2017年10月4日水曜日

「日記」 『国語の表現』学術図書出版社 

「日記」

 夏目漱石は『吾輩は猫である』の中で日記について猫にこう言わせている。

 第一日記などという無用のものは決してつけない。つける必要がないからである。主人の様に裏表のある人間は日記でも書いて世間に出されない自己の面目を暗室内に発揮する必要があるかも知れないが、我等猫属に至ると行住坐臥、行屎送尿悉く真正の日記であるから、別段そんな面倒な手数をして、己れの真面目を保存するには及ばぬと思ふ。日記をつけるひまがあるなら縁側に寝て居る迄の事さ。

 ここには、日記とは世間に出すことができない心中の真相を、日記という暗室の中で人知れずに吐き出すものであると言っている。また、猫とは違ってそれを書かざるをえない人間の因果な宿業を漱石はあばき出してもいる。魂を告白し自己を凝視する鏡のごときもの、それが日記であるということだ。

 日記をいかに書くか。漱石の日記のようにきわめて簡単に心覚えを箇条書にする書き方もあるが、青年期の日記というものは、自己表現欲にかられて書く思索的なものが多い。
 次のは、詩人中原中也の二十歳の日記。つけ始めた日からのものである。

 一月十二日(水曜) 向上するのは性格ではない、道徳だ。心懸けとしては道徳しかない。(質実であればよいのだ)
 一月十三日(木曜) 頭の悪いということだけが罪悪だ。(恐らく地上最後の言葉)
 一月十四日(金曜) 恵まれてゐるといふ。いかにも不公平なやうだ。だって恵まれた者は恵まれているだけ好いことをし、恵まれてない者は、恵まれてないだけのことしかしてはゐないではないか。
 一月十五日(土曜) 天才だけが好いのだ。あとは何といっても大同小異なのだ、それに過ぎないのだ。
 一月十六日(日曜) こんなにがちゃがちゃの時代に、專門的にばっかり勉強している、好い芸術家ってものはゐない。

 大岡昇平は中原の日記を「時々詩のようなリズムと区切りを持っているのが特徴である」と言う。

 次は朝日新聞の「天声人語」を執筆していた論説委員深代惇郞の大学時代の日記である。

 三月十八日 晴 十時起床  今日から彼岸の入り。何ものかを求める情熱を失ってはならない。或いは、何かもっと真実なるものを求めよというべきかも知れない。学ぶ情熱を失ってもよい。恋の情熱を失ってもよい。若しその人が自分の生命以上のものを見つけたのなら。全生命を投げ出しても守り抜くような価値を探す人、見いだした人に、僕は無条件に頭を下げる。その価値は愚かなものであるかも知れぬ。しかし、僕の問題とするのはすべての人格であって脳の重さではない。賢い人が如何唾棄すべき多くのものを持っているか。そんな例を幾度見てきたことか。「生きる」とは真剣に放浪し、探し、見つけることに外ならぬ。社会と馴れ合いにならぬ事。自分に又、忠実であること。これが<青春>の貴さであろう。それは決して年齢の問題ではない。
 四月二十六日 晴 寒し 十時起床  女は行動に論理を持たない。女は嘘つきである。女は虚栄が生来的に強い。女は残酷である。女に対する呪詛は数限りなくいわれて来た。しかし、彼等は男と女が違うという当然の事を忘れていたのではないだろうか。人を美しくさせているものは決して德だけではない。女を美しくさせているものは或る時は虚栄であり、或る時は嘘である。女の德は人生を楽しくさせる事にあり、それが女の德であるならば、女性の嘘や虚栄や非論理性は呪詛するに当たらない。女性にとって美ほど貴いものはない。丁度、男性にとって力ほど貴いものはないように。美と善とを結びつけようとする誤った考え方が多い。範疇が異なっている。誰が女性の、あの悪徳の美しさを否定し得るだろうか。

 中原のは毎日つけたものであり、深代のは随時つけたものだが、ともに青年期の思索の深まりを、抑え切れない自己表現欲にまかせて日記にぶつけた情熱が伝わってくる。
 日記の一番の効用は、悩みの解消に役立つことである。悩みを頭の中で考えるだけでは、同じことを何度も繰り返し思うばかりで、解消の糸口をつかめないまま、ますます不安になり不愉快になり困惑することになるが、日記につければ文字を書く速度は考えめぐらす速度よりはるかに遅いのが普通であるから、文字を書き連ねながら相手の立場、自己の感情、第三者の意見等、幾重にも思索を深めることができ、書いているうちに絡まった悩みが解きほぐされてくる。水中でもがく自分を水の中から引き上げてくれるのである。それはまた、事態を客観的に見つめる習慣を身につけ、精神生活を向上させることにもなるのである。
 ここで最近朝日新聞に掲載された廣島縣の高三女子の文章を紹介しよう。

 私には彼がいます。友人の紹介でつきあい始めてもう六カ月がたちました。彼は私と同じ高三です。彼とのつきあいは、三日に一度の電話で一時間ほどお話するのと、約一カ月に一回、私の家へ遊びに来るくらいでした。彼の友人も一緒に来て、ゲームをしたりして、わいわい騒ぐような関係でした。私は彼とのそんなつきあいに十分満足していました。とっても幸せで、彼の事が大好きでたまりませんでした。で、この間、彼が電話で「おれの家にも遊びに来い」と言ったので、ためらうことなく翌日、彼の家へ行きました。彼の家には、だれもいませんでした。私は緊張しましたが、いつもの様に話をしていると、そんな気もどこかへ行って、とても楽しい時間がすぎました。冗談を言ってる内に、じゃれあいになり、クッションでたたき合ったりしている内に、急に強い力で腕を引っ張られ、抱きしめられ、押し倒されました。
 私はびっくりして、半分泣きながら叫んでいました。彼もその声で我にかけったのか、私の体から手をはなしました。私は強い口調でののしり、けんかをして家に帰りました。つきあいだしてはじめてのけんかでした。彼が電話をしてきてくれて、長い間、話し合いました。彼は今まで思った事、考えた事、そして今思っている事を真剣に話してくれました。彼が言うには、彼は私と体の関係をもちたいのだそうです。今まで何度かそういうふうに思った事はあったけれど、我慢してきたと…。ショックでした。
 彼の家であった事は、彼が全面的に悪いとは言えません。私もあまりに無神経だったし、反省しています。でも私は、彼と体の関係はもちたくありません。そうなれば、いつかわお互いにあきが来て、別れてしまうのではないか、そして再びあう時に笑顔であえないような気がする。私は彼にそんな考えを伝えましたが、彼はあまり納得してくれませんでした。今では前のように話をしていますが、私の心の中で何かがかわってしまいました。
 彼から逃れようとする気持と、私だけが本気で彼は遊びでしかなかったんじゃないかという疑いが、毎日生じています。私はどうしたらいいのか、高三にもなって自分が判断できないのがなさけないけど、本当にわからないのです。彼が本当に好きなんです。こんなに人を好きになったのは初めてです。彼とわかれたくありません。でも体の関係をもつ事もいやです。男の子と女の子の心理は、ちがうとも思います。本当に悩んでしまいます。

 これは新聞への投稿だが、自発的に書かずにいられなくなって書いた、公開を意識した日記と言える。悩みと感情の正体は自身にもまだ把握されていない。だがその過程を伝える筆力があり、読者の共感を呼ぶだけの力ある文章となっている。

 日記は、また、文を書くおもしろ味を味わい、気軽に書く習慣をつけ、漢字、文字の筆記力と、用字用語の表現力を養うことができる。したがって文を書き慣れない人が日記をつける効用は大きい。
 日記を長く書き続けるにはどうすればよいか。森鷗外の日記を見てみよう。

 大正二年十二月十九日(水) 晴。 痢を病みて、午後退衙す。
        二十日(木) 雨。 休。
        二十一日(金) 雨。休。
        二十二日(土) 陰。時々雨ふる。 休。
        二十三日(日) 陰。
        二十四日(月) 陰。 小金井良精来訪す。休。
        二十五日(火) 晴。休。 本堂恒次郎来訪す。
        二十六日(水) 晴。休。

 「雨」「時々雨ふる」「休」の記述の中に、腹下しで体調を崩した鷗外が、午後を早退した後、陰うつな冬の空模様の中、一週間あまりもしっと静養している様子がうかがえる。このように、書くことがなければ天候や断片的な単語を並べるだけでよい。それだけでも日記は多くのことを物語るものなのである。

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