言ふべきか)證忍を道場の主である少貳房が紹介證明して本宮の吉田といふ御師に送り付けたものであるらしい。

  六
 道者へのさうした證明書は、道中の関所々々への國手形ともなり得た訳であって、如上の願文がこれを裏付けて居るが―を持参することは、途中の通過免状ででもあった。
 伊豫國道後わけの郡久枝内
 うしとの寶性房賢慶(花押) 
  引旦那 同所住人
        乙女〈略押)
  おなしき所住人
      孫二郎〈略押)
  応永二年三月八日
  本宮  音無
 ほんくうの御師ハととなしき
  越尚殿
 のゑちせんとのの御坊へまいり候
といふものの如き、また
  入峰
 にうふの山伏三人
 たんはの國いはらの岩屋
  しやうちう(花押)
  せんかく(花押)
  せんとく (花押)
 熊野本宮の御師敷屋の
 きしとの
   応永二十七年八月十一日
の如き、たしかに此の三人の山伏が本宮の御師岸殿へ行くものであると言ふ證明状である。而して之等のすべてに、本人の下に花押の自署されて居ることは一種の印鑑證明とも言ふべきでもし御師の方で本人でないと疑へば、花押を書かせて見れば、その疑が判然するのである。

 由来、我が國中世に於ては、▲上と言はず洛上と言はず、河上湖上到る所に関所の設があって、通行者から關錢を徴収して以てその關主の収入を計ったものであり、甚しきは伏見から大阪までの淀川岸に三百餘箇所の關があったと記録にある程で、ために人馬荷物の通行運搬は常に悩まされたものなのである。だからとりわけて諸国巡礼とか山伏行者とかの如く所々方々を遍歴する者に取りては關錢を徴発さるることは、何よりの憂き事柄であったに相違ない。されば此の種願文によって、その身分が判定され、その目的が明示さるる結果として、關錢が免除されたとすれば、それは道者の身に取りては莫大なる利益であらう。仏恩に今更ながらの感謝をしたことであらう。