2019年9月26日木曜日

昭和天皇 白浜串本行幸 昭和4年5月31日~6月3日 <あとがき> <編集後記>

<あ と が き>

 昭和天皇が白浜(瀬戸鉛山)、串本に行幸されてから90年がたつ。その時の思い出を語ることができる人は少なくなった。
幸いにして本書で紹介するような絵葉書があり目でみることはできる。けれども写真のなかにある声や熱気まで感じることができない。さぞかし緊張しかつ感激したろうなと理解できるが、生の気息を感じることは無理だ。
 だがその気息を感じるために、昭和4年当時、天皇に対する国民の心情はどういうものであったのかを知っておかなければならない。戦後生れの私にそれはこうだという自信はないが、私の意見を述べておきたい。
 白浜では行幸の前日から奉迎の民の老若男女が山をこえ海を渡って集まり、小学校の児童ですら二食三食の弁当と寝具代わりの冬シャツを小脇にかかえて集まり、高齢者にいたっては夕方五時には紋付きの襟を正して正座し夜露にぬれながら一夜をあかして待った。しかも行幸当日は降雨で濡れるにまかせてひたすら端座(威儀を正してすわる)。思いはただ一つ「一生の思い出に一目なりとも英姿を拝みたい。望みを達したならば今すぐに死んでもいい」であったという。
 串本では大島村須江の海で採取をしてのち串本にもどる陛下の船を迎えるために、小学校児童1500名に加えて商業学校、家政女学校の生徒が国旗をもち姫の松原の砂浜に集合し、夜にも各学校生徒と町民は、御召艦に近い橋杭岩付近の姫の松原まで提灯行列をおこない、御召艦にむかって提灯を振りあげながら地軸も裂けんばかりのバンザイをとなえ、串本のみならず、西向、高池、古座、田原付近一帯の町村から繰り出した提灯行列もバンザイをとなえて、海岸一帯はまるで火の海と化したという。
 これらは時代が生みだした上意下達の国家体制がもたらしたものであろう。それを明文化した『国体の本義』(全156頁)が八年後の昭和12年に文部省から発行されるが、そこには、天皇を「現人神」と記し、「大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給う。これ、我が万古不易の国体である。しこうしてこの大義に基づき、一大家族国家として億兆一心聖旨を奉体して、よく忠孝の美徳を発揮する。これ、我が国体の精華とするところである」(第一 大日本国体 一、肇国(肇国:新しい国家をたてること。建国))と規定する。
ここの、一大家族国家として国民が心を一つにし、天皇の趣旨をよく心にとめて実行し、忠孝の美徳を発揮せよ、という国の意図を白浜、串本の町村民がまさしくよく心にとめて実行したのであろう。その様子が本書の絵葉書に見え、かすかながらも紀南民の気息が伝わってくる。  令和元年5月16日しるす

[編集後記]

 昭和天皇の和歌山県への行幸をより詳しく伝えるために、白浜(瀬戸鉛山)での行幸日程表に加えて、串本での日程表も作成した一冊を出そうと、あおい書店多屋朋三氏から企画が持ちこまれたのは平成31年4月10日であった。
すぐさま串本での日程表の作成にとりかかったが、時間ごとの行程を調べるうちに尋常小学校一年生松本貞子さんの感激の言葉や、トルコ軍艦遭難事故の救助にあたった樫田文右ヱ門が御召艦に召されて天皇の前で語っていることなど、興味深い事実があることが分かり、それらを調べた結果を原稿にして付け足し、出版者の判断を仰ぐことにした。
松本貞子さんや樫田文右ヱ門を捜すために瀬戸、串本、大島を歩いたことは楽しいうえに収穫もあった。特に「おまえ」という呼称表現と天皇との関係について実例を聞くことができたのは有益であった。濵野三功氏から聞いた秘話としてここに手控えておきます。
     令和元年5月16日         久 保 卓 哉

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