2019年9月26日木曜日

昭和天皇 行幸日程 昭和4年6月4日~6月9日 大阪神戸横須賀

串本御出航後 行幸記録    昭和4(1929)年
6月4日 7:30 御召艦長門、供奉艦那智、灘風、大阪築港沖合3900mに投錨
  8:40 陛下、灘風に御移乗。湾内を御巡覧
  9:10 大桟橋に横付け。御召艇つる丸に御移乗
    安治川を遡上
  10:10 住友伸銅鋼管株式会社前桟橋に着御 (大阪行幸の御一歩を印せらる)
    同会社工場を御巡覧
  11:21 浮き桟橋より、つる丸にて築港大桟橋に御上陸
  12:00 御召自動車で、大阪城紀州御殿の行在所に着御
  13:55 行在所御出門
  14:00 大阪市民奉迎場に御着
  14:20 大阪医科大学を御巡覧
  15:20 大阪市庁に臨幸
  16:20 大阪府庁に臨幸
  17:30 行在所に還御
6月5日 奉迎謁(大手門前)
    大阪医科大学、大阪市役所、大阪府庁へ行幸
    大阪市立都島工業学校、大阪市立北市民館、大阪控訴院へ行幸
  13:55 大阪城東練兵場に於て11万2500余名を御親閲遊ばさる
6月6日 14:00 (軍楽隊の行進曲奏楽裡に学生隊を初め分列行進を開始)
  15:25 陸軍造幣廠、大阪工廠へ行幸
    大阪高等学校、大日本紡績株式会社平野工場
6月7日   観兵式場(城東練兵場)
    商品陳列所へ行幸
  9:20 御召自動車に乗御、紀州御殿の行在所を御出門
  9:50 大阪築港桟橋に着御
  10:00 駆逐艦灘風に乗御。大阪御出港
  11:20 神戸港第三突堤御着
  11:30 兵庫県庁で県政一般を聞こし召す
    御昼餐
  13:30 発御。第一神戸高等女学校に臨幸。列立拝謁
  13:45 海洋気象台に臨幸
  14:35 神戸市役所に臨幸
  14:40 発御。別格官幣神社湊川神社に臨御
  15:13 神戸港に着御。御巡覧
  16:00 第三突堤より駆逐艦灘風に乗御
  17:00 御召艦長門に御移乗
  18:00 文武大官等に賜餐あらせらる
  神戸港頭の御召艦長門に御仮泊
6月8日 早晨 御起床
    艦内を御散策。神戸市中、六甲連峰、湾内を御眺めあらせらる
  8:55 皇礼砲殷殷として轟く
  9:00 大井、那智、灘風以下駆逐艦5隻を従え、神戸港を御出港
  16:30 潮岬沖2マイルを御通過
  17:10 樫野崎東方洋上において、伊勢湾より四国に向かう第二艦隊の比叡、
                                                                      古鷹と出合う
6月9日 10:00 東京湾口で第一航空飛行戦隊、赤城、鳳翔が行う空中攻防演習を
                                                               長門艦上から天覧
  13:37 横須賀軍港に御入港
  15:25 横須賀駅御発輦
  16:50 東京駅に御着車
    (『紀伊新報』 和歌山県田辺市 紀伊新報社 による)

昭和天皇 行幸日程 昭和4年6月3日 串本

和歌山県串本町
行幸記録 
昭和4(1929)年

6月3日

早朝

御目覚め
  (7:30) (御召艦長門、供奉艦那智、警備艦大井の選手の挺櫓のボート御召艦付近に集合)
  8:00 海軍余興ボートレース御覧 
  (コースは大井より御召艦までとし距離1200m)(出走艇は計8隻)
    陛下は御微笑を湛え給い御熱心に御覧
  9:30 ボートレース全部終了
    御小憩
  10:00 御召艦に御移乗
    樫野崎へ発御
  10:15 樫野築港桟橋に御着 (御召艇は2隻の供奉艇を隨う)
    桟橋に降り立たせ給う
    御歩行にて新設の御幸道を進ませ給う
    島民の跪坐奉迎する間を、御挙手の御会釈を賜う
    御上陸地点より凡そ15町、蝉時雨の降りしきる中を凡そ20分進ませ給う
  10:35 トルコ軍艦遭難紀念碑の前に着御
    陛下は御挙手の御会釈を賜う
    四辺の光景を御眺め
    樫野崎燈台に御臨幸 (紀念碑より2町)
    燈室に入御。入口に掲げたる懸額を天覧に供す
    (懸額には和英両様あり。英文「西暦1870年7月9日始めて点火」
                                            和文「明治3年6月10日点火」)
  10:55 樫野崎燈台を御後にす
    樫野桟橋に着御
    樫野桟橋より艦載水雷艇に召され、勇壮なる大謀網を天覧
    (6艘の漁船に囲まれた網の中は一間もあらんかと思わるる
                                    大マグロ60尾-紀伊新報-もあり)
    陛下は終始御興深げに立御のまま御覧。
                          御親ら両方の御手を以て魚の大さを形容遊ばさる
  12:10 御機嫌麗わしく還御の途に就かせ給い、御召艦に還御
  14:30 大島村須江白野海岸で御採集遊ばさる
  17:20 御召艦長門へ還御
  19:00 御出航
    (街の灯、島の灯、奉祝のイルミネーション点々として、
                             桟橋浜辺も無数の人々を以て埋められ、
    学校生徒児童は小旗を打振り、御海路の御平安を祈り奉る)
    那智、大井の諸艦より皇礼砲を打出し、御召艦長門は檣頭高く天皇旗を翻し、
    串本湾を離る、大島の沖を廻りて一路大阪に向かい御発航
    (『和歌山県行幸記録』和歌山県 昭和4年12月20日発行 による)

昭和天皇 行幸日程 昭和4年6月2日 串本


和歌山県串本町
行幸記録 
昭和4(1929)年

6月2日  
朝来初夏の空青く晴れて一碧拭うがごとし。海面を吹き渡る朝風も快く、
                                                     この上もなき行幸日よりなり
  6:30 御起床。沿岸の風景を御覧になる
  9:00 出御を仰せ出さる。各艦一斉に登舷礼を行う。艦載水雷艇に乗御
    皇礼砲轟く。供奉艇2隻を従え、橋杭岩と大島との間を、白波を蹴って進む
  9:20 串本の新桟橋に着御(串本町桟橋は今時新たに建設)
    (御幸道路には化粧砂利を敷き詰め、沿道に数ヶ所の奉拝所を設ける)
    奉拝者に対し挙手の御会釈を賜いつつ玉歩を進め一路潮岬へ
    爪先上がりの大正坂となるも一歩一歩と登らせ給う
    上野街道を御通御。一里ほどの御順路を経る
  10:30 潮岬燈台に着御。燈台事務所内の便殿に入御
    (便殿の「便」はくつろぐ意。行幸先で天皇皇族が休息するために設けられた部屋)
    玉歩を燈台の高塔に。(狭き石階68段、傾斜急なる鉄梯子)
    頂上の燈室に臨御
    燈室を廻る展望用廻廊に出御。海上の壮観を御俯瞰遊ばさる
    燈台を御降りあらせらる
    天幕に入御。燈台用の燈器等を叡覧
    構内の船舶見張り所に臨御
  11:00 五町を東に隔つる潮岬無線電信局に向かわせ給う
(無線電信局は望楼の芝の南隅絶壁近きにあり)
    小松の若芽生い茂る白砂の道に玉歩を運ばせ給う
  11:15 無線電信局に着御。玄関右側の便殿に入御
    通信室に成らせらる。各種無線電信機を天覧
    構内の海軍望楼跡に臨御(東経35度46分8秒、北緯33度25分32秒。本州最南端の地)
    玉歩を止め、南方遥かに大洋を御眺望遊ばさる
    (望楼跡は安政年間紀州藩に於て内外船舶の監視をなすため遠見番所を設けし処)
    (明治27年日清戦争に際し海軍望楼を設け、日露戦役の時海軍無線電信を装置)
    各藩船形図、異国船絵図、異国船攘払命令書、竹筒製望遠鏡等を天覧
  11:50 海軍望楼跡を発御
    楠平見に設けたる天幕張りの簡素な御野立所に入御
    御昼餐
    五万坪近き緑の芝生を白浪躍る岸壁近くに沿い御散策
  13:00 御野立所を発御
    御往路と同一の御順路を経て、潮岬村より串本町に入らせられ、
                                         遥か右手に橋杭岩を望ませ給う
  14:20 串本桟橋に着御
    艦載水雷艇に乗御、駆逐艦灘風に御移乗
    御召替
    大島村須江海岸に向わせ給い、灘風は須江海岸に投錨
    伝馬船に御移乗
    島陰の波静かなる処に御船を停め、箱眼鏡を以て海底を窺はせ給う
    珊瑚類を御覧ありて 「いかにも良く発達せり」 と宣い叡感斜ならず拝せらる
    (潜水の海士は、高野一一、田代角雄、井本四郎一、伊勢谷英一、小峰武平の五名)
    御採集品を陛下は一々御検索あらせ給う
    御船を須江白野の北側に移し参らす
    此処にても多数の採集品を御覧 「実に見事なり」 と御称讃
    桟橋より白野に御上陸
  17:30 白野を発御
    灘風にて御更衣
    御召艦長門に還御
  18:15 御召艇は白浪を蹴て湾内を真一文字に進み、御帰艦
    直ちに後甲板に出御
    陳列の献上品、天覧品につき、40分に渉り説明を受け給う
  19:00 御召艦長門に於いて、海軍大臣晩餐会に臨御
    上甲板の会場へ臨御。側近の方々と種々御物語あらせ給う
  21:00 陪席の諸員一同、各自退下
    別室に出御
    トルコ軍艦遭難救助者樫田文右衛門より、
                              遭難当時の思出物語を聞召さる(約20分間)
  22:00 内閣奏請の諸政務を御覧
  23:00 御寝に就かせ給う

昭和天皇 行幸日程 昭和4年5月31日-6月1日 白浜(瀬戸鉛山村)



和歌山県瀬戸鉛山村 行幸記録 
昭和4(1929)年
5月31日   警備艦大井、第18駆逐隊浜風、磯風、天津風、第三駆逐隊島風、田辺湾入港
6月 1日 7:00 御召艦長門、供奉艦那智、灘風を随え瀬戸崎沖に姿を現わす
  7:30 大井、皇礼砲を放ち、天皇旗翻したる長門、田辺湾内に進む
  7:53 長門、投錨
  8:00 田辺御入港
    賜謁(和歌山県知事等)
  9:00 艦載水雷艇に御乗艇 
  9:23 綱不知桟橋御到着
  9:30 瀬戸鉛山綱不知桟橋御上陸 御徒歩40分
    綱不知-大通り-御船山横-藏ノ鼻入江-磯伝いコンクリ新道-円月島
  9:56 桔梗平の臨海研究所着御
  10:10 京都帝国大学附属臨海研究所着御
    便殿(特別研究室を充当)
    (便殿の「便」はくつろぐ意。行幸先で天皇皇族が休息するために設けられた部屋)
    賜謁(京都帝国大総長等)
    研究御聴取(前後1時間) 南紀の地形、地質、温泉に就て
      紀伊沿海の動物に就いて
      紀伊産貝類に就いて
      浮游生物に就いて
      海藻類に就いて
      海藻の色素と夏蜜柑の生化学的研究 
  11:20 学生実験室に入らせ給う
    御巡覧 機械室、材料室、図書室、整理実験室、薬室、暗室、普通研究室、水槽室
      体重30貫の大海亀、胴回り1尺2寸体重3貫の大鰻
    地方物産御覧
  12:30 便殿に還御
    御昼餐
    御召替
  13:20 崎の浜より御座船に乗御(船夫、雑賀弥之助、南常三郎、大江四郎吉)
    和船「ぢのしま」(海士、正木善松、金谷徳松、田中惣一郎、小山仙之助、今津佐太郎)
    御座船と「ぢのしま」は、長門艦載水雷艇に曳かれて進む
    少し離れて「をきのしま」は他の艦載水雷艇に曳かれて進む
    円月島通過
    四双島停船 「ぢのしま」の海士5名、潜水 前後30分
    番所ヶ崎を右にして進む
    塔島の岩間に停船 同様に御採集を続けさせられ 約30分
    再び御座船の綱を艦載水雷艇に結いて田辺湾深くへ
    江津良の浜辺に当たり「一団の群衆を望みしか小学校の児童と覚しく手に手に国旗を持ち
御座船の近づくと共に高く之を捧げて萬歳を唱えたる」
    神島停船 「陛下には島蔭の波静かなる処に御船を停めて島に下り立たせ給う」
    南方熊楠に島上に於て拝謁を賜り暫し御進講を聞こし召す
    再び御座船に乗御
    畠島に向わせ給う(全島徳川公爵家の所有に属す)
    小丸島の傍より御上陸あらせらる
    畠島に渡御
    北方の断崖に沿いて砂浜に出御あり
    再び小丸島に戻る
  17:30 艦載水雷艇に御移乗、御召艦長門に還御
    直ちに海軍軍服に御召替、南方熊楠に拝謁を賜る 25分間御進講
  18:30 長門御抜錨、那智以下の供奉艦を随え、田辺を御後に御出航
  19:00 御晩餐会(御召艦内にて)
  21:00 潮岬の突端に差し懸る    (町民は午後7,8時頃より手に々々提灯を打ち振りつつ
続々海岸に詰めかけ人の波は刻々と増加)
    御召艦、串本湾内樫野崎沖に投錨
  22:30 串本御入港
  23:00 午後11時過ぎ、御寝に就かせ給う
(『和歌山県行幸記録』和歌山県 昭和4年12月20日発行による)

昭和天皇 白浜串本行幸 昭和4年5月31日~6月3日 <あとがき> <編集後記>

<あ と が き>

 昭和天皇が白浜(瀬戸鉛山)、串本に行幸されてから90年がたつ。その時の思い出を語ることができる人は少なくなった。
幸いにして本書で紹介するような絵葉書があり目でみることはできる。けれども写真のなかにある声や熱気まで感じることができない。さぞかし緊張しかつ感激したろうなと理解できるが、生の気息を感じることは無理だ。
 だがその気息を感じるために、昭和4年当時、天皇に対する国民の心情はどういうものであったのかを知っておかなければならない。戦後生れの私にそれはこうだという自信はないが、私の意見を述べておきたい。
 白浜では行幸の前日から奉迎の民の老若男女が山をこえ海を渡って集まり、小学校の児童ですら二食三食の弁当と寝具代わりの冬シャツを小脇にかかえて集まり、高齢者にいたっては夕方五時には紋付きの襟を正して正座し夜露にぬれながら一夜をあかして待った。しかも行幸当日は降雨で濡れるにまかせてひたすら端座(威儀を正してすわる)。思いはただ一つ「一生の思い出に一目なりとも英姿を拝みたい。望みを達したならば今すぐに死んでもいい」であったという。
 串本では大島村須江の海で採取をしてのち串本にもどる陛下の船を迎えるために、小学校児童1500名に加えて商業学校、家政女学校の生徒が国旗をもち姫の松原の砂浜に集合し、夜にも各学校生徒と町民は、御召艦に近い橋杭岩付近の姫の松原まで提灯行列をおこない、御召艦にむかって提灯を振りあげながら地軸も裂けんばかりのバンザイをとなえ、串本のみならず、西向、高池、古座、田原付近一帯の町村から繰り出した提灯行列もバンザイをとなえて、海岸一帯はまるで火の海と化したという。
 これらは時代が生みだした上意下達の国家体制がもたらしたものであろう。それを明文化した『国体の本義』(全156頁)が八年後の昭和12年に文部省から発行されるが、そこには、天皇を「現人神」と記し、「大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給う。これ、我が万古不易の国体である。しこうしてこの大義に基づき、一大家族国家として億兆一心聖旨を奉体して、よく忠孝の美徳を発揮する。これ、我が国体の精華とするところである」(第一 大日本国体 一、肇国(肇国:新しい国家をたてること。建国))と規定する。
ここの、一大家族国家として国民が心を一つにし、天皇の趣旨をよく心にとめて実行し、忠孝の美徳を発揮せよ、という国の意図を白浜、串本の町村民がまさしくよく心にとめて実行したのであろう。その様子が本書の絵葉書に見え、かすかながらも紀南民の気息が伝わってくる。  令和元年5月16日しるす

[編集後記]

 昭和天皇の和歌山県への行幸をより詳しく伝えるために、白浜(瀬戸鉛山)での行幸日程表に加えて、串本での日程表も作成した一冊を出そうと、あおい書店多屋朋三氏から企画が持ちこまれたのは平成31年4月10日であった。
すぐさま串本での日程表の作成にとりかかったが、時間ごとの行程を調べるうちに尋常小学校一年生松本貞子さんの感激の言葉や、トルコ軍艦遭難事故の救助にあたった樫田文右ヱ門が御召艦に召されて天皇の前で語っていることなど、興味深い事実があることが分かり、それらを調べた結果を原稿にして付け足し、出版者の判断を仰ぐことにした。
松本貞子さんや樫田文右ヱ門を捜すために瀬戸、串本、大島を歩いたことは楽しいうえに収穫もあった。特に「おまえ」という呼称表現と天皇との関係について実例を聞くことができたのは有益であった。濵野三功氏から聞いた秘話としてここに手控えておきます。
     令和元年5月16日         久 保 卓 哉

昭和天皇 白浜串本に行幸 昭和4年5月31日~6月3日 <大島村樫野 樫田文右ヱ門 トルコ軍艦遭難当時の追憶>

<大島村樫野 樫田文右ヱ門 トルコ軍艦遭難当時の追憶>
紀伊新報 昭和4年5月2日
<土耳古軍艦 遭難当時の追憶>
<唯一の生存者 樫田文右ヱ門翁談>

 大島の東南端樫野崎の灯台より西約二丁のところにトルコ軍艦エルトグロール号遭難を追悼記念する碑が寂しく建っている。
 明治二十三年九月十六日夜エルトグロール号がわが皇室に対する修好の使命を果たして帰国の時、本島沖で一大颶風に遭い碑下の岩礁に触れ無惨にも使節オスマンパシャ以下艦員五百八十七名が悉く艦と運命を共にしたので、当時救助に従事した唯一の生存者樫田文右衛門翁は八十三歳の高齢をなお矍鑠として白髯を撫しつつ語る。

難破して岸に打ち上げられた負傷者たちが削ったような断崖を這いあがって来て『わたし、トルコ、ジャパン』『わたし、トルコ、ジャパン』と繰り返し、左右の人さし指を組あわせて仲のよいことを知らせ、傷の痛みを訴えて同情を求めるので、私は村の人達に死体は捨ておけ、生きている人を保護せよと、大龍寺というお寺に収容し、当時六十何軒かの家から鶏や芋をあつめてスープのようなものをつくり、二日二晩保護して三日目に大島の方へ移らせたので、それから私は墓葬係として死体をあつめたのですが、夏のこととて死屍が腐敗してづるづると手にひっついてくるので、人夫が逃げ出すのです。私も毎日着物を着かえてゆきましたが夕方にはもうくさくなってしまいます。二十日あまりも働いたがその間御飯もろくろくのどを越さぬほど臭気が鼻につきました。あの石碑の芝生一面に死体を埋めてあるので、始めに一人づつ棺に納めて埋葬するつもりで、なかなか大勢でしまいには芝生に大きな穴を掘って埋めたのです。
オスマンパシャは上衣だけ見つかりました。私は今年八十三歳ですがこの年まで無事で長生き出来るのもトルコを大事にしたお蔭です

と、童顔を輝かせ大事そうにふところから時の石井知事の賞状を示した。


因みにエルトグロール号は屯数一一〇〇屯、六〇〇馬力であって、大砲大十門、同小十門、檣(ほばしら)三本、艦員六百五十名で、生き残るもの僅かに六十三名そのうち全く無事が五名、負傷が五十八名であった。村から徴発したゆかたなど短くて困ったということである。また県庁への通知の如きも田辺まで人をはしらせねばならなかったというのである。
(紀伊新報 昭和4年5月2日 第三面)(漢字、仮名を新字体にした)

なお、『和歌山県行幸記録』に載る樫田文右ヱ門に関する記述は以下のとおり。

 此の夜御召艦長門に於ては岡田海軍大臣主催の晩餐会を催され(略)、各艦長並に御召艦乗組佐官以上の将校その他に御陪食仰せ付けられしが、陛下には(略)側近の方々と御機嫌麗しく種々御物語あらせ給い、此の間海軍軍楽隊は泰西の名曲を奏して嚠喨たるオーケストラの響きは御興を添え奉り、此くて御宴は一時間に及び午後九時陪席の諸員一同は面目を施して各自退下し、
 陛下には更に別室に出御あり折柄御召に依りて伺候したる土耳古軍艦遭難救助者樫田文右ヱ門を御側近く召され侍従を通して約二十分間に渉り、遭難当時の思出物語を聞召されたり。
(『和歌山県行幸記録』第一章 千載一遇の盛事 第二節
潮岬村行幸 二 大島村須江白野御立寄 14頁)

樫野崎灯台旧官舎への取材
昭和天皇の串本行幸の時、御召艦長門がどこに停泊し、陛下が上陸した串本町の新桟橋はどのあたりで、陛下が伝馬船に乗り箱眼鏡で海底を見たという須江の白野海岸と通夜島との間の海はどうなのか、また樫田文右ヱ門の旧家と墓地はどこにあるのかを調べるために、串本を訪れたのは平成31年4月19日であった。あらかじめ紹介されていた樫野崎灯台の旧官舎館長濵野三功氏のもとに伺い、大島とトルコ軍艦エルトゥールル号遭難のことについて詳しく教えていただいた。
樫田文右ヱ門翁が遭難当時を追憶して「鶏や芋をあつめてスープのようなものを作」ったと昭和天皇に語った背景には、樫田翁が若い時から樫野崎灯台の官舎に出入りし、官舎に住むイギリス人やインド人の食事をまかなっていたからであるという。だから遭難者であるトルコ人に西洋風のスープを作って食べさせることができた。
灯台と官舎はイギリス人技師によって明治3年に建てられ、官舎に常駐する彼らによって灯台の管理も行われていた。建設当初の明治3年は、樫田文右ヱ門23歳の時で、この若者が住む家と樫野崎灯台の官舎は徒歩で28分ほどの距離である。食事のまかないを頼まれた若者はイギリス人たちが持ちこんだ調理具を使い、彼らに料理を提供した。灯台業務がイギリス人から日本人に移管されたのは明治9年で、離任の際に彼らは鍋やフライパンの調理具を樫田文右ヱ門に贈ったという。その時のフライパンがトルコ軍艦遭難の時に役立ったことになる。
濵野氏は、樫田文右ヱ門は昭和9年9月まで生きて88歳の天寿を全うし、近親者からは「ひげ爺」と呼ばれて親しまれたこと、その文右ヱ門から数えて四代目の方が昔からの家にお住まいで健在であることを教えてくれたが、残念ながら樫田家を訪問することができなかった。墓の所在もふくめて次の機会に期したい。

[参考文献]
「樫野崎灯台・官舎及びエルトゥールル号事件に関する調査研究報告書」
和歌山県教育委員会 2013年発行
『歴史街道』日本とトルコを結ぶ絆 エルトゥールル号の奇跡 時を越えた友情
PHP研究所 2013年3月号
『日本遙かなり エルトゥールルの「奇跡」と邦人救出の「迷走」』門田隆将
PHP研究所 2015年発行

昭和天皇 白浜串本に行幸 昭和4年5月31日~6月3日 <瀬戸鉛山尋常小学校一年生 松本貞子 感激の涙>

< 瀬戸鉛山尋常高等小学校一年生 松本貞子>
< 感激の涙>

 畏れながら 陛下には御仁徳に富ませ給い、至仁至慈、民を視ること子の如く老をいたわり幼を憐れませ給い、今次の行幸に際して風雨、炎天もいささかの御厭いなく、到る処御英姿を拝せさせ給わんとの深き思し召しより、第一日瀬戸鉛山村の如き兼ねて降雨の際は直ちに臨海研究所の裏桟橋より御上陸の事に御治定ありしに、さる御事なく、降りしきる雨中に濡るるがまま御徒歩にて予定の御道筋を進ませ給い、余りの難有さに数万の奉拝者は恐懼措く所を知らず、覚えず大地にひれ伏して、唯感涙に咽ぶのみ。

 可憐なる一少女(瀬戸尋常高等小学校一年生松本貞子)は奉拝後胸を躍らせながら左の如く語り、

雨はさんさんと降ってましたけれども 天子様がコンクリートの道を御疲れの模様もなく私達の側近く後出遊ばされた時、雨はぴったり止みました。最敬礼のおつむを恐る恐上げると 天子様はにっこりと御笑い遊ばして黒いまんとの間から白い手袋の御手を上げて御会釈下さいました。私はもう嬉しくて嬉しくて嬉し泣きに泣けて来てぽたぽた膝の上に難有涙をこぼして俯(うつむ)いてしまいました

嬉しくて嬉しくて嬉し泣きに泣けてきたとは実に肺腑よりほとばしり出たる告白。奉迎者はいずれも此の感激の涙あるのみ。
     (『和歌山県行幸記録』第二章 国体の精華 第一節 御聖徳の一端 21頁)
(仮名づかいのカタカナを平かなにし、漢字、送り仮名を新字体にした)

松本貞子さんについて分かったこと
 昭和4年6月1日雨中の瀬戸を歩く天皇陛下の龍顔を見たという人を見つけだして、話を聞くことは今ではむずかしくなった。ましてや、その時尋常小学校一年生だった松本貞子さんを捜し出すことは更にむずかしい。不可能かも知れないと思いつつ松本貞子さん捜しを始めた。

 瀬戸1丁目の「はまや」の長女・藪本近衛(やぶもとこのえ)さん(94歳 大正14年生まれ)を訪問したのは平成の末年、31年4月17日であった。近衛さんは尊父不動庵藪本近蔵が発行した回覧文芸誌『赤芋』の所蔵者であり、現在でも町立図書館から一度に5冊の本を月に二度、三度と借り出す読書家でもある。近衛さんは次のように語って下さった。「天皇陛下がお通りした時はまだ小学校に上がっていない時で、小さな身体で大人の後ろからのぞいたが見ることはできなかった。しかし確かにお通りであることは分かった」「松本貞子さんという人は覚えていない。その人が一年生だったということは私よりも一歳上」「ちょっと待って、私の友達何人かに聞いてみてあげる」。すぐに電話機に向かい手帳を開いて電話番号を押してくれたが、「元気な人は少なくなった。寝ついたり入院したりで」とのことで呼び出し音は鳴るもののすぐには通じなかった。後で何人かに聞いておいてあげるとの言葉をいただいて御宅を辞去した。

 その足で白浜から田辺市立図書館に行き、『紀伊新報』の合冊本を閲覧申請して天皇行幸の串本記事を繰っていると、近衛さんから電話があった。「松本貞子さんを知っている人が見つかった。私の友達のてるちゃんが知っていた」「玉置輝代という同級生で、てるちゃんによると松本貞子さんのお父さんは先生をしていて、瀬戸2丁目の借家に住んでいたという話」。それを聞いて私は近衛さんの電話に感謝しつつ合冊本の複写数十枚を終え、翌日玉置輝代さんの家に向かった。
 輝代さんは次のように語って下さった。「天皇陛下がお通りした時は子供ながら見にいって、私は天皇陛下を見た」「松本貞子さんは確かに小学校にいた。学年が違うから一緒に遊んだことはなかったが、松本貞子さんの名前ははっきりと覚えている」「お父さんは先生で瀬戸2丁目の辻先生の持家を借りて住んでいた。その家には雨水を貯める大きな甕があり、その甕の中に子供が落ちて死んだ。近所でえらい騒ぎをしたのでよく覚えている。子供は男の子で松本貞子さんの弟さんだったと思う」「そのうち松本さんたちは他所に引っ越していった」という。輝代さんの記憶は具体的で多くの情報を得ることができた。
 松本貞子さんのお父さんが先生であったということを手がかりに『百年の回顧 創立百周年記念』(白浜町立第一小学校 昭和49年発行)を調べると次の記述があった。

在勤教職員一覧
  松本安助 校長 勤務年月 昭和4年4月~昭和8年3月 期間4年

松本貞子さんの父は昭和4年から8年までの四年間小学校の校長を務めていたことが分かった。まさしく天皇行幸の年と重なる。そして一年生52名のなかから貞子さんが選ばれたのは校長の娘ということと関係がありそうである。

 だが『百年の回顧 創立百周年記念』の「卒業生名簿」を調べると、昭和4年に一年生であった貞子さんは昭和10年3月の卒業であるが、そのなかに名前の記載がない。卒業年度を待たずして他地に引っ越し学校を転校したのであろう。上に引く松本安助校長の在任期間が昭和8年までであったことから、その年月は昭和8年3月であったと思われる。まさしく玉置輝代さんの記憶と一致する。

 貞子さんの同級生51名が健在であれば更に記憶を語ってくれたであろうが、残念ながら今となってはどの同級生にもお会いすることはできなかった。

昭和天皇 白浜串本に行幸 昭和4年5月31日~6月3日 <目次> <はしがき>

<目   次>

は し が き ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

絵葉書 天皇行幸 瀬戸鉛山村 ・・・・・・・・・・・・

絵葉書 天皇行幸 串本町・・・・・・・・・・・・・・・

行幸日程表 瀬戸鉛山村・・・・・・・・・・・・・・・・

串 本 町・・・・・・・・・・・・・・・・・

大阪・神戸・東京 ・・・・・・・・・・・・

瀬戸鉛山尋常小学校一年生 松本貞子 感激の涙・・・・・

大島村樫野 樫田文右ヱ門 トルコ軍艦遭難当時の追憶・・

あ と が き・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

編 集 後 記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


<は し が き>

昭和天皇をどのように評価するか。それは人それぞれの胸中に飛来する時代体験によって異なり、また戦前、戦中の天皇と戦後の天皇像によっても異なる。

 だが、即位して4年目28歳の若き天皇に対する評価は日本国中異なることはなかった。時は、「天皇は神聖にして侵すべからず」「天皇は国の元首にして統治権を総攬」との条文をうたう大日本帝国憲法下にあり、天皇は神格化された国家元首であり陸海軍の大元帥であり、まさに現人神であったからだ。

 その行幸を和歌山県の瀬戸鉛山村と串本町が賜った。都から遠く離れ、鉄道も引かれていない紀伊半島の片田舎に臨幸をあおぐ。和歌山県は全県をあげて奉迎し、その手順を周到に練り、全市町村に周知徹底した。その詳細は県知事の序言ではじまる『和歌山県行幸記録』(全240頁。昭和4年12月発行)のなかにしるされている。この書の全篇に表れているのは「限りなく尊くかしこき御方」への景仰と尊慕で、言葉の一語一語にいたるまでそれがある。

 ここに紹介する昭和天皇の行幸を伝える絵はがきと写真からは、その県民の景仰と尊慕との様子を目で見ることができる。

 後半で紹介している瀬戸鉛山尋常小学校一年生・松本貞子の言葉は、奉迎に参列して天皇の御姿を目にした感激を述べたものであり、また串本に停泊した御召艦長門に召された樫田文右衛門翁の言葉は、トルコの軍艦エルトゥールル号遭難事故の救助にあたった時のことを語ったものであり、どちらもまことに興味深い。
昭和天皇の瀬戸鉛山と串本での行幸日程と、その後東京に帰還するまでの日程を掲げることができた。あわせて御覧いただきたい。

 令和元年5月12日しるす
                      久 保 卓 哉

佐藤春夫と方紀生 佐藤春夫記念館だより24 2019.9.1




佐藤春夫と方紀生(1908~1983)

 京都にお住まいの川辺比奈氏のお宅には佐藤春夫から届いた書簡や、贈られた色紙、書籍及びバリ島土産の人形など八点がある。いずれも佐藤春夫が川辺比奈氏の父、方紀生に贈ったもので、まだ世に知られていないものばかりである。

 そのうち二通の書簡は、佐藤春夫と方紀生がいかに深く親交していたかをものがたる新資料で、この欄を借りて紹介しておきたい。
一通は疎開先の長野県北佐久郡平根村から軽井沢の方紀生に宛てたもので、もう一通は方紀生の知人の令嬢が希望する文化学院への入学に関するもので、文化学院の内部情報を方紀生に伝えている。

 佐藤春夫は昭和二十年四月二十八日、東京への頻々たる空襲を避け、千代、方哉、鮎子、百百子を引つれて長野県北佐久郡平根村に疎開した。平根村の疎開先から発信した書簡は、敗戦までの間に、甥の竹田龍児(昭和二十年五月五日)と堀口大学(同年八月十日)に宛てた二通のみが知られるが、ここに方紀生に宛てた七月十四日のものが新たに加わることになる。

この書簡は、同じく戦火を避けて北佐久郡軽井沢旧道に疎開した方紀生に宛てたもので「拝復過日は御手紙を拝受しながら御返事を延引致し申しわけございません」から始まり「小生は毎日閑散ですから何日にても御出かけ下さい。先ハ右御返事。七月十四日 春夫 方紀生先生 玉几下」」で結ぶ全三枚に書かれている。主旨は方紀生に平根村への来訪を誘うもので、長野県に不案内な方紀生を気づかい、信越本線の「御代田駅より南方へ約一里位ゆるやかな下り坂です」「いつも誰か田畑に居りますから彼等に道をきけばよく教へて貰へると思ひます」と丁寧に道順を知らせている。

  招きに応じた方紀生が平根村を訪ね、春夫と「閑情と閑談を楽しむ事」をしたという証拠はないが、軽井沢と平根村の距離は数時間で着く近さで訪問は可能であった。しかしながら、敗戦ひと月前の不穏な時である。実現はしなかったと思われる。
 用紙は半透明のトレーシング紙を使っている。


  拝復 過日は御手紙を拝受しながら御返事を延引致し申しわけございません。実は疎開の家造り不完備のため荷物かたづかずやっと多少かたづいたところへ第二回の荷物が到着致しましたので更に混雑を極めとてもお客を迎へるだけの餘地もないやうな混亂状態で幾分整理が出来てからと思ってゐるところへ應召中の龍兒が歸還しましたので荷物ややつと整頓しましたが何かと取紛れて荏苒今日に及びました。
  さて戦亂の最中にも不拘皆々様御元気尓て御消光の段大慶至極と存じ上げます當方もおかげさまにて一同無事、東京の拙宅も只今のところ火災にもまぬかれ居りますから御安心下さい。
  こゝの疎開地平根村は追分の次に御代田(みよた)驛より南方へ約一里位ゆるやかな下り坂です。また小諸(こもろ)驛より支線小海(こうみ)線に乘りかへて小諸から二つ目の岩村田驛からも東方へ一里足らず平坦な路です(正午すぎの一二時間は畫休みのため田園に農民は居りませぬが他の時刻ならばいつも誰か田畑に居りますから彼等に道をきけばよく教へて貰へると思ひます単純な一本路のやうですが実は小生もまだ十分には存じませぬ) 御代田驛からでも岩村田からでも歩く間は大差ないらしいのですが岩村田は一度小諸で乘りかへるのと御地からでは幾分遠くなりますから御代田驛から路を聞き聞きおいで下さらば自然と判りませう。切角お出かけ下さつても何のおもてなしも致し兼ねますが、閑情と閑談を楽しむ事は出来ませう。小生は毎日閑散ですから何日にても御出かけ下さい。先ハ右御返事
      七月十四日   春夫
  方紀生先生  玉几下


 もう一通の文化学院に関するものは「方紀生先生 拝啓 先日は折角の御来訪を失礼致しました」と書き起こし「御知り合ひの令嬢で文化学院は聴講生として御入学を御希望の方の御紹介がありましたのに(略)御希望通りにならず残念に思って居りました」とわびごとを入れた後「今度欠員が出来ましたので採用することになりました。欠員は僅かに一両名ですのに(略)入学を希望する人が五人もあるといふ次第」と事情を説明。そしてお知り合いの令嬢を無試験で無条件入学ということはむつかしいけれども「ごく形式的な試験ですし、今度は間違ひなく小生が試験を致しますから御希望にそふやうにお取計ひ出来ると思ひます」と入試の内情を方紀生に知らせている。

 コクヨの原稿用紙一枚に書かれたこの書簡には封筒がない。入学試験の秘すべき情報であるだけに、人目を憚って郵送ではなく直接手渡したようだ。紙には十六分の一に畳んだ折り目がついていることから、もとは封筒に入れていたはずである。だが、封筒には「佐藤春夫」とも「春夫」とも書かれていない素封筒であったと思われる。だからこそ封筒が残らず中の原稿用紙だけが残ったのであろう。
 方紀生は、佐藤春夫が肉筆で書いたものをなおざりにする人では決してないからである。


方紀生先生
  拝啓 先日は折角の御来訪を失禮致しました。さていつぞや御知り合ひの令嬢で文化学院は聴講生として御入學を御希望の方の御紹介がありましたのに小生生憎ととり込み中で御希望通りにならず残念に思って居りましたところ、今度缺員が出来ましたので採用するこ(ママ)になりました。缺員は僅かに一両名ですのに、内部から運動して特別の入学を希望する人が五人もあるといふ次第で、お話の方も無試験で無条件入学ということはむつかしと思ひますが、ごく形式的な試験ですし、今度は間違ひなく小生が試験を致しますから御希望にそふやうにお取計ひ出来ると思ひますから、口実だけの試験をさうめんどうな事に思はないで受験なさるやうにおすすめになってはいかがですか 今日学校でその話が出て居りましたから同封のハガキを貰って来てお目にかけます 試験もさしせまって居りますから急ぎお取次を願ひます 尚試験の當日は勿論小生も出校致し居ります。右用事のみ申し上げました。
  五月四日夜   佐藤春夫


 末尾の日付「五月四日夜」は昭和何年のことなのか。それは昭和十七(1942)年のことだと考えられる。
 この年の四月佐藤春夫は文化学院の入学式に出席し、文章指導講座を週三時間担当していた。
 方紀生は昭和十五(1940)年三月に華北駐日留学生監督として来日した後、翌年の四月からは東京帝国大学文学部講師の任にあり、その翌年の昭和十七年六月には日本女性川辺愛子と結婚している。来日後二年が経ち東大文学部の講師として一年が経ち、日本女性と結婚する直前の昭和十七年五月であれば、佐藤春夫の文面にあるように、方紀生の知り合いが娘の事で方紀生に頼った可能性は高い。
 頼まれた方紀生が文化学院で教えていた佐藤春夫にとりなしの可否を照会したのであろう。なお佐藤春夫の家(小石川区関口町207-16)と方紀生の駐日留学事務弁事所(牛込区新小川町3-16)とは直線距離でいえば三.二キロメートルという近さである。
 方紀生が佐藤春夫の家を訪れて手渡しで受けとったのがこの書簡であろう。


 佐藤春夫と周作人と方紀生

周作人
 なぜかくも佐藤春夫と方紀生は親密な間柄となったのか。そこには周作人の存在がある。ふたりを結びつけたのは周作人であった。

 周作人は八道湾の苦雨斎で執筆活動をしながら、佐藤春夫の短篇に注目し大正十(1921)年七月「雉子の炙肉」を訳して中国に紹介し、翌十一(1922)年一月には「形影問答」を訳して紹介した。その後昭和九(1934)年八月に日本を訪問した際、東京日比谷の山水楼で催された周作人歓迎の宴では与謝野寬、島崎藤村、有島生馬、堀口大学等と共に列席した佐藤春夫と会い、昭和十三(1938)年五月から六月に佐藤春夫が北京を訪問した際は「自分のために一夕小宴を催してくれた席上に、当時門外不出で訪客も一切謝してゐるといふ周先生が(略)非公式に出席して再会の機」を得ている。

 さらに昭和十六(1941)年四月に華北教育総署督弁となった周作人が日本を訪問した時は、永田町の星ケ岡茶寮で歓迎の宴を催し、島崎藤村、菊池寛、武者小路実篤、堀口大学、佐藤春夫等十人が周作人と歓談し、写真と寄せ書きが残っている。この時は東京にいた方紀生も列席し寄せ書きに名を連ねている(後述)。

方紀生
 そのような周作人と佐藤春夫の関係を見ていたのが、国立北平大学教授方宗鼇を父にもち知的で厳格な家庭に育った方紀生少年であった。

 方紀生は燕京大学附属匯文中学(全寮制のミッションスクール。中学は日本の高校にあたる)に入学した1923(大正十二)年十五歳の頃から周作人を慕い、ほとんど毎週日曜日の午前は八道湾の周家で過ごしていた。

 周作人の執筆活動をまのあたりにし、翻訳された佐藤春夫の短篇を手にして読んだであろう方紀生にとって日本は向学の目標であった。

 父方宗鼇と従兄の方逖生は明治大学に留学していたゆえそれは自然の目標であり、中国大学経済学部を卒業(1931年7月)した二十三歳の方紀生は、その足で日本に渡り明治大学高等研究科に留学し(1931年8月)、1934年3月政治学学士の称号を得たのち北京に戻った。

 帰国してからは華北大学教授として民俗学を講じながら、1936年5月胡適、周作人、銭玄同、沈従文、羅常培等の風謡学会に参加し、12月には『風雨談』の編集長、1937年3月には『民風週刊』の編集長、1938年11月には『朔風』の編集長をつとめ、周作人、老舎、沈従文、廃名、尤炳圻等から寄せられた原稿を編集掲載していた。
 
 1939年周作人が北京大学文学院院長に就任すると、方紀生は北京大学講師に招かれて文学概論を担当し、続いて1940年には教育総署督辨・湯爾和の要請で、駐日弁理留学生事務専員となり、再び東京に渡った。そして1945年の終戦まで牛込区新小川町の相互ビルを弁事所として留学生監督の任にあった。

佐藤春夫と方紀生
 1940年、東京に着いてまだ間がない頃、方紀生は佐藤春夫を訪問している。日本に着いてまっ先に佐藤春夫を訪ねたといった方がいいかもしれない。

 その日は昭和十五(1940)年三月九日であった。なぜそれが分かるかといえば、佐藤春夫の奥野信太郎宛の葉書(速達)には次のように書かれているからである。「拝呈 本日午後方紀生兄弟来訪あり 十三日退京の由・・(略)・・先ハ右のみ 九日夜」(消印 15.3.10 前8-12 着印 15.3.10 后0-4)

(葉書に書かれた「方紀生兄弟」の兄弟とは誰のことかについては、川辺比奈氏から「方紀生の二番目の弟方孝慈のことで、方孝慈は東京工業大学に留学し1942年10月まで日本に居て、父と同じ年に日本人と結婚した」と教えていただいた)

 そして右の周作人の項で述べたように、昭和十六(1941)年四月の星ケ岡茶寮での宴席では、周作人、島崎藤村、佐藤春夫とともに方紀生も同席し、記念の寄せ書きに揮毫している。この宴席と寄せ書きは東京朝日新聞が写真入りで報じている。

 この寄せ書きを見ると、佐藤春夫は存分の才能を発揮していることが分かる。周作人、銭稲孫の漢詩に続いて尤炳圻が杜甫の句の「城春草木深」を書くと、佐藤春夫は即座にこの五言を日本語に訳し「桜さ久やお城の阿登の山寺耳 春夫」と唱和して揮毫した。これには、座中からどっと称讃の声がわき起こったに違いない。

 方紀生は昭和十七(1942)年六月、三越本店に勤めていた川辺愛子と結婚し、翌昭和十八(1943)年三月三日には娘比奈が誕生した。

 日本の世情はすでに太平洋戦争が始まってミッドウエー海戦で大敗しており、学徒出陣までが挙行されていた時だが、方紀生は家族を守りつつ、日本の文士との交流を深めていた。

 その文士には、林芙美子、堀口大学、志賀直哉、谷崎潤一郎、武者小路実篤、柳田国男、佐藤春夫等がいた。その親交ぶりは、昭和十八年に誕生した娘の名付け親が堀口大学であることからも分かる。

(川辺比奈氏は、堀口大学が住んでいた江戸川アパート[新小川町二丁目]と方紀生の留学生事務所[新小川町三丁目]とは隣のように近く、三月三日のひな祭りに生まれたから比奈とつけてくださった、と語る)

 林芙美子との親交では、書簡のやりとり、芙美子への印章、化粧箱の贈呈等たくさんの物が残っているうえに、芙美子が信州角間温泉に疎開した時は、留守宅(下落合)を借りて方紀生家族が林芙美子の家に住んでいたこともある。(方紀生のアルバムに写真がある)

方紀生編『周作人先生のこと』
 方紀生はこれら日本の文士との交流を活かして、後世に残るものを出版しようと考え、原稿集めと編集に没頭した。周作人と交流のある文士たちは袂を連ねて原稿を寄せ、ついに昭和十九(1944)年九月十八日『周作人先生のこと』と題した本を神田区神保町の光風館から出版した。

 時はまさに軍事一色の世で、学徒数万の出陣壮行会が雨中の神宮外苑競技場で挙行され、グアム島に上陸した米軍との戦闘で兵士一万八千人が玉砕していた時である。

 そのような非常時にもかかわらず出版を敢行した方紀生の強固な意志と使命感には、私はひざまづいて叩頭せざるをえない。

 原稿を寄せた文士には、武者小路実篤、谷崎潤一郎、堀口大学、林芙美子、奥野信太郎、松枝茂夫、鶴見祐輔、山本実彦、武田泰淳、吉川幸次郎、そして佐藤春夫等十八名がいて頁数は二百五十四頁に及ぶ。

 堀口大学は「豆花 方紀生君に寄せて周作人先生を語るの文」と題した新作を寄せ、武者小路実篤も「周作人さんとの友情」の章を新たに執筆しているが、佐藤春夫は朝日新聞(東京)に二度にわたって発表した「日華文人の交驩(一)(二) 周、銭両先生をかたらんとして」(昭和十六(1941)年四月二十二、二十三日)を方紀生に寄せている。

 ここに紹介した佐藤春夫の書簡二通には、以上のような方紀生との交友関係が背景にある。   
                (久保卓哉)

参考文献
川辺比奈・鳥谷まゆみ「方紀生のこと」『野草』九八、二〇一六年十月
方紀生編『周作人先生のこと』光風館、一九四四年九月


佐藤春夫記念館だより24号(PDF)
http://www.rifnet.or.jp/~haruokan/pdf/kanpou24.pdf







2019年1月30日水曜日

朝日新聞声欄「新米教師の自己批判書」 高校教師25歳

朝日新聞声欄
新米教師の自己批判書
広島市 久保卓哉(高校教師 25歳)

 あらゆる職場の中でも、学校の先生というのは、最も学歴の高い人の集まりではないかと思う。私の職場の場合十人おれば十人ともが大学を卒業し、専門の分野で勉強して来た経歴を持っている。これほどの知的労働者の集まりなら、問題に立ち向かう時、その職場には独創的な意見が躍動し、解決されえない問題はないかのようである。さぞかし生徒たちは、知識者の指導をえて自由にしかも個性的に創造力を養い育てているであろうと思う。
 だが、このすばらしい知識集団は教師であるというこのたった一言によって、何の独創性も考える力も持たない集団と化している。職場には、小さな工場の油にまみれた経営者ほどのたくましさも、実行力も、決断力もない。
 生徒に教える上で何を教えるか。それは、暗記によるのっぺらぼうな知識ではなくて、自分の頭で考え個性的に創造する力を養うことにある、と言う。
 だが、その教師が自分達の職場でどんな態度をとっているか。問題に出合えば波風立たぬよう慣例を重んじ、前例にない新しいことは極力避け、妥当に、無難にと処理(解決ではない)することに能力を発揮する。この姿のどこに創造し考える力を鍛える姿勢があろうか。授業の場で、生徒に個性的な創造力と考える力を養わせることが、どうしてできようか。生徒に一言注意することをも「指導」といい、「教育的処置」という教師用語に言いかえて自若としている教師のどこに独創的な考える力があろうか。
 これは今や現実のぬるま湯にひたり始めた新米教師の自己批判書である。

2019年1月23日水曜日

漱石山房記念館 資料紛失事故の対応 共産党区議団2019.1.1

漱石山房記念館開館にあたっての資料紛失事故等の対応
  日本共産党新宿区議会議員団

「質問」
①神奈川近代文学館から借用した資料のうち8点が紛失した。区がいつ何を借りたのかも把握していない、というずさんな管理が露呈した。資料を扱う機関の初歩すら守ることができない新宿区側。資料提供者への敬意と感謝はゼロ。重大事故を起こしたという認識すらない。原因すら検証されていない
②外部の專門家を要請した第三者委員会の設置が必要
③新宿歴史博物館と漱石山房記念館に収蔵されている所蔵資料のデータがほとんどない。
④漱石山房記念館の指定管理者である、未来創造財団を区長はどう評価しているのか
⑤企画力の無さ、計画性の無さ、人的管理のずさんさなどから、基本的な運営に支障が生じた。
「答弁」
①借用資料の台帳作成やデータの管理、情報共有を行っていなかった
②漱石山房記念館の運営学術委員会に対して、第三者委員会の設置を提案したが、運営学術委員会は再発防止対策をし信頼回復に努めるとの結論を出したため、第三者委員会は設置しない
③16年前に発生した不詳事故を教訓として、重要資料のデータベース化を実施し適切に管理している。漱石山房記念館の情報検索システムでは、約200件の資料が公開されている。今後も未掲載の画像や情報を追加する
④来場者が目標を超え、評価委員会から「良」の評価を得ていて、一定の評価がある
⑤開館前後の業務集中により学識経験者と新宿区、漱石山房記念館との調整が不十分であったことが原因。現在は十分に連携している