2019年1月30日水曜日

朝日新聞声欄「新米教師の自己批判書」 高校教師25歳

朝日新聞声欄
新米教師の自己批判書
広島市 久保卓哉(高校教師 25歳)

 あらゆる職場の中でも、学校の先生というのは、最も学歴の高い人の集まりではないかと思う。私の職場の場合十人おれば十人ともが大学を卒業し、専門の分野で勉強して来た経歴を持っている。これほどの知的労働者の集まりなら、問題に立ち向かう時、その職場には独創的な意見が躍動し、解決されえない問題はないかのようである。さぞかし生徒たちは、知識者の指導をえて自由にしかも個性的に創造力を養い育てているであろうと思う。
 だが、このすばらしい知識集団は教師であるというこのたった一言によって、何の独創性も考える力も持たない集団と化している。職場には、小さな工場の油にまみれた経営者ほどのたくましさも、実行力も、決断力もない。
 生徒に教える上で何を教えるか。それは、暗記によるのっぺらぼうな知識ではなくて、自分の頭で考え個性的に創造する力を養うことにある、と言う。
 だが、その教師が自分達の職場でどんな態度をとっているか。問題に出合えば波風立たぬよう慣例を重んじ、前例にない新しいことは極力避け、妥当に、無難にと処理(解決ではない)することに能力を発揮する。この姿のどこに創造し考える力を鍛える姿勢があろうか。授業の場で、生徒に個性的な創造力と考える力を養わせることが、どうしてできようか。生徒に一言注意することをも「指導」といい、「教育的処置」という教師用語に言いかえて自若としている教師のどこに独創的な考える力があろうか。
 これは今や現実のぬるま湯にひたり始めた新米教師の自己批判書である。

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