2018年4月6日金曜日

紀州藩 鄕組一札 「解説」 2018.1.31


解説   
久保卓哉

        はじめに

 まずは、あおい書店多屋朋三氏のことを書かねばならない。この一年の間だけでもわたしは随分とお世話になった。紀州の田辺、熊野、鉛山(白浜)にゆかりのある史料を相当数紹介され奇品に面する眼福を得たからだ。
 平成二十八年八月には毛利柴庵による『牟婁新報號外』185枚を、平成二十九年一月には鳥山啓、伊達千廣、熊代繁里の和歌の短冊、二月には小山家文書17通、三月には「紀州西牟婁郡瀬戸鉛山温泉圖」の版木と、その景観図を描いた絵師藤田苔巖が目良碧斎に贈呈した「耶馬溪之圖」1枚、四月には津田香巌の漢詩軸、六月には南方熊楠筆の川柳「奈さけとは末つむ花乃しつ久哉」と、高僧眞淨元苗の書を、八月には仁井田好古の漢詩軸、十月には半山國重正文の扁額、十一月には毛利柴庵の「紀伊毎日新聞」写真部による「關東大震災繪葉書」と、古文書「鄕組一札」、平成三十年一月には佐藤春夫の色紙「山の畑にけふも来て」と、伊達千廣の墨跡「観心能因尓詠る歌」をというふうにである。
 本書『鄕組一札』もこのようにして面し得た結果、出版の運びとなった。

        鄕組一札

 鄕組一札の郷とは数カ村ないしはそれ以上の村を含んだ広域を意味し、組とは地縁的に結びついて相互扶助を行う近隣の単位を意味する。一札とは一通の文書ということで、江戸時代に藩からの通達を鄕組の百姓に至るまで教え知らしめた一通の書状ということになる。

        田辺領の鄕組

 田辺には古文書として残る厖大な古記録を読みこんで活字に直した翻刻資料『紀州田辺万代記』『紀州田辺町大帳』『紀州田辺御用留』(清文堂出版)があり、その『紀州田辺万代記』(以下「田辺万代記」と記す)に翻刻された古文書を見ると田辺での鄕組の範囲が分かる。

        田辺領鄕組
  切目一組
 西之地村 宮ノ前村 古屋村 羽六村 古井村 下津川村 見影村 脇ノ谷村
   八ケ村
  南部一組
 堺村 埴田村 芝村 南道村 気佐藤村 徳蔵村 熊岡村 山内村 山田村 平野村
 北道村 山内村之枝鄕夙浦 吉田村 筋村 谷口村 東岩代村 西本庄村 東本庄村
 西岩代村
    拾九ケ村
  芳養一組
 下村 芋村 中村 境村 林村 田尻村 西野々村 平野村 小野村 日向村 西山村
 東山村
    拾貳ケ村
  田辺一組
 西之谷村 糸田村 伊作田村 湊村 敷村 神子浜村 新庄村 江川浦
    八ケ村
  富田一組
 保呂村 内川村 庄川村 平村 十九淵村 芝村 高瀬村 朝来帰村 中村 吉田村
 高井村 溝端村 才野村 堅田村
    拾四ケ村
                     (田辺万代記十 正徳五年1715 99頁)

右の通りだが、これよりさかのぼること63年の古文書には、

指上申鄕組之事(指し上げ申す鄕組の事)
  田辺町
  江川浦
  敷浦
  瀬戸村
  鉛山
  西谷村 下秋津村 上秋津村 秋津川村 下万呂村 中万呂村 上万呂村 下三栖村
  中三栖村 長瀬村 馬我野村 伏兎野村 上三栖村
                                        (田辺万代記三 承応元年1652 115頁)

とある。年代により鄕組の地名に異同と多寡があるが、これは急事に狼煙(のろし)を上げる時であるか、異国船着岸の時であるか等により文書の目的が異なっているためであり、田辺での鄕組の範囲を示した史料と見てよい。

        大庄屋

 和歌山大学名誉教授平山行三著『紀州藩農村法の研究』(吉川弘文館)には、

  「郷組一札」とは郷組を統轄する大庄屋が、農村支配の諸事項について百姓に申し聞かせ遵守せしめる旨を記して藩に差出す一札である。(24頁)

とある。つまり大庄屋が下じもの百姓が守るべき条文を明記し、抜かりなく周知せしめるための書状が鄕組一札であり、大庄屋の責任と役割は大きく、平山行三氏は「鄕組一札は大庄屋の権威の象徴であった」(196頁)という。
 田辺の大庄屋を代々世襲したのは田所家で、本書の「序文」の著者田所顕平氏は『田邊町誌』(舊家名家人物誌、田所氏)によれば、熊野別當の族、八郎左衛門尉・田所顯家より数えて26代目にあたる。まさに本書が立ち帰るべきもとになるお方である。
 「田辺万代記」は、田所家に伝わる古文書の記録105冊を称したものでまた「田所万代記」とも称される。室町時代の文明三年1471から江戸時代末期の天保十年1839までが記録されており、これを読めば田辺の大庄屋田所氏がなしてきたことが分かる。
 いくつか具体的な例を上げておく。

【御領主から代官役を拝命 田所弥三左衛門】
「御領主より田所弥三左衛門、御前へ御呼び出し遊ばされ、家柄御尋ね、諸士並び(家臣)に御取り扱いなさるべき由、仰せ聞かせられ、御代官役相い勤め、御領分、御用、仰せ付けられ候」(慶長十二年1607 田辺万代記一20頁)
【町々の飢弱人に御救麦を願い出、男一合、女五勺づつ配給】
「町々弱人の飢扶持(うえぶち)願書たてまつる。四月十日迄取り続けさせたしと、片町、紺屋町、北新町、南新町、〆六十四人。
    受取り申す大麦の事
大麦合わせて一石一斗五升五合。右は町江川、男六十人、一日一人一合づつ。女九十人、一日一人五勺づつ。三月二十九日より四月十日迄、日数十一日分、御借り下され受取り申し候。大年寄 田所弥三左衛門。 鈴木忠右衛門殿」(元文六年1716 田辺万代記十九 568頁)
【急事の際に鄕組間で伝達する手順の詳細】
「組ゝの内、急事これ有る節、その組の大庄屋居合わせざる時は、他組里方大庄屋へ申し遣わすべし。組合は左の通り。 一、切目組より申し遣わすべき他組これ無き候間、南部組へ申し合わせ置くべき事。一、南部組、はや組、田辺組よりは、秋津組、三栖組へ申し合わすべき事。一、富田組よりは、朝来組へ申し遣わすべき事。 右の通りにて指合(さしあい。故障)の義これ有るまじきかな。吟味の上あい達せらるべき事。五月」(正徳五年1715 田辺万代記十 100頁)
【葬礼仏事は鳴り物を慎み 幕を張るまじく候】
「近年、葬礼仏事等、軽く仰せ付けられし事。それに就きて、田辺にて葬礼仏事の義、重き様にお耳に達し候。自今以後は葬礼の節、町の内は鳴り物慎み申すべく候。女、葬礼の供、町中は仕るまじく候由、慎みこれ無き者葬場へ出申すまじ。葬場にて、四方幕、二方幕張り申すまじく候。右の品に応じて、仏事等軽く執り行い申すべき事。
 三月十四日仰せ出ださる」 (貞享三年1686 田辺万代記六 270頁)
【お尋ね者の人相書きにて捜索するも見つからず】
「この度お尋ね遊ばされ候、海士郡田尻村権兵衛の人相お書付をもって、庄屋、肝煎に指し遣わし、組下家々残らず人別吟味仕り、ならびに神社山林海川池等に至る迄、詮議仕り候へども、似寄り候者、又は姿をかえ疑わしき者、見及び申さず候。勿論、行き倒れ者も御座無く候。これ已後もしもお書付の者見出し候はば留め置き、早速お断り申し上ぐべき条、村々残らずきっと申し付け候。以上。丑六月。田辺組大庄屋、岩本弥三左衛門。 石川甚内殿」 (享保六年1721 田辺万代記十三 308頁)
【新庄の鳥ノ巣の高札 墨薄くなり垣まわりも朽ち申し候】
「新庄村の内、鳥巣のご高札ご添札、墨薄くなり申し候。垣廻りも朽ち申し候。右の通り、庄屋申し出候に付き、お断り申し上げ候。以上。申九月。田所弥三左衛門。 加藤伴右衛門殿」 (元文五年1740 田辺万代記十八 557頁)

大庄屋が権限をもって支配する範囲はまことに広く、しかも負う責任は重い。右のように高札の墨が薄くなっています、高札を囲う垣根が腐ってくずれていますと上申する些細なものから、飢えた貧者のために食糧配分を要請する福祉施策も大庄屋の役割であった。他にも津波の被害状況を調査せしめて藩に報告し、異国船出没、不審者上陸を発見した場合は即時報告を徹底せしめ、喧嘩のあげく斬り殺された武士の名と斬り殺した武士の名、及びその者が与力衆七人の検分のもと勝徳寺(今福町)で切腹した旨報告する事も大庄屋の役割であった。

        父母状 徳川頼宣遺訓

龍祖遺訓父母状 紀州藩儒・李梅溪 書
右は紀州藩祖徳川頼宣(諡号、南龍院)の教えを藩儒李梅溪が書いた墨跡で、『龍祖遺訓 父母状』(南葵文庫 明治35年刊、国立国会図書館デジタルコレクション)の口絵写真による。「子正月日」は万治三年1660正月の日に梅溪が書いたことを示す。本書『鄕組一札』の冒頭に「御教訓」とあるのがこの頼宣の遺訓で、万治三年より明治維新当初に至るまでおよそ210年の間、領内下層民を広く徳化してきた証拠となる一つである。
 
        父母状の由来

 『龍祖遺訓 父母状』の著者足立四郎吉(栗園)は父母状の由来を次のように書く。

万治元年、紀伊国熊野山中に父を殺せる者あり。吏捕らえてこれを糾明せるに、その者答えて曰く「我が親をわれが殺すに何の不可かあらん。我が父生来放縦無頼、一家を苦しむること甚だし。われこれを以て殺せるのみ。決して我が過ちにあらざるなり」と。恬として恥ずる色なくまた忌み憚る所なし。
吏驚きあきれこれを曳いて司直の手に委す。司直重ねて親の尊重すべきを説きその罪に服せしめんとす。その者の答うる所前と異なることなし。いささか羞じたる気色なくかえって自己が咎を受くるゆえんを怪しむ風情あり。
奉行頭人その趣きを見、当惑して言の出る所を知らず。ついにこれを国主に聞こす。国主は即ち徳川頼宣卿その人なり。時たまたま孟夏に際す。頼宣卿扇を手にして風を送り、涼ををいれつつその訟を聴かれしが、訟半ばならずして、驚愕色を改め、扇を額にあて、俯首して答えらるるなし。
やや久しくして涙をおおうて曰く「辺陬の土民礼を解せざること、もともと聞知せざるにあらず。しかもかく人倫の大義を没却して自からその罪悪を知らざるごとき、今初めて耳にする所なり。しかしてこの事我が治下において生ぜんとは。熊野山中人跡稀なりというも、我が城下を距たることさまで遠きにあらず。禽獸なお犯さざる大罪を犯し、自からその非を悟らざる智愚者をこの間に見る。畢竟我が教化のあまねからざる故にして、今さら予の不徳を恥ずる所なり。ああまた誰をか咎めん」と。
嗟嘆久しうして曰く「かかる愚昧者を拉し、ただちにこれを刑に処するも、治教上何の効あることなし。しかず、これに人倫の大道を説き聴かせ、自からその罪を覚らしめて、潔く刑につかしめんには」と。即日藩儒李梅溪を召しこれに命じて、日々獄舎につきかの囚人に接して孝経を説かしむ。
梅溪命を奉じ仰せのごとくすること而後累年、囚人さらに感ずる色なし。後三年の春に至り、囚人夢より覚めたることく、一日梅溪を見て容を改め、叩頭涙を流して曰く「思わざりき、人倫上孝道のいよいよかく重大の務めなることを。吾蠢愚にして自から解せず。手づから高恩の父を殺して恥ずる所なからんとは。且つ国主のこれが為に憂慮したまえることいくばくぞや。恐懼なす所を知らず。請う愚が罪を正してこれを天下に示せ。天は一日も吾が存生を許さざるべし」と。嗚咽大息して戦慄止むなし。
梅溪その状を見て大に悦び、積年の教化奏功の空しからざるを祝し、即刻このよしを具して頼宣卿に聞こしめす。
頼宣卿聴いて面を和らげ、すなわち曰く「かの凶児にしてその罪を解す。まことに予の満足に思う所なり。されど国刑なくんば一日も立つべからず。国法もまたいかんともすべきなし」と。
ついにかの囚人を曳き出し、これを国法に照らして首切る。時に頼宣卿大に感ずる所あるがごとく、我が領内において、またかかる不孝児を出でしむべからずと、即座に筆を執り、一條の訓諭を草せらる。(時に頼宣卿五十九歳)
かくてこれを領内なる紀伊、伊勢両国に下し、山々浦々まで壁書として一般を戒飭し、また有司をしてこの教訓によりて下民を諭さしむ。

頼宣は囚人に非を覚らしめた梅溪を賞し、ただちに教訓を草し、梅溪に命じて浄書せしめたのが前掲の墨跡である。

        郡市町史に録された鄕組一札

 鄕組一札に言及した郡市町史はいくつかある。県下の史誌のうち『東牟婁郡誌』『日高郡誌』『粉河町史』『大塔村史』『古座の古文書』を見ただけなのだが、各史誌が記録する「鄕組一札」にはそれぞれの土地の特徴がある。例えば大塔村では山林管理の条文、火事発生時に行動すべき条文、東牟婁郡では独身の百姓に対する条文、山焼きの際の注意の条文、粉河町では池の漏水・普請は小破のうちにせよ、池の水引きは我意を張らないこと、古座組では博痴・博奕、人寄せ一軒屋の禁止、婿取り嫁取り出合いの際の不相応な華美の禁止、疱瘡・病人を山野へ捨てず家にて養生せよ等がある。とりわけ古座組の一札は条文の数が45カ条にも及び、東牟婁郡誌の12カ条、大塔村の23カ条、日高郡の30カ条、粉河町の38カ条に比べると圧倒的に多い。それだけ古座の郷組は、農業、漁業、林業、商業において他郷よりも経済が栄え、人の出入りが多く、問題も多かったということであろうと読み取れる。また『古座の古文書』(古座古文書研究会発行、2002年)は文献資料としても出色の書籍で、古文書が影印されているゆえ一語々々の翻字を対照することができる。

        本書『鄕組一札』の翻字

  本書の全文を翻字しふりがなをつけたのは筆者だが翻字する上で迷った文字がある。
それは「品」という文字で、本書では最終第30条の中に4箇所ある。「村役人ども其品をも申し聞かせる事ニ」「自今右段々の品を越え出訴致し候はば」「畢竟徒黨の品に候」
「願いの品曽て相立ち申さざる筈」がそれである。なぜに迷ったかといえば「品」が品物、賄賂の品などの物体では文意が全く通らないからである。古文書のくずし字を読む上で拠り所となる辞書を引いてみると、くずし字の「品」と似た字に「衆」がある。4箇所の「品」を「衆」に置き換えると「其衆をも申し聞かせる事ニ」「自今右段々の衆を越え」「畢竟徒黨の衆に候」「願いの衆」となり、文意が通る。
 これを『田辺万代記』で検証すると、「品」と翻字された例のうち、「人数の儀は其品によるべきこと」「右の品も」「宗門改めの品」等の「品」は「衆」に置き換えるとやはり文意が通じる。だが『田辺万代記』はすべて活字に翻刻されているために、筆で書かれたくずし字の字形を見て判断することができない。しかも田辺の先学者に誤読があるとは思えない。
 次に本書で「年寄衆」「御侍衆」と書かれた「衆」のくずし字と、4箇所で「品」を「衆」に置き替えたくずし字とを見比べると、字形は似ていない。本書の原版を墨書した書き手は「品」字と「衆」字とを混同していない。4箇所とも「品」の字形である。
 はてな、どう考えればいいのだろう。
 その答えを得た裏話をはずかしながらここで明かせば、『日本国語大辞典』を引いたことによる。「品」を品物(しなもの)の「しな」と短絡的に考えた結果生じた疑問だったが、『日本国語大辞典』の「しな 品」を引くと

⑤物事の事情や理由 そうなった事情や立場 ※浮世草子「あたまから御かへりの後は、としてかくしてと、其品(シナ)をかかるべし」
⑥方法。しかた。やりかた ※中華若木詩抄「罪科に依て、成敗のしなあり」

とある。この「事情」や「やりかた 方法」を「品」に当てはめて解釈すれば意味が通じることが分かった。4箇所の「品」は、「村役人ども其品(事情)をも申し聞かせる事ニ」「自今右段々の品(やりかた)を越え出訴致し候はば」「畢竟徒黨の品(やりかた)に候」「願いの品(方法)曽て相立ち申さざる筈」と解釈すれば意味が通じる。

        おわりに

 おわりにもあおい書店多屋朋三氏のことを書かねばならない。「鄕組一札」を入手したと連絡を受けたのは平成29年11月であった。これは紀州に関わりの深い古文書で地元に紹介したい文献だという。なぜこれが紀州に関わる文献だと分かったのですかと訊ねると、冒頭に「父母に孝行に法度を守り・・・」のことばがある、これは藩主頼宣のことばだからだ、紀州の大庄屋が「鄕組一札」を配布するときに手本としたのがこの版本だ、とのことであった。しかもすでに参考となる資料『紀宝町誌』『日高郡誌』『紀州藩農村法の研究』の「鄕組一札」に関する部分と、『田辺町誌』田所氏の系譜に関する部分のコピーは準備済みであった。
 かくして私は本書と関わることになった。そのおかげにより紀州藩の施策、体制、鄕組、大庄屋、田所家について学ぶことができ、田辺万代記、田辺町大帳という巨冊の頁をめくることができた。
 本書の価値がいささかなりとも伝わることを願う。
                       平成三十年一月三十一日 記す

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