2013年9月12日木曜日

佐藤春夫の内山完造宛書簡 全集未収録 2013.9.1



 全集を編むのは難しい。のちに遺漏が見つかるからだ。ここに紹介する佐藤春夫の書簡も既刊の全集類に未収のものである。

 この佐藤春夫が内山完造にあてた書簡は、とりわけ注目される。魯迅と密接な関係を持つ内山完造にあてているからであり、魯迅の訳著の出版や支那小説大系の出版に言及し、増田渉を宜しくと頼んでいることが書かれているからである。

 その全文をあげる。
「拝復 朶雲拝誦仕り候 諸子毎〻御世話様尓相成感謝 文字不可盡 御申越の中華文藝家諸君子の近況及それに對春(す)る貴下の深甚なる御同情 人ことなら春㐂はしく存し候 勿論小生としても微力な可ら出来得る限りの努力を致春可く 魯迅先生の譯著の如きは必ず出版し得可しとの自信有之候間 喜んで何れかへ紹介致春可く  且つもつと何か纏つた仕事を出版家に企てさせて 例へば(中国)支那小説大系とか何とか全集とか称春るやうなものをやらせる事を説き春すめて なるへく多数の諸君に半永續的の仕事を頒ち得るやう工夫致し度と存し居り候間 何かそちらの諸君子及び貴下に於て御名案も有之候者(は)ゝ承ハり度 無論こちらでも諸出版者と面會して途を開き置き候 次便まて暫く御待ち下され度願上候 尚御序の節増田子へよろしく御致聲願上候 四月五日 佐藤春夫 内山様」(巻紙、墨書)。封筒表「中華民国上海北四川路 内山書店様御主人 貴酬」。封筒裏「東京小石川区關口町二〇七 佐藤春夫 四月五日」(鳩居堂製の封筒、墨書)

 これが書かれた四月五日は何年のことなのかについては、末尾の「増田子へよろしく御致聲願上候」から推定することができる。増田子とは増田渉のことで、佐藤春夫は増田渉のために内山完造宛の紹介状を書いて持たせていた。増田が記した岩波文庫『魯迅選集』の「あとがき」に「余は上海に着くや、佐藤先生からの添書を内山書店主に通じたところ、内山氏はかねて魯迅先生と親交があり、……」とあるのがそれで、佐藤春夫も「友人の増田渉が東京帝大の漢文科を出て上海に遊ぶと紹介状などを求めた時の話の序に……」(「蘇曼殊とはいかなる人ぞ」)と同様のことを書いている。増田が上海に遊学したのは一九三一年三月であるから、この書簡はそれから間もない一九三一年四月に書かれたものと考えられる。

 しかも、頭語に「拝復」とあり、続けて「朶雲拝誦仕り候」とあることから、この書簡は内山完造から届いた手紙に対する返書であることが分かる。「朶雲」とは相手の書簡を敬っていう語であり、封筒表の宛名の横に記した「貴酬」も、手紙の返事を、先方を敬っていう語で「御返事」と同義であることからもそれはいえる。内山完造は、あなたの紹介状を持った増田渉がたしかに書店に来ましたよ、と佐藤春夫に報せる手紙を出していたのだと思われる。

 この時内山完造と佐藤春夫とは旧知の間柄であった。佐藤春夫が一九二七年七月に三番目の妻多美と、姉の保子の娘で姪にあたる佐藤智恵子とを連れて上海、杭州を旅した時は、内山完造の歓待を受けているからである。それは、谷崎潤一郎の紹介であったと内山完造は『花甲録』に書いている。

 従って、以前から中国文学専攻の学生として佐藤春夫の門を敲いていた増田渉が、佐藤春夫の紹介状を持って上海に行ったのは自然の流れであった。ちなみに、増田渉の前年一九三〇年九月に上海に行った林芙美子は、新居格の紹介状を持って行っている。

 佐藤春夫の書簡文から推量すると、内山完造は日本に魯迅の作品を紹介した出版物が少ないことを嘆いたと思われる。一九三一年当時は、わずかに魯迅の短編「故郷」の邦訳が春秋社発行の月刊誌『大調和』十月号(一九二七年)に出ただけで、魯迅は「世界が、世界的に関心を持つ作家である」(「「個人的」問題」)と佐藤春夫も認識していたにもかかわらず、日本での訳著出版は未だ進んでいなかった。だから、内山完造への返書に佐藤春夫は、魯迅先生の訳著は必ず出版すべきで、出版できるように方々に取り持ちたいと応じたのであろう。さらに、魯迅の作品のみならず支那小説大系とか、中国小説全集とか称する大がかりな出版をおこない、半永続的に中国の小説を出版してはどうか、その道筋をこちらでもつけておくつもりだと構想を語っている。佐藤春夫がいう支那(中国)小説とは、六朝・唐の文言小説と明・清の白話小説を指すのであろう。白話小説に限っていえば、「三言」(『古今小說』『警世通言』『醒世恒言』)、「二拍」(『拍案驚奇』『二刻拍案驚奇』)や、そこから四十話を選録した『今古奇観』がそれで、佐藤春夫はこの時すでに『今古奇観』の第七話と第八話とを翻訳し、それを収録した『支那文学大観』第十一巻が一九二六年に出版されていた。そういう背景を念頭にして、小説大系構想を内山完造に語ったと考えられる。

 これらの出版構想は、魯迅に限っていえば、一九三二年七月一日発行の『中央公論』に魯迅の「孤独者」佐藤春夫訳を発表し、一九三二年十一月には改造社から『魯迅全集』井上紅梅訳(全一冊)が刊行され、一九三五年六月には岩波文庫『魯迅選集』佐藤春夫、増田渉訳が、そして一九三七年には改造社から『大魯迅全集』全七巻が刊行されたことにつながる。

 このようにして見ると、佐藤春夫の内山完造への「貴酬」は、魯迅と日本、中国文学と日本との、時代を貫く一つの節を示すものであることが分かる。


 現在この書簡は内山完造のふるさとに住む内山家に所蔵されている。


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