2012年5月31日木曜日

ホタル 飛びはじめ 5月30日

ホタルをバルブ撮影

ホタルの姿が なかなか見られず 心配していたが 山中さんの話では 5月30日に飛んでいるのが見えた と

去年の初観察は 5月29日 だったから 平常どおりなのかな

仁井田さんをバイクの後に乗せて 筒瀬の川に観測ワーク
バイクに乗るのは初めてという
カーブを曲がるときに バイクがヒールするのが恐いという
125CCの小型だから 二人の一体感が必要



ホタル 2012年 発砲スチロールから水路へ

窓の下に七この発砲スチ 700匹の幼虫
窓の下から移す 穴が見える発砲スチロールは エジソンの家

幼虫とカワニナ 水路に移す前の写真



二層式水路 上段に川からの水 下段に落ちて左に流れる
水路に移ったばかりの幼虫 と 水路の底
小さい幼虫は 来年までもう一年 育てる必要があります

左の写真の発砲には700匹の幼虫が入っていましたが
水路に移すために 数えると 400匹

400匹を 来年まで育てるために 水路を重ねて 二層式の 幼虫の棲家を 作りました

水路には 川から引いた水 と 充分な量のカワニナ

400匹の幼虫は 水路に入ると すぐに快適な場所に もぞもぞ

2012年5月28日月曜日

林芙美子 角間での姿は 山ノ内町に疎開 当時を振り返る 信濃毎日新聞 2012年5月27日


(信濃毎日新聞 2012年5月17日)
山ノ内町の志賀高原ロマン美術館は26日、小説「放浪記」で知られる作家林芙美子(1903~51年)をテーマにした企画展に合わせ、座談会「林芙美子ー角間でも姿」を開いた。同町角間温泉に疎開していた当時の林芙美子の様子を、面識があった町民らが振り返った。

林芙美子は1944(昭和19)年から翌年にかけて同町で暮らした。座談会には、角間温泉にある林芙美子文学館の館長黒鳥正人さん(87)、同温泉出身の画家山本秀麿さん(75)=長野市=が参加。

黒鳥さんは「東京に行くけど何か欲しい物はあるか」と声を掛けてくれたエピソードを披露した。山本さんは、食糧難だった当時、角砂糖入りの紅茶をごちそうしてくれた思い出などを語った。


久保卓哉・福山大名誉教授は、企画展で展示されている中国の作家魯迅から贈られたとされる林芙美子の腕輪をテーマに講演した。
企画展は6月24日まで。

(信濃毎日新聞 小幡省策記者)


林芙美子 川端康成宛て書簡発見 信濃毎日新聞2012年4月22日

 
(信濃毎日新聞 2012年(平成24年)4月22日)
林芙美子 信州での疎開生活つづる
川端康成宛て書簡発見
山ノ内 美術館調査「身を潜める状況伝わる」
6月24日まで企画展で紹介

作家林芙美子(1903~51年)が、疎開していた下高井郡郡山山ノ内町の角間温泉で、親交のあった小説家川端康成(1899~1972年)に宛てて書いた書簡の一部が発見された。1945(昭和20)年1月6日付で、神奈川県鎌倉市に住む川端康成に、信州の厳しい寒さなどをつづっている。同町の志賀高原ロマン美術館が企画展の準備中、研究者らの協力で見つけた。  

同館によると、林芙美子は44年4月から戦後の翌年10月にかけ、山ノ内町で暮らした。書簡は筆で記され、「三尺も雪に埋もれて、郵便やさんもめったに来ない村になりました」で始まる。「硯の水も凍ります」と信州の寒さを表現。小説家片岡鐵兵が亡くなった寂しさなどを伝えている。

書簡は、東京都内の林芙美子の親族が所有。宛先は記されて居なかった。同館学芸員の鈴木幸野さんらの調査で、広島県尾道市教育委員会が所蔵する書簡の前半部分と分った。川端康成が51年に文芸雑誌で紹介した書簡の内容と一致していた。

同館はまた、林芙美子が40年に満洲を取材し、現地の様子をまとめた「凍れる大地」の草稿5枚も確認した。林芙美子の夫で中野市出身の画家、手塚緑敏の長野県内の親族二人が別別に所有していた。草稿は「凍れる大地」の冒頭部分とほぼ一致している。

調査に協力した福山大(広島県)の久保卓哉名誉教授は、書簡発見を「疎開した信州で林芙美子が身を潜めて生活している状況がよく分かる貴重な資料」と評価。

草稿は「(出版された内容と比べれば)軍の力が強かった時代にどう原稿を推敲したかをたどれる可能性がある」とする。

同館は21日から、この書簡と草稿などを含め、林芙美子と山ノ内の関わりなどを紹介する企画展を始めた。6月24日まで。
(信濃毎日新聞 小幡省策記者)



2012年5月14日月曜日

大相撲 元横綱輪島の廃業 週刊文春 1985年12月22日号

輪島が廃業した。
なるほど それを伝えた週刊文春の記事は 本当だったんだな
と思った。

初代若乃花の二子山親方は以前 「蹴飛ばしてやりたい」と
言ったそうだが 私にもそれに類したことを思ったことがある。

学生相撲からのライバルである豊山(廣光 小結)との取り組みで
土俵外に倒れた豊山が上半身を起こそうとしたとき
輪島は豊山の首根っこに右手を伸ばして 上から押さえつけた。
勝負はついているのに である。
NHKのアナウンサーは「ダメを押しました」と言っていたが
見ていて実に不快な思いをした。

もう一つは 輪島の立ち合いである。
制限時間いっぱいで、相手は手を下ろして輪島の目を見
今立とうか 今立とうか と呼吸を計って待つ。
しかし 輪島はワンテンポ遅れて最後の仕切りに入り
(目は下を見ている) 
自分の動きが止まってしまわない極めて自然な流れの中で
パッと立つ。
相手に合わせず 自分の呼吸で立つのだから
当然輪島に有利になる。
横綱相撲じゃないな と思っていた。

しかし 今や十分な制裁を受けた。
もう 言うまい。
同じ社会人としては 今後を頑張って欲しい。
(くぼたくや 週刊文春 読者コラム欄)

2012年5月13日日曜日

手爪五寸 ジョイナーの爪 月刊中国図書 内山書店

中国図書(内山書店)表紙
 1989年5月号


ソウル五輪陸上競技で、アメリカの女子百
メートル選手ジョイナーが話題になった。筋
肉隆々で上腕や大腿は動くたび盛り上がり、
スローモーションで見るとその逞しさは他を
圧していた。それなのに国旗を見上げながら
表彰台で涙ぐむ姿は、おやっと思うほど繊細
でしおらしかった。

競技用の衣裳と化粧と、そしてなにより、
爪の長さと爪に施したマニキュアが、また注
目を浴びた。爪にマニキュアをし耳に穴をあ
ける、髪を染め眉毛を剃り落とす、これらは
目次
みかけもそうだが、それ以上にその人の意思
や主張が際立って強く込められているものだ
手爪五寸
った。だったら、ジョイナーのあの長い爪
と、極彩色のマニキュアは何なんだろう。

中国では古来手が長いとか爪が長いという
のは、異能の持ち主であるか、その可能性を
持った人物であるのが普通である。

手が長いので有名なのは三国志の劉備玄徳
だ。身長は七尺五寸(一八〇㎝)、手を下に垂
らすと膝までとどき自分の眼で自分の耳が見
えたという。
西晋の世では帝位継承問題を手の長さが決
した。文王は長子司馬炎よりも次子司馬攸を
可愛がり世継ぎにと考えていたが、これに断
固異を唱え、且つ文帝の考えを翻意させたの
は功臣何曾の次の言葉であった。「髪委地、
手過膝、此非人臣之相也。」髪が地面までつ
き手が膝を越える人相を持つ長子炎こそが皇
帝としてふさわしいと。炎の治世は二十五年
の長期に渡った。

爪が長いので有名なのは唐の詩人・鬼才李
賀だ。「細痩通眉、長指爪、能苦吟疾書。」こ
れは李商隠の李賀小伝のことばだが、李賀は
痩身で太く濃い眉を持ち、その指の爪は異様
に長かったという。

これらは男だが、女だと爪の長さはやはり
美しさと関係する。

南朝陳の高祖宣皇后は若いころから眉目麗
しく聡明な美人であったが、その手の爪の長
さは五寸もあり、しかも桃の花、李の花の如
く紅白の色合いが鮮やかで、余りに美しいが
ゆえに喪に服す必要があるたび、まずその爪
を折ったという(『陳書』巻七)。爪の長さが
五寸とは今の十二㎝にあたるから大変長かっ
たわけだ。指の先にもう一本指が伸びていた
くらいの感じだっただろう。それで書や計算
に巧みで詩及び楚辞も朗誦できたというか
ら、才能容姿ともに衆人の耳目を集めていた
らしいと分かる。

ジョイナーの爪はたしか十二㎝もなかった
と思うが、現代の常識では異様に長かった。
しかも極彩色のマニキュアによって一層目立
たせていた。強烈な自己主張にみえた。中国
文学をかじった者にとってはあの爪は異端な
までに傑出した才能と、美しく魅力的な女ら
しさを表すものだと判断できた。

それにしてもジョイナーは実はこんなこと
も先刻ご承知だったのかしらん、まさかそん
なことはあるまいにと、その暗裡に附合する
演出の見事さに稔ってしまった。
(くぼ・たくや)



2012年5月9日水曜日

紀伊民報 紀伊文化 漢詩集『南紀遊詩』

紀州熊野の景勝の地を旅した幕末、明治の漢詩人、石橋雲来が、自然の美しさを詠じた漢詩集『南紀遊詩』が、田辺のあおい書店から出版されました。千葉宏太郎釈、久保卓哉校正。
紀伊民報は、南方熊楠ゆかりの田辺市で発行されている南紀地方の有力新聞です。

田辺市下屋敷町、あおい書店経営の多屋朋三さん(64)が、江戸末期~大正時代の漢詩家石橋雲来の「南紀遊詩」=写真=を読み下し、再出版した。B5判、127頁。明治中期の田辺市や白浜町まどの風景が漢詩でつづられている。

多屋さんは、以前から紀南地方に関係した古文書の再発行に取り組んでいる。田辺市新庄町の元高校教諭、千葉宏太郎さんが読み下し、白浜町出身で福山大学教授(中国文学)の久保卓哉さんが校正した。

原文と読み下し文を照らし合わせて読めるよう交互に掲載し、注釈も付けている。

雲来は姫路に生まれた漢詩家。1914年、68歳で死去した。

多屋さんによると、南紀遊詩は雲来が各地を旅した紀行文全3巻のうちの第二巻。1888年か89年に出版したと考えられるという。

雲来は87年に40日余りかけて熊野を旅した。和歌浦、日高、田辺、古座など県内各地を巡り、それぞれの土地で漢詩を詠んでいる。

田辺と題した漢詩は七言絶句で「山有蟾蜍海鬼橋/田辺之地好逍遥/碧翁熊叟称高逸/恨使吾人嘆寂寥」と詠んでいる。碧翁は田辺之文人池永寿散、熊叟は画家中田熊峰のことで、雲来が田辺に来たとき、二人はすでに死去していた。出会うことはなかったが尊敬の気持を表しているという。

田辺市美子浜にあった鬼橋岩や同市稲荷町のひき岩、同市上秋津の奇絶峡なども題材にしている。

初代西牟婁郡長を勉めた大江秋濤、田辺の医師目良碧斎、漢学者湯川酔翁(退軒)らの名前も文中にある。「往来過従時爾聯深勝」と書いており、一緒に田辺の名所を鑑賞したことがうかがえる。

多屋さんが確認したところ、県内の図書館で保有しているのは新宮市立図書館や田辺市立図書館、郷土史家らにおくった。残り50部はあおい書店(田辺市湊)アークⅢで販売している。5000円。

多屋さんは「田辺をはじめ紀南地方のことが書かれており興味深いと話ている。


2012年5月7日月曜日

金子みすゞの墓 遍照寺であそぶ子供たち 2012.5.4


長門仙崎は金子みすゞが生れ育ったところ。墓所も生家に近い遍照寺にある。
みんなちがってみんないい」(私と小鳥と鈴と)
「見えぬけれどもあるんだよ 見えぬものでもあるんだよ」(星とたんぽぽ)
なんて深いことばだろう。


遍照寺の墓石の前に立つても みすゞの死が感じられない
墓石には「昭和五年三月十日 上山ミチ娘 金子テル子」と刻まれているのに
どうしてだろう
きつと みすゞのことばが 死んでいないからだ

山門のうちがわであそぶ子どもたちの声が
静かな街の夕暮れにひびいていた
モモをみつけて かけよってきた
五人の子どもの手が のびる
頭に 首に 耳に しっぽに

本堂への砂利道をはしり
みすゞの墓石の間をはしり
歓声をあげて笑う
かおじゅう 汗だらけ

みすゞは 少しもさびしくない
まい日 子どもがやつてくる
きつと 墓の中にいないのだ
出てきて 子どもとあそんでいるのだ
遍照寺山門 あそぶ子どもたち

(左)昭和五年三月十日 上山ミチ娘 金子テル子 (中)文政二卯六月十日 (右)平成元年四月十一日 上山正祐
(文政二卯六月十日は「先祖累代納骨墓」の墓石を建てた年月日 か)
石見屋又右衛門 明治三十九年二月十日 俗名金子庄之助
(石見屋又右衛門はこの墓石を建てた人物 か 金子庄之助はみすゞの父)




かけよるこども
モモもこどもずき

2012年5月6日日曜日

わたし林芙美子 没後60年記念 山ノ内に刻まれた足跡 志賀高原ロマン美術館 2012.4.21-6.24

志賀高原ロマン美術館は黒川紀章のデザイン。たったひとりの学芸員すずきゆきのさんは美術が専門の若き研究者。信州湯田中には、角間温泉、上林温泉、渋温泉、湯田中温泉、安代温泉、新湯田中温泉、星川温泉、穂波温泉、沓野温泉、地獄谷温泉があり、林芙美子、川端康成、壷井栄、竹久夢二、伊藤深水などが書や絵を残している。すずきゆきのさんによれば、旅館などにはまだ世に出ていない書や絵があるという。こうした文物を展示する展覧会が開かれている。会期は6月24日まで。5月26日には、座談会「林芙美子 角間でのすがた」があり、芙美子をよく知る黒鳥まさと氏87歳が芙美子を語る。
林芙美子の自画像 角間温泉の林芙美子
魯迅から贈られた腕輪  月夜の蟹は淋しいな


屋久島 平内海中温泉 露天風呂 2012.3.8


「一ケ月三十日は雨だと聞いたが、陰気な雨であつた」(林芙美子「屋久島紀行」)
「はア、一ヶ月、ほとんど雨ですな。屋久島は月のうち、三十五日は雨といふ位でございますからね……」(林芙美子「浮雲」)

屋久島は林芙美子がいうようにほんとうに雨が多かった。
どこを歩いても樹木、岩石、水流、屋久シカ、屋久サルのすがたがあった。
山間より流れる川は、安房川、宮之浦川、栗生川、永田川、黒味川、
小楊子川など、四方にひろがる。

樹木の種類を書きとめた芙美子の屋久島手帳には、
すぎ、もみ、つが、ひのきかや、いぬがや、あかまつ、くろまつ、
やくたねごよう、こなら、かしは、かしはなら、くぬぎ、くり、
つるまんりょう、やなぎ類、はんのき属など、二頁にわたって
樹木の名称がメモされている。

屋久島南端 平内海中温泉
縄文杉はもちろんだけれど露天風呂は屋久島にかかせない。

干潮のときだけ 露天風呂になるという野趣あふれる海中温泉。
午前11時すぎの干潮にあわせて下りて行くと、
おっちゃん2、老爺1,老爺の妻(着衣)先客でいて、
気軽に入れそう、と思つて、岩陰で脱衣していると、
もう一人、40歳くらいの女性が、小さい湯舟につかっているのを発見。
インド更紗のような布をからだに巻いて、海を見ていた。
女性は一人で来ているらしく、しばらくすると、お先にしつれいします
と湯舟からあがる気配。
声につられてふりむくと、
湯からあがったうしろすがたに
きていかった・!
ぬれた布がはりついている。

きていかった・!

川内まごころ文学館 川内市のくるくるバス 2012年3月6日


鹿児島から新幹線で川内に降りて市内をまわる くるくるバスに乗り込んだところ 途中で子供たちが乗り込んできました。
早速子供たちと話を始めたところ、その純朴なこと。後日、住所を調べて 手紙をそえて写真を送りました。


高来小学校 3年生のみなさん

            バスでお会いしましたね
みなさんが乗って来る前は、バスの中には五人しかいませんでした
どどっ
次から次へとみなさんが乗ってきて あっというまに超満員
一つのイスに二人で座ったり ゆずりあって交代で座ったり
びっくりしました
なんて よいこたち

わたしは一番後ろ
横に座った 男の子と女の子
いっぱい しゃべったね
いっぱい 聞いてくれたね
どこから来たんですか
和歌山からきたんやでぇ
せんせい!和歌山から来たと
来られたでしょ
せんせい!和歌山からこられたと
びっくりしました
なんて よいこ なんて いいせんせい

バスをおりるとき ひとりひとり 自分で100円を入れていましたね
わたしもみなさんと いっしょに 歴史資料館前でおりました
行く先は 川内ふれあい文学館
元気でたのしいこどもが 大好き
ちょっと 写真とらしてや かまへんか

その時の すばらしい写真を おおくりします

      ― 2012年3月6日 くるくるバス東回り 楽しい思い出―