2019年9月26日木曜日

佐藤春夫と方紀生 佐藤春夫記念館だより24 2019.9.1




佐藤春夫と方紀生(1908~1983)

 京都にお住まいの川辺比奈氏のお宅には佐藤春夫から届いた書簡や、贈られた色紙、書籍及びバリ島土産の人形など八点がある。いずれも佐藤春夫が川辺比奈氏の父、方紀生に贈ったもので、まだ世に知られていないものばかりである。

 そのうち二通の書簡は、佐藤春夫と方紀生がいかに深く親交していたかをものがたる新資料で、この欄を借りて紹介しておきたい。
一通は疎開先の長野県北佐久郡平根村から軽井沢の方紀生に宛てたもので、もう一通は方紀生の知人の令嬢が希望する文化学院への入学に関するもので、文化学院の内部情報を方紀生に伝えている。

 佐藤春夫は昭和二十年四月二十八日、東京への頻々たる空襲を避け、千代、方哉、鮎子、百百子を引つれて長野県北佐久郡平根村に疎開した。平根村の疎開先から発信した書簡は、敗戦までの間に、甥の竹田龍児(昭和二十年五月五日)と堀口大学(同年八月十日)に宛てた二通のみが知られるが、ここに方紀生に宛てた七月十四日のものが新たに加わることになる。

この書簡は、同じく戦火を避けて北佐久郡軽井沢旧道に疎開した方紀生に宛てたもので「拝復過日は御手紙を拝受しながら御返事を延引致し申しわけございません」から始まり「小生は毎日閑散ですから何日にても御出かけ下さい。先ハ右御返事。七月十四日 春夫 方紀生先生 玉几下」」で結ぶ全三枚に書かれている。主旨は方紀生に平根村への来訪を誘うもので、長野県に不案内な方紀生を気づかい、信越本線の「御代田駅より南方へ約一里位ゆるやかな下り坂です」「いつも誰か田畑に居りますから彼等に道をきけばよく教へて貰へると思ひます」と丁寧に道順を知らせている。

  招きに応じた方紀生が平根村を訪ね、春夫と「閑情と閑談を楽しむ事」をしたという証拠はないが、軽井沢と平根村の距離は数時間で着く近さで訪問は可能であった。しかしながら、敗戦ひと月前の不穏な時である。実現はしなかったと思われる。
 用紙は半透明のトレーシング紙を使っている。


  拝復 過日は御手紙を拝受しながら御返事を延引致し申しわけございません。実は疎開の家造り不完備のため荷物かたづかずやっと多少かたづいたところへ第二回の荷物が到着致しましたので更に混雑を極めとてもお客を迎へるだけの餘地もないやうな混亂状態で幾分整理が出来てからと思ってゐるところへ應召中の龍兒が歸還しましたので荷物ややつと整頓しましたが何かと取紛れて荏苒今日に及びました。
  さて戦亂の最中にも不拘皆々様御元気尓て御消光の段大慶至極と存じ上げます當方もおかげさまにて一同無事、東京の拙宅も只今のところ火災にもまぬかれ居りますから御安心下さい。
  こゝの疎開地平根村は追分の次に御代田(みよた)驛より南方へ約一里位ゆるやかな下り坂です。また小諸(こもろ)驛より支線小海(こうみ)線に乘りかへて小諸から二つ目の岩村田驛からも東方へ一里足らず平坦な路です(正午すぎの一二時間は畫休みのため田園に農民は居りませぬが他の時刻ならばいつも誰か田畑に居りますから彼等に道をきけばよく教へて貰へると思ひます単純な一本路のやうですが実は小生もまだ十分には存じませぬ) 御代田驛からでも岩村田からでも歩く間は大差ないらしいのですが岩村田は一度小諸で乘りかへるのと御地からでは幾分遠くなりますから御代田驛から路を聞き聞きおいで下さらば自然と判りませう。切角お出かけ下さつても何のおもてなしも致し兼ねますが、閑情と閑談を楽しむ事は出来ませう。小生は毎日閑散ですから何日にても御出かけ下さい。先ハ右御返事
      七月十四日   春夫
  方紀生先生  玉几下


 もう一通の文化学院に関するものは「方紀生先生 拝啓 先日は折角の御来訪を失礼致しました」と書き起こし「御知り合ひの令嬢で文化学院は聴講生として御入学を御希望の方の御紹介がありましたのに(略)御希望通りにならず残念に思って居りました」とわびごとを入れた後「今度欠員が出来ましたので採用することになりました。欠員は僅かに一両名ですのに(略)入学を希望する人が五人もあるといふ次第」と事情を説明。そしてお知り合いの令嬢を無試験で無条件入学ということはむつかしいけれども「ごく形式的な試験ですし、今度は間違ひなく小生が試験を致しますから御希望にそふやうにお取計ひ出来ると思ひます」と入試の内情を方紀生に知らせている。

 コクヨの原稿用紙一枚に書かれたこの書簡には封筒がない。入学試験の秘すべき情報であるだけに、人目を憚って郵送ではなく直接手渡したようだ。紙には十六分の一に畳んだ折り目がついていることから、もとは封筒に入れていたはずである。だが、封筒には「佐藤春夫」とも「春夫」とも書かれていない素封筒であったと思われる。だからこそ封筒が残らず中の原稿用紙だけが残ったのであろう。
 方紀生は、佐藤春夫が肉筆で書いたものをなおざりにする人では決してないからである。


方紀生先生
  拝啓 先日は折角の御来訪を失禮致しました。さていつぞや御知り合ひの令嬢で文化学院は聴講生として御入學を御希望の方の御紹介がありましたのに小生生憎ととり込み中で御希望通りにならず残念に思って居りましたところ、今度缺員が出来ましたので採用するこ(ママ)になりました。缺員は僅かに一両名ですのに、内部から運動して特別の入学を希望する人が五人もあるといふ次第で、お話の方も無試験で無条件入学ということはむつかしと思ひますが、ごく形式的な試験ですし、今度は間違ひなく小生が試験を致しますから御希望にそふやうにお取計ひ出来ると思ひますから、口実だけの試験をさうめんどうな事に思はないで受験なさるやうにおすすめになってはいかがですか 今日学校でその話が出て居りましたから同封のハガキを貰って来てお目にかけます 試験もさしせまって居りますから急ぎお取次を願ひます 尚試験の當日は勿論小生も出校致し居ります。右用事のみ申し上げました。
  五月四日夜   佐藤春夫


 末尾の日付「五月四日夜」は昭和何年のことなのか。それは昭和十七(1942)年のことだと考えられる。
 この年の四月佐藤春夫は文化学院の入学式に出席し、文章指導講座を週三時間担当していた。
 方紀生は昭和十五(1940)年三月に華北駐日留学生監督として来日した後、翌年の四月からは東京帝国大学文学部講師の任にあり、その翌年の昭和十七年六月には日本女性川辺愛子と結婚している。来日後二年が経ち東大文学部の講師として一年が経ち、日本女性と結婚する直前の昭和十七年五月であれば、佐藤春夫の文面にあるように、方紀生の知り合いが娘の事で方紀生に頼った可能性は高い。
 頼まれた方紀生が文化学院で教えていた佐藤春夫にとりなしの可否を照会したのであろう。なお佐藤春夫の家(小石川区関口町207-16)と方紀生の駐日留学事務弁事所(牛込区新小川町3-16)とは直線距離でいえば三.二キロメートルという近さである。
 方紀生が佐藤春夫の家を訪れて手渡しで受けとったのがこの書簡であろう。


 佐藤春夫と周作人と方紀生

周作人
 なぜかくも佐藤春夫と方紀生は親密な間柄となったのか。そこには周作人の存在がある。ふたりを結びつけたのは周作人であった。

 周作人は八道湾の苦雨斎で執筆活動をしながら、佐藤春夫の短篇に注目し大正十(1921)年七月「雉子の炙肉」を訳して中国に紹介し、翌十一(1922)年一月には「形影問答」を訳して紹介した。その後昭和九(1934)年八月に日本を訪問した際、東京日比谷の山水楼で催された周作人歓迎の宴では与謝野寬、島崎藤村、有島生馬、堀口大学等と共に列席した佐藤春夫と会い、昭和十三(1938)年五月から六月に佐藤春夫が北京を訪問した際は「自分のために一夕小宴を催してくれた席上に、当時門外不出で訪客も一切謝してゐるといふ周先生が(略)非公式に出席して再会の機」を得ている。

 さらに昭和十六(1941)年四月に華北教育総署督弁となった周作人が日本を訪問した時は、永田町の星ケ岡茶寮で歓迎の宴を催し、島崎藤村、菊池寛、武者小路実篤、堀口大学、佐藤春夫等十人が周作人と歓談し、写真と寄せ書きが残っている。この時は東京にいた方紀生も列席し寄せ書きに名を連ねている(後述)。

方紀生
 そのような周作人と佐藤春夫の関係を見ていたのが、国立北平大学教授方宗鼇を父にもち知的で厳格な家庭に育った方紀生少年であった。

 方紀生は燕京大学附属匯文中学(全寮制のミッションスクール。中学は日本の高校にあたる)に入学した1923(大正十二)年十五歳の頃から周作人を慕い、ほとんど毎週日曜日の午前は八道湾の周家で過ごしていた。

 周作人の執筆活動をまのあたりにし、翻訳された佐藤春夫の短篇を手にして読んだであろう方紀生にとって日本は向学の目標であった。

 父方宗鼇と従兄の方逖生は明治大学に留学していたゆえそれは自然の目標であり、中国大学経済学部を卒業(1931年7月)した二十三歳の方紀生は、その足で日本に渡り明治大学高等研究科に留学し(1931年8月)、1934年3月政治学学士の称号を得たのち北京に戻った。

 帰国してからは華北大学教授として民俗学を講じながら、1936年5月胡適、周作人、銭玄同、沈従文、羅常培等の風謡学会に参加し、12月には『風雨談』の編集長、1937年3月には『民風週刊』の編集長、1938年11月には『朔風』の編集長をつとめ、周作人、老舎、沈従文、廃名、尤炳圻等から寄せられた原稿を編集掲載していた。
 
 1939年周作人が北京大学文学院院長に就任すると、方紀生は北京大学講師に招かれて文学概論を担当し、続いて1940年には教育総署督辨・湯爾和の要請で、駐日弁理留学生事務専員となり、再び東京に渡った。そして1945年の終戦まで牛込区新小川町の相互ビルを弁事所として留学生監督の任にあった。

佐藤春夫と方紀生
 1940年、東京に着いてまだ間がない頃、方紀生は佐藤春夫を訪問している。日本に着いてまっ先に佐藤春夫を訪ねたといった方がいいかもしれない。

 その日は昭和十五(1940)年三月九日であった。なぜそれが分かるかといえば、佐藤春夫の奥野信太郎宛の葉書(速達)には次のように書かれているからである。「拝呈 本日午後方紀生兄弟来訪あり 十三日退京の由・・(略)・・先ハ右のみ 九日夜」(消印 15.3.10 前8-12 着印 15.3.10 后0-4)

(葉書に書かれた「方紀生兄弟」の兄弟とは誰のことかについては、川辺比奈氏から「方紀生の二番目の弟方孝慈のことで、方孝慈は東京工業大学に留学し1942年10月まで日本に居て、父と同じ年に日本人と結婚した」と教えていただいた)

 そして右の周作人の項で述べたように、昭和十六(1941)年四月の星ケ岡茶寮での宴席では、周作人、島崎藤村、佐藤春夫とともに方紀生も同席し、記念の寄せ書きに揮毫している。この宴席と寄せ書きは東京朝日新聞が写真入りで報じている。

 この寄せ書きを見ると、佐藤春夫は存分の才能を発揮していることが分かる。周作人、銭稲孫の漢詩に続いて尤炳圻が杜甫の句の「城春草木深」を書くと、佐藤春夫は即座にこの五言を日本語に訳し「桜さ久やお城の阿登の山寺耳 春夫」と唱和して揮毫した。これには、座中からどっと称讃の声がわき起こったに違いない。

 方紀生は昭和十七(1942)年六月、三越本店に勤めていた川辺愛子と結婚し、翌昭和十八(1943)年三月三日には娘比奈が誕生した。

 日本の世情はすでに太平洋戦争が始まってミッドウエー海戦で大敗しており、学徒出陣までが挙行されていた時だが、方紀生は家族を守りつつ、日本の文士との交流を深めていた。

 その文士には、林芙美子、堀口大学、志賀直哉、谷崎潤一郎、武者小路実篤、柳田国男、佐藤春夫等がいた。その親交ぶりは、昭和十八年に誕生した娘の名付け親が堀口大学であることからも分かる。

(川辺比奈氏は、堀口大学が住んでいた江戸川アパート[新小川町二丁目]と方紀生の留学生事務所[新小川町三丁目]とは隣のように近く、三月三日のひな祭りに生まれたから比奈とつけてくださった、と語る)

 林芙美子との親交では、書簡のやりとり、芙美子への印章、化粧箱の贈呈等たくさんの物が残っているうえに、芙美子が信州角間温泉に疎開した時は、留守宅(下落合)を借りて方紀生家族が林芙美子の家に住んでいたこともある。(方紀生のアルバムに写真がある)

方紀生編『周作人先生のこと』
 方紀生はこれら日本の文士との交流を活かして、後世に残るものを出版しようと考え、原稿集めと編集に没頭した。周作人と交流のある文士たちは袂を連ねて原稿を寄せ、ついに昭和十九(1944)年九月十八日『周作人先生のこと』と題した本を神田区神保町の光風館から出版した。

 時はまさに軍事一色の世で、学徒数万の出陣壮行会が雨中の神宮外苑競技場で挙行され、グアム島に上陸した米軍との戦闘で兵士一万八千人が玉砕していた時である。

 そのような非常時にもかかわらず出版を敢行した方紀生の強固な意志と使命感には、私はひざまづいて叩頭せざるをえない。

 原稿を寄せた文士には、武者小路実篤、谷崎潤一郎、堀口大学、林芙美子、奥野信太郎、松枝茂夫、鶴見祐輔、山本実彦、武田泰淳、吉川幸次郎、そして佐藤春夫等十八名がいて頁数は二百五十四頁に及ぶ。

 堀口大学は「豆花 方紀生君に寄せて周作人先生を語るの文」と題した新作を寄せ、武者小路実篤も「周作人さんとの友情」の章を新たに執筆しているが、佐藤春夫は朝日新聞(東京)に二度にわたって発表した「日華文人の交驩(一)(二) 周、銭両先生をかたらんとして」(昭和十六(1941)年四月二十二、二十三日)を方紀生に寄せている。

 ここに紹介した佐藤春夫の書簡二通には、以上のような方紀生との交友関係が背景にある。   
                (久保卓哉)

参考文献
川辺比奈・鳥谷まゆみ「方紀生のこと」『野草』九八、二〇一六年十月
方紀生編『周作人先生のこと』光風館、一九四四年九月


佐藤春夫記念館だより24号(PDF)
http://www.rifnet.or.jp/~haruokan/pdf/kanpou24.pdf







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