2018年2月7日水曜日

鉛山温泉詠んだ新資料 湯崎の旧家で見つかる 紀伊民報2018.2.3

紀伊民報 鉛山に遊ぶ詩
「鉛山温泉詠んだ新資料」「明治の高僧、小山憲栄の漢詩」
「白浜湯崎の旧家で見つかる」

 和歌山市東旅籠町の真宗本願寺派・本弘寺の第12代住職、小山憲栄が1901(明治34)年に白浜温泉を訪れて詠んだ漢詩がこのほど、同町湯崎の旧家で見つかった。

 詩を解読した福山大学名誉教授(中国文学)の久保卓哉さん(67)=白浜町瀬戸=は「鉛山温泉(白浜温泉)を詠んだ詩としては、これまで知られていないもので新資料とみられる」と話している。

 見つかったのは七言絶句で、久保さんによると
「僊境窅閇江海開  靈泉淨沸滌塵來
 誰知駐輦千秋後  長有雲烟護古臺」
「仙境 窅閉(ようへい)にして 江海開き
 霊泉 淨沸して 塵を滌(あら)い来たる
 誰か知らんや 駐輦(ちゅうれん) 千秋の後
 長く雲烟(うんえん)有りて 古台を護(まも)れるを」
と書いている。
 
 「遊鉛山十二首之一 七十四歳飛陰道人」の記述もあり、憲栄が74歳の時に鉛山温泉を訪れ、12首作った「遊鉛山詩」の第一首と見られる。

 漢詩は掛軸にして保存されている。旧家の関係者によると「毎年、正月になると藏から出してきて、床の間に掛けていた」という。
 この他にも憲栄の作品が残っていないかなどについては、これからの調査が待たれる。

 小山憲栄は文政10(1827)年に生れ、明治36(1903)年に亡くなった。
 学問に長じた僧侶で「有宗七十五法記講義」「異部宗輪論述記発靱」「十二因縁啓蒙」など多くの著作がある。

 久保さんは、憲栄が鉛山温泉を訪れた際に湯崎の有田屋(昭和初期に廃業)に泊まり、有田屋の求めに応じてこの漢詩を揮毫したのではないかとみている。

 有田屋の当時の当主は三木善左衛門で、善左衛門はこの時すでに『瀬戸鉛山温泉図』(1890年)を発行している。

 この『瀬戸鉛山温泉図』には藤田苔巖作画の瀬戸鉛山温泉図と、その図の上面に祇園南海の「鉛山七境詩」、津田香巌の「倣南海先生七境題目更撰五景詩」、菊池海叟の「龍門詩」を入れている。

 本弘寺は太平洋戦争の空襲で本堂や庫裡などが全焼。憲栄の墓はあるものの伝来のものは全て焼失したという。

 久保さんは「江戸から明治にかけて白浜を訪れる文人を顯彰した湯崎の旅館有田屋の功績はまことに大きい」と話している。

0 件のコメント: