2012年6月14日木曜日

石川啄木の母校 渋民小学校 への 手紙


石川啄木  ①
初めてお便りをする非礼をお許し下さい。
  去る六月十五日(土)、石川啄木の足跡を求めて貴校を訪問いたしました。鶴飼橋から校庭に入ると、校歌が刻まれた石碑がありました。石碑を前に佇んで、<春まだ浅く月若き 生命の森夜の香に>と刻まれた文字をたどりながら、いつのまにかメロディをつけて歌っていました。啄木の詩が渋民小学校の校歌となっていることを初めて知ったのですが、私にとってもこの歌は、四十年もの間口にしてきた歌でした。
  校舎を見ると、男の子の姿が見えました。植木の茂みをかき分けて、かの啄木の遙かなる後輩である男の子に声を掛けました。
 「おじさんは遠くから来たのだけど、啄木の校歌の碑を見て歌ってしまった。
  今もこの校歌を歌っているの? だったら歌ってみてよ」

石碑 渋民小学校校歌
3年生の女の子
5年生の男の子


















  五年生ですといった明るい表情の彼は、恥ずかしそうにですが、しっかりと<春まだ浅く月若き 生命の森の夜の香に>と歌ってくれました。
  その声を聞いて、教室の窓から女の子が顔を出しました。教室の中にはもう一人、机で絵を描いている女の子がいました。顔を出した女の子は、校歌を歌ってくれた男の子の妹でした。土曜日は学校が休みだから、今からお母さん達と活動をするのだと、説明してくれました。

雲は天才である 原稿 ②
  今となっては不思議な話ですが、大阪の天王寺中学校で学んだ私は、中学時代の三年間、啄木のこの歌を歌ってきました。三年間クラス替えもなく、担任も替わらなかった私達は、「これがわがクラスの歌だ、覚えろ」と半ば強制的に、覚えさせられたのでした。

   春まだ浅く月若き
   生命の森の夜の香に
   あくがれ出でて我が魂の
   夢むともなく夢むれば
   さ霧の彼方そのかみの

   希望は遠くたゆたいぬ

   「自主」の剣を右手めてに持ち
   左手ゆんでに翳す「愛」の旗
   「自由」の駒に跨がりて
   進む理想の路すがら
   今宵生命の森の蔭

   水のほとりに宿かりぬ

榎原慎之助 先生
天王寺中学
  担任の榎原慎之助先生は、野性的な美術の先生で、校長や同僚への気兼ねを一切しない、自由の気概にあふれた人でした。当時その先生は、なぜこの歌を歌わせるのか、その意義を説明してくれたはずなのですが、いま覚えていないということは、歌う意義よりも、ことばの美しさと語調のよさに心を奪われていたからだと思います。
  しかし、石川啄木が初めて書いた小説は「雲は天才である」だ、お前読んだか、などとクラスで言い合っていたことからすると、榎原先生は、石川啄木の「雲は天才である」の中に出てくる詩だと、説明してくれたに違いありません。
  なぜ、啄木の歌を私達に覚えさせたのか、昭和41年に、まだ41歳の若さで死んでしまった先生に、ぜひとも聞いてみたいものですが、おそらく先生は、啄木の詩に現れた、燃える希望と、遙かな未来と、強者にひるまずに進む気概と、山よりも大きい情熱とを、私達に持たせたかったからだと思います。 
  これらは渋民小学校の石碑の前で、突然わき上がってきた感情でした。私は天からの雷光に刺し貫かれたように、石碑の前に立ちつくしていました。
  高校に入って、岩波文庫の「一握の砂」を持ち歩き、岩波書店の「啄木全集」を買い、ローマ字日記までも読んだ私は、自分では気づかないまま、中学時代の榎原先生にそうなるように仕向けられていたのでしょう。今55歳となった私は、首を垂れて先生に感謝しています。

    やはらかに柳あをめる 北上の岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに

北上川を見るのが私の願いでした。

    故郷の山に向ひて いふ事なし 故郷の山は有がたきかな

岩手山を見るのが私の願いでした。

    石をもて追はるるごとく ふるさとを出でしかなしみ 消ゆる時なし
    かにかくに渋民村は恋しかり おもひでの山 おもひでの川

渋民村に行ってみたい、それが私の願いでした。そして、

    その昔 小学校の柾屋根に我が投げし鞠 いかにかなりけむ
代用教員を務めた二十歳の啄木の渋民尋常高等小学校を訪れることは、もはや叶うまい、と半ば諦めながらも、いつかその時が来るはずだ、と渋民への思いを燃やし続けていた私でした。

常光寺 
啄木誕生の部屋に伝わる立て屏風
  盛岡大学での全国漢文教育学会に参加した私は、一度も盛岡大学で降りずに渋民村に通いました。ようやくその時が来たのですから、学会どころではありません。啄木が生命の森だと言った愛宕山を歩き、鶴飼橋の下に降りて北上川の水と川原石に触れ、生誕の地、常光寺を訪ねました。
  常光寺では思わぬ収穫がありました。それは、啄木誕生の部屋とされるところに鎮座する桐の櫃(ひつ)と立て屏風でした。櫃には墨書の箱書きがあり、屏風には変体仮名の書が表装されています。ご住職にお尋ねすると、屏風の書は何が書いてあるのか分からないというので、写真をとって持ち帰り、拡大して解読したところ、変体仮名の書は、紀貫之と、よみ人しらずの和歌二首であることが判明しました。

      徒ら遊支                                              つらゆき
桜ちる木能下風の寒可らで                   桜ちるこのした風のさむからで
    そら尓志ら連怒雪ぞふ里介利      そらにしられぬ雪ぞふりけ

               よみ人志ら数                                       よみ人しらず
              足引の山路尓ちれる桜花                      あしひきの山ぢにちれる桜ばな
              消せ怒春能雪可とぞ見る                      きえせぬ春の雪かとぞ見る


いずれも桜の花を歌っています。櫃の墨書とともに、楷書に直して、常光寺のご住職にお送りしました。

  しかし良いことばかりではありません。心が痛んで茫然となり、空を仰いで嘆息したことがあります。愛宕神社の麓にある、啄木代用教員時代の尋常小学校の跡地を訪ね、愛宕の森に入った時です。
  宝徳寺に続く山道の樹木が伐採されて無惨な姿を見せていました。国道からもそれは見えて、荒涼としていました。啄木が愛した渋民の山容を、いとも簡単に変えてしまう無神経さに愕然としました。
  暗澹たる思いで山道を降りていると、山道を清掃する人々と会いました。いずれも地元の方で、一線を退いて渋民に戻り、故郷を守るために奉仕している人々でした。
  私は、やや憤慨して森林伐採を抗議しました。すると、愛宕の森の下に住居を構えた住民が、樹木の落葉が家に降りかかる上、日当たりが悪いと山の持ち主に訴え、やむなく森林を伐採した、ということでした。
  なんと住民の人々は、樹木を伐らせて落葉の減少と日差しの増加を獲得した代りに、動物と鳥たちのすみかを奪い、森林の生態系を破壊し、景観を醜くし、なによりも渋民村の歴史と文化を抹殺したことになるのです。
  私が住む家のまわりよりも、遙かに日当たりが良い所でした。住宅に近い山林の樹木は、放置しておくと危険ですが、十年ごとに大木を間伐すれば、すばらしい里山として共存できます。
  
  もうひとつ、暗澹たる気持になったことがありました。
  渋民村のバス停の横に立てられた、開発整備事業を宣言する計画図です。その図で塗りつぶされた区画には、広い道路が通り、商店や住宅が整然と建ち並ぶのでしょう。コンクリートと、整備された歩道と、作られた公園と、道路わきに作られた花壇。見た目がきれいになるに違いありません。
  全国どこへ行っても、同じ街が出現しています。県や市の整備計画は、全国一律の図面で引かれていると思えるほどです。
  渋民よ、お前もそうなるのか、と思わずそのトタン板をバンバン叩きました。広い道路が貫けば、その途端、住民のつながりが稀薄になります。車がスピードを落とさずに走り抜け、騒音と埃だけが残つて、住民は扉を閉めて家に籠もるようになります。これは日本全国で発生している現象です。
  尋常小学校の子供にストライキをさせ、課外授業で小学生の子供に英語を教えた啄木の精神を継ぐ人は、今、渋民村にいないのでしょうか。

    ふるさとに入りて先づ心傷むかな 道広くなり 橋も新らし

  啄木の心の傷を さらに痛みつけていると気付く人は、今、渋民村にいないのでしょうか。
  渋民小学校の校歌の石碑の前で熱く感動して落涙した私は、同時にまた、渋民を離れるバスの中で、失望と憤怒に拳を握りしめる私でもありました。

  贅言を弄して、申し訳ありません。貴校の生徒さんに写真を渡して下さいとお願い申し上げることが、敝札の目的でした。わたくしを温かく迎えてくれたあの子たちの笑顔に接して、渋民が生んだ若き世代の健全さに嬉しくなり、ああ渋民の風土はいい、と思ったことをお伝え下さい。
  久保卓哉画像引用文献
①②③④『石川啄木入門』 監修 岩城之徳 編集 遊座昭吾・近藤典彦 思文閣出版 平成4111日発行

⑤『啄木写真帖』 吉田孤羊 著 乾元社 昭和二十七年八月三十日発行

北上川 鶴飼橋 姫神山 啄木歌碑 
川下側から川上を見る
 ⑤
 
現在の鶴飼橋 北上川 
正面の丘に啄木歌碑 
川上側から川下を見る (2002.6.15)
 
17歳の啄木 ④
啄木生誕の常光寺
啄木処女詩集『あこがれ』 ③

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